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無数の針

短編小説

◇◇◇


 海に向かう街道の少し手前でスーパーマーケットに立ち寄り、そこでぼくと十歳になる姪は、チョコレートやキャンディーやスナックなどの菓子類をしこたま買い込んだ。ここから海水浴場までには長い峠道を越えなければならず、三十分くらいでは着きそうにないから、車の中でおやつを食べようと、ぼくが姪に提案したのだ。

 お菓子に関しては子供の方が目利きだろうと思い、姪が選ぶに任せたのだが、買い物カゴに入れられていくものの大半は、アニメのキャラクターがプリントされた包装になっており、ぼくには姪がどういう中味のお菓子を選んでいるのかさっぱりわからなかった。最後にぼく個人の主張でほかほかのたい焼きを買い、スーパーを出ようとした頃には、出がけに怪しくなっていた空から、大粒の雨が本格的に降り出してきていた。

 雨の勢いは強く、スーパーの出入り口にあるポーチ内は完全に水浸しになっていた。屋外の駐車場に目を向けると、停めておいた車が、およそ二十メートル先で激しい雨の中にぼーっと霞んでいるのが見えた。ぼくは雨の飛沫が細かい霧になって顔に吹き付けてくるのを気にしながら、隣に並んでポーチから空の様子をしきりに覗き込んでいる姪に向かって呟いた。

「『傘がない』という歌が、昔あったなあ」
「何、それ?」
「君が生まれるずっと前、君の父さんや母さんもまだ生まれてなかった頃に流行った歌だよ」
「ずいぶん昔の話ね。歴史の授業で習いそう」
「ははは、面白いことを言うね。でも、これからする話はジョークじゃないぞ」

 ぼくは、白く煙って実体が不分明になっている車の方を指さした。

「あの車の中に傘を置きっぱなしにしてきてしまった。どうやら、雨に濡れないために傘をさすには、雨に濡れる必要がありそうだ」
「へんなの」
「これをパラドックスと言う。それにしても、ひどい降りだな」
「駐車場がプールになっちゃうね」

 姪はそう言って、くすくすと笑い出した。なるほど、彼女の言うとおり、アスファルト全体を雨水が覆って、無数の波紋が水面に広がっている。見ようによっては面白い光景だと、ぼくも納得した。

 姪の名前は悠紀という。彼女は水色のパーカーのフードをかぶり、ぼくを見上げるようにして、愛らしい笑顔を向けてきた。察しのいい彼女は、いつでも走れる態勢で、腕を前と後ろに交互に構えている。笑うとほんのり赤味のついた両頬が持ち上がり、それはぼくに仲良く並んださくらんぼを連想させた。屈託なく笑う悠紀の無邪気な表情を見ていると、ぼくは決まって彼女の母親の顔を思い出してしまう。目鼻立ちといい、ふっくらとした唇の形といい、せつなくなるほど、この子は礼子にそっくりだった。

「よし、悠紀」ぼくは彼女の背中をぽんと叩いて合図を送る。「車までダッシュするぞ!」

 そして、ぼくたちはウォーッと叫びながら、一瞬でずぶ濡れになる真夏の雨の中へ飛び込んでいった。

◇◇

 この夏、ぼくは四年振りに東北の実家に帰省した。しきりに墓参を勧める兄からの電話がなければ、ぼくは今年も帰る予定はしていなかっただろう。大学を卒業した直後に父を亡くし、翌年には母もこの世を去った。両親がいなくなれば、郷里との縁は次第に薄くなっていく。生まれ育ったこの家がどことなく他人行儀に見えたのも、そんなぼくの心の内側を反映してのことだったかも知れない。

 最後に帰ったのは母の三回忌のときだ。その間に家全体の趣が、兄夫婦によって少しずつ展開されていったのであろう。門を入ってすぐの空き地に家庭菜園ができていたのをはじめ、玄関には、この古い木造住宅の色調とはおよそ正反対のマティスのポスターが飾られてあった。二階の木枠の窓はサッシに替わり、ぼくが昔使っていた部屋は、ぬいぐるみがどっさりと置かれた女の子の部屋に変貌していた。子供の頃によく写生をした窓からの景色は、妙に行儀良くかしこまっているように見え、その違和感は、時間を追うごとにますます強くなっていった。新しい調度品が増え、旧い手回りの品が処分されると、ただそれだけのことで、自分が子供時代に過ごしたこの家にまつわるすべての想い出が色褪せ、懐かしさが青空の彼方に溶け去るように感じられた。個人の記憶は物とともに存在し、物とともに葬られる。ぼくは窓辺にもたれてそう思った。

