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【小説】遠いみち③

昭和29年秋――。

 その街の駅に降り立った時、あまりの人の多さに、私はちょっと頭がくらくらした。汽車の中もぎっしりで、通路やデッキに座り込む人たちがたくさんいた。それだけの人が皆、駅へ一斉に降り立ち、それぞれ足早に移動していく。見たことのないような綺麗な色の洋服や、洒落た帽子、傘、ステッキ、鞄。私は目移りして、すれ違う人たちをキョロキョロと見回した。

 駅には、お舅さんが迎えに来てくれていた。
「よく来たね。長旅で疲れただろう。まあ、今日はゆっくりしなさい。皆さんは息災かい? うん。それは良かった」
 お婿さんと違って、お舅さんはよく喋られる。そうして、まごまごとしている私に優しい笑顔を向けてくれた。

 私が生まれて一年と経たないうちに、私の父さんは病気で亡くなった。お舅さんはまだ四十六と若いけれど、思えばはじめて「お義父とうさん」と呼ぶ人ができたのだ。そのことにも照れくさくて、私は子どもみたいにコクンと頷く。遅れないように急ぎ足で、お舅さんの後を追った。

 駅前からはバスで、20分ほども走っただろうか。バスを降りて家へと向かう頃にはもう、日が落ちかけていた。バス通りから一本、路地へ入ると、賑やかな商店街が伸びている。お舅さんは顔見知りがたくさんいて、ちょうど店じまいの支度をしている人たちが、あちこちから声をかける。
 今日からここに住むのか、と思うと、一気に不安が押し寄せてきた。母さんも姉さんもいない。たくさん人が住んでいるのに、誰も知っている人のいない、ここは「遠いぃ、大けな街」だった。



「着いたよ。ここが家だ」
 と指された目の前に『昭和創業』と書かれた大きな看板が見えた。
 会社の事務所らしく、ガラス窓の中でまだ数人の人が、そろばんを弾いて帳面に何か書きつけている。その家の裏手に回ったところに勝手口があって、ここが住まいの入口のようだ。

 戸口の前に若い女性が立っていた。高校生くらいの年頃だろうか。髪をお下げに結い、襟元に刺繍の入った可愛いブラウスに赤いカーディガン、格子柄のスカートをはいている。電信柱にもたれかかって、余程前から待っていたのだろう。弾かれたように顔を上げると、小走りでこちらに近づいてきた。
「ふーん。この人が、兄ちゃんのお嫁さんになる人? ⋯⋯黒いのね」
 その子は、ククッと不敵に笑う。
「こら何だ! その物言いは!」
 お舅さんが叱った。
 あぁ、妹さんがいると聞いていたんだった、と私は、ようやく思い至る。
「⋯⋯和子です。よろしくね」
 私は精一杯、愛想良く笑ってみせた。その子は黙って、じろじろと私を見ている。あまり歓迎されていないのは、一目でわかった。

「これはあきらの妹の、花枝はなえだ。確か、お前の姉さんと同じ名前だったな」
 そうだった。姉さんと同じ名前の義妹ができることに、私は心躍らせていたのだ。末っ子の私にとって、はじめてできた義妹だった。けれども彼女は名乗りもせずに、ふん、と顔を背けると一人、さっさと戸口の中へ入ってしまった。
「済まないね。あれは昭によく懐いていたから、ちょっと面白くないのかもしれん。なに、じき慣れるさ」
 そう言ってお舅さんは、私を中へと促した。

「おーい」とお舅さんが声をかけると、「はい」と中からお姑さんが顔を出した。お姑さんは、チラリと私を見やると
「あなたが和子さんね。早くおあがんなさい」
 と言われる。それは、あまり親しみを感じられない、どことなく冷たい声だった。
「はじめまして。和子と申します。どうぞよろしゅうお願いいたします」
 私は姉さんに教わった通り、そう挨拶してから草履を脱いだ。

 後ろを振り返ると、お舅さんは家へ入ろうとしない。お姑さんと目を合わせることもなく、そのまま戸を閉めてどこかへ行ってしまった。もう日が暮れかかっている。私が閉められた戸とお姑さんとを交互に見ていると、
「旦那さまは行くところがおありです。さあ、その荷物をこっちへ」
 と事もなげに言われる。

 この日、お婿さんには会わなかった。なんでも夜遅くまで、仕事があるらしい。お姑さんと、義妹の花枝さんと、私の三人でお夕食を頂いて、早々に床に就いた。明日には母さんと義兄さんがやって来て、明後日は祝言だ。白無垢も何もかも、お姑さんのお下がりを使わせてもらうことになっている。真新しい足袋だけは、母さんが用意して持たせてくれていた。

 私は、訳のわからない不安で押しつぶされそうだった。
 みんなは「玉の輿じゃ」と言うけれど、どれほど大きな会社でも、住まいはその一角の六畳二間とお勝手だけ。これなら私の実家の方が、まだ部屋数が多い。
 義妹の花枝さんも、お姑さんも、どことなく物言いが冷たく感じる。唯一、気さくに話しかけてくれたお舅さんは、どこかへ出かけたまま戻ってこなかった。

 私は泣きそうになるのをやっと堪えて、今日、汽車や駅で見かけた綺麗な着物や洋服を想った。行き交う人たちの着物も羽織も、見たことのないようなモダンな柄だった。洒落たオーバーコートを着て、髪にパーマネントを当てている女性を何人も見た。首に巻いていたのはきっと、ネッカチーフという物に違いない。

 私もいつか、あんな恰好をしてみたい。
 いつか、いつか、いつか……そうして、そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠っていた。

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