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二の坂

短編小説

◇◇◇


 一眼レフのカメラを買ったばかりの頃、写真を撮ることが面白くなり、休日になるとどこへ行くにもカメラを持って出掛けるようになった。

 砂漠色のカメラバッグを肩から提げ、頭にはグレーのハンチング帽を乗せて、市内の公園で桜を撮っていると、顎に無精髭を伸ばしていたせいもあったと思うが、通りがかりの小学生らから、「すげっ、戦場カメラマン」と声をかけられた。そんな時代だった。

 その年の秋、羽黒山を訪れた。

 観光名所は写真が撮りやすいこともあって、足を向ける機会が自然と多くなる。中でも私が気に入っていたのは地元にある羽黒山だった。山岳信仰の修験道が盛んな由緒ある山で、パワースポットとしても全国に名が知られていた。麓には森の中に鎮座する国宝の五重塔があり、そこから背の高い杉木立の間に挟まれた石段を登っていくことで、山頂にある三神合祭殿さんじんごうさいでんという巨大な茅葺き屋根の神殿に参拝することができた。山伏の修行の場となる霊山だけあって、ひとたび足を踏み入れれば、全身が神聖さに包まれる独特の気配が、この山には漲っていた。まるで森の中に俗世と神域を分ける結界が張られているかのようで、その雰囲気の違いは、気軽に訪れたに過ぎないただの観光客でさえも、肌で感じるほどのものだった。

 姿の美しい五重塔を丹念に撮影したあと、私は石段を踏みしめて本殿がある山頂を目指した。

 この参道の石段は長い。全部で二四四六段あると言われており、山頂までの一・七キロは決して楽な道のりではない。私はこれまでに数回上っているので行程はすっかり頭の中に入っているが、初めてのときは息が上がり、途中で何度も休憩を入れた思い出がある。石段といっても、一直線に延々と続いているわけではなく、くねくねと曲がり、ときに下りもあればしばらく平坦な道が続く箇所もある。切り出した石を敷き詰めた登山道、と呼んだ方が正解なのかも知れない。何度も上っていると、この参道は大きく分けて三つの急階段で構成されていることがわかってくる。

 まず、五重塔のそばから「一の坂」と呼ばれる最初の急な上り坂が始まる。まだ体力があるから上っていけるが、四階建てのマンションの階段すら無理だという人はこの坂の攻略は難しい。けれども、自分がミニチュアになったかと錯覚するほどの巨木を見上げたり、清々しい森の空気を肺に取り込んだりしながら、一段ずつマイペースで上っていけば、呆気ないほどこの一の坂は越えることができる。

 次に見えてくるのが「二の坂」である。最初に見た人は誰しも唖然とするだろう。この参道でもっとも急峻な坂道だからである。遠くから見ると真っ直ぐに上昇していく石段が垂直に掛けた梯子に思えてしまうほどだ。行く手の先端は杉木立に溶け込み、どこまで坂が延びているのかもわからない。雲にまで届いているのではないかとそんな気さえしてくる。上を見てしまうと気が遠くなるくらい高い階段だが、我慢強く、一段一段、着実に上っていけば、参道で唯一営業している茶店で休憩をとることができる。それを楽しみに上るのもひとつの方法だろう。「二の坂茶屋」は、ちょうど参道の中間地点に建っている。その場所から、たった今上ってきた急坂を振り返ってみれば、心地よい目眩を覚えるはずだ。冬場なら確実にスキーの上級コースになるほどの急斜面を、自らが登攀できたことを確信するからである。

 二の坂を終えると、石段は急に緩やかになり、平坦な道や下り坂が現れる。森の匂いや地面に落ちた木洩れ日の斑紋にも涼を感じる余裕が生まれ、それが十分なインターバルとなる。

 最後の「三の坂」は、二の坂よりも傾斜がきつくないので安心、と言いたいところだが、すでに体力を奪われているところへ、序盤に経験した一の坂に相当する上り坂が次々と現れるので、精神的にこたえる。この参道の中で、もっとも辛抱が必要なのは、ひょっとしたら三の坂かも知れない。あと少しで山頂、あとわずかの踏ん張りで本殿に参詣できる、といった思いをかき集め、残る体力を燃焼させ、ふらつく脚を気力で動かしている参拝登山客の姿は、いかにも羽黒山で厳しい修行をする修験者、山伏の姿と重なる。