 他人行儀なのは家ばかりではなかった。階下に降り、仏壇に手を合わせて亡き両親に挨拶を済ませていると、「お疲れになったでしょう。お盆のこの時期は電車も車も混雑したでしょうから」と兄嫁の礼子が、冷えた麦茶を運んで姿を現した。色白の美しい顔立ち、丁寧に編まれた艶やかな髪、そして、三十歳という年齢をどこにも感じさせない瑞々しい素肌。久し振りに会うこの義理の姉の顔を、ぼくは複雑な思いで見据えた。ぼくのこの眼差し、様々な意味が込められたこの眼差しを、礼子が読み取ったかはわからない。そもそも、少しの動揺さえ、今の礼子はぼくに見せたりはしないのだ。

「どうですか、ここの方が東京よりは涼しくて、過ごしやすいんじゃありません?」

 南向きの縁側からさらりと風が入り、風鈴が揺れると、礼子はさりげなくそう言って、差し障りのない会話と微笑みで、ぼくの眼差しをくるみ取ってしまう。なるほど、変わっていないな、とぼくは思う。これが礼子のやり方だ。高校の頃に知り合い、ぼくの恋人でもあった礼子。兄と結婚する意志を固めたときから、徹底して他人行儀な言葉と態度で、ぼくとの距離を作り上げてきた女性……。

 ぼくがここ数年、実家への帰省をためらっていたのは、兄に遠慮したわけでも、高校教師の職が多忙だからでもなかった。未だ心の奥で熱を保ち続けている感情を、うまく処理できずにいるからだった。まるで水量の豊富な湖水のように、満々とぼくの胸の裡に湛えられているそれは、礼子への思慕にほかならない。そして、一度でもその水位が上がり、溢れ出ることになれば、自分でもそれを堰き止める自信がないことを知っている。

「東京は湿気が多いんですってね。この夏は猛暑ですもの、さぞかし大変でしょう」

 縁側から表の庭へと目を泳がせながら、礼子は言う。ぼくは、ひときわ綺麗な音色で鳴る風鈴の響きを耳にしながら、その横顔に向かって「そうですね」と短い返事をする。

◇◇

 車に乗り込んでしばらく走ると、あの激しい雨が嘘のようにぴたりと止んだ。

 濡れた髪の毛をタオルでごしごし拭きながら、自分たちの運の悪さをしばらく嘆いていると、そのうち妙に可笑しくなってきて、ぼくと悠紀は、車を縦に揺らすほど笑い合った。

「そうだ、あったかいうちに、たい焼きを食おう」

 雨曇りの空と、次第に効いてきた車内の冷房は、夏でもたい焼きを食べたくなる環境を作り上げていた。

「うん、アイスより、こっちの方がいいかも」

 口いっぱいに頬ばりながら、悠紀は言う。

「尻尾まであんこが入っていたら、そのたい焼きは当たりだ。きっと、今日はいいことがある」

 ぼくはそう言って、含み笑いをしながら助手席にちらっと視線を走らせる。悠紀はさっそくたい焼きの尻尾に齧りついた。

「どう?」
「白身ばっかり。ねえ、はずれのときはどうなるの?」

 ぼくは少し考えるふりをしてから、重々しい口調で言った。

「今日はついてないんだろうな。最悪の場合、雨で海水浴は中止……」
「せっかく来たのにい?」

 冗談だとわかるように言ったつもりだったが、悠紀が本気で残念がっているので、ぼくは取りなすように二番目の提案を付け加えた。

「心配するな。そのときは水族館に行って、イルカに会ってこよう」

 悠紀はむくれた顔のまま、しぶしぶ頷いた。

 空は相変わらず暗い雨雲が広がっていた。民家の数は徐々に減ってゆき、道はゆるやかな上り勾配になった。やがて周囲には緑の木々が連なり始め、アスファルトで舗装された道路は心なしか狭まってきて、林道といった景観を呈してくる。ぼくは、ハンドルを握りしめながら、わずかばかりの息苦しさを感じていた。いつの間にか礼子のことを考えていたからだ。

