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森村誠一『人間の証明』《砂に埋めた書架から》25冊目

 叔母が読み終えた『人間の証明』の文庫本を、当時、小学生だった私は譲り受けた。叔母は、私の身内で唯一の読書家である。しかし、私には大人向けの小説は難しい気がして、そのときは手を出せなかった。

『人間の証明』という小説は、角川映画の宣伝とともに売り出された。有名なキャッチコピーを記憶している人も多いかも知れない。その後、この作品は幾度となく映像化されたが、私は一度も観る機会を持たずに来てしまった。
 今回、新たに書店で文庫本を購入したが、それまでこの小説のストーリーをほとんど知らなかったことは、ミステリー作品の出会い方としてはまことに幸運だったと思う。

 東京のロイヤルホテル42階のレストラン、スカイダイニングのエレベーターの中で、黒人の青年が息絶えた。胸には深々とナイフが突き立てられていた……。

 この衝撃的な小説の導入部は、「ストウハ」「キスミー」など、死の間際に謎のキーワードを残していったこの黒人青年の哀しみを、もっとも昇華させたシーンである。小説のラストで真相が明らかにされたとき、この導入部のシーンが再び読者の胸を震わせ、涙を誘わずにはいられない仕掛けになっている。

 考えてみれば、実に秀逸なタイトルではないだろうか。この物語に登場するそれぞれの人間には、個別の物語が背負わされている。事件を追う若い刑事、棟居弘一良の過去。妻が謎の失踪を遂げた小山田武夫の失意。政治家と教育評論家を親に持つ郡恭平の屈折。そしてニューヨークでジョニー・ヘイワード事件を捜査する白人刑事ケン・シュフタンの虚無。
 これらが支流となり、最後にひとつに束ねられて「人間の証明」というテーマに向かって大きな奔流となるところは圧巻である。

 1970年代の作品のため、現代人が読むと古さを感じさせるところはあるだろう。けれども、現在においても解決されない社会問題が、厳然とこの小説中に記され、取り上げられていることに、私は愕然とした。こういう素材を小説の中で提出するのが、社会派ミステリーの真骨頂であり、存在理由なのだと思う。

 ミステリーというジャンルが持つ性質のためか、塵一つ残さず綺麗に伏線を回収するのは見事というほかなく、そこまで綺麗に話を収斂させなくてもいいだろうに、と最後のオチなどに関して、マニアではない普通の読者である私などは思うわけだが、しかし、このきっちりとした収まりの良さこそ、当時の読者に強烈なカタルシスを与えたことは間違いないと思う。

 それにしても、作中に引用される西条八十の麦稈帽子の詩は、この作品が与える感動の、六割を占めるほどの傑作ではないだろうか。


書籍 『人間の証明』[新装版]森村誠一 角川文庫

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■追記■

 この書評(というよりは感想文)は、2004年6月に作成したものです。

 この作品を読むことにした具体的なきっかけは、2004年7月にフジテレビ系列により連続ドラマとして放映されるというニュースに接したことにありました。テレビで予告が流れたとき、主演の竹野内豊がとてもいい雰囲気を醸し出していて、すごく興味が湧いたのです。先にドラマを観てしまったら原作は永久に読まないかも知れないな、とこのとき私は思いました。叔母からもらった文庫本はとうの昔に紛失してしまったけれど、いい機会だから小説を読んでみよう、と急に思い立ったのです。

 映画の『人間の証明』は、メディアミックスを戦略とした角川映画の第二弾として、1977年に松田優作主演で上映されたのが最初です。映画と原作本の両方をヒットさせるための名キャッチコピー、「読んでから見るか、見てから読むか」が生まれたのも、このときでした。
 このキャッチフレーズは、本読みの人間にはインパクトがあったと思います。映画を観る前に、原作を読んでおこうかどうしようかという極めて個人的な問題を、明確に具現化させてしまったからです。

 本を読むことが好きな人は、原作を読むことは厭わないものですが、そういう人でもこの選択肢に密かに悩んだ経験はあると思います。特に推理小説が原作の場合は、事件の犯人は誰か、というミステリーの肝といえる部分が判明してしまうため、そのあとに鑑賞するのがどちらの場合であっても、もはやまっさらの状態で作品に向き合うことは不可能です。新鮮な驚きを望むのなら、内容を完全に忘却するのをひたすら待つしかありません。結局は、原作ならではの楽しみ、映画ならではの楽しみを、それぞれに見出していくしかない、というのが答えでしょう。

 小説の『人間の証明』は、2004年に新装版となって刊行されましたが、嬉しいことに文庫の解説は初版のときのものが転載されていました。横溝正史の解説です。この名前が最後にどんと載っている文庫に、特別の重みを感じてしまうのは、私だけではないと思います。

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