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願いをめぐる二つの短い物語

短編小説

◇◇◇


第一話 沛然叔父さんの厄落とし業


 ぼくの叔父さんは、昔から雰囲気を出すのがうまかった。

 普段はタバコなんて吸わない人なのだが、紙を巻いただけの細い筒を指で挟んでいるだけで、まるで火の点いたタバコを持っているようなふりをすることができた。しかも吸い慣れている喫煙者のような佇まいまで醸し出すから、一瞬、鼻と口から煙を吐き出すのを目撃した気にまでなってしまうのだ。叔父さんはそのあと、巻いていた紙をするすると伸ばし、それがスーパーのレシートであることを明かして、周囲にいる人をよく驚かせていた。

 お酒もそうだ。叔父さんは一滴も飲めない体質らしいが、親戚が集まる宴会では顔を赤くして陽気に会話を盛り上げているし、本当の酔っ払いみたく、急に大きな声で話しかけたりするので、叔父さんがいる場はいつも賑やかだった。手元にはウイスキーの濃い水割りを置いているけれど、その正体がペットボトルのお茶を水で薄めただけだと知ったときは腹を抱えて笑ったものだ。叔父さんは、まだ小学生だったぼくに「これは内緒だからな」と小さな声で教えてくれたのだ。

「予めウイスキーの瓶にお茶を仕込んでおくんだ。伊右衛門は薄めると、スコッチウイスキーの水割りに見える。バーボンに見せたいときは、黒烏龍茶と十六茶を6:4で混ぜてから水で割るといい」

 子供のぼくには、まったく必要のないライフハックだったが、色々と考えたうえでわざわざお茶の混合液まで準備する叔父さんの用意周到さに、ぼくは可笑しいのと同時に感心してしまったのだった。お茶しか飲んでいないのに、宴会の場にいる叔父さんは、誰よりも出来上がっているように見えた。そんな雰囲気が出せる大人に、ぼくは憧れた。身内の中でも頭のいい大学を出たのに、研究者の道に進まず、世界各地を放浪したあと自分でビジネスを興した叔父さんは、元々普通の人とは違っていたのかも知れない。違うと思わせる雰囲気を叔父さんは出しているのだ。将来は叔父さんのような大人になりたい、と小学生のときのぼくは思った。

 そんなぼくも、今年の春に大学生になり、夏休みの間は知人に紹介された海の家でバイトをする予定が入っていた。ぼくは高校時代までは鬱屈した文学青年で、女の子にモテないことを密かに悩んでいたが、この夏は海の家でのバイトをきっかけに、初めての彼女ができることを期待したのだ。ところが、「都合が付かなくなっていた先輩が今年も手伝ってくれることになったからさ、悪いけど君のバイトの話はキャンセルということでよろしくな」とその知人から軽い感じで連絡が入り、いともあっさりと夏の予定が消えてしまったのだ。綺麗なお姉さんの目の前で、手際よく焼きそばを作ってみせたり、水着を着た可愛いギャルたちの浮き輪やビーチフロートに、サービスで空気を入れてあげる親切な好青年になりきったり、バイトが縁で仲良くなった女の子に、夕暮れのビーチで告白されたり、というぼくの妄想はすべて打ち砕かれてしまった。髪型や身だしなみに気を遣い、なるべく明るい笑顔で、人当たり良く接することを心掛けたぼくの大学デビューは、何の成果も得られないまま一年目の夏を終えてしまうのだろうか。

 お昼近くに目覚めて、パジャマ代わりにしているTシャツとスウェットパンツの格好で階下に降りてみると、珍しく叔父さんが訪ねてきていた。叔父さんは、普段からジャケットとパンツにネクタイを締めたきちんとした格好をしている。今日は仕事の途中で立ち寄ったのだろうか。ぼくはリビングでコーヒーを飲んでいる叔父さんに挨拶をしたあと、キッチンのテーブルに置いてある段ボール箱に目をとめた。採れたてのとうもろこしが山盛りになっていた。

「叔父さんが持ってきたの?」
「お客様からの頂き物だ。朝採りだから、早いうちに食った方が甘くて美味いぜ」

 食べたかったが、正直、自分で皮を剥くのも茹でるのも面倒だった。

 あとで母さんに茹でてもらおう、とぼくが呟くと、それを聞いていた叔父さんから窘められた。

「大学生になったのなら、自分の食い物くらい、自分で賄いができるようでないとダメだろうなあ。とうもろこしなんてわざわざ茹でなくても、髭ごと皮を剥いたら、水で濡らしてたっぷりめの塩をつけたあと、ラップに包んでレンジで五、六分加熱すればいい。簡単だろ」

 叔父さんに言われて実際に作ってみた。お湯で茹でるよりも早いし、美味しくできあがったので感動してしまった。

 レンチンしたとうもろこしを叔父さんと二人で食べながら、ぼくは海の家でのバイトの予定がなくなってしまったことを話した。叔父さんには恋人をつくる当てが外れたことはもちろん言わなかった。身内の人間に、色気付いたなんて思われたら恥ずかしい。

