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マリー・セレスト号のしつらえ

短編小説

◇◇◇


 妻が今日から三日間、里帰りで家を留守にする。

 おれは仕事の都合もあり、家に一人で残ることにしたが、これを束の間の自由と捉えて、独身時代のように夜の町に繰り出して羽を伸ばそうなどとは思っていなかった。会社帰りにデパートの地下食品売り場を覗いて、惣菜や晩酌のつまみを何品か買ったら、どこにも寄らずに真っ直ぐ帰宅するつもりだった。

 退勤後に夕暮れの目抜き通りを歩いて、大きな交差点の角地に建っているデパートに向かった。通りは車が渋滞していて、歩道にもバスを待つ会社帰りの人々で行列ができていた。

 信号待ちの間にスマートフォンを確認したら、通信アプリに妻からメッセージが届いていた。無事に実家に着いたこと、手土産に買ったメロンが重かったこと、退院したお母さんは思ったよりも元気で単に話し相手が欲しかっただけみたいだったこと、が三通のメッセージに分けて述べられていた。

 おれは妻に労いの言葉を返信した。そして、これからデパ地下で晩飯の材料を買い込む予定であることを追加で送信した。

 すぐに妻から返信があった。信号が青になったので歩きながらメッセージに目を通すと、チンアナゴのイラストが神妙な顔つきで頭を下げている謝罪のスタンプが先に届き、そのあとテキストメッセージが送られてきた。

ゴメン、洗濯機の中に衣類が洗ったままになっていると思うから、なるべく早く乾燥機に入れて欲しい。お願いしていいかな?


 おれは交差点を渡り終えたあと、デパートのショーウインドーの前で立ち止まり、メッセージを返した。

わかった。晩餐を調達したらすぐに帰る。乾燥機を回して、終わったらたたんでおくから心配するな。お義母さんによろしくな。


 妻からは、チンアナゴが体を上下に振って喜んでいる感謝のスタンプが送られてきた。

 おれはスマートフォンをポケットにしまい込んだ。

 ここまでは嘘はなかった。おれは本当にこのあとデパ地下で食料を買ったら帰るつもりでいたのだ。

 ところがこの直後、思いがけなく懐かしい知人とばったり出会ってしまった。林堂通弘りんどうみちひろというおれと同い年の男だ。かつて人材派遣会社に所属していた頃……あれは二十五歳前後のときだったが、おれは彼と二年間ほど同じ職場で働いていたことがあるのだ。ショーウインドーの前で「坂巻か?」と声をかけられたとき、すぐにおれも林堂だとわかった。

 十年ぶりだよなあなどと二人で話しているうちに、彼とは仕事帰りによく飯に行ったり飲みに行ったりしていたことを思い出し、おれは自分の方から「時間があるなら、久しぶりに飲まないか」と林堂を誘ったのだった。

 やはり、身軽で自由な時間の中に身を置いていることから、おれは気が大きくなっていたのだと思う。家に帰っても誰もいないが、目の前には懐かしい話を掘り出せば飽きることなく語り合える林堂がいる。妻には悪いと思ったが、洗濯物を乾燥機に入れて回す約束は後回しにすることにした。

 飲食店が並ぶ賑やかな通りを歩きながら、近況を訊いた。林堂は現在、隣県の工業団地で大手メーカーの技術者として働いているらしく、まとまった有休を取らされてこの地元に帰っていたが、明日にはまた戻るという。結婚はしておらず、飄々とした暮らしぶりは相変わらずだった。髪を真ん中で分けているところや色白で少ししゃくれ気味の顎をしている怜悧な外見も変わらない。物静かで理知的な話し方も当時の印象のままだった。

 林堂とはまず海鮮串焼きの店に行った。最近できた人気の店で、繁盛しているのが一目でわかるほど活気があった。実を言うと、この店は妻が前から行きたがっていたところで、今度二人で食べに行こうとこの間約束したばかりだった。通信アプリを開いて、知人と串焼きの店で飲んでいることを正直に伝えようと思ったが、何となくばつの悪さを感じて途中まで文章を打ち込んでいたが送るのをやめにした。

「どうかしたのか」

 串から大きな海老を取り外して器用に殻を剥いていた林堂が、そう言って心配そうな目を向けてくる。

「妻に連絡を入れておこうと思ったが、まあ、後にするよ」

 おれは上着のポケットにスマートフォンを放り込んだ。

 林堂はおれが結婚したことを知って喜んでくれた。挙式したのが去年だからまだ新婚なのだと照れながら伝えると、彼はさらに喜んで改めて乾杯しようと言ってくれた。思えば一緒に働いていた頃、立て続けに二人の女性に振られて落ち込んでいたおれのやけ酒に付き合い、スナックの片隅で黙って話を聞いてくれたのは林堂だった。

