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真面目な人 3/3 〈全三回〉

 つづら折りの暗い参道を車で上る。神社は小高い山の中腹にあり、全体が霊山になっているのだと幼い頃に聞かされていた。こんなところに深夜に訪れる物好きは自分たちくらいなものだろう。ましてやその目的がいつ現れるとも知れないUFOとの遭遇にあるというのも――。ヘッドライトに浮かび上がる針葉樹の木立と回転するように飛び去るその影を、夏夫は女の運転する車の助手席に座って眺めていた。左右にせわしなく振られる体の揺れも手伝って、摂取していたアルコール以上の酔いが、目眩となって時折夏夫を襲っていた。

「もうじき着くよ」

 スナックにいたときより、女はよく喋るようになっていた。青白い計器からの光が、女の体の前の部分だけを仄白く浮かび上がらせている。夏夫は未だに女の名前を思い出せないままだったが、だんだんとその方が都合がいいと思うようになっていた。女は自分のことを知っているようだが、自分はこの女のことを何も知らない……。そんな状況が作り出す、まるで初対面の異性と二人きりでドライブをしているような錯覚が、夏夫にはとても愉快に感じられたのだ。

 体を大きく揺らす急カーブが二度続いたあと、夏夫は素直な感想を口にした。

「何だか怪しい場所に向かっているみたいだな」

 女はふふふと笑い、怪しい場所って? と訊ねてくる。夏夫が沈黙していると、女は前を見据えたまま「真面目な人」と呟き、またくすくすと笑い続けた。

 ハンドルを握る女の横顔を、夏夫は改めて観察した。すべてのパーツが控え目に作られているおとなしい顔立ちを眺めながら、女と交わした会話の声を頭の中で再生していたら、不意に記憶の回路から浮上する人物をつかまえることができた。綺麗に大人のメイクが施されたその顔の向こうに、ようやく同級生の面影を見出したと思ったが、意外にもそれはクラスで最も物静かで、目立つことのなかった女生徒、真宮さんの顔だった。彼女は一次会で帰ったはずだが……と夏夫は思ったが、しかし、今となっては自分の記憶していた真宮さんの顔が、あの控え目な真宮さんかどうかも曖昧模糊としている。もしかしたら、曖昧なのは顔ではなく、名前を取り違えて覚えている可能性だってあるのではないか。いや、女の正体は知らないままでいる方がいい、と夏夫は改めて思いを強くした。なぜなら、女のことを同級生の真宮さんではないかと疑った瞬間に、またもやあの頃の使命に拘束されるような感覚が、夏夫の心に忍び寄ってきたからだ。

 このとき夏夫が思ったのは、どうして真面目だの優等生だのという中学時代のイメージを、自分は頑なに守ろうとしているのだろう、ということだった。卒業から十五年も経つというのに、同級生を前にすると、つい反射的に行儀良く振る舞おうとしてしまう。制服を規則通りに着ていた、あの模範的な生徒だった頃に培った青臭い自我が、そんなにも大事だというのか。クラス会の空気にほだされ、いっときでも誠実にその役割を果たそうとした自分はどうかしていた。ああ、いやだいやだ、と夏夫は思う。もういい子ぶるのも格好をつけるのも馬鹿らしい。運転席のシートに沈む女のミニスカートを注視しながら、夏夫は自らの本心を余さずさらけ出したい気持ちになった。自分は三十歳で、まだ自由な独身者なのだ、十代の自分にはできなかったが、今なら運転している女のその魅力的なタイツ脚に手を伸ばすことだってできるし、このあとホテルに行こうと誘うことだってできるのだ、これは咎められることではないし、こんなことは誰でもやっている、いい年をして十代の自意識なんかに支配されてたまるものか、自分の欲望に正直になって何が悪い、今の自分は、その滑らかな腿を……銀河のような煌めきを湛えたその黒タイツに包まれた両脚を……宇宙を、つかまえたくてつかまえたくて、たまらないほどなのだ。

 夏夫はふうと息を吐き、体を深く助手席のシートに預けて脱力した。大きなカーブで再び目眩に襲われたが、その不快さは、気持ちを吐き出したことによって得た開放的な気分で、すぐに相殺された。

 針葉樹の黒い木立が急に開けて、車は境内のそばにある広い駐車場に着いた。頭上には夜空がぽっかりと口を開け、うるさいくらいに無数の星が瞬いていた。

 女はがらんとした駐車場の片隅に車を停めると、「集中したいからエンジンを止めていい?」と夏夫に断り、シートをわずかに後ろに倒した。計器の照明が消え、車の振動が止むと、辺りは物音ひとつしない静寂に包まれた。

