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鶏小屋の夫

短編小説

◇◇◇


 夫が激しく私を求めてくる日は、決まって夫が鶏小屋に行った後のようだ。

 確かめなければならない。

 私は今朝産んだ卵を取りに行くふりをして、母屋の近くに建ててある鶏小屋へ向かった。私はこれまで一度も中に入ったことはなかった。鳥類独特の臭いが苦手なことと、ニワトリの予測不能な動作が怖くて、飼育はすべて夫に任せていたからだ。

 私は何を確かめようとしているのか。それは夫の性欲の根源である。普段の夫は、優しく私を愛撫してくれる。この上なく柔らかな接吻をし、熱い吐息と恥ずかしくなるような囁きを耳に流し込んで、体の奥を蕩けさせてくれる。けれども、昨夜は布団の上に突き飛ばすようにして私を倒すと、強く唇を押し付けて捻じ切るようなキスをし、後ろから腕をとらえ、終始無言のままで性交を終えた。いつもと違って、粗野で乱雑だった。そして、激しかった。私は自分が道具として扱われた気分を拭うことができなかった。たまにこういう日がある。夫の人格が変わってしまうようなときが。

 私は先月から四週間にわたって夫の行動をつぶさに観察した。そして、ひとつの結論を得るに至った。夫の欲動のすべてはこの鶏小屋から始まっている。夫の気持ちを突き動かす何かが、この中に隠されている、と。

 金網の張られた入り口の扉を静かに開けると、見慣れない顔だと思ったのかニワトリたちがコッコッコッと騒ぎ始めた。しーっと唇の前に指を立てて落ち着いてくれることを願ったが、闖入者を見て騒ぐなという方が無理だろう。だが、よく見れば、騒いでいるのは七羽いるうちの若い三羽だけだった。翼で風を起こし、床に敷かれた藁屑を巻き上げ、金網の張られた壁に飛び上がって何度か体をぶつけた後は、こちらが危害を加えないことを理解したのか、嘘のように大人しくなった。

 鶏小屋の内部を見渡すと、唯一、金網の張られていないコンクリートの壁に、ドアが付いていた。おそらくその先は物置になっているのだろう。少しでも私が動き出すと、ニワトリたちがコッコッコッとまた鳴き始める。構わずノブをつかんで開けた。何かあやしいものがあるとすれば、この中だろう。

 覗いてみると、確かにそこは物置だった。嵌め殺しの小さな窓から朝の光が差し込み、二畳ほどの広さがある床の一部が土間になっている。風雨の激しい日は、ニワトリたちをここに避難させておくのだろう。物置の隅には10kgの飼料が入った袋が三つと、背板のない金属製の四段ラックがあった。私はその棚を一段一段探っていった。金属バケツ、ボウル、ちりとり、スコップ、古新聞、古雑誌。私は雑誌を手に取り、パラパラとめくった。グラビア写真やイラストや漫画など、どれを見ても、際立って扇情的な表現のものは載っていなかった。新品のビニール袋、使い古しのタオル、ウエス、箱入りティッシュ。私はティッシュの箱を手で振り、使用量を確かめてみた。半分は減っていた。軍手、ビニールひも、ハサミ、ノコギリ、塩ビのパイプ、番線、工具箱。私は工具箱を開けてみることにした。開け方が分からず苦心したが、いじっているうちにカチリと音を立てて開いた。中身は普通の工具ばかりだった。おかしなものは何もない。工具箱はフタの閉め方が分からず、いい加減に閉じて元のラックに戻した。

 私は当てが外れて、すっかり途方に暮れてしまった。夫はこの鶏小屋で何をしているのか。この狭い二畳のスペースに隠れて、例えばスマホで女性のポルノなどを観て楽しんでいるのか? それならこの鶏小屋である必要はないし、あの人格が変わったような激しい性行為にも説明が付かない。必ずここに導火線が……夫の性衝動を発火させる何かがあるはずなのに。私は四週間かけて観察と論理で積み上げた自分の見立てが間違っていたことを素直に認めることができなかった。忸怩たる思いを抱えてドアを閉め、金網の張られたスペースに戻る。コッコッコッ。むわっと鳥類の臭いが鼻をうつ。また三羽の若いニワトリたちが真っ先に騒ぎ始めた。わかったわかった外に出るから、怖いから、羽ばたいたりしないで。そう思って一通りニワトリたちを見渡したとき、私はある一羽のニワトリに目が釘付けになった。