◇◇

 海鮮串焼きの店を出たあとにおれたちが向かったのは、あの頃二人で飲みに行けば必ず最後に立ち寄っていたスナックだった。狭い通路の両側にお酒を提供する店の看板やネオンサインがひしめいていた。ここを訪れるのはおれも林堂も十年ぶりだった。スナック「HASHIKE」は通路の奥にあった。

 看板と入り口の扉は当時のままだが、店内はボックス席が取り払われてカウンターだけの小さな店に改装されていた。綺麗で話し上手な従業員が何名かいたはずだが、現在はママ一人だけで切り盛りをしているようだった。

 十年が経っているので、さすがにおれたちのことは覚えていないだろうと思ったが、ママは林堂の顔を見て記憶が蘇ったらしい。当時二人で入れていたボトルの名前や、おれが失恋で落ち込むと毎回カラオケで浜田省吾の「ラストショー」を歌ってはBメロの裏声のところで必ず咽び泣いていたという恥ずかしい場面まで思い出してくれたのだった。ママの髪はすっかり白くなっていたが、外側に毛先をはねさせた格好いいアレンジにしていてむしろ当時よりも若々しく見えた。

 おれと林堂は椅子が七つあるカウンターの右端に座り、それぞれバーボンソーダとジントニックを飲んでいた。同じカウンターの左端には先客の男が一人座っていて、ママを相手に何やらぽつりぽつりと話をしている。カラオケで好きなの歌っていいのよ、と最初にママに言われていたが、おれと林堂は静かに飲んでいる方を選んでいた。実を言うと、カウンターの左端から聞こえてくる会話の内容が気になってしょうがなかったからだ。

「避難所で暮らしているときも不安でね……見つかったんじゃないかと思って毎日びくびくしていた……」

 五十がらみのその男は、自分がかぶっていたものであろうインディゴブルーのバケットハットを両手でくちゃくちゃに揉みながら、充血した目をママに向けて静かに語っていた。

「結局のところ、不審な遺体が見つかったって話は一度も聞かなくてね。たぶん多くの遺体と一緒の扱いになったんだと思う。自分でこんなことを言うのも馬鹿みたいだけど、これで完全犯罪になったと思った。津波のおかげだ」

 おれと林堂は顔を見合わせたが、なるべく左端の男に気付かれないように、静かに飲んでいるふりを続けた。

 ママがお酒のお代わりを勧めたようだが、男は手を振って断り、くちゃくちゃにしたハットを頭にかぶり直すとまた語り始めた。

「でもね、ほっとしたのとは違うんだよ。あれから心が安らいだ日なんて一度だってないよ。十一年間ずっと落ち着かないままだよ。絶対にここからなくなったりしないんだ、人を殺した事実っていうのは」男はそう言って、自分の胸を握りこぶしでゴツンゴツンと音がするほど叩いた。

 男が帰ってしまうと、客はおれと林堂の二人だけになった。ママがカウンターに戻って水割りを作りながら「あなたたち、今の話、聞いてたでしょう」と言って苦笑をもらした。

 男は今年になって何度か来ている客らしく、いつもはおとなしく飲んでいるだけなのだとママは言った。けれども今日は珍しく自分のことを話し始めたのだという。聞けば東北の港町へ出稼ぎに行っていたときに震災被害に遭ったようで、当時住んでいた貸家は津波に呑まれてすべて流されてしまったそうだ。ここまでは気の毒な話に聞こえる。けれども、ママが瞠目したのは、その地震の前日に、男はちょっとした諍いが原因で同居していた同僚を包丁で切りつけて殺してしまっていたことだった。血だらけの死体を前に男が一晩考えて決断したのは、自首ではなく犯行の隠蔽だったという。死体をシーツにくるんで押し入れに隠し、住んでいた貸家の床下に穴を掘り始めたとき、あの震災が起きたのだった。

「家屋もろとも遺体は流されてしまったわけか」ママの話を聞いた林堂は、そう言ってため息をついた。

 おれは男が言っていた「完全犯罪」の意味をようやく理解した。死体という重要な証拠が表に出ない限り、犯行も証明できないということだろう。神経質そうに帽子をくちゃくちゃに揉んでいた男の姿を思い浮かべながら、おれは思ったことを素直に言った。

