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明かされた真相

 危ないから入っちゃいけないよ。山に囲われた村の婆は、いつも子供達にそう言い聞かせる。
 村のはずれに取り残された廃工場は鉄格子で囲われ、入り口も硬く閉ざされているという。鍵をかけられたまま放置され続けている。人によっては、かの戦争において兵器を創っていた場所で不発弾が捨てられていて危険だともいうし、幽霊が出没するから怖ろしいともいうし、野犬の住処と化していて立ち入ればたちまち喰われてしまうともいう。どの噂が正しいか定かではないが、何かしらの危険が秘められているらしいということだけ共通している。誰も足を踏み入れなくなったため、想像だけ際限なく膨張し、噂として拡散していくのだった。
 白の軽ワゴン車が、一車線の舗装路をゆるやかに走る。コンクリートの脇はびっしりと雑草が伸びていて、斜面には奔放な木々が群生している。急カーブが繰り返される山道は細く、対向車が来たら行き違いに苦労するだろうが、その不安は殆ど無かった。なにしろ人が殆ど立ち入らない場所である。万が一に誰かと対面するとしたら、十中八九肝試しを目的とした向こう見ずな連中だろう。
 煙草を右手で挟み、窓の外へ灰を落とす。左手でハンドルを切りながら、男は鬱蒼とした緑を見つめる。
 濃密な緑に酔ってしまいそうな感覚すらあった。似た道を延々と辿っていると、自分の居場所を見失う。携帯電話が台頭してきた日本にあって、電波も危うい辺境地である。事故でも起こせばひとたまりもないだろう。助けを呼ぶことも、誰かが助けを呼んでくることも望めない。
 男にはにわかに後悔が過っており、引き返すべきか否か、脳内で自問自答を繰り返している。
 彼は少年時代をふもとの村で過ごし、若い内に出た。戻ってくるつもりは毛頭無かった。実家とは折り合いが悪かったし、山深く閉鎖的で、老人の支配する凝り固まった田舎社会に辟易していた。さっさと煌びやかな都会に行くのだと心に決めて生きてきたというのに、まさか再びこの地を踏むことになろうとは微塵も考えていなかったのである。
 突如として携帯電話に届いたショートメッセージに記された数字とアルファベットの羅列。一見していたずらだと切り捨てるところを、男は何故かその羅列をコピーし、検索にかけてみた。それは座標であった。座標が示していたのが、男の故郷を更に山奥へと進めた地点であった。
 付近に詳しくなければ、ただ等高線が連立している、変哲もない山の一角に過ぎないと切り捨てていただろう。しかし、男はその地点に何があるかを、遙か遠い記憶を呼び出して瞬時に読み取った。村の年寄りがこぞって立ち入りを禁じていた廃工場。子供の足では行きようがない場所ではあった。彼自身、近くに行ったこともない。しかしその地点に例の廃工場があるとはっきり理解した。慣れ親しんでいるわけでもないのに、啓示のように、唐突に、あの廃工場を示していると解ったのである。
 ショートメッセージの送り主は非通知になっていた。そこに人間性を感じさせる文章は欠片も無い。だが、赴かなければならないという無言の脅迫に腕を引かれて、貴重な週末の休日に車を発進していた。途中、何度も、引き返せと、己へ警告するのに、いつまでもアクセルを踏み続けていた。夜に出発してから高速に乗り、途中のサービスエリアで仮眠と軽食をとりつつ、昼過ぎにはその山間にやってきた。
 実家には脇目も振らず、廃工場のみを目指している。
 何故こうも執着しているのか、彼自身も解らなかった。まるで自分ではないようだった。
 やがて、ひび割れた舗装路が途切れる。その先は鬱蒼とした森となっており、車で進むことはできない。だが、細い獣道がずっと奥へ続いており、歩いて進むことは可能であった。
 男は末路で駐車し、獣道をぼんやりと眺める。奥に視線を送るが枝葉が重なっており見通しが悪い。少なくとも、工場らしきものはまったく見えない。