「ほう、アルバイトをしたいのか。それなら夏の間、俺のところで働くか?」

 叔父さんの目がきらりと光ったので、ぼくは一瞬、怖じ気づいた。

 叔父さんの仕事は清掃業だと聞いている。有名な国立大学を優秀な成績で卒業したあと、叔父さんは外国で二年間の放浪生活を経験したというが、少なくともその中の一年はアメリカの研究機関に潜り込んでいたらしい。素粒子や宇宙物理学などの研究実験に参加していたとのことだったが、真偽のほどはわからない。日本に戻ってからいくつかビジネスを興したが、ぼくの父さんが言うには、すぐに経営を誰かに譲渡したり、あっという間に会社をたたんだりするので、長く続いたのを見たことがないという話だ。

 そして現在は、住居者のいなくなったマンションのクリーニング並びに空き家や廃屋などの片付けを専門に扱う清掃業をしているらしかった。ただ、孤独死があった部屋を片付けることもあると聞いているので、職業に貴賎がないことは重々承知でも、ぼくとしては内心気が進まなかった。燦々とした太陽の下で水着姿のギャルにかき氷を提供する海の家の接客業とは、あまりにもコントラストがあり過ぎる。

「どうだ、作業着も貸与するぞ。デザイナーズブランドだ。格好いいぞ」
「いや、そういうことじゃなくて……」

 どうやってうまく断ろうか考えていたところ、叔父さんはそんなぼくの心を見透かしたかのように言葉をたたみかけてくる。

「うちの仕事をただの片付け屋だと思っているなら、それは早合点だ。表向きはそう見えるし、実際に清掃だけの仕事も承っている。だけど、敢えて正確な看板を掛けるとしたら、うちは『厄落とし業』だな」
「厄落とし……業?」

 そんな仕事は聞いたことがなかった。それに、なんて言うか怪しさ満載じゃないか、とぼくは思ったが、さすがに叔父さんには言えなかった。曖昧な表情のまま固まっているぼくに向かって、叔父さんの話は続いた。

「厄落としの依頼は、会社や法人の場合もあるが、やはり個人からの依頼が一番多い。というのも、世の中には神社で厄払いの祈祷を受けただけでは安心できないという人がいて、最後はうちを頼って訪ねてくるんだ。まあ、こういうのも日頃の営業努力の賜物なわけだが」

 ぼくは知らなかったのだが、検索エンジンで「厄落とし」と入力すると、叔父さんの会社が上位にヒットするらしい。清掃会社が? ぼくは訳がわからなかった。

「じゃあさ、どんな人が依頼してくるの? 叔父さんのところに」

 ぼくがそう訊ねると、また叔父さんの目がきらりと光った。

「最近だと、宝くじで一等が当たった家族だな。奥さんが好きな数字を選んで買ったロトくじで、四億円が当選したそうだ。普通は大喜びするよな」

 ぼくは想像した。夢みたいな話だ。とりあえずバイトはしなくていい。

「ところがだ、これまで堅実な生き方を選んで普通に生活をしてきたこの家族にとって、その瞬間から四億円という大金はとてつもない恐怖の対象になったんだ。この家族が賢かったのは、最初の時点でそういう感覚を持っていたということだろうな」

 叔父さんはそう言ったが、ぼくにはよく理解できなかった。四億円が恐怖? ハッピーの間違いじゃないのか。叔父さんは続けた。

「奥さんも普段から宝くじは買っていなかった。付き合いでたまたま購入しただけだった。数字も夫や子供たちの誕生日を組み合わせて選んだだけで、欲なんて持っていなかった」
「欲のない人が宝くじを当ててしまうと、恐怖になるの?」

 ぼくが疑問を口にすると、叔父さんはとうもろこしを食べ終えた手を拭きながら、「いい質問だ」と言ってにっこりと笑った。

「この家族はね、常識を備えていたんだよ。お金は労働の対価としてあるものだ、という常識。つまり、ただで四億円が自分たちの手に入ったとは露ほども思っていなかったんだ。これほどの大金が自分たちのところに入ってきたということは、その四億円に見合った労働や奉仕をどこかで果たさなければならない、という考えを持っている家族だったんだ」

 ぼくは驚いてしまった。そんな風には一度も考えたことがなかったからだ。ただで受け取れるのが宝くじじゃなかったのか。ぼくは、叔父さんに訊ねずにはいられなかった。

「当選金を受け取ることの何が怖いの?」

 叔父さんは即答した。

「エネルギーだろうな。お金が持っているエネルギーが怖いのさ」

 エネルギー? いやいや、まったくわからない。

 ぼくが腑に落ちない顔をしていると、叔父さんは、突然関係ないことを訊いてきた。

「最近、小説は書いているか?」
「……小説?」

 たしかに文学青年を気取っていた高校時代、ぼくは文芸部に所属して小説を書いていた。十代のうちに五大文芸誌のいずれかからデビューして、新進気鋭の学生作家としてチヤホヤされることを夢見ていた。けれども、実際には応募した作品は一次選考で悉く落とされていた。そのときの作品を、身内きっての知性派である叔父さんに読んでもらったことがあるのだ。自殺願望のある孫娘が未来からタイムスリップしてきて、将来、自分のお祖父ちゃんとなるはずの高校生の命を、隙あらば狙おうとするという、純文学にSFを混ぜたような作品だった。叔父さんの感想はまだ聞いていない。

