私だけ、愛してた。
若かった頃の私にとって、恋愛は常に、ヒリヒリとした心の痛みを伴い、まるで傷つくために出会うようなものだった。
当時の私が「彼氏」に求めていたものは、純粋で一途な愛情と、永遠に続く安心感。
けれども、当たり前だけど10代や、せいぜい20代の男性に、そんなものを求めたって無駄だ。要求するほうが間違っている。
あまりにもニーズが違い過ぎて、だから私の恋愛はいつも、うまくいくはずもなく長続きしなかった。
私の望む「真実の愛」なんて、この世界のどこにもない。
オスカルとアンドレのような、花村紅緒と伊集院忍のような、北島マヤと速水真澄のような、キャサリンとヒースクリフのような、スカーレットとレットのような⋯⋯。
どこをどれほど探したって、世紀の大恋愛もなければ、魂の片割れも存在しない。
大した恋愛遍歴でもないけれど、大人になるにつれて私は少しずつ、そう悟っていった。
正直に言うと私は今でも、恋愛と共依存の区別がつかない。
半生を振り返ると、まるで呼吸するように自然に私は、あらゆる人間関係において共依存に陥ってきた。
もしかすると、私の個人的な恋愛遍歴はすべて、共依存であると同時に、ただの幻想だったのかもしれない——。そんな考えすら頭を過る。
竹内まりやの「駅」という曲がある。
当初、中森明菜のアルバムの楽曲として提供され、その後1987年にセルフカバーされたこの曲を、覚えている人も多いだろう。
かつての恋人の姿を偶然、駅で見かける。
同じ電車の隣の車両に乗って、その姿を目で追う。
たぶん彼は、こちらに気付いていない。
別れてから二年が経ち、今はそれぞれに待つ人がいる。
だから「私」は、声をかけないまま改札口を出ていく。
そんなシチュエーション。
最初にこの曲を聞いた時から、ずっと私は、
の部分の歌詞を
と解釈していた。
けれどもひょっとすると、世の中の人たちは
と理解していたのかも⋯⋯と思いはじめた。
聞いてみる術はないけれど、竹内まりや本人も、そのつもりで書いたのではないだろうか。
私もまた、この年になってようやく、そんなふうに思えるようになってきたのだ。
私だけ「が」愛してた、のなら、それはどこか、被害妄想気質と言えるかも知れない。きっとこれまでの恋愛経験で、不必要に傷つき過ぎたのだ。
私だけ「を」愛してた、のなら、自己愛強めということになるだろうか。今になって初めてわかる、というのだから、少なくとも現在の暮らしは満ち足りているのかも知れない。
ものすごく乱暴なくくり方だけれど。
明日は、満月。
センチメンタルは、だからきっと秋のせいだ。
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