 もしかして、年寄りが言っていた噂は戯れ言に過ぎず、廃工場などどこにも無いのではないだろうか。子供達が山奥に遊びにいかないように創り出した法螺話なのではないだろうか。
 そもそも何故自分はここにいる。
 男にはいくつもの疑念が過る。勿論、その間も、まだ間に合うから引き返すべきだと警告が鳴り続けている。錯綜する精神を置いてきぼりにして、身体は動いていた。彼は枯葉と雑草の敷かれた獣道を歩み始める。やはり身体と精神が分離しているかのようだった。
 遭難の予感があったが、不思議なことに道は明らかに一本であり、迷うことなく真っ直ぐと進んでいれば良かった。鼻腔には無意識のうちに濃厚な緑の香りが通り抜けていき、彼自身がこの森と一体化していた。木々の成すトンネルは木漏れ日がちらちらと揺れていて、遠くでは鳥のさえずりもちらつき、ただの森林浴であれば絶好の舞台のようでもある。
 進めば進むほど、こんな僻地に工場があるわけがないという確信が過る。まず、あまりにも不便なのだ。人里離れた場所で過ごしたいという家屋ならまだしも、何かを生産し排出する機関を設置するには場所が悪すぎる。それとも、以前はこの自然は無く、円滑に行き来ができたのか。それにしてもあまりに遠い。
 足下には湿った音。日差しがうまく入らないのだろう。男は心細さを感じながら、ひたむきに道を進む。
 そして途中で目を丸くする。
 唐突に、樹海の向こうが開け、木々に邪魔をされて見えなかった曇天が広がった。森とその向こうを明確に区分する鉄格子に、枝が伸び、茎が伸び、葉が茂り、植物が浸食している。
 その中央、獣道の末、門がある。門といっても仰々しいものではなく、鉄格子が扉のようになっているというだけだ。男は近付き、南京錠に手をかける。錠は見せかけで、触れるとぷらんと垂れ下がった。開いているのである。
 怪訝な表情を浮かべ、男は格子の向こうに目をやる。
 仄暗い沈黙が続いている。先程まで森を静かに演出していた鳥や虫の声すらも聞こえない。
 鉄格子の向こうは平らかに舗装されており、奥には確かに煙突が林立し、無機質な工場らしき建物が並んでいる。人の気配は無く、生き物が棲んでいそうな雰囲気も無い。
 何故山奥にこのような場所が。
 山間は決まって斜面があり、だだっ広い平地とは無縁である。しかしこの工場は、まるで山をそのまま横に輪切りにしたように、山間部であるということを忘れさせるほどにずっと奥まで見通せるような平地なのであった。勿論工場という遮蔽物があり奥がどうなっているかは解らないのだが、異常な場所であることには違いなかった。
 ポケットに入れた携帯電話を取り出す。電波状況を示す表示は一本も立っていない。
 男の肌を冷たい緊張が走る。
 まだ引き返せる。
 今なら間に合う。
 行くべきではない。
 しかし、男の手は扉を引いていた。錠前があっけなく地に落ち、年季の入った不気味な金属音と共に入り口は開かれる。
 鈍色の曇天と同じような色をした床は所々罅が入っており、放置されて久しい場所だと窺える。鉄格子の外は濃密な自然であったにも関わらず、内側はまるで植物の気配が無いのが不思議であった。種の一つ、罅の隙間に落ちれば芽吹く可能性はあるだろう。しかし薄汚れた無機物ばかりが転がっているだけだった。
 近くまで行くと、彼が想像していたよりも遙かに巨大な建造物であった。廃工場から伸びる煙突からは勿論なんの煙も出ておらず、巨大なクレーンなどもぴくりとも動かない。風雨に晒されて消えてしまったのか、文字による表記がどこにもなく、これがなんの工場なのか見当もつかなかった。
 工場へ入る扉に手を触れると、それもまた開いていた。重々しい金属音と共に、中へと入る。
 静かに早鐘を打つ心臓を胸に、男は工場内を見上げる。中は暗く、ぽつんぽつんと設置された窓から白い陽光が差しており、塵が舞っている。
 足の竦む沈黙。脈がこだましているようだった。