 暗い車内で女は黙っていた。黙って前を向いたまま、何かを待っているようだった。あまりにも静か過ぎると聴覚が研ぎ澄まされるのか、女の喉の奥から唾を飲み込む音がはっきりと聞こえた。夏夫は自分の鼓動が急に早くなったのを意識した。一瞬、自分がなぜここにいるのかわからなくなった。鼓動はさらに早くそして強く打ち始め、心臓の周囲で体の方が激しく震動しているような錯覚に陥った。連打の音が自分の耳に大きく聞こえ、それを女にも聞かれてしまうことが、火が出るくらいに恥ずかしかった。状況を変えたいと思った。何か変化がないと耐えられなかった。

 夏夫はシートの上で仰向けになっている女に手を伸ばした。初めて触る女の腿は、しっとりとした手触りだった。拒絶を示さない女の反応をいいことに、手のひらでつかむように腿の弾力を確かめた。タイツの繊維越しに伝わる温かな体温に陶然とし、さらなる温かみを探るように、夏夫は手のひらの置き場所を求め、女の腿の上でゆっくりと円を描いた。

「なになに? くすぐったいよ」

 仰向けになったまま、女はくすくすと笑い出した。それを夏夫は合意の合図と受け取り、脚を撫で回していた手をミニスカートの中に潜り込ませた。温度だけでなく湿度も高くなっている腿の付け根に手を這わせたとき、夏夫はズボンのファスナーの前が、苦しいくらいにきつくなっているのを意識した。水脈を探り、熱源を検知するかのように伸ばしていた夏夫の指は、しかし、思いのほか固い張りと強度のあるタイツのセンターシームで敢えなく跳ね返された。

「ねえ、知ってた?」

 仰向けで前を向いたまま訊ねてくる女の声に、夏夫はびくりと反応して動きを止めた。

「中学のとき、岡崎さんも汐田さんも、委員長のことを好きだったんだよ」
「え……」
「夏休みのとき、UFOを呼ぼうとして夜、学校に来ていたときがあったでしょう? そのとき、一人ずつお邪魔したことがあったよね。あれ、委員長の気持ちを確かめるためだったんだ」
「…………」
「知らなかったでしょう」

 溜め息を吐くように、やっぱりなぁと女は呟いた。

「今だから言おうかな。汐田さんの次は、本当なら私が委員長のところへ行く順番だったんだ。でも夕方から雨になって、それで結局、委員長もUFOを呼ぶことをやめちゃったんだよね……そうだったでしょう? だって私、あのとき傘を差して、とりあえず学校へ行ってみたんだもの」

 そして女は嬉しそうに付け加えた。

「でもよかった。ずっとこの話を委員長にしたいと思っていたんだ。機会があったら、って」
「…………」

 そこで女は軽く咳払いをした。

「今日はUFO、現れてくれるかな?」

 女はそう言ったあと、夏夫の方に体を向けた。シートの上でもぞもぞと動き、横向きに姿勢を変えたようだった。スカートの中に差し入れていた手はすでに引き抜いていたが、暗闇の中でも十分に女の視線を感じた夏夫は、同じく咳払いをしてから身を離すようにして正面に向き直った。さっきまで女がそうしていたようにフロントガラスに目を向けてみると、東京では見ることのできない濃密な星空が、車内に侵入してきたように思えた。視界一面にくまなく散らばる夥しい数の星々を、夏夫はひどく懐かしいものとして受け止めた。あれだけ激しく打ち付けていた鼓動が、いつの間にか聞こえなくなっていた。

 きっと今も運転席に座る女の腰から下には、あの魅力的な脚があるのだろう。暗がりになっていてよく見えないが、手を伸ばせばあのしっとりとした手触りの腿があり、綺麗な両膝を自分の方に向けて、窮屈そうにあの滑らかな脚を折り曲げているのだろう。けれども、夏夫は身じろぎひとつせず、フロントガラス越しに夜空を見ていた。何の変化も起きていない夜空だったが、夏夫は真っ直ぐに前を向いて目を離さずにいた。

 杉の木と神社の屋根らしき部分が、黒いシルエットになって星空の底を支えていた。懐かしい中学のときの空気が緩く夏夫を縛っていた。

(了)


短編小説 四百字詰原稿用紙約二十七枚(10072字)
第一回 11枚(4066字)
第二回 7枚(2563字)
第三回 9枚(3443字)

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