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もういない君と話したかった7つのこと #04

「正気のまま自殺」は考えられないことか?

 自由意志が存在しないという話をしましたが、にわかにはそれを受け入れられない人もいるでしょう。
 だけど、よく考えてみると人間の本能には「生きろ」という問答無用の生存プログラムが焼き付けられています。これもある意味では自由意志を奪うものじゃないでしょうか。
 なぜならば、「死にたい」と思ったときに自由に死ねないからです。
 よって、やはり「自殺」こそが究極の自由の証明に他ならない──Kやキリーロフの考えだと、そうなります。
 さて、これは本当に自由になる選択なのでしょうか。

 僕はこのタイプの自由というのは、ニセモノの自由ではないかと考えています。
 不利な選択をするという場面に陥っていること自体が、すでに不自由なのではないか──ということです。
 では人が前向きな自由の状態で、理性的に判断して「もう死ぬという選択肢を考えてもいいのではないか」と思ったときには、自殺してもいいのでしょうか?
 人間の生存本能そのものに抗う行動を、積極的に、冷静に選ぶことは可能なのでしょうか?
 これらの問いはこう言い換えられます──完全に前向きな自殺というのはあるか。
 どうやらまれにそういう例があるようです。
 理性的な判断で、前向きに自殺した人がいた事実があるのです。
 須原一秀という思想家です。彼は晩年、自然死がむしろ悲惨なものなのではないかと考え、哲学者の仕事として自死を望み、その過程を本として残しています。
 彼はまったく絶望せずに計画的に、前向きに、平常心で自ら命を絶ちました。彼の『自死という生き方』という本にはそのことが書かれています。読んだ印象からすると、確かに非常に理性的です。
 これはとても珍しい例でしょう。
 しかし、僕が注目したいのはこの本自体ではなく、この本に対する評価です。
 ネットでは、ものすごく賛否がわかれているのです。否定派の感想は、「著者のヒロイズムである」、「これは自分に酔っている行動だ」、「残された人のことを考えていない」などなどです。
 その意見はべつに構いません。そう思う人がいるのも当然でしょう。
 でも、僕が気になったのは、この人たちは、なぜわざわざネットにそうした意見を書き、評価をつけて、自分の意見を主張したいのだろうかという部分です。
 その姿は、ともすれば自意識過剰で自分の意見を押しつけている利己的で傲慢な様子に見えるのです。

 たとえ本人が正気だと言い張っても、その行為がおかしいと判断されれば、内面までおかしいと判断されてしまう──これは、もし、本人が正気だった場合はとてつもなく失礼なことです。
 そのような暴力的なふるまいをしておきながら、たいていの人はそれを良識だと思っているので、問題は厄介です。
 なにがマトモでなにがおかしいのか、それを判断しているのは「世間」なのです。個人の考えと世間のそれが一致するとは限りませんが、世間のほうはなぜかそれを個人に押しつけてきます。
 先にも述べたとおり、倫理の問題に関して人は口を出すことはできないのです。
 他者は、あくまでそれについて自分なりの答えを出すほかありません。


気の持ちよう次第で自由と不自由を行き来する

 自殺はある意味で究極の自由と言えるかもしれません。
 しかし、なぜその方法でなくてはならなかったのでしょうか。
 選択肢がそれひとつになることは、どう考えても「自由」とはちがうのではないでしょうか。
 もっとギリギリの場所で、自由を勝ち取るための方法はないのでしょうか。