 ただ、この夏は小説の執筆よりも彼女をつくることに専念したいので、ぼくは肩をすくめるポーズをして叔父さんへの返答を誤魔化した。

「そうか。じゃあ、こういう例え話ならわかりやすいかな」叔父さんはそう言うと、椅子にきちんと座り直し、ぼくを真っ直ぐに見つめた。

「小さい頃に観たテレビドラマに、こんな話があったんだ。小説家を目指している男がいて、ある日、とても美人の宇宙人と知り合いになった。男はその宇宙人が乗っていたタイムマシンで数年先の時代に連れていってもらい、自分の未来の人生を見てしまうんだ。未来の自分は小説で新人賞を獲り、そのデビュー作がベストセラーになっていた。自分が売れっ子作家になっていることを知った男はどうしたか。男は未来の自分が書いたベストセラー小説を、現代に持ち帰るんだよ。そして、それを書き写せば新人賞が獲れることに気付く。そして、実際に作家になり、その本が売れてしまうんだ。ところで、この話で疑問に思うことはないか?」

 ぼくにはひたすらうらやましい話に思えたので、疑問はすぐに浮かばなかった。叔父さんは続けた。

「ここで大事なのは、男は未来から持ち帰った本を書き写すことしかやっていないということなんだ。小説を男は書いていない。ではなぜ小説が存在しているのか。どんな小説であっても、一冊を書き上げるにはかなりのエネルギーを消費するものだ。一人の作家がその一作に何年も費やすことだってある。しかし、さっきの話では、その小説を生み出したエネルギーが丸ごと無視されているんだよ。その矛盾がある限りこのストーリーは最初から成立しないことになる」

 ここまで聞いて、ぼくはようやく叔父さんの言いたいことがわかった。やはり、宝くじのことなのだ。収入を得る場合、本来はそれと対価の労働がなされるのが道理だ。しかし宝くじは、それをすっ飛ばして、先に当選金という名目で高額のお金が手元に転がり込んでくる。当選した家族にとっては、先払いで巨額のお金が入ってきたという解釈になる。さっきの話に照らし合わせるなら、ベストセラー本が先に存在しており、これからその中身を書かなければならなくなったというとんでもない立場に置かれてしまったわけだ。

「叔父さん、よく考えるととても怖いね」
「だろう? この家族は、お金が持っているエネルギーを畏れる感覚が備わっていた。本当に四億円分を働くとなれば簡単なことではない。だから、何とかそのエネルギーを減衰できないかと考えた……」

 叔父さんの目が再び光ったのを見て、ぼくに直感が降りてきた。

「ああ、それを手伝うのが叔父さんの言う『厄落とし業』か!」
「そうだ、ご明察だ」

 何だか叔父さんに言わされたような気がしないでもなかったが、高額当選したものの、その後の人生が狂ってしまった人の例はたくさんあると聞く。それを考えると、お金の持つエネルギーという荒唐無稽な話も、あながち出鱈目というわけでもないような気がしてくるのだ。ぼくは叔父さんに、どんな風に厄落としをしたのか具体的に聞いてみたくなった。

「おっ、ようやくうちの会社の仕事に興味が出てきたか。よしよし」
「いや、そうじゃなくて……」

 単なる好奇心から知りたかっただけなのだが、このままバイトが決定する流れにハマるのだけは避けたい。叔父さんはにっこりと笑顔になっている。非常にまずい。

「まずは募金や寄付。少額でも、これが一番厄落としの効果がある。そこから先を請け負うのが、うちの専門になる」

 そう言って、叔父さんが急に椅子から立ち上がった。

「じゃあ、今から行こうか。厄落としをした現場を見せてあげる。その格好で構わない」
「え?」

 ぼくは事情が飲み込めないまま、丸首がよれよれのTシャツと膝の飛び出たスウェットで、叔父さんの運転するワンボックスの社用車に乗り込んだ。玄関口で花に水遣りをしていた母さんから、「寝巻きのままでどこへ行くの」と言われたが、どこへ行くのかはぼくが知りたいくらいだった。

◇◇

 叔父さんが向かっている現場は、車で十五分くらいのところにある住宅地だという。そこに着くまでの間、ぼくは厄落としの概要を叔父さんから説明してもらった。

「さっきも言ったが、今回の『厄落とし』は、高額の当選金が持つエネルギーの減衰と分散が目的だった。いつもは、まず依頼者の住居を見せてもらう。この家族の住宅は、長い下り坂を下りた先の、ちょうど急カーブが始まる場所に建てられていた。曲がり損ねた車がいつ家屋に突っ込んでもおかしくない、とても危険な立地であることは明らかだった……」