◇◇

 私はこの日、カメラとカメラバッグを肩に担ぎ、一の坂、二の坂、三の坂、と順調に上っていた。慣れたものである。石段は江戸時代に造られたもので、経年により表面が滑らかに摩耗し、人跡の付かない部分は適度に苔むしていて趣があった。樹齢三百年を優に超える杉木立に挟まれた古い石段と、それをそろそろと上っていく参拝客たちの対比が織りなす構図は、遠くから狙うと絵になった。無断で後ろから失礼と思いながら、前方を歩いている若いカップルをカメラに写しとる。仲良く手を繋いだ後ろ姿が見ていて好ましかった。私にも交際して長い恋人がいる。いつか彼女を誘ってこの石段を登り、二人で羽黒参詣をしたいと思っているのだが、その願いはまだ叶えられていない。多少の羨望が、自分に写真のシャッターを切らせたのかも知れない。カップルが通過したそばには、小さな子供を連れた家族が、石段の途中にあるお社のそばで休憩をとっていた。不意に、背後の低い位置から獣の息遣いが聞こえた。何事かと思って振り返ると、リードを持つ飼い主に連れられて石段上りに挑戦している柴犬だった。小さい子供もそうだが、犬も途中でバテて、人間に抱きかかえられながら山頂に辿り着く、というパターンは羽黒山でもよく見かける。自分を追い抜き、まだ余裕がありそうな足取りでトコトコと上っていく柴犬の後ろ姿を、私はパシャリと写真に収めた。

 山頂に着くまで、風景やスナップを七十枚ほど撮っていた。石段上りには慣れたつもりだったが、三の坂の最後の方で、体格のいい二人組の若い外国人女性に追い抜かれ、つい張り合うようにペースを上げ過ぎてしまい、本殿に着いたときは肩で息をしているありさまだった。青年期を過ぎた己の身の程を知った瞬間だった。

 仲良しカップルも、小さい子のいる家族連れも、私が途中で追い越してきた参拝登山客も、続々と頂上に到着しているようだった。見知らぬ間柄だが、この瞬間ばかりは同士たちという気分になる。 

 羽黒山は飛鳥時代、蘇我馬子によって暗殺された崇峻すしゅん天皇の子息、蜂子皇子はちこのおうじが開いた信仰の山だ。父が暗殺され、命の危険にさらされた蜂子皇子は、従兄弟に当たる聖徳太子の取り計らいで奈良にあった宮中を抜け出し、船で日本海を北上する。辿り着いたのは現在の山形県にある海辺の町、由良。海岸にある洞窟付近の岩場で舞を踊る八人の女性の歌声に魅了されたのがきっかけだった。そこで聖なる山が近くにあると教えられ、途中で道に迷うも三本足の烏に導かれてこの羽黒山を発見し、神の権現を感得したという伝承が残っている。羽黒山という名前の由来も、その黒い鳥からきているとのことだ。嘘みたいな話で、お伽話のようにも感じるが、現に山頂にあるこの神社の一隅には、宮内庁が管轄する陵墓がある。羽黒山の開祖、蜂子皇子の墓で、皇族のお墓としては日本最北にあるものだという。

 羽黒山に何度も上り、撮影をしていると、そのような歴史や言い伝えが目や耳に馴染んでくる。もはや神話として確固としたものとなっているが、もっとも私にインパクトを与えたのは、蜂子皇子の肖像だった。聖人にしてはあまりにも異様な容貌なのだ。肌は黒に近い褐色、大きな鉤鼻と鋭い眼光、口においては耳まで裂けている。まるで爬虫類の化身か野犬が憑依した化け物のようで、およそ自分が漠然と抱いていた皇族のイメージを覆す顔貌なのだ。最初に見たときは、妖怪画と取り違えたか、あるいは肖像画自体が紛い物ではないかと疑いたくなったが、神社の公式な説明では、庶民の悩みや苦しみをよく聞き、それを我が身に引き受けたために怪異な相貌になったということのようだ。衝撃的な御尊影の裏には、徳の高い人物であることを示す逸話があるというわけだ。

 山頂にある大きな朱塗りの本殿、三神合祭殿にカメラを向ける。茅葺き屋根の木造建築としてはかなり大規模なものだ。バシャバシャと写真を撮り、カメラを胸に抱きながらぼんやりと眺めていると、年頃の娘を連れた父親らしき男性から、合祭殿を背景に入れて写真を撮ってもらえないかと頼まれた。快諾し、渡されたコンパクトカメラで手ブレに注意しながら、自分の写真のときよりも丁寧に撮影した。私がレンズを構える間、二人の気の置けない言葉のやり取りから、父親と嫁入り前の娘の二人旅、という風情を感じた。近く三神合祭殿で神前結婚式を挙げる予定であることが、親子の短い会話から窺えた。三枚ほど撮って仕上がりを確認してもらった。何度もお礼を述べ、何度もお辞儀をしてくれるとても印象の良い二人だった。

 山頂でまたバシャバシャと撮影した。売店で水を買い、トイレもすませて下山の準備をし、最後に本殿へ向かった。参拝はいつも最後にすると決めているのだ。写真のマナーとしては、どこの神社でもそうだが、拝殿の正面から撮るのはいけないとされている。神様にレンズを向けることになるからだ。最初は知らずに撮っていた。だが、静寂と厳粛な雰囲気が相応しい場であることがわかってくると、シャッター音が無粋なものに思えてきて、せめて祈りの場では控えようという心境の変化が訪れたのだ。そもそも、神様を写真に撮れるなどと思ったことはない。神様がどんな姿で自分と接見してくれるものかも想像がつかない。石川淳の『焼跡のイエス』という小説は、戦後の上野の闇市で出会ったボロを纏ったシラミだらけの乞食少年に、イエスの姿を見出す話だったが、実際に神様がどんなお姿で現れるか知っている人などいないだろう。金色の光に包まれたわかりやすいお姿で出現してくれるとは限らないし、それこそ浮浪児のような意外な姿で現れるかも知れないのだ。そんなどうでもいいことをつらつらと考えながら、賽銭を入れる。拝殿には数十名は着席できる広いスペースがあり、先ほどの娘の挙式は、きっとここで行われるのだろうと思った。私は手を合わせながら、仕事と健康のほかに、交際している彼女との結婚が成就することを、心の中でこっそりと祈った。