 誰しも、誰かに「こうしろ、ああしろ」と言われるのは嫌です。
 ご多分に漏れず僕もそうですが、困ったことに、相手の意見が正しかろうが、間違っていようが、どちらでも聞き入れることがあまりない。
 そう言われること、それ自体が嫌いなんです。
 真っ白でどこから見ても公明正大な正論で言われても、まったく納得できなくて、「そんなの嫌です」と言ってしまいます。
 でも、最近、実はそういったスタンスそのものが、「不自由さ」をもたらしているとも考えるようになりました。
 たとえば、自分が「しばられたくない」みたいな話をし始めたときに相手から、
「いま、自由じゃないの?」
「自由じゃないといけないの?」
「それって、あなたは不自由だね」
 と、言われたらどうでしょうか。自由であることに思考がしばられていて、結局は狭量で不自由な考え方しかできなくなっていませんか。

「自由か不自由かどうか」という問題は、結局のところ、心に依存する問題なのです。
「すごいお金持ちなんだけれども、幸せじゃない」という話はよく耳にしますよね。
 いつの時代もこういう話はあるのですけれども、貧乏人のねたみなどではなく、実際にそういう人は多くいます。
 つまり、環境とか状況じゃなくて、心次第で、幸福度も変わるわけです。
 これは「主観的幸福」というもので、世界的に学問として研究され始めています。
 2000年代から論文も増えているのですが、特に経済学者と心理学者の論文が多いようです。国が経済的に成長しても、人の心はそれに比例しないということがわかってきたからです。
 自由かどうかも同じではないでしょうか。
 たとえば、独身でお金もあってカッコよくて高級車も持っていて、海外のどこへでも行けるみたいな人は、客観的に考えると、とても自由に見えますよね。
「状況」として捉えると自由に見えるけれども、その人が、子どものときに虐待を受けて、トラウマを持っていたりすると、その記憶にしばられて、精神的にはまったく自由ではないわけです。


「家から一歩も出ない自由」もあるはず

 その逆もあるでしょう。たとえば刑務所にいる人でも、頭の中の空想で、ものすごく楽しんでいるかもしれません。
 どんなに自らの考えを否定されても、どんなところに閉じ込められても「頭の中で、この人たち、自由だ」という人はいるのです。
 大島弓子氏の漫画『ロストハウス』には、自分の部屋に鍵をかけない青年が現れます。
 青年はある日事故で恋人を失い、失踪してしまいます。数年後、主人公の少女は大人になっていますが、青年の部屋のことが忘れられません。
 彼女にとって「鍵のかかっていない部屋」こそ、自分が本当に自由になれる場所だったのです。最後に少女は青年がホームレスになったことを知って、「ああ彼はついに全世界を部屋にして、そしてそのドアを開け放ったのだ」と悟る、というストーリーです。
 この物語で言うところの不自由とは「部屋という概念にとらわれる」という部分です。
 そうして最後には「部屋を捨てる」ことで自由を得るのです。

 かつてひきこもりが問題視され始めたときに、「本当に家から出ないといけないのか」ということが、よく言われていました。
 ひきこもりは家から出ないと批判される。
 けれども、よくよく考えてみたら、日本人自体も、日本から出たがらないひきこもりです。
 さらに極端なことを言ってしまえば、地球人は地球から出ない、ないし出られない。
 結局は、みんなひきこもりの人と何が違うのか、という話になってしまいます。
 実際、現代社会はインターネットが非常に発達していますから、たとえ家から一歩も出なくても、外界とは簡単につながれます。
 そのような状態の人が、「リアルなつながりを重視しないと」と言われても、ピンとこないでしょう。
 その人はまったく不自由さを感じていないのですから。

 僕の場合、「こうしろと言われるのが嫌だ」ということが根幹ですが、なかにはそう言われたほうが楽、という人もいます。
 そうした人たちを否定する気はまったくありません。
 逆に、その人たちは、そうされることが、精神的な自由にいたる方法かもしれません。
「もう、誰かに決められたほうがいい」という人は、きっと「9~17時で会社に行くほうが、僕は気楽です」と口にするでしょう。
 だから主観的な自由と客観的な自由、そのどちらがいいかという話ではないのでしょう。
 わかってほしいことは、自分がどちらの自由を優先するのかを判断すればいいということです。



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