 壁の一部は崩れ落ちている。内部はいくつかの小部屋に分かれており、進んでいくと、打ち捨てられた薬品の瓶や、硝子の破片が散らばっていた。雨漏りによるものか、所々乾ききらない濁った水溜まりが点在している。思わず鼻を摘まむような異臭は無い。どこか整然とした外観とは異なり、内部は比較的かつての面影が残っていた。野犬の住処だとかいう噂も立っていたが、野犬どころか虫一匹存在しなかった。
 窓や、割れた壁の隙間から差す僅かな光を頼りに進む。夜になれば、すべて闇に包まれるだろう。僅かな月光や星光では太刀打ちできない暗闇に眠るのだと想像が及ぶ。
 男には目的があるわけではない。あの座標に呼ばれて来ただけだった。危険だと口を酸っぱくして言われた年寄りの言葉を裏切り、やってきた噂の場所。恐怖とは別に、未知への好奇心が無いといえば嘘だった。目的が無くとも、一体この廃工場はなんなのか、何を作っていたのか、この先には何があるのか、少年のような冒険心が刺激されるのである。都会にあっては得ることのできない、謎めく古びた情景。
 人間、挑戦する瞬間が最も怖ろしいもので、足を踏み入れてからは案外想像よりも挑戦的になるものだ。必勝法などどこにも無くとも、手探りで模索する過程に昂揚感を抱くようになる。
 それでいて、やはり、どこか、身体が自分のものではないような気味の悪い感覚が男の内側には存在し続けている。
 長い時間を歩いているような気分になり、男は左手につけた時計に視線を遣ると、目を疑った。
 長針も短針も思い思いに、前へ後ろへ、ふらふらと動いている。急に一周したり、急停止してから振り子のように左右にぶれたり、あまりにも不規則な動きをしているのだ。此の世のものではない怖ろしいものを見たように、男ははじめ思わず目を逸らしたが、冷静にまじまじとその動きを見つめる。法則性は一切無く、当然現在の時刻など解ろうはずも無い。
 代わりに携帯電話を開いて、はっと気付く。電源が落ちていた。電池が切れたのか。まさか。車内でずっと充電コードを繋いでいたし、圏外である分通信できず、著しく電池を消耗することもないはずだ。電源ボタンを長押しするが、画面は暗いままでうんともすんとも言わない。
 好奇心で塗りつぶそうとしていた恐怖心がさざなみのように押し寄せてくる。
 危ないから、入っちゃいけないよ。
 老婆の言葉が蘇る。
 危ない、とはなんだ。何が危ない。ここにいれば、何が起こる。
 ここは一体どこだ、という根本的な問いかけ。
 今すぐに出るべきだ、という直感。同時に、進まなければならない、と脅迫めいた決意。いずれも湧いている。
 男の足は尚も前へと向かう。
 やがて、小部屋ばかりの続いていた場所の、とある扉を開くと、一階や、二階の床も、その更に上までずっとくり貫かれて、おそらくは建物の一番てっぺんまで続く高い天井の広がる、広い空間に出た。
 高い天井へ視線を向けると、どこかから繋がったクレーンの先に、人形がぶら下がっているのが見えた。
 男はその人形に焦点を定める。人間のかたちをしたものと、四つ足の生き物のかたちをしたものとある。ライオンのようだった。可愛らしい、百獣の王。鳥もぶらさがっている。それに、いもむしのようなもの、見たこともない生物。
 足下に硝子片が当たり、男は弾かれたように下を見る。これまでと同様、中身の無い瓶が割れたまま転がっている。しかし、よく目を凝らしてみると、人形のようなものはクレーンに限らずあたりに転がっていた。片付けられずに放置された古いおもちゃ箱のようである。重々しく無感情な廃工場と、おもちゃの軽やかさやむなしさは、不釣り合いだった。
 窓の外が暗くなってきていた。果たしてそれほど長い時間滞在していただろうか。再度時計と携帯電話を確認するが、両方壊れたままである。やはり何かがおかしい。夜になれば、内部の輪郭を示してくれる光は消えるだろう。その前に戻らなければならない。男は、別のポケットに隠していたライターを取り出した。煙草に使うものである。身体の輪郭をこえて緊張が増幅していたせいか、無性に煙草を吸いたくなっていた。唯一の光源になりうるライターの火をともし、唇に挟んだ煙草に点火しようとした瞬間、心許ない僅かな火が消えた。
