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間男のでんぐり返し

短編小説

◇◇◇


 誰に誓ってもいい。疚しいところはまったくない。恥ずべき行為は何一つしていない。隅永すみなが孝策は、自分の股ぐらから朝焼けの名残を留めた白い空を見上げながら、己に言い聞かせていた。

 要するに、自分は清廉潔白であると言いたいのだが、このような事態になったのだから、落ち度はあったのだろう。悔しいけれど、それは素直に認めなければならない。それにしても、これは何だ、どういう状況なんだ、とでんぐり返りのような体勢のまま隅永は思う。

 そもそも、不忍池妖香しのばずのいけあやかの相談に乗ったのがいけなかったのだ。隅永は背中の下に、草いきれの立ち込める空気の気配を感じながら、ここに至るまでの原因を振り返った。まず、一昨日の金曜日、禁煙を誓ったのにあと一日だけと勝手に自分で猶予を拵えて残業前に喫煙室に入ったのがいけなかった。そこで会社で何かと噂の多い不忍池妖香と偶然に二人きりになったのがいけなかった。珍しい名前なので胸元にあるネームに目をやり「それって芸名ですか?」とくだらない質問をしてしまったのがいけなかった。「いいえ、本名です。食品会社の事務員にどうして芸名が必要だと思ったのですか」という彼女のまともな返しに気の利いた答えで反応できず慌てて「お綺麗なのでつい」と持ち上げるようなことを口走り、彼女から心底軽蔑されたような目で見られたことがいけなかった。そのあと挽回しようと彼女との間に気まずい空気が生まれないように必死になって会話を繋いで喋り過ぎたのがいけなかった。二人の他は誰もいない喫煙室でたびたびため息を吐いている彼女を見て自分のせいだと勘違いをして焦ったのがいけなかった。実はそうではなく近頃歳下の旦那とうまくいっていないと彼女が悩みを打ち明け始め、うっかり親身になって聞いてあげたのがいけなかった。さらにその場のノリで土曜日の夜に飲む約束をしてしまったのがいけなかった。そして当日は居酒屋で旦那への不満をたっぷりと聞かされたあと、いつの間にか話し役と聞き役が逆になり、自分がまだ独身でいる理由や結婚観に関する話を彼女からうまい具合に引き出され、調子に乗って語り過ぎたのがいけなかった。「今度は私の話を聞いて」と彼女が独身時代にアプローチを受けた会社の上司や先輩社員の暴露話を始め、居酒屋だけでは話が尽きず「場所を変えて飲もう」と言う彼女の誘いに、酔いの勢いもあって二つ返事で承諾してしまったのがいけなかった。何よりも「旦那は実家に寄り付いてどうせ今夜も帰って来やしないからうちで飲もうよ」という不忍池妖香の囁きに、素直に従った自分がいけなかったのだ。

 昨夜までのことを振り返れば振り返るほど、隅永は自分の過ちのポイントがいくつも思い浮かんできて、絶望した気分になる。体の真上を、たった今、雀が囀りながら横切った。早朝の白い空に、丸い影の通過とともに、甲高い啼き声と鋭く旗を振ったときのような羽ばたきの音を残して視界から一瞬にしていなくなった。それを、仰向けにひっくり返った体勢で、自分の股ぐらから見ているという状況の異常さに、隅永は頭の整理がつかないでいる。思い出そう、自分が何故早朝の屋外で、でんぐり返りの体勢のまま動けずにいるのかを。隅永は不忍池妖香に誘われて、居酒屋を出てからタクシーで彼女のアパートに乗りつけたことは覚えている。彼女は隅永の三つ下で二十九歳だった。旦那がマザコン気味なところに不満があるらしく、そのせいか部屋に一人でいるときの酒量が最近増えていると話していた。住まいは築年数の古いアパートの二階だったが、入ってみると室内はリノベーションされて今風のおしゃれな印象を受けた。昨夜はそこで山崎12年のハイボールをしこたま飲み、そのまま酔い潰れたはずだ。そして、隅永はリビングのテーブルの下に潜り込むように寝ていたところを、不忍池妖香に激しく肩を揺すられて起こされたのだった。

「起きて、旦那が帰ってきたみたい」

 隅永は目覚めたばかりの頭で、その言葉を最初は他人事のように聞いていた。だが、不忍池妖香が血相を変えた顔で玄関から昨夜履いていた革靴を持ってきて、ハンガーに吊してあったジャケットとともに隅永の胸に押し付けるように渡したとき、ようやく自分が立たされている状況を理解した。

