ケセラセラ
その日私は、腹が立って泣きたくて、とにかく酷く気分が悪くて、真っ直ぐ帰宅する気になれなかった。
当時は二十代前半で、仕事は薄利多売のフリーランス。たとえどんなに理不尽な指示に従っても、パワハラやセクハラを我慢しても、切られる時には容赦がない。
新しい女性に夢中になっている、名ばかりの彼氏とは、少し前から終りへのカウントダウンがはじまっていた。
どうにも、むしゃくしゃしていて、誰でもいいから側に居てほしかった。
そういう時はいつも、双子みたいな親友のリカコが寄り添ってくれて、話を聞いてくれるのが常だった。けれども、この日は生憎、彼氏との記念日だそうで、さすがにドタキャンしてもらうのは気が引ける。
そういう訳で私は、駅の電話ボックスに入り、手帳にある番号へ片っ端から電話をかけた。
「いいよ。今から行くよ」
そう、心安く言ってくれたのは、友人のケイスケ君。
ズルい私は、彼が好意を寄せてくれているのをいいことに、適度に気のある素振りをしつつキープしていたのだ。
急に呼び出したにも関わらず、ケイスケ君は、駅前のロータリーまで30分ほどで来てくれた。
暦の上ではもう春なのに、小雪が散らつく寒い夜だった。
助手席に乗り込むと、どこへ行くとも言わずに車を走らせ、ハンドルを握ったまま、ケイスケ君は会社の同僚たちのバカ話をはじめた。
ボーナスが出た日、牛丼を三杯食べて動けなくなったA君。
(せっかく夢を叶えたのにね)
取引先で出された熱々のお茶を慌てて飲んで、キューピーさんの顔になっちゃったB君。
(電車の時間が気になったみたい)
給料前になると、キャベツやもやしを使ってエッジのきいた創作料理を次々と開発するC君。
(あまりにも斬新なレシピ!)
深夜に現れた巨大Gと、たった一人で睨み合って激闘の末、惨敗したD君。
(お疲れさまでした)
……このあたりで、私はとうとう噴き出した。
あんまり笑って、笑って、笑い過ぎて涙が出る。
「お腹イタイよ~」
と尚も笑い転げている私に、ケイスケ君は
「……やっと笑った」
と、嬉しそうに微笑んだ。
ほんの小1時間ほどの、夜のドライブ。
FMラジオを流しながら、ケイスケ君は、余計なことは何も聞かず家まで送ってくれる。
「今度また、メシ行こう。新しい店、探しとくよ」
そう言って片手を上げ、車は走り出した。
今ならわかる。
私がそうであったように、ケイスケ君もまた、私のことを恋人にしたいわけではなかったのだろう。
それでも友人としてリスペクトし、大切に思ってくれていたに違いない。
彼はきっと、自分も、他人も、大切にできる人だったのだと思う。
ケイスケ君に教わったこと。
人は、笑っていれば大丈夫。
そのうちきっと、何とかなる。
辛いことは、いつか必ず終わる。
弥生、三月。
別れの季節は、出会いの季節でもある。
今まさに、辛い日々を送っている人へ。
目の前が真っ暗で、良くなりそうには到底、思えない人へ。
生きることが苦しい人へ。
どうか、一日に一つでも、クスッと笑えることがありますように。
その次は、すごく笑えることがありますように。
そうしていつか、めちゃめちゃ笑える日が来ますように。
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