 今から十年以上も昔、あれは高校二年の夏休みのことだった。ぼくと礼子は違う学校の生徒だったが、お互い美術部に所属していて、偶然にもその夏、国宝の五重塔を写生に来ていた。そのときはまだ、初めて会う者同士だったから、他校の女生徒に先を越された形でいい写生のポジションを取られたと思ったぼくは、最初は少し恨みがましい気持ちで、その子の背中を目の端に置いて絵筆を走らせていたのを憶えている。

 そのうち、絵の具の貸し借りがきっかけで、その女生徒と言葉を交わすようになった。訊けば、しばしば展覧会で賞を取っていることで、前から心当たりのある名前だった。

「君があの『柚木礼子』さんだったのか。うちの学校ではかなり有名な名前だよ」
「嘘。そんなことあるわけないよ」
「ほんとうさ。ぼくら美術部の間でだけなんだけどね」

 ぼくがそう言うと、礼子の瞳がふっと微笑の形に動いた。それは、周りのすべてを吸い込んでしまうほど魅力のある笑顔だった。柔らかな花が後ろでふわりと開いた感じがし、礼子に向かって光が集まったような気がした。そのたった一瞬で、ぼくは恋に落ちたのだ。

 五重塔は長い石段を下りたあとの鬱蒼とした森の中にあって、普段は観光客もまばらにしか訪れない。何日も写生に通ううち、ぼくは五重塔よりも、一心に作品に向かっている礼子の後ろ姿を眺めていることの方が多くなっていた。白いブラウスの背中に、さらに白い下着の線が浮かび上がっているのを目にすると、ぼくの絵筆の動きは完全に止まった。つまらないことをわざと質問して笑いを取ったり、怪我などしていないのに絆創膏を持っていないかと近づいたり、とにかくぼくは礼子と接していたかった。やがて、少しずつお互いに自分のことを話すようになった頃、巨大な杉の木の根に腰を掛けて、二人でおにぎりを食べたことがあった。将来は美術教師になる、と語る礼子。様々なことに明確なビジョンを持っている礼子に対して、先のことなど何も考えておらず、ただ漠然と絵を描いて暮らしていけたら、と思っているだけの自分とは決定的な生き方の違いを感じ、ぼくは自分の考えの甘さに打ちのめされていった。すべてが自分よりも先に進んでいる礼子が羨ましかったし、同時に妬ましかった。大人と子供、師匠と弟子以上の差がそこにあるように思った。それは絵の実力の差ということではなく、魂の差なのだ。一生かかってもぼくは礼子に追いつくことはできないだろう。歴然たる格差というものを、ぼくは礼子の言葉や表情の至る所から感じ取り、目の前が真っ暗になる思いをしつつも、そんな自分に手を差し伸べ、同じ高みへと引き上げてくれるのが礼子であることを、心のどこかで期待したのだった。

 それは、突然の雨だった。雷鳴が轟いたと思った刹那、五重塔を取り囲む木々の葉が一斉に揺れだし、雨音が沸き上がった。ぼくたちはキャンバスだけを抱えて、塔の陰に逃げ込んだ。全身がぐしょ濡れで、服のあちこちが絵の具の色で染まっていた。体を寄せるように雨を避けていたら、すぐ間近に礼子の綺麗な顔があった。濡れた白い額に髪の毛が張り付いていた。森の香りを含んだ湿気が辺りに立ちこめ、礼子の体温を運んでくる。まるで礼子に体全体を包まれたような気がして、次の瞬間、ぼくは夢中で自分の顔を礼子に近づけていた。礼子の唇は最初強張っていたが、やがて、ゆっくりと脱力していった。

◇◇

 雨の匂いに混じって、悠紀の衣服から綿菓子のような甘い香りが立ちのぼっている。フロントガラス越しに見える重たい空の色は、あれからさらに暗さを増し、こんな日は人出も乏しいのか、ログハウス風の建物がぽつんと道の脇に建っていたのを通り過ぎてからは、しばらく林の中に迷い込んだように、擦れ違う車さえなかった。この峠道を越えたとしても、その後に見えてくるのは、人目を忍ぶように建てられたおとぎ話に出てくる西洋風の古城だの宮殿だのを模した派手な色のラブホテルであり、海辺の地域にある民家が現れるのは、そこからまたしばらく進んでからになる。