「あの人、言葉では悔やんでいるみたいだったな。自首して償っていれば、今頃は心穏やかに暮らしていられるかのような……」

 ママが唇を固く結び、首を左右に振りながら今し方作った水割りをそっとおれたちに差し出した。林堂がグラスの縁を指でなぞりながら言った。

「でもなあ、あれが本心かどうかはわからないぞ。そもそもこの話自体が、本当かどうかも」

 ママはそうね、と頷き「あのお客様はもうここには来ないかもね」と言い、そのあとにこう続けた。

「心の中に溜め込んだことを言葉にして吐き出しにくるお客様もいれば、嘘の話で自分を大きく見せたいだけのお客様もいるわね。わたしもこの商売が長いから、この人はどっちかな、と思ってお話を聞いているの。だいたい区別はつくものよ」

 おれはママに訊いた。

「あの男の人はどっちなの?」

 ママは言葉で答える代わりに、目は笑ったまま、少しだけ首を傾げて唇をすぼめた。何とも言えない微妙な表情だった。

◇◇

「完全犯罪と聞いて思い出したんだが」

 林堂がカウンターで頬杖をついてぽつりと言う。「大学に行ってた頃、一時期、完全犯罪を趣味にしていたことがある」

「それは初めて聞く話だな」

 おれはトイレに立とうとしていたが、一気に席を離れがたくなった。

「トイレに行きたいんだろ。行ってこいよ」

 林堂の言葉にママがカウンターの奥で笑っている。おれは急いでトイレに向かった。何気にスマートフォンを取り出してみると、妻から通信アプリにメッセージが届いていた。

晩ご飯は食べた? 孤独のグルメみたいに堪能した? 笑
洗濯物、乾燥機に入れてくれたよね? ありがとう。たたんでくれるなんて優しいなあ♡♡♡
お母さんのおしゃべりが止まんない。顔色もいいから心配なし。美容院に行きたいって言うから明日連れて行こうと思う。


 妻にはとりあえず、一通だけ返事を送っておくことにした。林堂と飲んでいることを説明するのは面倒なので、決して内緒にするわけではないが今は書かないことにした。

晩ご飯は食べたぞ。お義母さんの顔色がいいと聞いて安心した。美容院でおしゃれをすると気分も明るくなる。きっと喜んでもらえるな。


 送信した文面に嘘はひとつもないはずだ。乾燥機についてはあえて触れなかっただけだ。トイレで用を足したあと、おれは自分にそう納得させてカウンターへと戻った。

◇◇

「要するに、被害を受けたと感じた人が訴えれば犯罪になるが、それを被害だと感じないような犯罪なら、そこで完全犯罪が成立する、という理屈」

 カウンターに戻ると、ママを相手に林堂がややこしい話を始めていた。

「おれにもわかるように話してくれ」

 そう言って席に着いたおれの顔を見て、林堂は「早い話、他人の家で黙ってコーヒーを入れてくる、という少し変わった悪戯をしていたわけ」と芝居がかったように両手を広げたあと、わずかながら恥ずかしそうな微笑を浮かべた。

「坂巻もママも『マリー・セレスト号』の話は聞いたことある? 世界の不思議やミステリー好きには結構有名な話なんだが。実際に大西洋上で起こった船舶事件なんだ」

 おれは知らなかったが、ママは知っていたようだった。

「わたしはたまたまよ。そういう話は昔から興味があったの。船舶だって好きよ。このお店の名前の『はしけ』って、そもそも船のことだから」

 これには、おれも林堂も驚いた。店名がローマ字なので、今まで気付かなかったのだ。林堂は話を続けた。

「今から百五十年も昔の事件で、船も帆柱が二本の帆船なんだけど、ある日、大西洋上に漂っているその『マリー・セレスト号』をイギリスの船が発見したわけ。外に船員の姿は見えないし呼びかけても応答がない。それで確認のために乗り移って調べてみたところ船内はもぬけの殻。女性と子供を含めた十名が乗っているはずなのに全員が蒸発したようにいなくなっていた、という事件」

 林堂の説明はわかりやすかった。ママがさりげなくお代わりの水割りを作ってくれた。

「船内に荒らされた形跡はなく、積荷も無事。発見されたときに海は静かで、海中に全員が落ちたとは考えにくい。何よりも船内の食堂には温められた朝食が用意されていて、コーヒーには湯気が立っていた。つまり、発見される直前にいったいこの船に何が起こったのか、というのがこのマリー・セレスト号のミステリーであり魅力でもあるわけ」

