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8の字

短編小説

◇◇◇


 小学校時代に同級生だった腋田君は、よく蛇を殺していた。腋田君の家はすぐ後ろに山があり、水がちょろちょろと流れている小川もあったので、遊びに行くと玄関先に蛙やイモリ、ときには蛇が待ち受けていることも珍しくなかった。あれは何年生のときだったか、玄関前のアプローチに、二メートルを超える青大将を目撃したときは、息を止めたまましばらくその場から動けなかった。蛇は白く乾いたモルタルの上を悠々と横断して、生け垣の向こうに姿を消したが、このときのぼくは連結した車両がいつまでも途切れずに続く貨物列車を見送るような気持ちだった。腋田君に、たった今、大きな青大将を見たと伝えると、彼はどこで見たのか詳しく知りたがり、近くに潜んでいないことを確認すると、とても悔しがった。おそらく、見つけたら殺すつもりだったのだろう。

 腋田君と外で遊んでいると、よく蛇を殺す場面に遭遇した。棒切れで打ちのめしたり、大きな石を振り落として胴体を断ち切ったり、手でつかんで鞭のように振り回したりしているのを見たことがある。いずれも、ぼくにはできそうにないことばかりだった。彼は蛇を見つけたら殺すのが普通だと思っているようだった。

「半殺しはダメなんだ。蛇に祟られるからね」

 腋田君は蛇を殺すとき、よくそう話していた。蛇を手負いのまま取り逃がすのが一番よくない。必ず息の根を止める。それが鉄則だと腋田君は言うのだった。

 昔からの言い伝えなのか、蛇を虐めると祟られるという話は、これまでにも何度となく大人たちから警告のように聞かされていた。蛇は執念深いから虐めた人間の顔をいつまでも覚えているぞ、と脅す大人もいた。友達のお祖母さんは、蛇は神様だから虐めると罰が当たるよ、と言っていた。たしかにその家の玄関の柱には、白蛇の絵が描かれたお札が貼ってあった。とにかく、色々な人たちから怖い目に遭うとだけは言い聞かされてきたが、具体的な祟りの内容までは誰も教えてくれなかった。

 蛇はどんな風に人を祟るのだろう。あれだけ蛇を殺している腋田君ならそれを知っているのではないか。そう思って、腋田君に直接訊ねたことがある。彼は一瞬、暗い表情になり、そのあと、何度も祟られたよ、と答えたのだった。しかも、祟り方にも色々あると言うのだ。彼は秘密を打ち明けるように、ひとつだけ教えてくれたのだった。

「最近ではね、夢。蝮を殺し損ねたときがあったんだけど、その夜に蛇の夢を見たんだ。寝ていて胸が重苦しいので目を開けたら、布団の上が蝮だらけ。よく見ると机の上も本棚も、部屋中の見えるところ全部に、うじゃうじゃとたくさんの蛇が這っていた。目が覚めて全部夢だったとわかったけど、……あれは恐怖だったな」

 腋田君は他にも祟りを経験しているらしかったが、なぜかそれ以上は訊ねても教えてくれなかった。

◇◇

 どんな生き物であっても、命を奪う場面をそばで見せられるのはあまりいい気はしない。腋田君が蛇を殺していても止めはしなかったが、ぼくとしては一定の距離感を取って見ていた気がする。とはいえ、子供の時分は命に対する感覚が未分化なのか、小さな生き物を遊び半分で殺生するのは自分も経験があるし、それが残酷な行為だという意識も希薄だったように思う。あれは小学五年生か六年生の頃だったと思うが、友達四人で蛙の卵を獲ってこようという話になった。減反政策で使われなくなった水田に、蛙が大量の卵を産みつけている、と同級生の鎧戸君が教えてくれたのだ。

 山と田んぼに囲まれた田舎の小学校に通っていたので、遊びも自然を相手にしたものが多くなる。目当ての田んぼは山の麓の奥まった場所にあるというので、舗装されていない農道を、ぼくを入れた四人で自転車のサドルとハンドルをがたがたいわせながら立ち漕ぎで向かったのだった。鎧戸君の案内で到着したそこは、鬱蒼とした森がすぐそばに控えていて、日当たりが良いとは言えない場所だった。稲が植えられていないのに水が張られている小さな田んぼがいくつかあり、そこにトノサマガエルのものと思われる卵塊が、あちこちに産みつけられてあった。透明なゼリー状の球体の中に黒い種のような卵が仕込まれていて、それが夥しい数の集合体となって水面のわずか下に浮かんでいるのだ。

