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ミッション

短編小説

◇◇◇


 ボストンに住んでいる友達からおよそ一年半ぶりに電話が掛かってきたとき、ぼくはちょうどお風呂に入っているところだった。

「国際電話だから早く出るのよ」と母さんが急に浴室の扉を開けてコードレス電話を突き出すので、ぼくは慌てて湯船の中にタオルを引き入れ、股間を隠さなければならなかった。

「勝手に入ってくんな!」

 そんなぼくの一喝も、母さんに効き目はないらしく、はいはい、と何度か頷いたあと、まるで面白いものでも見たかのように、最後にくすりと笑って磨りガラスの向こうに引っ込んでいった。

 先々週から産毛のようなものが性器の周辺に生え始め、それが日に日に濃くなってきていた。自分が大人になっていく兆候を誰かに、特に母親に知られてしまうのは恥ずかしかった。おそらく母さんは、ぼくの秘密に気付いているのだろう。気付いていながらわざとからかうようにお風呂場まで入り込んでくるのだ。子供の成長に関心を持つのはいいけれど、性徴にまで立ち入ってくるのは本当に迷惑だ。

 ぼくは気を取り直して、母さんに渡されたコードレスの子機をお湯に濡れるのも構わず耳に当てた。出る前から電話の相手が誰かはわかっていた。ぼくに国際電話を掛けてくるのはあいつしかいない。大柳凛。小学五年生のとき、一年間だけクラスが一緒だったぼくの大切な友達だ。声を聞かないうちから懐かしさが込み上げてきた。当時の記憶が競うように浮かんでくる中で、とりわけ忘れることのできない大きな思い出が、ぼくの心に蘇ってきた。そう、ぼくたちは二人でひとつの布団に潜り込んだのだった。そして、そのとき起こった出来事を、これから先もぼくは決して忘れることはないだろう。それは大人に成長することの意味に触れた初めての出来事だった。体が大人になっていくことだけが成長なのではない。自分自身に与えられた内なる「使命」に気付くことが、実は何よりも大きな意味のある成長なのだ。

 凛の声が無性に聞きたいと思った。ぼくは、大きな声で受話器に「もしもし!」と言った。心は、五年生だった頃に戻っていた。

◇◇

「たける、プレステ持ってる?」

 十二月も半ばを過ぎ、今年最後の体育の授業が終わって跳び箱のマットを片付けているとき、一緒に運んでいた凛が突然ぼくに訊ねてきた。顔を向けると、黒くてきりっとした眉の下にある凛の大きな瞳がぼくを見下ろしていた。ぼくはふらふらとした足取りになりながらマットをせーので用具倉庫の隅へ放り投げた。

 女の子でぼくの名前を呼び捨てにするのは凛だけだった。今年の春に転校してきた凛は、その初日から席が隣になったぼくにべらべらと話しかけてきた。初対面なのに堂々としているものだから、逆にぼくの方が緊張して転校生のような気分になったほどだ。よくしゃべる変なやつ、というのが凛の第一印象だったけれど、毎日会話を続けていくうちに何となく親しみもわいてきて、今ではいい友達になっている。

「プレステは持ってないよ。うちではそういうゲーム機はダメなんだ」

 積み重ねたマットの端っこを几帳面に整えながら、ぼくは反対側でも同じことをしている凛に向かってそう答えた。

「前にも話したことがあったと思うけど、映画のソフトならいくらでも観ていいんだ。その代わりテレビでゲームをするのは禁止。ぼくの母さんが、どうせ同じことで目を悪くするなら、ゲームよりも映画の見過ぎで目が悪くなった方がまだましだ、なんて考えているからなんだ。無茶苦茶だろ?」
「ふふふ、たけるのお母さんって面白いよね」
「よしてくれよ。ぼくにはいい迷惑だ。母さんは自分がゲームに興味がないものだから、ぼくがするのを認めたがらないだけなんだ。大人の横暴だよ。自分勝手なんだ」
「今度の日曜日、うちに遊びに来ない?」
「えっ、凛はプレステ持ってるの?」
「ない」
「なんだ、ないのかよ」

