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もういない君と話したかった7つのこと #13

サンデル教授が流行った理由

 コミュニティの話を少しだけ続けていいでしょうか。
 大きな意味でのコミュニティ、つまり「社会」についてです。
 正直に言うと、僕は社会問題には関心が薄いほうなんです。Kもそういう人間でした。
 だから恐らく、彼は自分の死を社会問題にされることを拒むでしょう。
 しかし、彼の死の何割程度かには社会の問題が含まれていたのではないかと思うのです。

 2010年に『これからの「正義」の話をしよう』という本がブームになりました。
 この著者のマイケル・サンデル教授は共同体主義者(コミュニタリアン)ですが、彼らが想像するコミュニティとは家庭や労働組合や政府という、ある理念のもとにある集団です。共同体主義者はそれらのコミュニティの影響によって、個人のアイデンティティが確立されると考える人たちです。
 では、どうしてアメリカでサンデル教授が流行したのでしょうか。
 それはアメリカに蔓延した新自由主義(ネオリベラリズム)という思想の行き詰まりが原因であると、多くの人は分析しています。
 新自由主義というからには、自由主義があったわけですが、その源流は17~19世紀にかけてアダム・スミスやジョン・ロック、ジョン・スチュアート・ミルといった思想家に遡ります。
 自由主義(リベラリズム)は、古典的自由主義とも言われ、社会や個人の自由を認めて、政府の介入を最小限にするという考え方です。今では当たり前のように思える主張ですが、中世の絶対王政下では個人や社会の自由の幅は非常に狭いものだったのです。
 この古典的自由主義はミルの時代に失敗しています。
 アダム・スミスによれば、自由経済のもとでは、人々が勝手にふるまってもそれぞれ調整しあって、結局うまくいくという話でした。教科書でも習った「神の見えざる手」というやつです。
 しかし、現実にはどうしても極端な貧富の差を生んでしまうのです。
 新自由主義は、自由主義を一部で認めつつも、この貧富の差をなんとかしようという考え方です(ここでは話を単純化しているので、興味があればぜひ調べてください)。
 しかし、現在のアメリカや日本の状況を見てもわかりますが、やっぱりものすごい金持ちとものすごい貧乏人に二極化してしまっています。
 じゃあどうしよう、といったところで明確な解決がない──ものすごく簡単に言えば、それが今の世の中です。


J・S・ミルの考えた「愚かなことをする権利」

 ちなみに、ミルの自由というのは?み砕いて言えば、「成人であり、人に迷惑をかけなければ自由に生きて良い」というものです。
 しかし、では、自殺はどうでしょう。
 人に迷惑をかけているのでしょうか。
 それとも、かけていないのでしょうか。
 ミルはこう考えます──他人から見て愚かだとしても、成人の自己決定で行うならば、それをやってもいい権利がある──これこそミルが『自由論』のなかで述べた愚行権というものです。
 ちょっと既視感がありませんか。
 この話は、前章でのカントの善悪の話とつながる答えの出ない問題と似ています。
 しかし、ミルと同時代の思想家であるショウペンハウエルは『自殺について』の中で、こうした場合に自殺を認めるべきだと、力強い言葉で自殺を擁護しています。
 本当に苦しい人のための最後の手段として、自殺というオプションは残しておくべきだという考え方です。
 前に言ったとおり、キリスト教では自殺はタブーですから、これは当時でもかなり勇気のある発言だったと思われます。ショウペンハウエルの『自殺について』は、医療現場や介護現場における尊厳死や選択死の問題を考えるきっかけとしては良いかもしれませんが、あくまでエッセイのようなものです。
 同じ自殺論なら、データや引用文献が豊富な社会学者デュルケームの『自殺論』のほうが、ケタ違いに完成度は高いように思われます。
 たとえば、デュルケームは古い民族でも自殺が存在することを記しています。
 デンマークの戦士は老衰や病で倒れ、ベッドで死ぬことを恥辱と考えて、自殺していましたし、ゴート族にも、年老いた者が生に疲れると身を投げる岩があったといいます。
 自殺が一概に「愚かなこと」とは言えないのです。




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