 四人のうちの一人、釘沼君が厚いビニールで作られた肥料袋を持ってきていた。ぼくたちは蛙の卵を素手ですくってその袋にどんどんと入れていった。実のところ、この卵の採集に意味はなかった。持ち帰ったとしても水槽で育てるとは誰も考えていない。そこにある卵を獲る、ただそれだけが目的であり、自分たちの遊びなのだった。どろりとしたゼラチン質の感触にみんなで奇声を発しながら、全部で十リットルほどの量を詰め込んだだろうか。これ以上は袋の口が締まらなくなるのでやめたが、卵は田んぼにまだいくらでも残っていた。

 自転車の荷台にカゴを付けていた万字君が、収穫した卵を運ぶ役目を引き受けた。農道を降りて舗装された林道に出たとき、万字君が「終わった」と叫んだ。見ると、袋の口を縛っていた紐がほどけて、卵の大半が路面に流れ出していた。万字君の背中がびしょびしょに濡れていて、それで嫌気が差したのか、彼は「もう諦めよう」と言って袋の中味の全部をアスファルトにぶちまけた。ぬらぬらとした卵塊が吐瀉物のように舗装路の真ん中に広がっていくのを見て、さっきまでの労働がまったくの無駄に終わったことを、そして、使い途を考えていなかった卵の行き場が決定したことを、どこか晴れ晴れとした気持ちで受け入れたのだった。

 杉林に囲まれた林道に車の往来はなく、頭上には青空が見えていた。ぼくを入れた四人は、左右の車線など気にせずに、横一列に広がって自転車を漕いでいた。ぼくがちょうど余所見をしていたときだ。前輪と後輪がごつんごつんとバウンドした。驚いてブレーキをかけ、後ろを振り返ると、乾いたアスファルトの上で黒いヤマカガシがのたうち回っていた。蛇が道路で日向ぼっこをしていることに気付かず、轢いてしまったのだ。大慌てで先を行く三人に向かって叫んだ。「蛇を轢いた! 蛇を轢いた! 蛇! 蛇! 蛇!」

 三人が戻って来て、誰かが「轢いたら殺すしかない」と言った。「半殺しは呪われる」と言ったのは釘沼君だった。鎧戸君が林道の脇から大きな石を拾ってきた。蛇をその石で潰そうというのだろう。ぼくも石を拾いに走った。自分がやらなければ祟られると思ったのだ。鎧戸君の一投目は命中したが蛇はまだ生きていた。万字君が「頭をねらえ」と叫んだ。ぼくはその言葉に従い、狙いを定めて石を投げたが、胴体には当たったものの頭は外してしまった。「まずい、8の字をかいているぞ」と釘沼君が言った。昔からこの辺りでは、蛇が胴体で「8」の字を描くのは不吉な印だというローカルな言い伝えがあるのだ。「8の字をかかせるな」という誰かの声に反応して、釘沼君自らが落ちていた木の枝を使い、蛇の胴体にちょっかいを入れて8の字を阻止した。「離れろ」と言って今度は万字君がおもいっきり石を振り落とした。石は蛇の頭に命中したが、胴体はまだ動いていた。それからは、完全に動かなくなるまでぼくが石を何度も落とし続けた。「完全に死んだ」と誰かが言って、ようやく石を離した。やってしまった、とぼくは思った。あの腋田君と同じで、自分も蛇を殺してしまった。しかも、他の三人を巻き込んで、共犯にまでさせてしまった。

「帰ろう」と言ったのは万字君だった。

 全員が自転車の元に戻ったそのとき、周囲に明るい閃光が走った。間髪入れずに耳が潰れるくらいの大きな雷鳴が轟いて、その直後、経験したことがないような土砂降りに襲われた。さっきまで青空が見えていたのに、暗雲に覆われて真っ黒になっていることが信じられなかった。

「祟りだ!」と誰かが言った。その声も雨の音に潰されながら、かろうじて聞き取れたものだった。

 逃げるように全員が自転車を出発させた。蛇はそのままにしていいのだろうか。そう思ってぼくは一度振り返ったが、舗装路が雨飛沫で白くなっているのを見たら急に怖くなり、あとは先をぐんぐんと進んでいる三人に早く追い付こうと、必死に自転車を漕いだ。