 山登りは上りよりも下りが辛いという人がいるが、私自身はやはり下りの方が圧倒的に楽だった。トントントンと軽快に石段を下りる。写真は上りのときにさんざん撮ったとはいえ、カメラを肩から下ろすことはしない。心に響くようなエモーショナルな光景に出会えたら、いつだって写真は撮りたいからだ。

 上りのときは、いつまでも続いて地獄のように思えた三の坂だが、下りだとあっという間に終わった。しばらく平坦な道と緩やかな坂が続く。このタイミングで水分を補給し、いよいよ二の坂に差し掛かろうというとき、私は思わず、えっ? と声を出して自分の目を疑った。これまで羽黒山の石段を何度か往復してきたが、こんな光景は見たことがなかったからだ。二の坂のてっぺんに根を張る杉のそばに、少し広くて平らなスペースがあるのだが、そこにぽつんと車椅子に座っている青年がいたのだ。

 私は頭を整理した。青年は、三の坂のある方向に背を向けて、二の坂のある前方をじっと見つめている格好だった。そして、こんな言い方は申し訳ないが、体型がずいぶんとぽっちゃりしていて目方もだいぶあるように思えた。彼はここまでどうやって来たのだろう。車椅子から少し離れたところに、帽子を被った一人の女性が佇んでいた。何をしているのか、杉の梢を見上げて数を数えているかのように頭を振っていた。小さな声で歌でも歌っているのだろうか。赤を基調とした格子柄のシャツに下はキュロットとレギンスを合わせていて、その服装のせいもあると思うが、ほっそりとした脚が目立った。肩幅から見ても全体的にひどく華奢な女性のようだった。

 車椅子で石段の上り下りはできないから、巨体の青年は誰かが運んできたことになる。そばにいる女性が付き添いの人なのか、赤の他人なのか、年齢は若いのか、そうでもないのか、まったくわからなかった。とにかく不可解な光景だった。私は青年のそばを黙って通り過ぎ、二の坂を下り始めた。十数段も下に向かうと目と鼻の先に二の坂茶屋がある。私はそこに立ち寄り、テラス席がある展望台から、眼下に広がる庄内平野の写真を何枚か撮影した。撮影しながらも、頭の片隅ではあの車椅子の青年のことが気掛かりだった。

 にわかに人がざわめく気配を感じた。あっ、という短い女性の声が聞こえ、大丈夫です、と答える同じ女性の声が耳に入った。私は石段の方を振り返り、目に飛び込んできた光景を見てその場から動けなくなった。

 茶屋にいた人たち、二の坂を上ってきた人たち、これから二の坂を下りていく人たち、全員が、心配げな表情で、その人を見つめていた。

 その人は、背中に車椅子を背負っていた。華奢な肩にベルトを食い込ませ、折れそうなくらい細い脚で、ゆっくりと、一段ずつ、石段を下りていた。周囲にいた参拝登山客たちは、その人が下りやすいように次々と協力して道を空けていた。その人が歩くと、まるで花が咲いたように気遣いの心が周囲に生まれていくのだった。

 私は動けなかった。肥えた青年が乗った車椅子を、背中合わせの格好で肩に背負ったその人は、慣れているので……、と周囲の人に無邪気な笑顔で答えていた。私は離れた場所から見守った。それしかできなかった。心に響くのに、これ以上にエモーショナルな光景はないのに、写真を撮ろうとは思わなかった。神様にレンズは向けられなかった。

(了)



四百字詰原稿用紙約十五枚(5493字)

※この作品は創作ですが、ロケ地は実在します。


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羽黒山参拝道(参考写真)


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国宝 五重塔


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一の坂


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二の坂


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三の坂


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二の坂~三の坂


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二の坂茶屋


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二の坂茶屋からの眺望


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三神合祭殿(出羽三山神社)


蜂子皇子の御墓


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羽黒山山頂の鳥居


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蜂子皇子御尊像拝観イベントポスター(2014)


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石段に彫刻されている絵① 瓢箪ひょうたん


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石段に彫刻されている絵② 瓢箪と湯呑み


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石段に彫刻されている絵③ 徳利と盃


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石段に彫刻されている絵④ 蓮の花


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石段に彫刻されている絵⑤ 山伏


羽黒山の石段には三十三個の絵が彫られてあり、すべて見つけることができると願い事が叶うと言われている……

※2021/11/03 写真追加




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