 凛の返事に拍子抜けしたぼくは、くるりと踵を返して用具倉庫から出ようとした。しかし、急に強い力で腕をぐいっと引っ張られ、気付いたら後ろにあるマットに尻餅をついていた。顔を上げると、怒った顔の凛が、すぐ目の前でぼくを見下ろしていた。

「日曜日、遊びに来るの? 来たくないの? どっちよ!」

 腹を立てている様子の凛を見て、ぼくは何か気に障るようなことを口にしただろうかと一瞬自分を省みた。でも、もちろん心当たりはない。用具倉庫の窓から射し込む光が、四角い形のまま床に当たって、舞い上がった埃や塵を煌めかせていた。その真ん中にちょうど凛が仁王立ちしている格好だった。さっきまで笑っていた凛が、なぜ今はふくれっ面なのだろう。マットとともに日陰に追い込まれたぼくは首を傾げるしかなかった。遊びに行くかどうかの返答を決めかねていると、凛はそれくらい自分で決められないのか、はっきり意見を言えないのか、それでも男なのか、と苛々した口調でなじってくる。しかも、結構ぐさっとくる言葉ばかりを並べて——。凛はいつもそうだ。こんな風に畳みかけるような言い方をされると、ぼくは言葉を挟む機会を失い、ますます何も言えなくなってしまう。仲のいい友達になったということは、言葉に遠慮がなくなることなのだな、とぼくはこのとき発見したのだった。

 凛はぼくの平常心を掻き乱してしまう名人だった。人をからかうのが趣味なんじゃないかと思うくらい、凛はたびたびぼくを驚かせた。それは、思いがけない行動だったり、意表を突く発言だったりするのだが、その中でもぼくが一番驚いたのは、まるで魔女のように心の中を読んでしまうことだった。

「たけるの好きな女の子、私、わかっちゃった」

 理科の授業中、先生が実験器具を取りに行くため教室を留守にしたとき、凛がそう言ってぼくに耳打ちをしたことがあった。本当は一瞬ぎょっとしたのだが、そんなはずはない、とぼくは思い直した。誰にも打ち明けたことのない自分だけの秘密だったからだ。

「好きなやつなんていないね」
「そう? そうかな」
「いるわけないだろ」

 ところが凛は、すっと斜め前にいる寺沢涼子に視線を向けてから、またぼくの方へと戻すと、「図星でしょ」と言うのだった。ぼくの体から汗が噴き出した。綺麗な栗色の髪をした寺沢は、成績も優秀で、四年生のときからぼくの憧れの子だった。それが、なぜ今年の四月に転校してきた凛にわかってしまったのだろう。心を読んだとしか思えなかった。

「寺沢さんに、私から言ってあげようか」
「何をだよ」
「たけるの気持ち」
「勝手に勘違いしてんなよ」
「いいから、私に任せて」
「や、やめろよ!」

 凛が身を乗り出して、本当に斜め前の寺沢に声を掛けようとしたので、ぼくは慌てて留めなければならなかった。しかし、次の瞬間、ふわっと後ろを振り返った寺沢とぼくは目が合ってしまった。思わず赤面したその一瞬を、凛は見逃さなかったらしい。微笑しながら、ぼくだけに聞こえる声で凛はこう呟いたのだ。