 そこで叔父さんは、この住宅からの速やかな退去を家族に提案したという。幸いにも、すぐ近くに良い条件の転居先が見つかったことから家族は快諾し、家屋の解体並びに撤去も行うことになった。さらに、屋敷の土地は売り払わず、所持したままにし、そこを畑や家庭菜園ができる場所に改良して、ご近所の人で希望者がいれば無料で使えるように開放することも同時に提案したのだという。

「この社会奉仕というパッケージも『厄落とし』には重要なんだ」

 叔父さんの説明に、助手席のぼくは、なるほどー、と相槌を打った。「厄落とし」と聞くと、もっと呪術的な儀式を必要とするイメージを勝手ながら抱いていた。けれども、叔父さんがやっていることはどれも現実的で、理屈に適っているように思えたのだ。

 車は、両側に住宅が建ち並ぶ長い下り坂に差しかかっていた。

「この坂を下りたところに急カーブがある。かつてはそこに、依頼者の家が建っていたんだよ」

 そう言って、叔父さんは車を徐々に減速させた。きついカーブが見えたとき、並んでいた住宅が途切れ、行く手の視界が開けた。

 敷地に乗り入れ、砂利の敷かれたスペースに車を寄せると、目の前に、面積がテニスコートの二枚分はあろうかと思われる畑が広がっていた。トマトを収穫している二人の女性の姿が目に入り、その奥には、茄子や胡瓜の実を付けた緑が、等間隔で立てられた支柱に沿って繁茂しているのが見えた。

 叔父さんは「ちょうどいい」と言って車から降り、ぼくにも降りるように促した。

「今朝、とうもろこしをくれたのが、あそこで今トマトを採っている奥様だ。美味しかったよな。お礼を言いに行こう」

 叔父さんはさっさと歩き始め、ぼくは慌ててその後ろをついていった。すると、奥様の方もこちらに気付いたようで、まだ距離があるのに叔父さんと大きな声で会話を始めた。

 そんな二人を後ろで見ていて、ぼくは気付いたのだ。朝採りのとうもろこしは、お客様からの頂き物だと叔父さんは言っていた。もしかすると、今目の前にいる奥様こそ、屋敷跡を畑にして、ご近所に無料で開放しているこの土地の持ち主なのではないだろうか。ということは、ロトくじで四億円を当てたのもこの女性ということになる。高額当選者。そんな個人の重大な秘密を、いくら身内とはいえ叔父さんがぼくにぺらぺらと話すのは変だ。叔父さんだって守秘義務くらいは心得ているだろう。何かおかしい。

 奥様と陽気に会話をしていた叔父さんが、ぼくの方をちらりと見て「甥っ子です」と紹介した。ぼくは、はじめまして、叔父がお世話になっております、とうもろこし、とっても美味しかったです、と人当たり良く最高の笑顔でお礼を述べるつもりだった。だが、上品な奥様を前に、自分の格好がよれよれのTシャツと穿き馴染んだスウェットパンツだったことに気付いたら急に恥ずかしくなり、お礼の言葉がすべて飛んでしまった。さらにこのタイミングで、奥様の後ろに隠れていたもう一人の女性が顔を出した。年齢はぼくと同じか、少し歳上の二十歳くらいだろうか。肩の辺りで緩くカールしているアッシュカラーの髪がおしゃれだが、それ以上に顔が可愛すぎた。「娘です」と奥様は紹介してくれたが、ぼくは目を合わせることもできず、ろくに挨拶も言えないまま、へこへこと頭を下げて逃げるように車に駆け戻った。寝巻きで外出したことを、これほど後悔したことはなかった。

 帰りの車の中で、ぼくは相当に落ち込んでいた。乳白色のレジ袋に入れた採れたてのトマトを、「召し上がって下さい」とわざわざ車まで届けに来てくれた娘の、グラスハープのような美しい声が忘れられない。けれどもぼくは緊張と恥ずかしさで赤面し、まともにお礼も言えず、ただ助手席から黙って受け取っただけだった。大学デビューで生まれ変わったはずのぼくの人格は崩壊し、鬱屈した文学青年のときまで後退したように感じたのだった。

「可愛らしい娘さんだったな。同じ大学に通ってるらしいぞ。見かけるときがあったら、改めて今日のお礼を伝えてくれ、頼むな」

 ハンドルを握る叔父さんが、機嫌のいい声でそう言った。ぼくはダサい自分を晒してしまったことがショックで、始まってもいないのにひとつの恋が終わったような気持ちになっていた。

 人は簡単には変われない。自分の意思でどこかから借りてきた理想の自分像を演じたところで、鍍金が剥がれれば元の糞ダサい自分の姿と向き合うことになる。女性と会話すら覚束ない自分を見れば、あまりの情けなさで今日みたいに落ち込んでしまうだろう。ぼくはこんなことでくよくよしたくない。いつだって堂々としていたいのだ。場数を踏んで、経験を内部に蓄積して、自信を持つことがぼくの願いだったのに……。海の家のバイトがなくなったときから、ぼくの夏は終わったのだ。