 おしゃべりが一段落し、悠紀はおとなしく窓外の景色に見入っている。昨日、縁側から庭を眺めていたとき、ちょうどプールから帰ってきた悠紀と、ぼくは四年振りの再会を果たした。背はすっかり大きくなり、庭に並べて植えてあった向日葵の茎と茎の間から、薄く日焼けした長い腕と脚が垣間見えた。四年の歳月は、小さな小学生の娘を、大人びた少女にすり替えてしまったように思った。

「叔父ちゃん、来てたの? 今夜、花火しようよ」

 屈託なく話しかける悠紀に、ぼくは手を上げて答えていた。しかし、礼子そっくりの面差しがその顔に宿っているのを認めた途端、ぼくの心は一瞬にして冷静さを失った。膨らみかけた胸を盗み見れば、さらに激しい後ろめたさが、心の裡に募っていった。

 車は、峠道の連続したカーブに差しかかっていた。ぼくは慎重にステアリングを操作し、後続車がいないのを幸いに、スピードをなるべく抑えるように努めた。悠紀が押し黙っているのは、車酔いのせいかも知れなかった。額を窓に寄せ、ぼくに背中を向ける格好になっている。その悠紀の姿は、また少し、ぼくを息苦しくさせた。

 礼子と一泊旅行に出掛けたことがある。高校を卒業したその春のことだ。ぼくは首都圏の大学に行くことが決まり、礼子は事情により地元の大学に進学することになった。これからお互い離れ離れになるから、大きな想い出をつくるために美術館巡りをしよう、二人を引き合わせたのが絵画なら、より強い結びつきを与えてくれるのも絵画だろう。そんな思いから、ぼくは西洋美術を中心とした東京の主要な美術館と、現在催されている美術展のギャラリーをピックアップし、短い移動時間で回れるよう予定を組んだ。しかし、礼子の反応は、あまり芳しくなかった。ぼくたちは、付き合い始めて一年以上経っていたにも関わらず、体の関係は未だに皆無だった。

 半ば強引に連れ出したせいもあったのだろう。旅の間中、礼子の表情が晴れることはなかった。礼子の好きなマティスやピカソ。それらを観て回っている間は瞳に明るさが戻っても、ぼくが好きなレンブラントや十七世紀の宗教画には、退屈な態度を終始崩さなかった。額縁の中であられもない裸身を晒す美女、豊満な乳房を惜しげもなく開いて光の愛撫に身悶えする女神たち。それらが喚起させるイメージが、ぼくの体の深部に熱いものを植え付けてしまったようだった。これからは、思うようには礼子に会えなくなる。幾度となく重ねてきた唇も、手のひらをあてがうことだけが許されていた胸の起伏も、今はいらなかった。ぼくは礼子が欲しい。その肉体を抱きしめ、自分の愛情を全身で伝え、そしてひとつになりたかった。これまで一線を越えようと伸ばした指は、いつも礼子の頑なな意志を持つ手で強く押し戻されていた。デートのたびに繰り返されるそんなやりとりは、この旅をもって最後にしたい。そんな思いが、ぼくの中で強まった。宿泊の予約を入れていたホテルには向かわず、街の喧噪から逃れた場所にあるブティックホテルに入った。しかし、そこでぼくを待ち受けていたのは、これまでになく厳然とした激しい拒絶だった。それは当然の報いだったのかも知れない。同じベッドに入りながら、ぼくは後ろを向いて微動だにしない礼子の背中を見つめたまま、本当にさめざめと、明け方まで泣いたのだ。

◇◇

 背中を向けていた悠紀が急に振り返り、「海にはまだ着かないの?」と訊ねる。血色の良い顔の上に微笑が乗っているのを見て、車酔いはぼくの取り越し苦労だとわかり、安心した。あとどれくらいかかる? と重ねて訊いてくるので、ぼくは「もう少しかかるな」と暗い雨雲を覗き込んだあと、そう答えた。