「ふーん、やっぱりそうなんだ」

 ……ぼくは完全になめられている。

「たけるって、考えていることが全部顔に表れるんだよね」

 いつだったか学校の大掃除をしたとき、廊下のガラス窓を一緒に拭いていた凛が突然そう言ったことがある。

「どういう意味だよ」

 ぼくは洗剤の入った霧吹きを窓に吹きつけながら訊いた。

「わかりやすい人だよねー、っていう意味よ」
「あのな……」
「そういう人って、他人につけ込まれやすいから気を付けた方がいいよ」

 凛は真顔でぼくに忠告してくれたが、つけ込んでいるのはおまえだろ、とぼくは言ってやりたかった。凛はちっとも気付いていないのだ。男の子が女の子に馬鹿にされたら、どれだけ悔しくて情けなくてたまらない気持ちになるのかを。これは、女の子を見下しているわけではない。男の子は生まれながらにして女の子よりも強くなければならないという呪いがかけられているせいなのだ。ついこの間も、凛の言動があまりにも調子に乗りすぎていたので、頭に来たぼくは「からかうのもいい加減にしろよ!」と強い口調で注意したのだが、凛は「女の子にからかわれているうちが華だよ」と涼しい顔で言い返してきた。まるで、ぼくが次に何を言ってくるか予め知っているような素早い返答だった。とても口では敵わないと、ぼくはそのとき悟ったのだ。

 母さんにしろ、凛にしろ、つくづく、女って自分勝手な生き物だとぼくは思う。優柔不断であることが女の子の場合だと許されることがあるのに、ぼくが少しでも判断にまごついていたりすると、「男のくせに決断力がない」とか「うじうじしてて格好わるーい」などと凛は必ず言い始める。それは、母さんにしてもそうだ。ぼくが落ち込んでいたり泣きべそをかいたりしていると、まるでおまじないか何かのように、母さんは必ずこの言葉を口にするのだ。

「男の子は強くなくっちゃいけない。女の子を守ってあげられるようじゃないといけない」

 はっきり言って、母さんの口からこの言葉が飛び出すたびに、ぼくは嫌な気分になる。コインを投げたのと同じ確率で、たまたま男の子に振り分けられたに過ぎないぼくが、生まれながらにして「強くあるべき」という使命を与えられてしまうのは、とてもプレッシャーだ。

 母さんの口振りだと、まるで、女の子は弱いのだから、男の子が庇ってあげるのは当然のことだ、とでも言っているようだ。女の子は弱いだって? 冗談じゃない。例えば、凛はぼくよりも背が大きい。顔ひとつ分、ぼくの頭より上に飛び出ている。脚が長くてスタイルも悪くないから、ほっそりとした体型に見えるけれど、ぼくと比べたら手首は太いし、尻だってでかい。凛と腕相撲をすれば、悔しいけれどぼくは負けてしまう。五年生のクラス全体で見ても、成長期が早い女子に、男子は押され気味だ。それでも男の子は、女の子を守らなければならないというのだろうか。

 母さんは、こんな「呪詛」のような言葉を、なぜ、ぼくに投げかけてくるのだろう。

 ひとつだけ思い当たることがある。ぼくには二歳下の妹がいたらしいのだ。けれども妹は、一度も母さんのお腹を内側から蹴ることなく亡くなってしまった。太陽の光を見ることも、外の新鮮な空気を吸うこともなく、静かに二十六週目でその命を天国へ解き放ってしまったのだ。母さんは、流産のショックから立ち直るのに一年かかったという。あとで聞いた話だけれど、その間の母さんは、妹を救うことができなかったことで、毎日自分を責め続けていたのだそうだ。もしかすると、今でも、母さんは自分を責め続けているのかも知れない。多分、そうなのだろう。

 男の子は強くなくっちゃいけない。女の子を守ってあげられるようじゃないといけない。

 この言葉を母さんが口にするとき、ぼくは名前も顔も知らない妹のことを思い浮かべる。これは、母さんがぼくに発している、ミッションなのだろうか。だとしたら、ぼくは母さんに抗議したいと思う。そんなミッションなんて受けたくない。勝手な言い分かも知れないけれど、そっちこそ勝手な使命を背負わせたりしないでよ。正直言って重荷なんだ。強くなるのって、結構たいへんなんだよ。