◇◇

 製造部主任の番田さん、品質管理部の毛村さん、そして検査課のぼくの三人は、社用車のライトバンに乗り込んで工場を出発してから、八時間は共に車中で過ごしていた。大手自動車メーカーに納品している金属加工部品に重大な不良が見つかり、製造ロットごとの選別が必要になったことから、遠方にあるメーカーの組み立て工場に直接向かっていたのである。鍛造の工程が多い製品で、余所では簡単に作れない特殊品だった。代替品を用意できないと生産ラインが止まるおそれが出てきたため、人手を割いてひとつひとつ検品することになったのである。手の空いている者を大急ぎで向かわせると先方に連絡を入れ、まずはこの三人が先に出発することになったのだった。

 途中、新潟にある営業所に立ち寄って、留め置きしていた在庫品を積み込んだのが、思いのほか時間をとられる結果になった。メーカーの工場には明日の朝にまで着けばいいが、なるべく距離を稼ぎたいとして夜の国道を北上していた。この時点で今夜は車中泊が決定済みだった。

 昼も夜も、海岸線から見える景色はどこも似ていて退屈になる。八時間も一緒にいると、運転席の番田主任と助手席の毛村さんとの間で話題も尽きてしまったようで、後部座席に一人で座っている下っ端のぼくに「何か面白い話をしてくれ」「眠くならないやつな」と二人が無茶振りをしてくるようになった。

 営業所に寄る前、関越自動車道のパーキングエリアで休憩しているとき、ライトバンの下に蛇が潜り込んでいるのを見つけた。体長一メートルほどの縞蛇だったが、なぜか車の下から出て行く気配をみせなかった。それもそのはずで、蛇は尻尾近くの胴体をタイヤの下敷きにされていたために動けなかったのだ。

 ぼくは今日の昼間に起こったその出来事を思い出し、小学校時代に経験した蛇にまつわるエピソードを二人に話して聞かせたのだった。

「昼間の蛇、あれは縞蛇という名前だったのか」ハンドルを握っている番田主任が言った。

「はい、ぼくの名前と漢字が一緒です」

 そう教えると、二人は大袈裟に感心してくれた。

「それで縞くんはさ、蛇の祟りって本当にあると信じてるの?」

 助手席の毛村さんが、わざわざ後ろを振り返ってそう言った。ぼくの話を疑っているわけではなく、純粋な興味から訊ねている感じだった。

「半半です。ただ、今でもあのもの凄い土砂降りに見舞われた衝撃は忘れられないですね。最高のタイミングで降り始めて、あのあと、わずか一分くらいでぴたりと止んだんですから」

「そりゃすごいね」と番田主任が前を向いたまま頷いた。毛村さんも唇をすぼめて目を大きく開けていたので、驚いてくれたのだろうと思った。続けて番田主任が言った。

「縞は、出身どこだっけ?」
「山形です」

 すると、毛村さんがまた後ろを振り返って、「さっきのさ、蛇が『8』の字をかくとまずいって話、あれは縞くんの地元独特のものなの? それとも全国的?」と質問してきた。

「わからないです。余所でも似たような言い伝えって、あるんでしょうか」

 ぼくも答えながら疑問を口にしていた。すると毛村さんは、番田主任の方を向いて「昼間の蛇も……この車の前輪に踏まれた状態で8の字をかいていませんでしたか……」と怖い話でもするようなトーンで言った。

「8の字になっていたかもな。縞、何とかしてくれ」

 番田主任が笑いながらそう言うので、ぼくも愛想笑いをするしかなかった。

「蛇の祟りって、もっと怖い目に遭うのかと思っていたけど、縞くんの話を聞くと悪夢や土砂降りくらいで済むようだからちょっと安心したね」

 毛村さんがペットボトルのお茶を一口含んだあと、ほっとしたようにそう言う。これにもぼくは愛想笑いで応え、蛇の話はそれで終わりになった。

 夜の海岸線は相変わらず似たような景色が続いていた。まるで狐か狸に化かされて同じところをぐるぐると回っているような感じだった。ライトバンを運転している番田主任が、突如ウインカーを右に出して、国道から細い小路に曲がり、黒松に囲まれた傾斜のきつい坂道を上り始めた。しばらく進むとがらんとした広場のような場所に着いた。舗装した地面に消えかけの白線が引いてあることから、近くにある保養所か何かのだだっ広い駐車場のように思えた。車や人の気配はなく、全体的に真っ暗だった。唯一明るいのはジュースの自動販売機と数本の外灯のみで、あとはやみ夜とそれよりも濃い色の黒松の林があるだけだった。