 体格の大きい成熟した雌鶏めんどりである。白い羽毛が艶を帯びたように綺麗だった。頭頂部を飾る鶏冠とさかは、人目を引くような濃厚な桃色をしており、くりっとした黒目を器用に首を傾けることで、流すような視線を向けてくる。私はどきりとした。発達した腿を強調するかのように、左右の足を交差させて目の前を悠々と歩く姿は、ランウェイを闊歩するファッションモデルのように自信に満ち、挑発的な気配すら感じられる。ターンをしたときに向けられる尾の下にある尻は、大きな卵を産むのに適したように丸くふっくらとしており、その奥の大切な秘部は、ことさら柔らかな毛に包まれているようだった。

 私は、男性がいる場で、特に好敵手と目される女性が目の前に現れたときに襲われる、ざらりとした緊張感に、一瞬体が支配された。それは自分でも意外な反応だった。ファッションがかぶったり、バッグや小物が同じだったりすると、居心地の悪さから相手を無視するか意識を別の優越性にシフトさせて矜持を保つかする、あの同性のみに発動する感情が、この一羽の雌鶏によってもたらされたことに当惑したのである。

 私はしばらくの間、その雌鶏を目で追った。首をせわしなく傾け、左右に胴体を揺らして地面を啄み、続いてくるりと反転すると、丸い尻を向けて、伸び上がるように上体を反らした。そして、これ見よがしに両翼を開き、そのままぴたりと静止したのである。

 私は、はっとして雌鶏を凝視した。

 ちょうどそのときだった。朝仕事を終えた夫が農園から戻ってきたのだ。

「何をしている?」

 鶏小屋の中に佇んでいた私の姿を見て、夫はひどく驚いたようだった。そして、母屋に入ろうとした歩みを止めて、琉理るりがそんなところにいるなんて珍しいじゃないか、と言いながら、鶏小屋の前まで近付いてきた。

「卵を取りに来てみたんだけど……」

 私は冷静さを取り繕い、少しだけ不安げな声で、どこにあるかわからないしやっぱりニワトリが怖いわ、と金網越しに訴えた。

 夫は眉根をぎゅっと寄せて、私の全身を上から下までゆっくりと眺めた。

「琉理、おまえの足元」

 えっ、と思い視線を落とすと、私の左足のすぐ横に、藁屑に隠れて真っ白な産みたての卵が転がっていた。

「やだ!」

 ちらりと夫の顔を窺うと、そこには快活な笑顔を浮かべて優しい目をしている、普段と変わらない夫が立っていた。

◇◇

 白色レグホン、という種類の鶏だった。

 あの雌鶏のことが気になった私は、夫の本棚から家畜に関する書籍を見つけて調べたのである。知らなかったのは私が鳥全般に興味がなかったからで、白色レグホンは卵をたくさん産むことから、鶏の中でもっとも広く飼われている一般的な品種であるようだった。

 そう、何も特別な鶏というわけではないのだ。

 夫の本棚には、本業である葡萄や梨の栽培、果樹園の経営などの本が並んでいる。娯楽の本が一切ないのが夫らしい。私は夫の本棚を眺めるのが好きだ。律儀に並べられてある背表紙を見ているだけで、私は夫のことを少しは理解したつもりになれる。私と結婚する以前に読まれた本が何であるかを知れば、私と知り合う前の夫のことを想像させてくれる。幼い頃の写真や卒業アルバムを見せられたときと同じように、夫の考え方が、興味の対象と心理傾向が、行動の規範が、私なりに類推できるように思えてしまう。

 夫とは、丸の内にあるアンテナショップのイベンターが主催するパーティーで出会った。都会の独身女性に農業の魅力を紹介し、地産のワインや地酒のテイスティングを楽しみながら、農家の若い青年たちと懇談する機会を設けるという触れ込みの、実質、婚活を目的とするパーティーだった。私はそこで、果樹園農家をしている今の夫を紹介されたのだが、実のところ、私の方が先に夫を気に入ってしまった。このようなパーティーに参加したことは何度かあったけれど、自分から男性にアプローチをしたのはこのときが初めてだった。