 ……ぼくは、嫌ーな気分になる。

◇◇

 凛が来年の一月にアメリカの学校へ行くことになったという話を担任から聞かされたのは、それからすぐあとのことだった。博士号を取った父親の仕事の都合で家族そろって移り住むのだという。ぼくにとってはまったく寝耳に水の話で、それを聞いたときは深い穴の中にすとーんと落っこちたときみたいなショックを受けたものだが、だからといって今まで黙っていた凛のことを水臭いと言って責める気にはなれなかった。うちへ遊びに来いとしつこいくらい誘っていた理由が、ぼくにはわかった気がしたからだ。

 二学期も終わりが近付いて、せっかくクラスのみんなとも仲良しになれたのに、凛にしてみればさぞかし残念だろう。でも一番残念に思っているのはこのぼくなのだ。あと一ヶ月も経てば凛はいなくなってしまう。憎たらしいと思うこともあったけれど、凛がいたおかげでぼくの周囲はいつも賑やかだった。頭にくることもあったけれど、最後には、やっぱり凛はぼくの大切な友達なんだ、と思う。

 日曜日、ぼくは凛の家へ遊びに行った。ひとりで女の子のうちに行くなんて初めてのことだ。

 玄関には凛のお母さんが出迎えていて、「あなたが噂のたけるくんね」と言い、なぜかやたらとぼくのプロフィールに詳しいのだった。背がモデルみたいに高く、すらりとしているところは凛とそっくりだと思った。

 凛のお母さんと三人でリビングのソファーに座り、ケーキと紅茶を食べながら話をした。クラスでの思い出話をしていたら、最後の方で何だかしんみりとしてしまった。凛が、アメリカに行っても一年間はたけるに電話はしないからね、と言う。理由を聞いたら「私の声を聞いたらたけるは余計寂しく感じると思うんだ。そうなると可哀想だから、私の方から一年経ったら電話をしてあげる。これが私の優しさだと思ってね」

 凛らしくない言葉だと思った。理屈は妙だし、話しているときの態度も無理に楽しそうにしていて不自然だった。いつもならその恩着せがましいような言い方に腹を立てるところだが、ぼくは「約束だぞ、忘れんなよ」とだけ言った。そうしたら、凛はうつむいたまましばらく顔を上げなかった。

 ケーキと紅茶を平らげると、二人で二階にある凛の部屋に上がった。プレステという気の利いたものがないのは知っているので、何をして遊ぼうか考えていたら、凛がカルタをしようと言い始めた。二人じゃつまんないだろうとぼくは思ったのだが、凛は何か突飛なアイディアが浮かんだらしい。

「懐中電灯が二本あるんだ。こっちにおいでよ」

 凛は同じ二階にある別の一室にぼくを招き入れた。そこは多分、凛の両親の寝室だと思う。一目で外国製とわかる家具とベッドが部屋のほとんどを占めていた。特にベッドは子供五人は並んで寝られそうなくらい広々としていた。

「ここでやろうよ。この中で」

 凛がふわりと大きな上掛けを捲りあげ、素早く中に潜り込むと、顔だけ出してぼくにおいでおいでと手招きをする。高級な寝具をくしゃくしゃにするようで気が引けたけれど、やはり最後は好奇心が勝って、ぼくは肌触りのいいベッドの中につるりと入っていった。

 凛のアイディアというのはこうだ。完全に布団をかぶって真っ暗にし、その中で小型の懐中電灯を照らしながらいろはガルタをする。読み札を読む人はすべてを読み終えてからカルタ取りに参加する。ハンデをなくすために前半戦と後半戦に分け、その際は読み手と取り手が交替する。凛が言うには、暗くてよく見えないから難易度が高く、懐中電灯を素早く当てて相手より先に取り札を探さなければならないからスリルがある、だから面白いらしい。