 あの一泊旅行の時点で、礼子とぼくの関係は終わったのだ。それがぼくの結論だった。礼子への思いは増していくいっぽうだったが、ついに彼女の方から連絡をよこすことはなかった。のちにぼくは、自分の愚かさを笑うことになる。なぜなら、その一年後に、礼子はぼくの兄と婚約したからだ。ぼくと付き合っていた頃、礼子はぼくの家に幾度も遊びに来ていた。当然、兄と顔を合わせたことも何度かあっただろう。あの頃の兄は検察官になりたての頃で、ただ絵を描いて遊んでいるようにしか見えないぼくや礼子のような人間を、芸術に現を抜かしていると内心では忌み嫌っていたはずだった。いつからそのような感情が二人の間に生まれたのかはぼくにはわからない。今から考えれば、出会った瞬間から兄と礼子はお互いの運命を受け入れていたのかも知れない。いずれにしろ、ぼくには寝耳に水だった。礼子が兄と婚約した事実を受け入れるまで、一睡もできない夜が続いた。礼子がぼくと交際している間、秘かに兄への思慕を募らせていたとなれば尚更だ。ぼくに抱かれることを拒んできたのも、美術教師になる夢を捨てて地元の大学を選んだのも、これで合点がいく。ぼくが最も愛していた礼子。その礼子のお腹の中に、兄の子が宿っていると聞いたときは、狂おしいまでの嫉妬に身悶えしたものだった。あれから、十年以上の月日が経ち、お互い三十歳になった。ぼくは未だに女を知らない。

 助手席で悠紀はアップルサイダーを飲んでいる。小学五年生。姪の年齢は、そのままぼくの苦悩の歳月と重なる。薄手のパーカーの下に隠された悠紀の裸を、ぼくは心に思い描いた。小さな胸の膨らみも、見掛け以上に大きく発育した臀部も、ここに来るまで何度も盗み見ている。しかし、不思議と昨日より罪悪感はなかった。このあと、もっと許せないことをしようとしているからだろう。ぼくはハンドルを握りしめながら、地獄に堕ちる自分を想像した。

 峠道の両側に林立する針葉樹の背丈が、急に低くなったような気がした。重く垂れ込めた雨雲が視界に大きく広がり、前方に幽かに浮かんでいた山の稜線が、墨が流れたようにかき消えていくのが見えた。霧のようなものが迫ってきたと思ったそのとき、突然、フロントガラスに粘土を投げつける音がした。びしっびしっ、と量感のある大きな音は、やがて、耳を覆いたくなるほどの連打に変わった。

 粘土の正体は、大粒の雨だった。これほど勢いの凄まじい雨は、未だかつて体験したことがなかった。スーパーで買い物をした後に降られた雨とは、まるで比べものにならない。視界はあっという間に効かなくなり、車を止めることを余儀なくされた。車体にぶつかる雨は、機関銃の一斉射撃のようで、金属でできた車のボディに、深い穴を穿つかのようだった。

 悠紀が、怖い、と言って、ぼくの腕にしがみついてきた。無理もない。ぼくでさえ、恐怖を感じるほどの強雨だった。ワイパーを高速にしても、拭った直後に雨に潰されていく。ほんの束の間、クリアになった視界の先に見えたのは、ボンネットに突き刺さる無数の針だった。

 ぼくは車のドアを開けて、ふらふらと外に飛び出した。乳白色に煙る外界は、地獄そのものだった。全身を嬲る雨で肌は痛くなり、長く目も開けていられなかったが、だからこそ、今のぼくにふさわしい場所に思えた。雨飛沫は白く輝く芝生のように車体を包み込んでいた。不思議と雨の暖かさが心地よかった。ぼくの穢れも洗い流れてくれればいいと思ったが、これから大罪を犯そうとしている自分には、もはや手遅れだろう。雨は、ぼくの水位を上げてしまったのだ。

 車内にいる悠紀が、何か叫んでいる。窓から首を出して、「叔父ちゃん、中に入って」と泣きそうな声で言うのが聞こえた。

 悠紀はまだ信じているのだ。ぼくが本当に海へ連れて行ってくれるものだと。

(了)


原稿用紙約21枚(7943字)

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