もういない君と話したかった7つのこと #06
〝究極のリア充〟だったブッダが求めたもの
普通なら「いや、そこはもう逃げなくていいだろう」と思うでしょうけど、「そこまでするか?」みたいなレベルで超自由になりたいということでしょう。
でも、「僕は満足してたけど、この世界って本当は不自由なんだ」と気付いてしまったんです。
「死ぬのが怖い」「老いるのが嫌だ」などは究極の心理的な不自由さです。
心が死に囚われてしまった、ということでしょう。
そこから出家したいブッダは、生まれたばかりの実子にラーフラ(=障害をなすもの)という名前をつけたほどです。
息子にキラキラネームをつけてまで逃げるなんて、普通からするとあり得ません。
「そこまでして、自由を求めるとか、おかしいんじゃないのか?」と思いませんか。
けれど、最終的には、そんなブッダは悟ります。
なにを悟ったのか。
これは簡単に説明できるようなものではありません。教科書的に説明すると、四諦と八正道、無我ということになります。この言葉は聞いたことがあるかもしれません。
なかでも無我というのは仏教独自の考え方で、これはつまりすべての存在には我(主体)がないという思想です。
「私」などというものもなければ、神様などというものもない、なにひとつない。
つまりは、すべては自由だったのだ……いや……自由という概念すら存在しないほど自由だった……というか……その概念すらないほど自由だった……(以下無限に続く)。
そんな究極の自由をブッダは悟ったのです。
思想としてはとても興味深いですが、平凡な現代人がこれを聞いて救われるかはかなり疑問です。
自由になるのに努力は必要ない
ブッダのそうした行動や心情は理解できます。
理解できるんですけれど、そんなものを求めだすときりがないんです。
新しいゲームを買って始めたら難易度をいきなり「ハードモード」で進めなくちゃいけないようなものです。
確かに、「ハードモードで得る自由」はあると思います。
本当につらい目に遭いながら修行をして、という過程です。
だけど、それまでの経緯が、とてつもなく不自由です。
多くの人はもっと「ノーマルモードの自由」が欲しいわけです。
「すごい苦労をして勝ち取った自由」ではなくて、「明日を少し楽に生きるための自由」とも言えます。
ハードモードは、経典を読んで修行する必要が出てきてしまう。
本当にそこまで追いつめられて、それができる根性のある人がいるならば、それでいいと思います。
そこには、ある程度の真理とも言える「答え」がないと頑張れない。
たとえば般若心経や正法眼蔵などはどんな層にも人気があります。
求める人はそこに人生についての「答え」がある、と考えて読みたいと思うわけです。
けれども、本当に人生の「答え」が書いてあるならば、もっと普遍的になっているはずです。
それこそ、コーラみたいに自動販売機で売っていてもいい。
人類みんなが共有したほうがいい情報であるはずなのに、どうしてそうなっていないのでしょうか。
そこらへんにいないですよね、「昨日、これ読んで解脱しました」とか言う人は。
もし、いたとしても怪しい人です。
誰でもできるなら、学校の1クラスに半分くらい悟りを開いた人がいるのではないでしょうか。
ということは、「究極の自由」があるとしても、到達するのはかなり難しい。
果たして、自由になりたいという人に、ブッダのような、仕事も妻も子も、地位も名誉も捨て、髪さえ剃って生きるような覚悟が持てるでしょうか。
その「捨てる覚悟」ができた瞬間に、自由にはなると思いますが、そんな覚悟なんて並大抵では持てません。
多くの人の求めているのはノーマルモードの「平凡な自由」です。
「究極の自由」はハードすぎます。
人によってはそのような平凡な自由は、仕組まれたニセモノの自由なのだと怒るかもしれません。
そういう健全で意識の高い人を否定するわけではありません。むしろそういう人が増えるほうが世の中にとっては良いに決まっています。
けれど、どうしてもそうなれない人が、なんとか生きていくための方法を僕は考えたいのです。
だからまずは「平凡な自由」を目指してみるのはどうでしょうか。
平凡に生きる勇気を持つ
平凡な自由を手に入れるのは案外簡単です。
平凡に生きる勇気を持つことです。
「平凡」と言っても、これもまた色々ありますが、自由と同じで、これも極と極の間にあります。つまり、あなたの人生の一番楽しかった時期と、一番つらかった時期、そのちょうど真ん中くらいがあなたの「平凡」です。
なぜかたいていの人は、平凡な人生というものを恐れています。どこかで人生を完璧なものにしようとか、人より際立ったものにしようとか、より良いものにしようと思っています。
でも、それ自体が苦しみを生んでいるのです。
人生とは大抵は平凡なもの。
でも、その平凡さは平坦ではありません。
ただ心のままに、自分の行動を受け入れる。
それが僕の言う「平凡」ということです。
繰り返しますが、これはけっこう簡単に思えて難しいかもしれません。
なぜなら人間には自意識や自尊心というものがあるからです。
それらは常にこうあなたに囁きます。
「僕は、才能があって本当はもっとすごい人間なんだ」
「俺は、こんなところで燻っている人間ではない」
「やればできるけど本気出していないだけ」
こうした自意識や自尊心の高さと、現実とのギャップが苦しみを生んでしまうのです。
そのままだといつまでたってもその自意識から逃れられずに、承認欲求を満たせず、心の自由が奪われていくことでしょう。
では、どうやってそれらを調整して、そこから自由になればいいのでしょうか。
次の章ではそれを考えましょう。
よりよい生活のために役立てます。