 実際にやってみたら面白かった。羽のように軽い布団を頭のてっぺんで支えながら、ぼくと凛は向かい合わせになり、取り札を二人の間に広げた。その頃からゾクゾクするような楽しさが、ぼくの背中に上ってくるのを感じた。最初は凛が読み手、ぼくが取り手になった。読み札を懐中電灯で照らした凛が「老いては子に従え」と読めば、ぼくが間髪入れずに取り札を取る。手強いと思ったらしい凛は、次第に読むスピードが速くなり、しまいには早口言葉のように高速に読み上げてから取り札に挑みかかっていた。そんな必死な姿が、ぼくには可笑しくてたまらなかった。逆に凛から先を越されて取られてしまったときは、これほど悔しいことはないという気持ちになった。

 懐中電灯の丸い明かりが凛の顔を浮かび上がらせている。ふと、こんなにも接近して凛の顔を見たことなんてなかったと思った。別人のように顔が違って見えるときがあるのは、あまりにも近すぎるからだろうか。羽布団に囲われたこの狭い空間をぼくは気に入ってしまった。それは、凛とこうして遊んでいられることと深い関わりがあるような気がした。

「凛?」と何気なくぼくは名前を呼んでみた。目の前にいるのが、何となく凛ではないような気がしたからだ。けれども、そのあと「なあに?」と答えたのは紛れもなく凛だった。

 ぼくはこのとき、亡くなった妹のことを考えていた。もし、無事に生まれていたのなら、妹はどんな顔をしていただろう。こんな風に狭いところに潜り込んで、二人で遊ぶなんてことがあっただろうか。それとも、気の強い女の子になっていて、絶えずぼくと口喧嘩ばかりしているかも知れない。どちらにしても、ぼく自身は今と変わりはないような気がする。それとも、お兄ちゃんと呼ばれているうちに、ぼくも少しは強くなっていたりするのだろうか。

「少し暑いね」と凛。布団に潜り込んでからどのくらい経ったのか、ずいぶんカルタに熱中していたので、ぼくは時間の感覚がわからなくなっていた。空気を入れ替えるために布団から這い出ようとベッドの端に向かったのだが、ぼくはこのとき初めて、おかしいな、と気付いた。

 凛とぼくは四つん這いになりながら布団の中を進んだ。しかし、一向にベッドの端に辿り着かないのだ。自分たちの感覚では、とっくに部屋の壁を突き抜けるくらいの距離を這っているはずだった。にもかかわらず行けども行けども布団の先に外の明かりが見えてこないのだ。そんなことってあるだろうか?

 凛が甲高い声で叫んだ。

「おかしいよ、絶対おかしい」

 不安と焦りでうわずったその声は、ぼくにまったく同じ気分を伝染させた。ぼくたちは並びながらばたばたと闇雲に手足を動かして布団の中を前進するしかなかった。けれども、寝具に完全な状態で囲まれた狭い洞窟のような通路は終わりなく続いていくばかりで、出口は永遠に見えてこないように思えてきた。本当にこれはいったいどういうわけなのか。頭に被さる羽布団も今はとても重く感じる。ぼくは怖くて怖くて仕方なかった。無限とか、果てのないということが、こんなにも怖いものだとは知らなかった。パニックに陥ったままどんどん先を進む凛に、ぼくは付いていくのがやっとだった。伸ばした手が川魚のように滑らかな凛のふくらはぎをつかんでしまうこともあった。凛の肘がぼくの顎に、凛の踵がぼくの股間に命中することもあった。

 どのくらいベッドの上を這い進んだだろう。百メートルは進んだと思う頃、凛が鼻をすすっているのが聞こえた。がくんと這うスピードが落ち、凛はベッドの中で本格的に泣き出してしまった。くぐもった声で、出られなくなったここから出られなくなった、と繰り返し訴える凛を、ぼくは胸を突かれた思いで見つめていた。懐中電灯が灯す明かりの中、目の前で泣いているのは、ひとりの弱々しい女の子だった。そんな凛を見たのは初めてだった。