 私が気に入ったのは夫の匂いだった。どうして初対面なのに、この人と話していると安らいだ気持ちになるのか不思議だった。そして気付いたのだ。夫から放散される何とも言えない匂いに。下ろし立てのガーゼのハンカチを嗅いだときのような、手ですくった綺麗な湧水に鼻先を近付けたときのような。ほとんど無臭なのに心地良く、ずっと息を吸い込んだままでいたいと思える、そんな匂いを夫は持っているのだった。

 私は夫のことを知りたい。交際期間がほとんどないまま結婚したことも理由に入るが、私は夫のすべてを知りたいのだ。夫の腋の下に自分の顔を潜り込ませ、くすぐったいと夫が言えば言うほど鼻を押し付けて息を吸い込みながら、私は安心して眠っていられる。こんな人は、今までにいなかった。夫の方はどうなのだろう。これまでに付き合った人から、あなたの匂いが好きだと言われたことはないのだろうか。でも、それを夫に直接訊ねることを私は控えている。夫は結婚前にこう言ったのだ。

「琉理がこれまでどういう人と交際してきたか、僕は訊いたりしない。だから、琉理も僕には話さないで欲しいんだ。元彼の名前とか言わないで欲しい。もしもそれを知ってしまったら、全然関係ない人なのに、同じ名前だというだけで僕はその人に嫉妬してしまう気がするんだ。元彼が芸能人に似ていたとしても、言わないで欲しい。テレビでその人が映るたびに、僕は絶対につまらない嫉妬をしてしまうと思うんだよ」

 私はそれを聞いて、なんて可愛い人だろうと思ったのだった。そして、私もあなたと同じ考えだと答え、お互い昔の恋人の話はしないことにしようと約束したのだった。

 ある意味、私も嫉妬深いのだろう。夫のすべてを知りたいというのは、言い換えれば隅々まで自分の支配を及ばせたいという願望なのかも知れない。そして、隅々まで知り尽くした人になら自分は支配されてもいいという欲望を隠し持っているのかも知れない。つまるところ、私は夫のことが好き過ぎるのだ。

 鶏小屋の観察は、それからも密かに続けていた。私はあの雌鶏を「レグ美」と名付けた。レグ美は、大きくて形のいい卵をよく産んでくれたが、相変わらず私の前では気取った歩き方をし、私を挑発するように一瞥を向けてくる。私はそんなレグ美の卵を、不敵な笑いを浮かべてから、見せ付けるように籠に入れて持ち去ることにしている。

 鶏小屋に卵を取りに行くようになってから、私は新たに気付いたことがあった。この鶏小屋には、七羽いる白色レグホンの他に、もう一羽、品種の違う雄鶏おんどりが隠れていたことだ。天井の近くにある一番高い止まり木の上に、茶褐色の羽毛に覆われたその雄鶏はいた。最初に訪れたときは気付かなかったが、あのときから、この雄鶏は入り口のすぐそばにいて、私のことを見下ろしていたのだ。レグ美も大きなニワトリだが、やはり雄鶏はそれよりも大きく、容貌にも迫力があった。雌鶏の何倍もあろうかと思われる立派な鶏冠もそうだし、嘴の下の顎からぶら下がる肉垂にくだれも大きく存在感がある。さらに、強く鋭い眼光で、常に私を射貫くように睥睨し、尚且つ泰然自若としているのだ。

 何年か前に、ある飼育施設で飼われている日本猿が、イケメン過ぎると話題になったことがあった。けれども、動物を人間に見立てて凛々しい顔付きだの涼しげな目元だのと騒いでいても、当時の私にはぴんと来なかった。猿は猿にしか思えなかったからだ。ところがどうだろう。私はここに飼われているニワトリたちを目の前にして、射竦めるような眼差しを向けてくる雄鶏には人間のそれに近い畏怖を覚え、気を引くような仕草で魅力を振りまくレグ美には、人間の女に向けるのと同じような嫉妬心を燃やしてしまっている。

 果たしてこれは、私だけに起きていることなのか。

 私が鶏小屋を金網の外から見ているのに気付いたのか、雄鶏が止まり木から落下するようにどさりと下りてきた。私は彼の目を覗き込もうと視線で執拗に追いかけた。雄鶏は急に首を激しく左右に揺らし、その場で三度羽ばたいた後、昼間なのに大音声を轟かせる声で時を告げた。

◇◇

 その日は午後になってから強い雨が降り始め、仕事にならなくなった夫が農園から戻って来た。まだ二時を回ったばかりなのに、窓から外を見るとまるで日が暮れたように真っ暗になっている。