「砂浜に取り残された貝殻のような気分だ……」

 ぼくは自意識過剰のひとり言を呟かずにいられなかった。

「おっ、何だ、新しい小説の一節か?」

 そう言って、笑っている叔父さんは、恨めしくなるくらい上機嫌だった。

「叔父さん、このトマトをくれた人たちって、四億円を当てたその家族だよね?」
「待て、なぜ知っている」
「わかるよ。叔父さんのこれまでの話を聞いていたら誰だって気付くよ」

 ぼくは少し意地悪くなっているかも知れない。自分が情けなくて、その分を叔父さんに当たり散らそうとしている自覚はあるのだ。

「それに、『厄落とし』の話だって、どこまでが本当で、どこまでが嘘なんだろうって思うよ。叔父さんは雰囲気を出して話すから、つい全部を信じそうになる」

 ちょっと言い過ぎただろうか。ぼくは、ちらりと横目で運転席を見た。叔父さんは前を見たまま、にっこりと笑っている。

 しばらくしてから叔父さんは言った。

「だいたいは、信じてもらっていい。物を片付けたり、要らないものを処分したり、汚れを落としたりする清掃業は、厄払いと同様で、すっきりとさせることに通じるんだ。穢れを祓う、と言うだろう。本質は同じだ。それが次の新しいことに進んでいく区切りになる」

 車はさっき来た道を戻っていた。叔父さんは話を続ける。

「それに、清掃の仕事も厄落としだと思ってやってみると、これまでとは違う面白みが感じられるようになる。空き家や空き部屋は停滞の場だ。何も生み出さない。しかし、ハウスクリーニングによって厄が落とされれば、新しい住居者を迎えられる場に生まれ変わる。むしろ、清掃や片付けによる浄化には、呪術的意味合いがあると思った方がいいくらいだ」

 車はもうじきぼくの家に着く頃だった。

「もう一つ言うと、これには根拠はないんだが、この仕事をしていると善良な人とそうでない人の見分けがつくようになる。あと、冗談ではなく美人や綺麗な女の人と繋がりができたりするんだ。ちょうどトマトを分けてくれたあの親子のようにね。これも不思議だよなあ」

 ぼくは大袈裟にため息をついた。

「叔父さん、さっきからぼくを叔父さんの仕事に勧誘しようとしているよね」
「そんな雰囲気が出ていたか?」
「だだ漏れだよ」
「まあ夏の間だけだ、よろしく頼む」
「えっ?」

 ぼくはバイトを引き受けた覚えはない。まずい流れになっている。

「ちょっと叔父さん、ぼくはまだ——」
「あ、そうだ、四億円を当てたお客様のことだが、絶対に他言無用だぞ。バイトとはいえ会社の従業員だから当然守秘義務がある。そこは守ってくれよ」

 どういうことなんだ。まさか叔父さん、ぼくにわざと?

 家の前に到着し、社用車のワンボックスから降りたぼくは、先に降りていた叔父さんから二枚の名刺を渡された。一枚は清掃会社の名前と「取締役 佐久間沛然」と叔父さんの名前が記されたもの。もう一枚は、年々業績を伸ばしている証券会社の名刺で、叔父さんの肩書きが、「特別顧問・ファンドマネージャー」となっていた。

 叔父さんが何者なのか、ぼくはわからなくなった。玄関にたどり着くと、母さんと話している叔父さんの声が聞こえた。「危なくない仕事ですから」「あの子にも良い社会経験になるかもね」なぜか決定したことになっている。

 この流れは変えられそうにない。予想外の夏が始まったのだ。ぼくは観念した。

(了)


四百字詰原稿用紙約二十六枚(9,200字)



第二話 磯崎ルンナ、午前三時に町を彷徨う


作者からの注意書き

noteという場にこの小説を発表するにあたり、読者の皆様に留意して頂きたいことがあるので事前に申し上げます。
本作品は、私がかつて投稿した原稿用紙二枚分の小説ルンナは夜明けまでにの、いわゆるディレクターズカット版になります。
この作品は「鬱小説」であり、非常にセンシティブな内容なので、読むには注意が必要です。
苦手な方には、お勧めできません。何卒この作品を避けて下さるようにお願いします。

◇◇

 ルンナは昨夜、トイレに入って内側の鍵を下ろしたとき、これからどんなに苦しくても、痛くて叫び出しそうになっても、声を押し殺すこと、それができないのなら、物理的手段で自分の声が外に漏れないようにすること——そう堅く心に決めたのだった。

