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”留職”を経験して人生の景色が変わった


45歳の時、新聞社に在職したまま、
立ち上げ間もないNewsPicksに”留職”した。

活用したのは、「自己充実休暇」という制度。
役員会を通れば最長3年、無給で休めることになっていた。6年前のことだ。

とはいえ、それまでは、
「”留職”=他の会社で働く」などということをした社員はいなかった。
当時は「副業」という概念も一般的ではなかったから、
そもそも他社で働くことが認められるのか、給与をもらっていいのか、機密保持についてはどう考えればいいのか、
弁護士の知り合いに相談して、後ろ指をさされないように準備をした。

●大企業を飛び出したら、キャリアが終わる!?

そうまでして外に飛び出したかったのは、
「先細るこの”大企業”で、このまま、『変革の担い手』として働く人生でいいのか?」
という問いが頭をもたげたからだ。

役員会に私の休職願いが通った日、何人かの役員から呼ばれた。
「何に不満があるのか?」
ここで休んだら、この会社でのキャリアを失うぞ
皆が口をそろえて言った。ありがたかった。

勝手に「よそへ行って働いてきます」と言っている社員を心配してくださる先輩方に、頭が下がる思いだった。

でも、そうやって声をかけてくださった方たちは、その会社ですでに地位を築いた役員や幹部ばかり。
今の会社の行く道がまっすぐ前に伸びていると信じていて、細ることがあっても、その道が一番”いい”道だと信じている人たち。
見ている景色が違う人ばかりだ。だから、
「私には、失って困るような『キャリア(道)』は、見えないのだけれど」
という確信もあった。

●ベンチャーが好きな人、大企業が好きな人

”留職”してみると、
創業間もないベンチャーで、会社が大きくなっていく現場にいることは、想像以上に刺激的だった。

何より、会社を大きくする、会社のミッションを達成することのために、みんなが同じ方向を向いて走っていた。周りはライバルであるよりも、同志だった。

社会に新しい価値を生み出すなら、伝統的な価値観の会社より、同じことを目指す同志と協働するほうが、楽しい。

ある日、当時のCEOが社内合宿で言った。
「この会社には、すごく優秀なメンバーが集まってくれている。
有名企業から来ている人もいる。でも、前職よりも給与がすごく下がった人がいて申し訳ないと思う。だけど、今はそうだけど、この会社は必ず、元いた会社よりも大きな会社にする。給料も前よりも払える会社を目指す。だからがんばろう」

かっこいいと思った。

「このまま大企業にいていいのか?」の答えは、
私の場合、「NO」だった。

●大企業の「最先端」は「端っこ」のこと

40歳を超えた私は、新聞社の中で、次々と新しいミッションを与えられていた。注目される、新しい事業、新しいポジションのリーダーも経験した。

「最先端」の動きを担ってはいたかもしれない。
でも、いつも「真ん中」にはいなかった。

大企業の「真ん中」というのは、数十年前の先輩たちが創った事業、脈々と受け継がれてきた事業のことだ。そこを、受け継がれたベクトルのまま、よりよくしながら生きていくのが「真ん中」の仕事だ。

一方、大企業で新規事業やイノベーションを担わされる人は役割が異なる。
「昨日までと違うこと」を期待される。

そして、それは一筋縄ではいかない。

ベンチャーでは、いずれも市場と向き合いながら、育てていく。成長に迷いはない。
一方、大企業では多くの場合、事業を成長させていいかどうかは、「真ん中」の人、過去に実績がある、力が強い部門出身のトップが決める。「非連続」な変革=イノベーションのジレンマとの葛藤は許されない。

新しい道を切り開いていくのは楽しくもあり、そういう場所を用意してもらって仕事ができたのは、本当に恵まれた社会人生活だったと思う。

ただ、いつも「戦い」だった。

●ベンチャーは市場と、大企業の新事業は社内と戦う

新規事業だから、組織も予算も人材も、ゼロからつくることの連続。
「欲しい人材」は、既存の大きな部門のおじさまたちが手放さない。
それどころか、新聞社では、新事業は新たに給与体系をつくるから、既存部門より給料が低い設定になっていた。「給与が下がったのだから、記者時代より働かなくていいと思ったのに」と不満を言う人もいた。
ずっと新規事業を担ってきた私は、そのたびに悲しくなった。

売り上げをつくるにも壁はあった。
既存ビジネスとカニバルところは営業できない。既存事業の「邪魔をしないように」新しい挑戦をしなければならない制約がある。

何度かその壁を突破できたのは、社外の仲間が力を貸してくれたから。
社外には同じ志を持ち、市場を見て仕事をしている人たちがたくさんいる。
そうした人たちと協働した。
でも、実現するほど、社内では既存部門や守旧的な人との衝突になる。それがストレスとして積み重なった。