「雷が来そうな雲よね」

 台所で手と顔を洗っていた夫は、そのそばで空模様の心配をしている私の呟きには反応せず、タオルで顔と手を拭った後、黙って私の腕をつかんで二階にある寝室へと向かった。私は何も喋らなくなった夫を見て、さっきまで鶏小屋にいたのだなと察知した。おそらく、この雨なので、ニワトリたちを風雨の避けられる物置に押し込んで来たのだろう。そのとき、夫の性欲を掻き立てる何事かがあったに違いない。

 寝室は畳敷きで、夫は押し入れからマットレスと敷き布団を出して敷き、私はその上にシーツを掛けた。しわを伸ばそうと屈んだところを後ろから夫に抱きすくめられ、私は仰向けに返された。

 夫の体重を受け止め、唇を貪りに来るもうひとつの唇を私は受け入れた。柔らかくしつこくねぶりながらも、夫の指はブラウスのボタンを器用に外していき、スカートのホックを知らぬ間に解除し、私をあっさりと下着だけの姿にした。目蓋をうっすらと開けると、雨滴で濡れたガラス窓に黒い雲に覆われた空が見えた。いつもより寝室が暗く見えたため、カーテンを閉めることを忘れたのだ。

「……カーテンを」
「いい」

 夫は私の要求をはね除け、少し乱暴にブラを剥ぎ取ると乳首の先に鼻先を擦り付けた。思わず声を出した私の反応を見て、あむっと先端からすべてを温かな口中に含んだ。考えてみれば、近隣の家とは十分な距離があるのだから、誰かに覗かれる心配もないし声を聞かれる心配もない。カーテンを開けたことで、いつもより雨の音がはっきりと聞こえ、場合によっては官能を刺激する手助けをしてくれそうにも感じた。何にせよ私は十分に濡れていた。

 ショーツを脱ぐときは私も手伝った。夫は裸に剥いた私を四つん這いの格好で後ろを向かせ、聞こえないくらい小さな声で、真っ白で綺麗な背中だな、と呟いた。私はこういう日を待っていた気がする。このときが来たら試したいことがあったのだ。夫は私の体を十分に知っている。夫の器用な指先は、私を悦ばせようと優しく柔らかく早く激しくゆっくり動く。

 そこはダメ、と私は声を漏らす。夫は無言のままだが、私はかぶりを振りながら、そこじゃない、と言い、夫が正しいポイントを突いたときに、ここ! と声を出す。

 夫は気付いてくれるだろうか。私はその後、何度も何度も、ここ! と声を出した。ここ! ここ! ココ!

 どうか夫に気付いて欲しい。ココ! と声を出しながら、そうやって私が少しずつ寄せていっていることに。

 私は、やはり大好きな人を支配したいというのが本心なのかも知れない。夫の心を奪う者がいるのなら、その者に成り代わってでも夫を自分のものにしたいのだ。

 着ているものをすべて脱いだ夫は、背後から私の中に入ってきた。すぐに私の両腕をとらえて、いつかレグ美が真っ白な両翼を広げてぴたりと静止したあのときと同じ格好を取らせたのは、それを後ろでじっくりと鑑賞したかったからだろうか。

 肌と肌が打ちつけ合う音の間に、窓の外では遠雷が鳴っていた。快楽の中で薄目を開けると、雨は降り止んでいたが、雲はますます暗く厚みを増して広がっていくように思えた。

 私は目を閉じた。けれども、直前まで妄想していた、雄鶏が背後から私をとらえてリズミカルに揺らしてくる残像は、まだ消えていなかった。

(了)


四百字詰原稿用紙約17枚


◇◇◇

■謝辞


 この小説を書くそもそものきっかけは、森巣ちひろさんのnote『断片小説お題vol.4に掲載されてある「官能的×鶏小屋」のお題を見たことにあった。
 私はそのお題を見た瞬間にこの作品のアウトラインが思い浮かんだ。
 断片小説大賞の規定には“原稿用紙1~5枚程度”とあったが、慎重に書き進めているうちに枚数を遥かに超過してしまい、もはや、この素敵な企画に参加する資格を失ったように思う。
 ただ、「官能的×鶏小屋」のお題なしではこの作品は生まれなかったので、感謝の気持ちとともに、タグを付けさせて頂いた。

改めて、素敵なインスピレーションを下さった森巣ちひろさんにお礼を申し上げます。ありがとうございました。

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