 しかし、そうは決めても呻き声は抑えられなかった。下手に声を出して、寝ている祖母に気付かれてしまうとややこしいことになる。やはり、ハンカチかタオルが必要だった。手洗い場に掛かっていたタオルは湿っていたが、ルンナは構わず縦長に細く折ってからタオルの真ん中を口に咥え、両端を頭の後ろに回してきつく結わえた。この猿ぐつわのスタイルが、一番安定していた。我慢できずに声を張り上げても、音はくぐもり、外に聞こえる心配はない。痛みが強くなり、涙が滲んでくる。トイレの中が、まるで小さな観覧車の狭い箱の中のように思えて、どうして私はここに独りでいるんだろう、とルンナは思った。どうして私はここで痛みに耐えていなきゃならないんだろう。よく一緒に遊んでいたクラスメートの顔が何人か思い浮かんだ。彼女たちがこの春休みの期間中に何をしているのか、ルンナはとても気になった。卒業式も終わって、すべてから解放されて、きっと今頃はみんなで楽しく過ごしているに違いない。去年の夏に、急に気分が盛り上がってみんなで立てた計画があった。深夜バスでディズニーリゾートに行く卒業旅行。今頃、彼女たちは本当に実行しているのではないだろうか。「ルンナ、最近太った?」「近頃、よく休むけど、何かあったの?」「気分が悪いの? ねえ、大丈夫?」友代やしずくや季実歌たちに心配されればされるほど、隠し事を悟られるのが怖くなり、年が明けてから距離をとるようになった。携帯電話のアドレスを変え、無料通信アプリのアカウントを捨て、電源も終日切りっぱなしにした。幸いにも二月は登校日が少ない。学校には、体調が悪いのでしばらく休むと連絡を入れて、あとは完全にさぼった。彼女たちにはひどいことをしたとルンナは思う。すべて片が付いたらまた彼女たちと縒りを戻せるだろうか。

 下腹部にミシリ、ミシリ、と新たな痛みが加わる。まるで体の中にある臓器のひとつが、千切れてしまったような感じだった。それが外に飛び出そうとルンナに圧力をかけてくる。誰か! とルンナは思った。誰か私を励まして! 左右に広げた手を、狭いトイレの両側の壁にそれぞれあてがい、ルンナは踏ん張る。だが、すぐに力尽きて、トイレのタンクにもたれ掛かった。泣いても仕方がないのにすすり泣きが止まらなかった。手探りで下腹部に起きた変化を確かめる。両脚の間に突如出現したドームのようなものが、圧力の高まりによって、徐々に大きくなるのをルンナは感じた。押し出されるようにして飛び出したそのドームのようなものを、自らつかんで引きずり出す。ずるずると抜けていくとき、一瞬気が緩んだ。しっかりつかんでいたはずなのに、手の力が抜けてしまったのだ……。

 水のぱしゃっと撥ねる音に気付いて、ルンナは水洗トイレのわずかな水溜まりから今取り落としたものを慌てて拾い上げた。さっきまで、猿ぐつわのようにして自分の口を縛っていたタオルを解いて手早く広げ、そこに産み落としたばかりの赤ん坊をくるむ。思っていたより色が青黒い。しかし、それをじっくりと気に掛けている余裕は、今のルンナにはなかった。タオルの端っこで赤ん坊の濡れた顔を綺麗に拭いたあと、へその緒の下をちらりと覗いて、初めて男の子であることを知った。ルンナは長い息を吐いた。吐いた息の最後の方は、高くてか細い声になった。体の力がすっかり抜けて、このまま朝まで横になっていたいと思う。だが、こんなところでぐずぐずしているわけにはいかない。祖母から気付かれないように、ルンナは濡らしたトイレの床をすべてペーパーで拭いた。トイレから出て、洗面所の抽斗から新しいバスタオルを取り出し、それで赤ん坊をくるんだ。

 部屋に戻り、掛け時計に目をやると、夜中の二時半を回っていた。ルンナは、スウェットの上下を身に付けた。コートを着て、マフラーを巻き、タオルにくるまった赤ん坊を胸に抱える。なるべく音を立てずに玄関まで行き、寝ている祖母を起こさないようにドアを開け、そして閉める。転ばないように注意しながら、覚束ない足で団地の階段を下りる。踊り場の切れかかった蛍光灯が、せわしなく点滅しているのを見て、急き立てられているような気持ちになる。夜が明けてしまわないうちに急がなきゃ、とルンナは思う。どこへ行くのかは決まっていない。この後、何をするのかも考えていない。それでもルンナは、とにかく急がなければならないと思っている。

 外に出てみると月夜だった。真っ暗な中にぼうっと浮かぶ団地の白い壁が、やけに青みがかっていた。

 六階建ての集合住宅が建ち並ぶ広大な敷地を、ルンナはお腹から出したばかりの赤ん坊を胸に抱いて歩く。深夜なのに、窓に明かりの見える部屋がいくつかあり、ルンナは忌々しい気持ちになる。外に出歩いている人影がないのは幸いだった。自分のこんな姿を、誰からも見られたくなかった。団地を抜けよう。早くこの敷地から出てしまおう。
 ルンナは、まだ鈍い痛みが体の中心に残っているのに気付いていたが、それでも足だけは動かした。自分の下着が湿り始めてきていることも気になったが、今はどうすることもできない。地面は平坦なアスファルトだというのに、ゆらゆらと体が揺れて、まるで平均台の上を歩いているようだった。体のバランスを取り戻すために、ルンナはすがるような気持ちで月に目を向けた。夜空の高いところまで昇った月は、頼りないくらいに小さかった。

 大通りに出て、バス停を二つ分歩くと、たくさんの外灯に照らされた大きな橋が見えてくる。水色の太い鉄骨でアーチ状に組み上げられた頑丈な作りのこの橋を、ルンナはいつも自転車で渡り、高校に通っていた。でも、今夜みたいに歩いて渡るのは初めてだった。実際に渡り始めてみると、なんて長い橋なのだろうとルンナは思った。昼間は交通量の激しいこの橋も、深夜になると車が一台も通らない時間が訪れる。このことは、新しい発見だった。大きな橋を独占しているような気分になる。

