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【小説】遠いみち①

20代で病を発症してから私は、心身の回復のために、長い年月をかけて様々なアプローチを試みてきた。ことに近年の心理療法はとても優れていて、私の「発達性トラウマ」は、回復へ向けて大きく前進したように思う。
次のステップとして、本来であれば直接、積年の思いを話すのが望ましいのだけれど、とうに故人となった両親に、それは叶わない。

だから私は、もう一度、生まれようと思う。
この世界に。
望まれ、祝福されて。
愛され、尊重されて。

これは、私の母が苦難と共に生きた、昭和という時代の、極めて個人的な小さな物語である。


昭和29年春――。

 このところ、お向かいの寺の桜が盛んに散ったから、狭い路地のあちらこちらが桃色に染まっている。時折り渡る風も随分、温かくなった。次の雨できっと、残りの花も散ってしまうのだろう。枝からは、わずかに緑の新芽が顔を出していた。

かずちゃん、ちょっと⋯⋯」

 表を掃いていた私は、姉さんに呼ばれて「はい」と返事をした。

 箒と塵取りを手にしたままお勝手に回ると、「こっちぃ、おいで」と座敷の方から声がする。お仏壇の前には、母さんも座っていた。去年亡くなった婆さまと、私が一歳になる前に亡くなった父さんの、それぞれのお位牌に線香があげられている。

「決まったよ。和ちゃんの、結婚」

 姉さんは「悪い話じゃないけぇ」と前置きして、しきりに手招きした。

 心臓がドクンと鳴った。今日は少し気温が高くて、姉さんの編んでくれたセーターが暑いくらいだ。脱ごうか、そのまま着ておこうか。促されるままに私は、お仏壇の脇に座る。

「あんたの義兄さんのなぁ、甥ちゅう人がおられるそうだでなぁ、そん人が和ちゃんの一歳上なんじゃてぇ。なんでも、大学まで行かれたお人だそうだで。今は、そんのお父さんの跡を継いで、事業されよるらしいでなぁ⋯⋯」

 姉さんは話しながら、だんだん笑顔になる。そうして、ええ話じゃけぇ、としきりに言われる。きっと私が、心細そうな顔をしていたからに違いない。

 いつかはお嫁に行くのだろう、と思っていた。義兄さんは六男さんだったから、跡取り娘の姉さんのところへ婿入りしてくれた。けれども私は、末っ子の四女だ。姪っ子も三人に増えて、家計は火の車だ。私がいつまでも居候しているわけにはいかない。この夏が来たら、私は22歳になる。


 中学校の後、紡績工場に出て、私は会社の女子寮で暮らした。戦後の混乱はまだ続いていたけれど、それでも三度のご飯が食べられて、同年配の友達もできた。

 作業がうまくできなくて、泣きたくなったこともあった。そんな時でも、友達の話に笑い転げたり、お給料を貰ってお菓子を買ったり、思い返せば、楽しいことの方が多かった。

 同室だった友達が一人抜け、二人抜けしはじめた頃、姉さんから手紙が届いた。和ちゃん、そろそろ帰ってんさらんね、と。母さんが体を悪くして、姪っ子たちにも手がかかり、姉さん一人ではどうにもならないようだった。そんな訳で私は、この町へ帰ってきた。

 そうするうちに、ありがたいことに母さんの具合も持ち直し、一番上の姪っ子は中学へ上がり、良く気働きできる娘に育った。もう、私の手がどうしても必要な時期は過ぎたようだった。


「⋯⋯そんお人は⋯⋯近在の、お人かねぇ?」

 そう私が聞くと姉さんは、母さんと顔を見合わせる。今度は母さんが口を開いた。

「いぃやぁ。遠いぃ、大けな街に住んどられる。あんたの義兄さんも元は、そん街からおいでんさったけぇなぁ」

 その街へ行くには、汽車を乗り継いで丸一日かかった。人がたくさんいて、新しい物や珍しい物がたくさんあって、食べたことのない美味しいご飯があって、とてもハイカラな街だと聞いたことがある。幼馴染みの静ちゃんは、親戚があって何度か行ったことがあるらしい。学級でそんな話を聞いた時には、まるで夢のようで、私とは遠い遠いことだと思っていた。

 その街へ、私はお嫁に行く。そう思うとほんの少し、嬉しさの欠片のようなものが、私の心の奥底に芽生えた。どんな街なんだろう。どんな服装で、どんな履物で、どんな人が歩いているんだろう。そして、私のお婿さんは、どんな人なんだろう。
 心臓がまた一つ、ドクンと鳴った。


 お嫁に行ってしまうと、もう会えなくなるんだな。私は不意に、あの人のことを想った。毎朝決まって8時ごろに、自転車でやって来る郵便屋さんだ。名前も、年も知らない。

 私は時分どきになると、箒と塵取りを持って表へ出る。塵や落ち葉があってもなくても、所在なげにその辺を掃いている。すると、向こうの角を曲がってあの人がやってくるのだ。

 その日の郵便がなければ、軽く会釈してそのまま行き過ぎる。郵便があれば、自転車を停めて大きな鞄から取り出し「郵便です」と差し出してくれる。私はドキドキしながら「ご苦労さまです」とやっと言って、箒を脇に抱えて両手で受け取る。

 この短い短いひと時を、私はいつの間にか、心待ちにするようになっていた。私は毎朝、表を掃いた。郵便屋さんは、優しい目をしていた。そうして必ず微笑んでくれた。


「和ちゃん、玉の輿じゃけぇねぇ」

 姉さんが、薄く笑う。母さんも、うん、うんと頷いている。
 そうして、私のお嫁入りは決まった。お仏壇の、婆さまと父さんの遺影も、どことなく嬉しそうに微笑んでいるように見えた。

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