「あのエンジンの音は旦那だわ。ごめん、ベランダに隠れて。お願い!」

 アパートの下には住居者のための駐車場があったような気がする。隅永は昨夜の記憶を引っ張り出し、それをイメージしながら耳を澄ますと、たしかにエンジン音が聞こえた。不忍池妖香がリビングのサッシ窓をガラリと開けて、隅永にベランダに出るように促した。彼女の顔に余裕は微塵も窺えなかった。

「ごめん、しばらくここにいて」

 ベランダに出た途端、窓を閉められ、カーテンを引かれた。不忍池妖香の言葉が最後まで終わらないうちに自分は閉め出されてしまったように隅永は感じた。これはどういう状況だろう。ベランダに靴を持って立たされている自分。隅永は、一旦、靴を両腿の間に挟んだあと、ジャケットに袖を通しながら、これではまるで自分が不忍池妖香のところに通っている間男まおとこみたいじゃないか、と思った。こんなシチュエーション、コントでしか見たことがないが、まさか自分の身に降りかかってくるとは想像もしていなかった。それに自分は断じて間男ではない。不忍池妖香に指一本、触れてはいないのだ。

 東の空が白んでいる。時刻は朝の四時か、あるいは五時だろうか。隅永はジャケットのポケットを探ったが、携帯電話がないことに気付いた。リビングのテーブルに置いたままだったかも知れない。ベランダのサッシ窓に手をかけたがすでに施錠がしてある。室内から明らかに不忍池妖香のものとは違うどすんどすんと床を歩く足音が聞こえたような気がして、開けてくれと頼むわけにはいかなくなった。色々とまずいことになっている、と隅永はベランダで小さくうずくまり、頭を抱えた。ふと顔を上げると、すぐ目の前に隣接して建てられたアパートの窓と物干し台が見えた。距離は三メートルも離れていないのではないか。隅永がいる二階建てアパートと似たような造りだが、こちらと違いリノベーションやリフォームの手が入っていない昔ながらの雰囲気が残っている。ベランダから身を乗り出して下を覗くと、少し足を伸ばせば届きそうな位置に、コンクリート塀のてっぺんが見えた。塀自体は、二メートル以上の高さがあるのかも知れないが、そのてっぺんは片足くらいなら乗せて歩けるような幅で、アパートの外壁に沿ってかなり遠くまで延びている。しかも、隣のアパートにも同様のコンクリート塀が設置されており、こちら側の塀とあちら側の塀の隙間はわずか五十センチ程度の幅しかない。隅永の目にはそれが、さながら同じ高さの平均台が二本、程よい間隔を置いて並べてあるように見えたのだった。

 隅永はベランダに靴を抱えてうずくまり、息をひそめながら考えた。ここにいたとして、不忍池妖香は旦那に見つからないように、自分を助け出してくれるだろうか。うまくやってくれるかも知れないが、必ずしもその保証はない、と隅永は思った。それに、もうじき普通の人でも起き出す時間になる。いくら不忍池妖香がここの窓のカーテンを閉じたままにしていても、目の前のアパートの住人は朝起きてカーテンを開けるはずだ。そして、向かいのベランダに閉め出されている見慣れぬ男の姿を見つけることになるだろう。いつまでもこんなところにいたら、怪しまれるに決まっている。最悪、通報されるかも知れない。

 それはまずいっ。

 隅永は思わず声を出しそうになった。騒ぎになるのはまずい。一刻も早く、ここから立ち去らなければ。

 すでに脱出ルートは頭に閃いていた。外にある塀の上を歩いて、着地できそうなところで下に飛び降りればいい。隅永は物音を立てないように細心の注意を払い、靴を手に持ったままベランダから身を乗り出した。馬に跨るようにベランダに跨り、取っ掛かりを見つけてベランダの外側に両足を揃えて立つことに成功した。そこから片足を伸ばして塀の上に足裏を乗せる。これも成功した。あとはベランダを突き飛ばすようにして体重移動を行い、両足を塀の上に乗せればいい。これも見事に成功した。バランスを崩しそうになったが持ち堪えた。どちらのアパートの住人からも気付かれていない。隅永は平均台の上を歩く要領で慎重に足を運んだ。しかし、少し進んだところで塀の上に傾斜が付いている箇所があり、気付かずに足を乗せた隅永はバランスを崩し、手を振り回した勢いで革靴を塀と塀の隙間に落としてしまった。くさむらに落下したような音が聞こえ、隅永も自らが転倒しそうになり、片足を向かい側の塀に乗せて体勢を立て直そうとしたが、そこにも傾斜が設けられていて、足を置き損ねた。隅永は完全にバランスを失い、塀の上で体を捻る最後の足掻きも叶わず背面から転倒した。すると、どういうわけか、塀と塀の隙間に仰向けの状態のまま上半身がすっぽりと挟まってしまったのだった。両足は塀の上で開脚した格好になり、このでんぐり返しの体勢から、まったく身動きが取れなくなってしまったのだ。