 長距離トラックが何台か連なって、轟音と排ガスをまき散らしながら、凄い勢いでルンナの横を通り過ぎて行った。一瞬、体がトラックの風圧の煽りを受けてよろめき、車体の下に引き込まれそうになる。赤いテールランプが遠ざかるのを見届けながら、いっそのこと、本当に引き込まれればよかったのかも知れない、とルンナは思った。自分を取り巻くすべての鬱陶しいことから解放されるのであれば、そういう決着もありなのではないか。引き込まれたら体がぺしゃんこになるだろう。あるいは、タイヤに巻き込まれて手足が千切れてしまうだろうか。そこまで考えたら急に体が震え始めた。

 橋の半分まで歩いた頃、欄干の上にドリンク剤の小瓶が一本、ぽつんと置き去りにされているのが目に入った。誰かの忘れ物なのか、キャップがしてあり中味も全部入った新品に見える。ルンナは小瓶が立っている欄干に近寄っていき、このとき初めて橋の下を流れている川を覗き込んだ。そこは真っ暗な闇だった。昼間なら、遠くに目をやれば河川敷に造られた野球のグラウンドやその反対岸にある子供向けの遊具を備えた広場が見えるはずだった。けれども、橋を照らす外灯の強い明かりに邪魔されて何も見えなかった。唯一、鼻腔に届く水の臭いでそこに川がある気配が伝わるだけだった。ルンナは片腕で赤ん坊を支え、ドリンク剤の小瓶に手を伸ばした。よく見ると中味が入っているにも関わらずキャップには一度開栓された跡があった。急にこの瓶のことが気味悪く思えて、ルンナは急いで欄干の上に戻した。けれども指先を離した瞬間、瓶はバランスを失って橋から落下した。欄干から離れる瞬間、斜めに傾いた瓶のラベルが一瞬ルンナの目に焼き付いたが、それもすぐに消えた。着水音は聞こえなかった。何の音も立てず、瓶は文字通り闇の中に吸い込まれた。

 ルンナはタオルにくるんだ赤ん坊を胸に抱え、脇目も振らずに橋を歩いた。このまま急ぎ足で歩き続け、橋を渡り終えることだけを考えた。立ち止まることは危険なような気がした。立ち止まれば欄干の向こうにある深い夜をずっと見詰めてしまいそうだった。ドリンク剤の小瓶を音もなく呑み込んだあの真っ暗な闇に、強く気持ちが惹かれている。そんな心の状態にいる自分のことが、ルンナは怖くてたまらなかった。先へ進もう。この橋を渡りきろう。あの数台の大型トラックが去ってからは、一台の車もこの橋を通過していない。ルンナは、本当に自分はこの大きな橋を独り占めにしているのだと思った。それと同時に、たった一人なのだ、という思いが胸の奥にそくそくと迫ってきた。ついさっき、たった一人で陣痛に耐えていたとき、ルンナの脳裏には色々な人の顔が浮かんでいた。この赤ん坊の父親であるはずの、あの留学生の男のことも少しは思い出したが、それよりもルンナが一番長く思い出していたのは、なぜか中学のときに付き合っていた男の子のことだった。都会の進学校に進路を決めて、地元を離れてしまった彼とは、中学を卒業してから一度も会うことはなかったのに、痛みで苦しんでいるとき、最もそばにいて欲しかったのは、あの留学生の男なんかではなく、その初恋の男の子だった。不意に涙が出そうになり、ルンナは無理矢理違うことを考えようとした。こんなところで泣くわけにはいかない。この橋を渡った先には、行き慣れた町がある。通っていた中学校があり、高校がある。同級生たちだってたくさん住んでいる。その気になればすぐに連絡が取れる幼馴染みもいる。けれども、今は誰の助けも借りるわけにはいかない。たった一人で、この状況に決着を付けなければならない。この後どうすればいいのか今は何も思い浮かばない。でもこうして歩いているうちにきっと何か思い浮かんでくるに決まっている。これまでもそうだった。絶対に何か思い浮かぶはずだし、思い浮かばなければならない。ルンナは自分にそう言い聞かせた。

 橋を渡り終えると、ルンナは下りの坂道を転倒しないように慎重に歩いた。歩道を歩くルンナの横を、ときどき思い出したようにタクシーや運転代行サービスの車が通り過ぎていく。ひどく喉が渇いていた。交差点の角に建つコンビニで飲み物を買いたかったが、防犯カメラに赤ん坊を抱いている自分の姿が映ってしまうことを想像したら、急に躊躇する気持ちが働き、買うのを諦めた。それに、急いでいたのでルンナは財布を忘れていた。