 直後、辺りが一切の光の差さない黒に塗りつぶされた。
 何も見えない。
 クレーンも、足下の硝子も、人形も、何も見えない。
 男は驚きに声を出せないでいると、ふっと壁につけられた割れていたはずの電灯がついた。当然、ここに電力は供給されていないはずである。謎の工場の明かりが次々とつけられ、最後、スポットライトが集中するように大部屋の中心に眩い円形の光が照射された。
 そのちょうどまんなかに、人形が立っている。腕の中に収まるようなサイズではなく、男と同じくらいの背丈をしている。
 三日月の形の口でにやにや笑う、人形である。
 それから、なんの気配も無かった工場が、蠢き始めた。人形が囁き、ひとがたの影がうねりうねりいびつなダンスを踊り、きゃあきゃあ鳥のような猿のような声が光の当たらない暗闇の奥から聞こえてきて、ライオンが吠えた。さながら奇妙なサーカスの残骸が、ひずんだまま賑わいでいるようだった。
 男は混乱した。
 硬直する男に向けて、スポットライトの中央の人形は頭を下げた。シルクハットを下ろしてあばかれた顔は、パーツをおかしくちりばめられた福笑いのように目鼻の位置が普通ではなかった。
 ようこそようこそお越しくださいましたようこそ。
 手元に掴んでいるステッキを軽やかに踊らせ、ピエロのような人形は来客に挨拶をする。
 あなたは招待を受けてここに戻ってきてくださいました。たいせつなたいせつな村のこども。わたしたちのこども。おおきくなって成長してわたしたちすごくうれしいです。
 けたけた周辺からねばついた笑い声が響く。男は金縛りにでもあったように足が動かなかった。
 村を出て行ってわたしたちとてもさみしかった。
 あちらこちらからしくしくわざとらしい涙声がしみこむ。
 でもあなたは戻ってくれた。もうなにもさみしくはない。ここにこればみんな一緒。こどもたちみんなここにいる。ここは理想を創り出す工場。さあ、いっしょに踊ろう。今日は祝祭。
 そう明るく言い放つと、周囲は歌い始めた。美声とはほど遠い不協和音であった。
 ピエロがステッキを持たぬ手を差し出した。誘われた男は深い動揺と恐怖とは裏腹に、スポットライトの中に歩き出していた。笑うピエロは頷き、両腕をおおらかに開いた。真似をして、男は腕を開いた。咥えたままだった煙草が足下に音も無く落ちる。自分が自分で無くなっていた。そうして自覚している一方、身体が勝手に動いている。ピエロはぐるりと首を回し、にやにや、男に笑いかける。
 ここにはたくさんの生き物が集められた。集められた生き物は人形になった。誰かの思い通りに動く人形になった。人間は人形であり、人形は人間。なに、難しいことはない。何も考えなくても良い。何も不安にならなくても良い。何も問題は無い。きみは自我が強くて村を出て行ってしまったけれど、これで元通り。
 なに、こんなのきみじゃないって?
 身体と精神が分離しつつある男の手を握り、ピエロは大笑した。
 その思考が自分のものであるといつから錯覚していたんだい?
 その思考が自分のものであると何故断言できたんだい?
 その脳は、きみのもの。その身体も、きみのもの。だけれど、その脳を操るのもきみであると、なんの疑いもなく生きてきたのかい?
 その確証は一体どこにあるんだい?
 きみはきみであると、一体どこの誰が証明してくれたんだい?
 わからないだろう?
 もうすでに、きみはきみでないのさ。

 男は踊る。踊り続ける。笑いながら、泣きながら、ピエロの顔して、踊り続けた。
 やがて明かりが消え、夜が明ければ工場は再び静まりかえる。割れた窓から差し込む太陽光に照らされた内部では、すっかり遊び疲れた人形が沈黙しているばかりだった。


 了

「明かされた真相」
三題噺お題:百獣の王、必勝法、工場の明かり

たいへん喜びます!本を読んで文にします。