 そうだった。思い出した。

 記憶を振り返った隅永は、自分が陥った情けない経緯に悄然とした。仮に、塀に挟まれた今の自分を横から見たら、頭を下に、足を上にしたアルファベットの「C」の形になっているだろうし、真上から見たら、尻を上に向けて足が伸びたまま開脚をした「V」になっていることだろう。股の間から空を見上げながら、衛星写真でこんな姿を捉えられたら一生の笑い者だ、と隅永は思った。自分はこのまま、ここで、この格好で、晒しものになり続けるのか。

 アパートの住人がカーテンを開けるまでにはここを脱出したい。そう思っている隅永だったが、抜け出そうにも肩から骨盤まですっぽりと嵌り、腕の関節も決められていて自由が利かなかった。不思議なのは、背中の下には空間があるのに、体が落ちていかないことだった。塀自体が垂直ではなく、下に向かうほど幅が狭くなっているのかも知れなかった。

 これは何かの罰なのか。アパートの住人に通報されたら、何て説明すればいいのだろう。隅永は、一人で問答を予想して考えてみた。だが、どうあっても自分が不利になる結論にしかならなかった。夫が留守のときに人妻の部屋に上がり込んだのは確かなことだし、そこで飲酒をして二人きりで夜を過ごしたことにも間違いはないからだ。隅永にとってせめてもの救いは、特別な触れ合いは一切していないということだった。この指は薄衣一枚触れていない。江戸時代なら不義密通は男女ともに死罪だったという。自分が間男なら不忍池妖香と重ねて四つに斬られても仕方がないが、あいにく体を交わした覚えはない。上等な酒に酔い潰れてテーブルの下に潜り込んで寝ていたほどなのだから、間違いなんて起きているはずがないのだ。

 スルスルスル、と頭のすぐ上で窓を開ける音がした。隅永は、視界の端にかろうじて人の顔がひょこひょこと動いているのを意識した。小さな女の子だった。年齢は五歳くらいだろうか。向かい側にあるアパートの物干し台から、こちらを覗き込んでいるのがわかった。女の子の姿がすっと消えて、部屋の奥に駆け込んでいく音が聞こえた。親を呼びに行ったのだろうと隅永は思った。覚悟を決めていると、隅永の視界の端に現れたのは、さっきの小さな女の子と、その母親と思われる恰幅のよい女性だった。だが、騒ぎ立てる様子はなく、じっと黙って隅永の無様な格好に視線を注いでいるのだった。最初に言葉を発したのは女の子の方だった。

「かかってる」
「かかってるね」

 母親らしき女性も、それに答えるように同じ言葉を繰り返した。そして、次のひと言を付け加えた。

「見事なV字だね」

 隅永は動揺した。と同時に奇妙な感じがした。どうしてこの親子は、こんなにも落ち着き払っているのだろう。それに「かかってる」とはどういう意味なのか。隅永は声をかけて助けを求めるべきか、一瞬躊躇した。すると女性が姿を消し、次に物干し台に現れたときは発泡酒の缶を手に持っていた。開栓してゴクゴクと女性が喉を鳴らして飲む音が聞こえた。