 林堂はこの「マリー・セレスト号」の謎を、小学生のときに図書室にあった本で知ったという。

「大学生になって、たまたま週刊誌でマリー・セレスト号の記事を読んだ。そこには自分が子供の頃に読んだ内容をくつがえす事実が書かれていた。船が発見されたとき、食堂に用意されていた温められた朝食や湯気が立っているコーヒーは、誰かによってのちに加えられた創作だとね。唖然としたよ。短時間のうちに人間が消えたというのがこのミステリーの醍醐味じゃないか。湯気が立つコーヒーはそのことを示す代表的な出来事だったのにそれが嘘だったなんて。ショックだったし、許せなかった」

「なるほど」とおれは言った。「マリー・セレスト号のことはわかった。でもこの話はさっき林堂が言っていた完全犯罪と繋がっていくのか?」

 繋がるよ、と林堂は強く頷いた。

「同じゼミの友達が実家暮らしで、彼の家に泊めてもらったことがあった。その朝、水が飲みたくて誰もいない台所に入ったら、インスタントコーヒーの瓶があるのを見つけてね。ここの食卓に入れたてのコーヒーが置いてあったら面白いな、とふと思い付いてしまった」

「まさか林堂」おれは苦笑した。「やったのか」

「ああ、やったよ。勝手に台所でやかんにお湯を沸かして、近くにあったマグカップにコーヒーを作った。目立つようにわざとテーブルの隅に置いてね。反応が知りたくて階段に隠れて様子を窺っていたら、友達のお母さんがちょうど起きてきて、『何?』『コーヒー?』『誰の?』と言う声が聞こえてきた。マリー・セレスト号のミステリーが完成したと思ったよ」

「狂人だな林堂」おれは笑いながら言った。

「たしかにな。別の友達の家でも同じことをやった。勝手にキッチンに忍び込んで、気付かれないように電気ケトルやポットでお湯を沸かすのはとてもスリリングだった。まずは家宅侵入罪。それに、その家にあるコーヒーを勝手に使うわけだから窃盗罪だ。だがな、そのお宅のカップに熱々のコーヒーが一杯しつらえられているだけだから、警察に通報する人なんていない。考えようによっては、これも完全犯罪と言えるのではないかな」

 林堂は、他人の家の台所で湯気の立つコーヒーを入れてくることを、「マリー・セレスト号のしつらえ」と呼んで、しばらく趣味にしていた。だが一度だけ怖い目に遭ったことがあり、それっきりこの趣味をやめたという。

「これは誰にも話していないんだが」と林堂は記憶をかき集めながらその体験を語ってくれた。

「ドラッグストアのすぐそばにある家だった。駐車場から台所の窓が丸見えで、戸棚にインスタントコーヒーの瓶と袋詰めのレギュラーコーヒーがあるのが目に入った。やかんは見当たらないが雪平鍋があった。食器類はごちゃごちゃしていたが探せば湯呑みくらいは見つけられそうだった。まったく知らない他人の家だが、老女が一人で暮らしていて、たぶん孫だと思うが、たまに二十歳くらいの体格のいい青年が寄りついているを見かけていた。台所に直接入っていける勝手口の戸は半開きで、いつも鍵が開いているようだった……」

 林堂は早朝にその家に向かった。人の気配がないのを確かめて勝手口から侵入した。外から覗いた以上に室内は物で溢れていた。台所の床はひんやりしていて、一瞬濡れているのかと不安になった。音を立てないように窓辺にあった雪平鍋にカップ一杯程度の水を入れて火にかけた。静寂の中でガス火の音は意外と大きく聞こえる。気付かれるのを恐れて気持ちがやきもきするのはいつものことだ。室内に向けられた台所の戸は開きっぱなしで、居間へと通じている廊下が見える。この廊下は台所にある壁の向こうを横切って、お風呂場へと繋がっているようだ。人の気配がしないか、ときどき廊下に注意を向ける。林堂は何となく嫌な感じがして、早くコーヒーをしつらえたら逃げ出すつもりでいた。湯呑みが見つからず、青いお茶碗を見つけてカップ代わりにした。お湯が沸き、インスタントコーヒーの瓶を開けて中を覗いたら、粉が入っていなかった。レギュラーコーヒーの袋を持ってみたら、空っぽの袋だった。ああ、今日は失敗だ。林堂はそう思って退散を決めた。そのときだった。廊下の奥から足音が聞こえてきた。けれども老女の足音にしては力強かった。林堂はその場に凍りついた。広い背中をした男が低い姿勢で後ずさりをするようにこちらにやってくるのが見えたのだ。男は背中を向けているので、台所でお湯を沸かしていた侵入者には気付いていないみたいだった。林堂は心臓が止まりそうだった。勝手に忍び込んでいたからではない。男が後ずさりをしながら老女を引き摺っていたからだ。老女はぐったりとした様子で体を動かす気配はみられなかった。だらりと伸びた二本の脚が目の前から消えて、廊下を踏む足音とともにお風呂場へと向かっているようだった。林堂は機を捉えて一目散に逃げ出した。派手に物音を立てたって構わないと思った。恐ろしかった。逃げるときに一瞬目にしたのは、廊下に二本の筋となって残っていた染みだった。林堂にはそれが血糊に見えて仕方がなかった。

