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もういない君と話したかった7つのこと #08

誰も人間関係という「檻」から逃げられない

 Kが亡くなってから、僕は、「自由になるためには、基礎能力がいる」、そう思うようになりました。
 20代前半──それはまだ、わからないことばかりの時代です。
 これまでの人生と比べると、仕事のことも、人間関係ももっと広まる時期ですが、自分の考えなどがまだまだ狭いため、短絡的に、それも悪いほうに結論を出してしまう。
 みなさんにもそのような経験はないでしょうか。
 そうなったときに、社会性や選択肢をより少なくする方向に思考が進みがちです。
「自分の殻にこもる」という具合に、です。
 どんどんと自分の内面の、自分だけで築いた狭い世界観の中で、いろんなことを判断していってしまう。
 その判断の中で「自分のほしい理想の自由」を作り上げてしまう。
 そうすると、その自由が得られなくて、どんどんつらくなっていく、という負のスパイラルにはまります。
 そうして、自分と社会のはざまで苦しんで、死を選んでしまう……。
 Kはそういうパターンだったのかもしれません。
 彼は社会性を絶ったことで、自由を求めたけれども、実は社会性がないと自由そのものが成り立たなかったんじゃないのか──そう思うのです。
 つまり、自由を得るための基礎能力とは、その社会性を保つスキルのことなのです。

 文化人類学者の西江雅之氏が吉行淳之介氏との対談で言っていたことですが、「人間は、文化という逃れられない檻の中に入っている」という考え方があります。
 この発想を広げると、もともと人間は、何かしらの檻の中で暮らしていることになります。
 たとえばそれは大きくは国であったり、地域コミュニティであったり、学校や職場、そしてその中でさらに細分化された人間関係など、あらゆる「檻」の中で生きている、ということです。
 そして、その「檻」の中で不自由さを感じたら、誰しもが出ようとする。
 だけれども、西江氏の言葉を借りれば「その檻からは、出られない」のです。
 こうして聞くと、「平凡な自由」さえも、なかなか手に入りにくそうに思えます。
 ただ、西江氏は「出られないけれど、檻と檻のあいだを移動することはできる」とも言っています。
 もっと端的に表現すれば、「あるコミュニティでつらくなったら、別のコミュニティに行くことができる」ということです。
 意外とこの方法は、多くの人が無意識に実践しているはずです。


複数の「友だちの輪」を移動してみる

 この「檻を移動する自由」というのが、「平凡な自由」につながると思います。
 このやり方は、宗教などの「修行してナンボ」の世界では、逃げと見なされて否定されるでしょう。
 彼らの中では「その檻から出る」ことが重要なのですから。
 けれども、僕たちは実際にはそこまでできませんし、そんな人ばかりだと社会が成り立ちません。
「檻」の移動は、SNS(ソーシャルネットワークサービス)によって、より簡単になってきていると思います。
 いろいろなSNSが乱立していますが、そうしたものを「保険のための檻」と考えればいいのです。
 ただ、今、あまりにSNSに頼り切って疲れてしまう、「SNS疲れ」というものも、よく耳にするようになりました。
 そうして疲れてしまう人は、自分のかかわりの中だけでSNSのコミュニティを広げてしまいがちです。
 そうすると、新しい「檻」を作ったとしても、中身は自分を知っている人だらけなので、まったく意味がない。
 むしろ、どの「檻」に行っても自分を誰かが知っていたり、息苦しさから別の「檻」に行ったとしても、「檻」同士がつながっている、ということもありえます。
 自分で思う以上に、意外とSNSって狭いんです。
 SNSを使わない人が集う「檻」もあるはずです。「檻」を移動するなら、「檻」の種類自体を変えたほうがいいということです。

 死んでしまったKは、完全に違う「檻」には行けなかった。
 どこかで近い人間関係が?がっている「檻」だけで生活していた。
 だから、あるどこかの人間関係がおかしくなると、連鎖的にほかの人間関係も壊れていってしまった──そういうことなのかもしれません。
 そうなると一見して、自分に逃げ場がなくなってしまう感覚になります。
 だから、僕も知らない、全然違う、日常の人間関係から遠い「檻」を作ったほうがよかったと思うんです。


「お説教好き」のいないところへ

 ただ、コミュニティ自体は、普段の人間関係が拡張したものなので、いきなりまったく知らない「檻」へは行きづらいでしょう。
 実は自分の持っている趣味なども、周りの誰かに影響されてのものだった、などという経験はありませんか。
 そうしたコミュニティばかりだと、普段の人間関係から別の人と?がって、そのまた別の人とつながって……と、広げていったほうが早い。
 まったく見ず知らずのコミュニティというのは、意外と排他的な所もあるからです。
 たとえば、僕が、昔やっていた弓道を久しぶりにやろうと思って市民センターにある弓道場に行ったことがあります。
 平日の市民センターなんてお年寄りばかりですから、優しく迎え入れてくれるかなぁなんて考えていました。
 実際に道場に着いたら、超厳格なおじいちゃんがいるんですよ。
 注意ばかりしたがる人や、自分たちのコミュニティの「掟」のようなものを大事にしすぎる人たちです。
 そんな人がいるコミュニティに行ってしまうと、簡単に挫折してしまいます。

 もっとゆるいコミュニティでいいと思います。
「不自由すぎて生きづらい」と悩んで、武道教室とかお寺などに顔を出すと、お説教を食らうのがオチです。ただ、へこまされるだけで終わります。
 僕みたいに、どんな言葉の銃弾を浴びても気にしない(というかあきらめている)人ならば、それでもいいのです。
 けれどもナイーブな人もたくさんいます。
 そういった人たちは、まず、自分がある程度貢献できて居場所を作れるコミュニティというものを探してみてはいかがでしょうか。
 あるいは参加者が極端に少ないワークショップなども、人と?がるきっかけづくりにオススメです。
 例えばダンスではなく暗黒舞踏、太極拳ではなく聞いたこともないような武術、などは実際に僕が行った感じだと、わりと居心地が良かったです。




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