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掌編が難しい【エッセイ】

 何ヶ月も前から、掌編小説を書こうとして苦吟している。削ぎ落とした文章に憧れがあるのだ。

 ところが、出来上がってみれば、いつも二十枚前後の短編になってしまう。掌編と呼ばれるほど短いものができないのだ。たぶん、ものを書くときのそういう「筋肉」が、自分の体に付いてしまったのだと思う。これではいけない。

 長編には長編の難しさがあり、短編には短編の難しさがある。ショートショートは、掌編と同じ分量の文芸作品だと言えるが、アイディアと最後のオチが決まらないと成り立たない特殊な難しさがある。では掌編を書くことの難しさとは何か。私はまだそれに答えることができない。自分にわかるのは、少なくとも掌編小説の完成形は、削ぎ落とされた文章でできている、ということだけである。あとはすっぽりと隘路に嵌まったように抜けられない。だから苦吟するのだろう。

 自作を紹介するようで申し訳ないが、noteに掌編と呼ばれる分量の作品を、私もこれまで発表してこなかったわけではない。挨拶に行く前夜(391字)、ルンナは夜明けまでに(約716字)、桜の魔術(約1,340字)。四百字詰原稿用紙に換算すれば、それぞれ約一枚、二枚、四枚である。ところが、これら三作とも違う作り方で仕上げていることから、自分の中で掌編の書き方がいまいちつかめていないのだ。

 具体的にいうなら、一番短い約四百字の小説は、構想の段階で膨らんだところを削り、執筆時に文字数をコントロールしながら書いた。

 原稿用紙二枚分の小説は、元は二十枚あった短編の九割を削ることで、完成品に辿り着いた。

 一番長い原稿用紙四枚の小説は、二枚分で構想したものが予想以上に膨らんで、たまたま倍の長さになった。

 以上のことから、私が次に掌編を書くには、また一から新しい書き方を自分なりに模索しなければならないということだと覚悟した。簡単ではないが、挑戦は続けたい。

 手元に『新潮』二〇一八年四月号がある。この雑誌には、このたび新発掘された川端康成坂口安吾の掌編がそれぞれ掲載されている。安吾の未発表作『復員』は、発売したときに真っ先に読んだが、四百字にも満たない作品なのに、ずしりとくる読み応えはさすがと言うしかなかった。川端の未発表作『名月の病』は、今し方初めて読み、仰天した。なんという奇怪な掌編だろうか! 同雑誌に掲載されている解説によると、川端のおよそ千字のこの掌編は、『伊豆の踊子』と同年に発表されたものらしい。言われてみればあの名作と似通った雰囲気がある。さらにギリシャ神話か中国の故事を踏まえて綿密書かれたもののようだ。このような作品が百年近くも前に書かれ、長らく埋もれていたわけかと、嘆息した。

 そういえば、『掌の小説』というのが川端康成の作品にあったと思うが、私は一度も読んでいない。読んでみたいが、影響を受けそうなので、読む前に何とか一編、自分なりの掌編を仕上げてみたいという願望はある。

(詰まるところ、自分は今、創作の「迷路」に嵌まっているのだ……)



◇◇◇

〈追記〉

■坂口安吾『復員』は現在、青空文庫で読むことができるようです。YouTubeでも朗読している方がいらっしゃいました。

■川端康成『名月の病』は、今のところ『新潮』以外で読めるところは探すことができませんでした。


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