 大通りを避けて、一つ二つと角を適当に曲がり、ルンナは見慣れぬ路地を裏道のつもりで歩いた。町は静かだった。時刻は午前三時を過ぎていて、暗い舗道に明かりを投げているのは、深夜まで営業しているバーやスナックの看板だけだった。この路地の行き着く先がどこなのか、本当のところルンナはわかっていない。そもそも、自分がこれからどこに向かい、何をするつもりなのかもわからなかった。ルンナがわかっているのは、最終的にこの赤ん坊に決着を付けるのは自分しかいない、ということだけだった。もう立ち止まることはできない。

 丁字路に突き当たるたびに左へ左へと進んでいたら思いがけず小さな踏切に差し掛かり、ここでようやくルンナは自分が今どの辺を歩いているのかおおよその見当が付いた。おそらく、このすぐ近くに自分が通っていた中学校があるはずだ。そう思って線路沿いをしばらく歩き、一つ角を曲がると見覚えのある公園に行き当たった。思った通り、ここはルンナが中学時代、学校帰りによく立ち寄っていた場所だった。遊具らしいものと言えばブランコと滑り台があるだけだ。ルンナはすぐそばの水飲み場で水を飲んだ。丸い形の飲み口を見ていたら、大好きだった男の子とこの水飲み場で水を掛け合って遊んだことを思い出した。さらに、滑り台のてっぺんに二人で座り、暗くなるまでおしゃべりをしたことも思い出した。蘇ってくる記憶があまりにも鮮明すぎて、ルンナは男の子と一緒に過ごしたあの楽しかった時間が、何年経っても変わることなくこの場所に保存されていたのではないかと思った。

 ああっ、とルンナの口から溜め息が漏れた。急に激しい疲労感が意識に上り、ふらふらとベンチに戻って腰を掛けると、タオルにくるんだ赤ん坊を膝の上に載せて全身を脱力させた。腕は痛いほど痺れていたし、足もすっかりくたびれていた。

 ルンナは時計を見る。急がないと夜が明けそうだった。激しい疲労感が意識に上り、赤ん坊を抱きかかえる腕も重苦しい。けれども、ルンナは公園を出て歩き始めた。さっきまでは見慣れぬ路地を半ば迷いながら進んでいたが、今はこれから向かおうとしている場所がルンナの中で定まっている。自分でもどうしてそんなところへ行こうと思い付いたのかわからない。けれども、さっきの水飲み場で鮮明に思い出したのだ。男の子とたった一度だけ乗ったことのある小さな観覧車のことを。もうだいぶ前に取り壊されたことは知っている。行ったところでそこには何もないこともわかっている。それでもルンナは、確かめたい気持ちを抑えることができなかった。どうしてもその観覧車が建っていたあの見晴らしのいい場所に、自分は行かなければならない。ここからなら、何とか歩いて行ける距離にある。少し坂道を上らないといけないけれど、大丈夫、絶対に行ける。この先の高台に建つあの観覧車がはっきりと見えている。急ごう。早く急ごう。あの場所に行くことが、今の自分のたったひとつの願いだ。

 ルンナは自分の脳裏に浮かんだ幻を追い求め、夜明けの迫る坂道を歩いた。歩きながら、私はどこで間違えたんだろう、とルンナは考えた。あの男に気を許したことだろうか。「日本語を教えて下さい」と映画館のロビーでルンナたちに声を掛けてきた男。結局、留学生だというのは嘘で、ただ日本でいかがわしい商売をして金儲けをすることだけしか考えてない外国人に過ぎなかった。友代やしずくや季実歌たちを半ば出し抜いた形で密かに彼との付き合いを始めた手前、ルンナは彼女たちに妊娠したことを相談できなかった。家を出たっきり連絡の取れない母は当てにならず、一緒に暮らしている祖母にも、迷惑を掛けたくなくて妊娠の事実を打ち明けられなかった。だからルンナは、こっそりと、誰にも気付かれないように独りで産むことを選んだ。誰にも気付かれないように産んだ後、こっそりとその赤ん坊を、自分はどうするつもりだったのだろう。そのことを考えると、ルンナはがたがたと体が震えてくる。どこで間違えたのかはわからない。すべてが間違いだったのかも知れない。

 東の空が白んできた。ルンナは町を見渡せる坂道を上っていたが、待合小屋のあるバス停の前に来たところで力尽きた。穿いていたスウェットは、もうだいぶ前からぐしょぐしょに濡れて重くなっていた。

 小屋の中はがらんとしていて、埃の臭いがした。ベンチに座ったルンナは、下半身がすっかり冷えていることに気付いた。それでも小さな声で明るく歌いながら、コートのボタンを全部外した。下に着ていたスウェットの上着をたくし上げると、固く張り詰めた真っ白な乳房が現れた。赤ん坊をくるんでいたバスタオルを剥ぎ取ってみる。途端に嗚咽が込み上げてきて歌えなくなった。本当は最初から気付いていた。自分が怖いことをしているということに気付いていた。自分で自分に気付かないふりをしていなければ一歩も進めないことをルンナはわかっていた。産声を上げない赤ん坊を抱き寄せ、その小さな顔をそっと乳房に近付けた。乳首に触れた赤ん坊の唇は、ナイフのように冷たかった。

(了)


四百字詰原稿用紙約十七枚(6,410字)






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