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【小説】Rain

 玉ねぎ、人参、じゃがいもと、薄い豚肉を煮込んだら、あとは市販のカレールーを入れるだけ。飯盒はんごうで炊いたご飯もつやつやと光っていて、はじめてにしてはなかなかの出来栄えだ。中学二年生。宿泊学習のキャンプ第一日目は、とても順調に過ぎていった。
 キャンプ場は青い草の匂いがして、ひんやりした空気を胸いっぱいに吸い込んだら、鼻の奥が少しツンとする。湿気を帯びた風がゆるく吹いていて、ポニーテールのうなじがくすぐったかった。

 水場で鍋を洗っていると、同じ班の藤本くんがすれ違いざまに
「消灯の後、ここで待ってる」
 と小さな声で言った。
 えっ? と振り向いた時にはもう、藤本君は、他の男子たちとじゃれ合いながら向こうへ駆けて行った。
 何? 何? 何ー? パニックとニヤニヤが同時に押し寄せてきて、一気に胸の鼓動が早くなる。どんどん赤くなっていく頬を誰にも見られないように、私は俯いて、必死で鍋を磨いている振りをした。

 班のテーブルに戻ると吉田さんが、おにぎりを握っていた。
「さっき先生が、ご飯は全部、おにぎりにしとけよーって!」
「吉田さん、一人でやってんの? 他のみんなは?」
「知らない! バックレた!」
 プンと頬を膨らませて不満そうな吉田さんは、ぎこちない手つきで、それでもちゃんとおにぎりを握っている。大きかったり小さかったり、三角なのか俵型なのかよくわからないおにぎりが、もういくつも出来上がっていた。

「一緒にやろう」
と手を出した時、テーブルの端っこに置いてあった一個がころりと落ちてしまった。
「わっ、どうしよう……ごめん、ごめん……」
 おにぎりを拾い上げて、慌てて捨てに行こうとする私を、吉田さんは呼び止めた。
「いいの、いいの、それ、山田のだから」
 振り返ると、吉田さんの口元に笑みが浮かんでいる。

 山田くんは、クラスのみんなから嫌われていた。
 髪がボサボサで、制服がどこか薄汚れていて、ちょっと不潔な感じ。班でまとめて提出する課題は大抵、山田くんが遅れるから揃わない。誰かが注意したら、不満げに口を尖らせてシカトする。正直に言うと、私もあまり仲良くなりたいとは思っていなかった。
 だからといって、地面に落としたおにぎりを食べさせるのは、陰湿なイジメなんじゃないか——そう思ったけれど、咄嗟に言葉が出ない。

「ついでに、踏んづけてやろうか」
 吉田さんは、私の手からそのおにぎりを取り上げると、薄い笑みを浮かべたまま、今度はわざと地面に落とした。
 私は、喉の奥がギュッと詰まったみたいになって、うまく声が出せない。

——そういうの、よくないよ。
——やめようよ。
——それ、イジメだよ。

 そんな当たり前の言葉がいくつも頭を過るのに、何一つはっきりとは言えない。

 今ここには、私と吉田さんしかいない。だからこのおにぎりが「何度も地面に落ちたおにぎり」だと知っているのは私たちだけだ。吉田さんはいじめっ子という訳ではないけれど、勝気で短気なところがあって、あちらこちらでトラブルを起こしていた。私が正義感を振りかざしたら、きっと嫌な顔をするだろう。

 パラパラと、雨が降り出した。

「早く片付けて、全員テントに入れー!」
 先生が叫んでいる。
 私たちは急いで、おにぎりを一個ずつラップで包み、例の一個を、それとわかるように目印を付けて、全部まとめて3班の所定の場所に置いた。

 雨はだんだん激しくなってきて、ようやくテントに入った時には、私も吉田さんも、ジャージの肩先がぐっしょりと濡れていた。
「あーもう、やだ! 帰りたい!」
 吉田さんはそう言って、ねぇ? と私を振り返る。
 悪事を共有して仲良しの度合いが増したみたいに、さっきよりももっと無邪気な笑みを浮かべている。
 曖昧な表情のままで、私は
「……雨なんて聞いてなかったよね?」
 と、テントの中のみんなに向かって話しかけた。もうあと少しで、消灯時間だった。

 女子六人のテントは、誰かが使った制汗剤と、湿ったジャージの匂いが混じっていて、ちょっとむっとしていた。
 恋バナはすぐに終わって、今は推しの話で持ち切りだ。私は一人、上の空だった。

——雨が降っているから、待ち合わせは中止だよね。
——てか、そもそも消灯後に、一人で抜け出すなんて無理だし。
——あのおにぎり、どうしよう……。

 同じ考えが頭をぐるぐるして、雨音が大きく響いて、時折みんなの笑い声が跳ねる。
 消灯ー!と叫ぶ先生の声が聞こえて、誰かが懐中電灯を消した。外の明かりが反射して、みんなの様子がうっすらと浮かび上がる。やがて、クスクス笑いや内緒話も途絶えて、小さな寝息にかわっていった。

 私は何度も寝返りを打ちながら、雨の音を聞いていた。
——藤本くんは、どうしてあんなことを言ったんだろう。
——本当に行ったのかな。待ってたらどうしよう。
——いや、冗談かもしれないし、からかわれたのかもしれないし。

 雨は少しずつ弱まって、ピークを過ぎたようだった。ぐるぐると同じことを考えているうちに、私はいつの間にか眠ってしまっていた。
 周りの気配で目覚めると、テント中に明るい朝の陽射しが満ちていた。

 おにぎりをテーブルに運んで、それぞれの前に配った時、私はうっかり間違えた振りをして、例の一個を自分の前に置いた。咄嗟に吉田さんが顔をしかめたけれど、私はへらへらと笑って、わざと情けない顔をして見せる。
 吉田さんに目配せしてから、私は食べる振りをして、そのおにぎりをぽろりと地面に落とした。
「あーやっちゃったー。捨ててくるよ」
 変な空気にならないように精いっぱい振舞ったけれど、吉田さんの視線は痛く刺さった。

「……ねぇ、わざと?」
 吉田さんが小声で囁く。
「まさか! そんな訳ないじゃん!」
 ふーんと吉田さんは言って、もうそれ以上、聞かなかった。
 雨上がりのキャンプ場は、昨日よりももっと青い草の匂いがして、テーブルに、テントに、照り返す陽射しが眩しい。

 藤本くんは、何も聞かなかった。私も、何も言わなかった。
 山田くんは、地面に落ちていないおにぎりを美味しそうに頬張って、そうして私の「うっかりおにぎりを地面に落としてしまった」失態を、さも可笑しそうに顔をヒクヒクさせて嗤っていた。
 私はなぜだか泣きそうで、大声を上げて泣き出しそうで、絶対に泣いちゃ駄目だ、と、誰にも見られないように、テーブルの下でギュッと拳を握る。そうしてずっと、雨上がりの山の景色を見ていた。     

                   了



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