 気が付いたらぼくは凛の腕をつかんでいた。

「がんばろうよ、もう少しだから」

 けれども、凛はぐにゃりと力が抜けたように項垂れて、もう無理だよ、どれだけ進んだってもう出られないよ、と呟いて、電池が切れたようにその場にへたり込んでしまった。

「あきらめるのはやめよう。凛、あきらめたら本当に出られなくなるぞ」

 それでもかぶりを振っている凛に叫んだ。

「絶対出られるから、ぼくが凛を絶対に出してみせるから!」

 ぼくは布団を押し上げ、一歩一歩確実に前へ進むことに意識を集中した。懐中電灯を消し、外の明かりが少しでも漏れていたら見つけられるようにした。凛の体をしっかりと引き寄せ、ときどき励ましの声を掛けた。この暗く狭いところから、女の子を光溢れた明るい場所に連れ出すこと。ぼくの頭の中を占めているのはそのことだけだった。布団の中は暑かった。腕相撲でぼくを負かしたことのある凛の腕が今はとても細く感じる。どうしてそんなことを思ったのだろう。こんなときに。

 突然、頭の上がすっと軽くなり、目の中に大量の光が入ってきた。真っ白な光の洪水にぼくは目を開けていられなかったけれど、ひんやりとした新鮮な空気が吸えることからも、外に出られたということはわかった。凛のお母さんが布団をどけてくれたのだ。ぼくたちは助かった。酸素不足で頭がおかしくなったのだとか、ベッドの中で同じところをぐるぐる回っていたからだとか、あとになってこのときのぼくたちの様子を大人たちは説明してくれたけれども、ぼくには不思議な出来事の正体などどうでもいいことだった。ぼくはこのとき、とても満ち足りた気持ちだった。そして、布団から抜け出そうとしている間、ずっと心の中にあの母さんからのミッションが聞こえていたことを思い出していた。

〈男の子は強くなくっちゃいけない。女の子を守ってあげられるようじゃないといけない〉

 けれども、その声は母さんの声ではなかった。それは、はっきりとぼくの声で聞こえていたのだった。

◇◇

 母さんがまた浴室の扉をそっと開けて顔を出した。かろうじて聞き取れる声で「国際電話だから長電話はダメ。ご迷惑だから。わかった?」と言っている。

 ぼくは頷きながら母さんに指を振ってみせ、電話の向こうにいる凛と話を続けていた。

——うん、うん、うっせーよ。ははは!

——だから帰って来いよ。おまえならひとりで来れんだろ。

——うっせーよ、ばか。ばかか。俺は行けねーよ。

 まだ浴室の扉を閉めていない母さんは、ぼくが汚い言葉で電話をしているのを咎めたい様子だった。けれどもぼくはこのとき、母さんにこう伝えたかったのだ。いいんだよ、電話の相手は凛なんだ、凛とはいつもこうだったんだ、久しぶりなんだよ、だから大丈夫、凛なんだよ、ぼくの一番大切な友達なんだ。

——くっそ頭きた! そうだよ、変声期だよ、ははは! うん、うん。

——うっせーばか、うっせー。うん、うん、なんだよそれ。ははは! あったーきた、あったーきた!

 ぼくは磨りガラスの扉にお湯をかけるふりをして、聞き耳を立てている母さんを追い払った。このあとに言うことを、誰にも聞かれたくないと思ったからだ。それは、ちゃんと約束を守ってぼくのところへ連絡をくれた凛に、前から言おうと思っていた言葉だった。ぼくはコードレス電話の子機を口元に近付けて、囁くように言った。

「待ってるからな、凛。ずっと会いたかった」

(了)


四百字詰原稿用紙約24枚(8914字)


この作品は前編と後編に分けて発表しましたが、ひとつに統合しました。(作者)

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