「だめだ、眠い。ここで寝る」

 番田主任が自販機の正面に車を止めると、そう言ってサイドブレーキを引いた。社用車のライトバンはマニュアルシフトで、ぼくも毛村さんもAT車しか運転ができなかったために、番田主任はずっと一人でハンドルを握ってきたのだった。

「ここまで来たら、向こうの工場には一時間もかからないはずだ。明日の朝まで寝よう」

 もちろん、毛村さんもぼくも、番田主任の判断に従った。どうしてこんな辺鄙な場所を選んで寝ることにしたのかは疑問だったが、車の往来が激しい国道付近の駐車場と比べたら、ここが静かで眠りやすいのは間違いなかった。前席の二人は背もたれを倒し、ぼくは一人で後部座席に寝そべる体勢になった。荷室には在庫品が積んであるので、後ろの席を倒すのは我慢しなければならなかった。

「眩しいな」
「眩しいですね」

 番田主任と毛村さんが、同じ反応を示した。自販機の煌々とした明かりを避けて、一旦、車を移動させた。駐車場の隅を選び、黒松の林に向かい合う形で車を止めたが、今度は斜め後ろから差し込む外灯の明かりがやはりうるさく感じられ、再度、移動させることになった。

「ここにしよう」

 番田主任は、四方を囲んでいた黒松の林が唯一途切れている場所を選んだ。先ほどは、正面に見えていた真っ暗な黒松林がこのうえなく不気味だったが、ここなら正面に夜空が望めて開放的だし、美しい黎明の眺望と共に目覚められる。おそらく番田主任も同じことを考えてここに決めたのだろう。しばらくして、二人の鼾が聞こえてきた。ぼくもそのあと、嘘みたいにすとんと眠りに落ちた。

 それから何時間が経過しただろうか。夢を見ていたわけでもないのに、妙な胸騒ぎがして目が覚めた。強い尿意もある。フロントガラスに目を向けると、青紫に染まった雲が白々とした空に横たわっていた。もぞもぞと這い出して、まだ寝ている二人を起こさないように車のドアを開けて外に出た。昨夜はわからなかったが、ここは廃業した旅館が使っていた駐車場のようだった。看板はあったが、白く塗り潰されている。ざっと見回したところ、トイレもないようだ。仕方がないので立ちションをしようと車の前に近付いたら、心臓が凍りついた。体に制御できない震えが起きて、頭がパニックになった。

 見間違いではないのか。そう思って車の前輪に近付いて目を凝らしたが、何度見ても同じだった。信じられないことだが、前タイヤの下から舗装された地面がなくなっている。前輪にわずかばかりかかっているが、そこから先に地面がないのだ。振り返って辺りをよく見ると、風雨に汚れた黄色いロープと、倒れて転がっているカラーコーン、そして立ち入り禁止の札が数枚、近くの地面に散乱していた。

 ここだけ黒松がないのは、かつて土砂崩れがあったからではないだろうか。土砂もろとも黒松が落下したに違いない。ここから先は奈落だ。ぼくの目には、少しの震動も与えてはいけないように映った。車がぎりぎりの位置で踏みとどまっているのが不思議なくらいだった。髪の毛一本の差でバランスを保っている。後ろに積んだ荷物がなかったらどうなっていただろう。まずは後輪にタイヤ止めを施すべきだが、ここには代用できる石ころがひとつも見当たらない。そんなものを探している間に転落したら取り返しがつかない。先ほどは無視していたが、地面に落ちている立ち入り禁止のために張られていたロープが、8の字を描いているのが妙に気になって仕方がない。いやいや、何をおいても寝ている二人を起こすのが先だろう。自分にできるだろうか。崩落はおさまっていない。わずかな振動も許されない。けれども、依然として体の震えが止まらず、さっきから一言も声が出せないのだった。

(了)


四百字詰原稿用紙約十八枚(6,661字)



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