正直、苦しかった。

●サラリーマンの切なさ、浮かんだ父の姿

ふと59歳ですい臓がんになった父の姿が浮かんだ。

父は中小企業の役員をしていた。拓銀破綻などで不況に襲われた1990年代終わりに、札幌に支店長として赴任していた。
たまたま、私も同じころに記者として札幌に赴任していて、時々、すすきので一緒に飲んだ。北海道は、活気がない時代だった。

紙の専門商社に勤めていた父の業界は、製紙メーカーとの直接取引が増え、大きく業界構造が変化していく時代でもあった。こまかいことは覚えていないけれど、父は「これまでのやり方、これまでの組織ではいけない」と強く思っているようだった。
なんとか構造改革をしようと、新しい土地でかつてない苦労しているのが伝わってきた。いつも明るかった父が苦しそうに見えた。

その父が、札幌赴任から5年たったころ、すい臓がんにかかっていることが分かった。弟のツテをたどり、東京の大学病院に入院し手術することになった。がんのステージはⅢbで、非常に厳しい状況だった。

それでも、手術後3週間の入院を経て、父は会社に復帰した。病状や体力から、札幌には復帰できないと判断されたのだろう。支店長から東京本社の監査役になっていた。

会社までの通勤は通常なら片道1時間弱。ただ、体力が衰えていたこともあり、父は座れる通勤ルートを使って遠回りをし、片道2時間近い通勤が始まった。半年後、肝臓への転移が見つかり、抗がん剤治療が始まってからも、父は通勤を続けていた。

あとから知ったのだけれど、父は再発したことを会社の人には伝えていなかった。

2年後、抗がん剤治療が効かず「もう手がない。もってあと半年」と判断されたが、父と私たちは「治験」の治療を受けられないか検討していた。

けれど、年末に納会を終えて帰宅した父は、ぐったりと家で寝たまま、起き上がれなくなった。がんの痛みが強く、全身に水がたまり始めていた。自宅で経口モルヒネを飲んで正月を過ごしたが、どうしても起き上がれなくなった。

仕事始めの日、母がついに会社に電話をして事情を話した。

再発さえ知らなかった会社の人は「なぜ、そこまで…(我慢していたのか)」と言ったという。

父とその話をしたかどうか、覚えていない。
たぶん、仕事の話はもうしなかったと思う。その時はすでに、父は毎日、モルヒネでもうろうとしていて、ほとんどの時間、まともに話すことができなくなっていた。

ただ、私はそのとき、父はどれほど無念だっただろうか、と思った。
同時に、サラリーマンというのは切ないな、と思った。

父はきっと、社長になるつもりで(なりたいと思い)働いていた気がする。
それまでも、新たな事業を切り開いてきた父のことだから、なんとか会社を構造改革したいと思っていたのだろう。
道半ばにして倒れた時点でさぞ悔しかっただろうが、復帰したい一心で、再発を周りに話さなかったのではないかと思う

父はどれほど強い人なんだろう、と思った。
一方で、「サラリーマンというのは、なんと切ないものか」と思ったのを覚えている。

当時の私は、まだ管理職にもなったことがなかったし、記者だったから、
会社と組織、経営と構造改革などということも、眺めているだけだった。
会社の経営のなかにいた父の気持ちは、本当には分からない。

それでも、人生のほとんどの時間を過ごした仲間たちに、自分ががんであることを伝えることもできず闘病したことは、私にとって少なからぬショックを与えた。

自分が49歳になり、父のあの年まで「あと10年」だと思ったら、
もうこんな不自由な生き方はやめよう

そう思った。

●組織ピラミッドを離れたら、心地がよかった

45歳で自己充実休暇を取得し、NewsPicksに個人として雇ってもらう経験をしたのは、「今までの自分を手放し、自分を知らない人たちの世界で、自分を試してみたい」という気持ちに駆られたからだ。

組織を離れたことで分かったのは、自分が一番大事にしたいこと。
「自分が何者であるか」とか、「自分が何を達成できるか」ではなく、
「自分は誰と達成するか」「誰の思いを支えられるか」なのだ、と。
そういう同志、人と出会えること自体が、
私にとっての働く喜びなんだな、と。

組織のピラミッドのなかから離れると、なんとも楽で居心地がよかった。

留職後、訳あっていったんは新聞社に復職した。新規事業を任せられ、気づくと再び本来の自分を見失い、既存の価値観との闘いで、自分を苦しめていた。その先には、せつないサラリーマンの道しかないように思えた。

だから、いよいよ私は卒業した。
逃げ出した、とも言う。
ピラミッドから離れて1年。今は、再びベンチャーで仕事を楽しんでいる。
年収も減った。肩書もなくなった。老後の心配は消えない。でも、楽しい。
心の自由を手に入れて、今のところとても満足している。

今のこの時間は、
せいいっぱい力を尽くした上で伝統的な企業を卒業した自分への、
最大のご褒美だと思う。

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