 隅永は、本当に晒しものにされている気がして、窮屈な体勢ながらも声を絞り出した。

「すみません、助けてもらえませんか」

 女性は何も答えず、缶を傾けて、ぐいぐいと喉に流し込んでいる。隅永は声をかけたことを後悔し始めた。

「いつからその格好?」

 げっぷのあとに、女性がそう話すのを耳にした。女の子もそばにいたが、女性は自分に話しかけたのだろうと隅永は思った。

「一時間くらい前から……です」

 そう答えると、女性は、ふーん、と鼻から声を出しながら隅永を眺め回した。

「きついでしょう」
「きついです……」

 だから早く助けて欲しい、と隅永は言いたかったが、気分を損ねさせたくなかったので黙っていた。女性がまた同じ調子で訊ねてくる。

「ねえ、どの部屋?」
「えっ」

 その質問をどう受け取ればいいのか測りかねて、隅永はすぐに答えられなかった。どこまでこの女性は知っているというのだろう。

「あんただけじゃないんだよねー」

 女性は抑揚をつけ、語尾をのばすようにして言った。

「ここに挟まれたことがある男はねー、だいたいこの辺にある二階のベランダから降りて、塀の上を歩いていたからなんだ」

 隅永は驚いた。挟まって身動きできなくなったのが自分だけじゃなかったことに。そして、同じことが今までに何度も起こっていたということに。

「この間、ここにかかっていたのは、いいところに勤めている重役さんだったわ。上着が破れて顔も擦り剥いていたけど、奥さんにどう言い訳したのかしらね」

 かかってる、とはそういう意味だったのか、とようやく隅永は理解した。この塀の上を不用意に歩くと、決まってあの傾斜に足を取られて転倒するのだろう。まるで、そこに罠が仕掛けてあるみたいに。自分はそれに、まんまとかかってしまったというわけだ。

「あんた、靴はどうしたの。最初から裸足?」

 女性に訊ねられ、隅永もそのことを思い出した。

「転びそうになったとき、塀と塀の間に落としてしまいました」
「どんな靴。革靴?」
「……革靴です」
「色は?」
「……茶色です」

 女の子が部屋の奥へ駆け出していく音が聞こえた。

 女性が物干し台から身を乗り出し、隅永に向かって内緒話をするときのような小声で言った。

「あんた、向かいのアパートから降りてきたんだろ。うちの子の前じゃ言えなかったんだけどさ、ベランダに隠れなきゃならないようなことはもうやめときな」
「……どうして知ってるんですか」
「そりゃわかるよ。あんたのような間男がここに転がってるの、一度や二度じゃないもの」
「……疚しいことはしてないです」
「二階から塀の上に降りてきたなら同じだよ」

 女性の言う通りだった。自分は潔白だというなら、夫の前で堂々と玄関から出ればいい。それができないのは、人妻の部屋に深夜に上がり込むという非常識を犯したからだ。指一本、触れていないとは言ったが、実のところ、その気がまったくないわけではなかった。最初の居酒屋で、男女の友情は成立するか、という話題で不忍池妖香と盛り上がったことがあった。このとき、学生時代に考えたその問いへの明快な答えを思い出して、自分は得意になって彼女の前で披露していたではないか。「一度やれば友達になれる」。あの発言は、半ば本気だったからではないのか。

 最低だ、と隅永は思った。これでは間男と呼ばれても仕方がない。むしろ、さっぱりと潔い間男よりも、よほど心性が卑劣ではないか。股ぐらから見える眩しい空とは逆に、隅永は目の前がどんどんと暗くなっていくようだった。

 隅永の体を挟む両側の塀が振動して、不意に視界を影が覆った。よく見ると、恰幅のいいあの女性と、小さな女の子が、股の間から隅永の顔を覗き込んでいた。二人は塀の上に立っていても、両側の塀に片足ずつ乗せているため、抜群の安定感があった。

「あんたの靴は、これで間違いない?」

 女性が手に持っているのは、まさしく隅永が塀の間に落とした革靴だった。

「うちの子が拾ってきた。この子じゃないと、塀の間は狭くて入っていけないからさ」

 女の子が隅永の顔を見てウフウフと笑っている。おかっぱにした頭に、蜘蛛の巣と細かな草が付いていた。隅永はそれを見て、こんな小さな子にも自分は迷惑をかけてしまったのかと心底申し訳ない気持ちになった。

「上着をつかんで引っ張るから。もし破れてもそっちの責任だからね。——助けていいんだよね?」

 女性に確認を求められ、隅永は「……お願いします」と股ぐらから弱々しくも精一杯の声を絞り出して答えた。

 女性は一度、上着に手をかけたが、何か思うことがあったのか、一旦、塀の上で三歩ほど後ろに下がった。そして、でんぐり返しの体勢でいる隅永をとくと眺めてから、しみじみとした様子で「本当に、見事なV字だねー」と詠嘆した。

(了)


四百字詰原稿用紙約十九枚(6873字)




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