◇◇

 会計を終えて席から立ち上がると、思った以上に足元がふらつくのがわかった。知らないうちに普段の酒量を超えるほど飲んでいたのかも知れない。

 おれと林堂はママに帰りの挨拶をした。ママの接客は相変わらず気持ちがよかった。

「今日は歌わなかったわね。またいらっしゃい。あの曲、『ラストショー』を入れてあげるから」
「ママ、あれはおれが失恋したときの歌。今は結婚してるので永遠に封印だよ」
「あら、結婚したの。おめでとう! よかったわね。お幸せにね」
「ありがとうございます!」
「坂巻、今日おれと飲んでいたことを正直に奥さんに話すんだぞ。隠し事にはしないでくれよ」
「林堂は察しがいいな。安心してくれ。妻に嘘はつかない。ついたところですぐにばれるんだ」
「しっかりした奥さんなのね」
「はい、とっても」

 最後にもう一度、トイレを借りることにした。

 スマートフォンを確かめると、妻からの新しいメッセージは届いていなかった。おれは自分が送ったメッセージを読み返してみた。嘘は書いていない。しかし、誠実ではなかった。おれは手洗い場でメッセージを打ち込んで、送信した。

今日は会社帰りに懐かしい知人と偶然出会って飲みに行った。派遣で一緒に働いていた林堂という男だ。すぐに連絡できなくてすまない。
実は洗濯物は乾燥機にまだ入れてない。もう一度洗濯をし直してからにします。ごめんなさい。
林堂と海鮮串焼きの店に行った。評判通りうまかった。次は一緒に行こう。


 妻からすぐに返信があった。

たまにはいいんじゃない。孤独のグルメにならなくてよかったね。
洗濯物の話題に触れないからあやしいと思ってたよ。乾燥とたたむところまでお願いねっ!


 妻からの三通目は、チンアナゴが砂から長い胴体をスルスルと伸ばして、天空の高みから怒りの形相でこちらを睨みつけているスタンプだった。よほど海鮮串焼きのお店に行きたかったとみえる。あとで丁寧に謝罪しなければならないなとおれは思った。

 トイレから戻ると、店内にはママだけがいて、林堂は先に帰ったと教えてくれた。

「今日はありがとうね」白髪のアレンジが素敵なママが、綺麗な笑顔で言う。

 おれは何となく気になったので、林堂が最後に語ったあの体験についてママに訊いてみた。

「ママはどう思った? 孫がお婆ちゃんを引き摺っていた話を聞いて。あれが本当だったらニュースになっているくらいの事件だよね」
「そうね。事件性があって、それでもニュースになっていないとしたら……おかしいわね」
「お婆ちゃんをお風呂場まで引き摺って、何をするつもりだったのかな」

 おれは、体格のいい孫による完全犯罪、という言葉を思い浮かべてゾッとした。

「でもね、事件なんてなかったのかも知れないわよ」

 ママがカウンターに肘をついて、顔をゆっくりとこちらに向けてくる。

 おれは、はたと気付いた。

「林堂は最後に嘘をついたのかな。おれとママを楽しませようとして、話を盛った可能性もあるよなあ。ああ、ママ、ママはどう思った?」

 ママは言葉で答える代わりに、目は笑ったまま、少しだけ首を傾げて唇をすぼめた。この、何とも言えない微妙な表情を見たのは、今日で二度目だなとおれは思った。

(了)


四百字詰原稿用紙二十五枚(8,622字)


■参考文献

『ドイル傑作集Ⅱ 海洋奇談編』 コナン・ドイル/延原謙=訳 新潮文庫
「J・ハバクク・ジェフスンの遺書」

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■参考楽曲

『ラストショー』 浜田省吾




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