見出し画像

オキノタユウ

短編小説

◇◇◇

「アホウドリ」 ミズナギドリ目アホウドリ科 学名Phoebastria albatrus

北太平洋に分布し、伊豆諸島の鳥島を主な繁殖地とする巨大な海鳥。
成鳥は全長が約九十センチ。体重およそ七キロ。翼を広げた長さは二.五メートルにも達する。嘴は桃色で、毛は頭から首にかけて山吹色、翼の上面と尾羽の先端は黒いが、それ以外は全身純白の羽毛を持つ。雌雄に色の違いはなく、体格の差もわずかで見分けは難しい。大きく細長い翼を活かして巧みに風を受け、グライダーのように海上を滑空する。その飛行距離は一日五百キロに及ぶこともあるという。

◇◇

 アデルが休日はデートもしないで、一日の大半を市立図書館で過ごしていると話すと、大抵の友人たちは驚く。続けて、そんなに長く図書館にいて何をしているのかと問われ、これもアデルが正直に「クラシックブックを読んでいる」と答えると、友人たちの驚きはさらに大きなものになる。何かストレスを抱えているに違いないと心配した親友のクリスティーナからは、男の子たちを招待してパーティーを開くから絶対にきて、と言われ、親切なジムからは、相談事があったら気軽に声をかけてくれ、君の好きなフルーツタルトの美味しい店を最近見つけたんだ、と言われてしまう。

 友人たちはみんないい人ばかりだ。いざというときにアデルが頼りにするのは、彼らたちであることは彼女自身もわかっている。だが、アデルは悩み事を抱えて図書館に逃げ込んでいるわけではない。純粋に、本を楽しむために訪れている。それも、最新の全感応型能動VRシステムではなく、クラシカルなタイプのVRブックだ。前世紀のテキストと図版、そして映像を3D化し、その情報を仮想空間に構築したVRブックシステムの方である。専用のチェアに体を沈ませ、グラスをかけてログインすれば、テキストで表現された内容がビジュアルに翻訳されて眼前に出現する。最新のVRブックと比べて、触れたり持ち上げたりといったこちらからの作用には反応しないし、本の中に登場する人物に話しかけることもできない。常に受動的な観察者でいなければならないという旧式の仕様だ。最大の難点は、全身を包み込む大袈裟な装置がないと“読書”ができないことだろう。アデルがクラシックブックを読むために、専用チェアの設備がある市立図書館に通っているのはそのためだった。

 貸出ブースにいた司書のサクラコさんが、アデルが差し出したIDパスに使用許可の図書コードを入力しながら、「珍しい本が入荷されたけど、興味ある?」と笑顔で訊いてきた。アデルがはにかみながらしばらくの間逡巡していると、サクラコさんは「古物と侮るなかれ、『源氏物語』のVR改訂版なの。版を重ねるごとにだんだんとマッチョな体つきになっていた光源氏だけど、この第九版でようやく元の嫋やかな光源氏のビジュアルに戻ったのよ。衣裳の配色も当時の染料による色彩を忠実に再現しているわ。どう、興味が湧いてきたでしょう?」と早口で語った。

 銀色の髪を上品に束ねているサクラコさんはこの図書館で最古参の職員だが、気持ちが若く、普段から上機嫌なので、アデルにとって話しやすい人だった。

「興味はもちろんあります。でも今は、ノンフィクションの方が気になってて」

 アデルがIDパスを受け取ったあとに恐縮しながらそう答えると、サクラコさんは少女のように笑って頷いた。

「いいのよ、読みたくなったらいつでも言って。小泉八雲の『鳥取の布団』も、改訂版を掘り出してアーカイブに入れてあるから。兄弟の声を演じる声優が、初版本と違ってるの」

 サクラコさんに見送られて、アデルは読書チェアのある個室へ向かった。

 小泉八雲はアデルが最初に親しんだクラシックブックだった。このときの読書体験が、古い日本文化に興味を持つ入り口だったことを、アデルは全身を優しくホールドする椅子に横たわりながら回想した。自分の先祖に日本人がいて、その日本人の血が自分の中に流れている。日本の古典や歴史本との出会いは、そのことをアデルが意識し始めるきっかけでもあった。まだ訊ねたことはないが、日本文学に精通している司書のサクラコさんも、先祖に日本人がいるのかも知れない。アデルはそんな気がしてならなかった。先週から熱心に読み始めている『アホウドリ』のノンフィクションを勧めてくれたのも、サクラコさんだった。自分のような十代の女の子が、クラシックブックの、しかも日本に関する本を読みにくるのは珍しいのだろう、とアデルは思った。

 専用グラスを装着し、瞳の動きでアーカイブからブックデータを呼び出すと、アデルは深い眠りにつくような気持ちでログインした。

◇◇


 人間が絶滅させた動物の種類は数多い。過去五〇〇年の間に絶滅した動物は、推定で一四〇種、いちばん多く見積もって二八〇種もいるそうだ。日本では、虐殺されて絶滅寸前となり、現在、天然記念物・国際保護鳥に指定されるほど数が少なくなってしまったアホウドリがいる。ご存じでもあろうが、このアホウドリは、かつて伊豆七島の北鳥島で繁殖していた。数十万羽もいたというからたいへんな数である。
(中略)
ところが現在では、わずかに五〇羽前後がほそぼそと生きながらえているに過ぎない。数十万羽から、一〇〇年も経たぬうちにたった五〇羽。たいへんな減りようである。

筒井康隆『私説博物誌』(1976).

◇◇

 読書中のアデルは、明治時代の鳥島に降り立っていた。

 上空から見下ろした鳥島は、直径二.五キロの円形をした小さな火山島だった。辺りに他の島影は見当たらない。まさに絶海の孤島という呼び名が相応しい場所にぽつんと存在しているのだった。島に近付くと、地表に夥しい数の白く蠢くものが確認でき、アデルが仮想空間にある島の定位置に着地したときは、その正体が繁殖のために集まった無数のアホウドリたちであることがわかった。彼女がそばに寄っても、鳥たちは慌てる様子がない。逃げるにしても、せいぜい肥えた体をよたよたと揺らして歩き去る程度だった。中にはアデルに興味を示して、目の前で翼を広げて胸を張り、奇妙な動作を始めるものもいた。それが求愛のダンスであることを、彼女は直感で理解した。VRブックシステムに収録してあるテキスト情報は、特殊なリーディング信号に変換されて脳の海馬に送られ、短期記憶として貯蔵される。アデルが初見のものでも直ちに理解できたのは、このブックシステムによって、情報が正しくフィードバックされたということなのだ。

 それにしても、なんて大きくて、美しく、優雅な鳥だろうか、とアデルは思う。夏の間、アホウドリは太平洋上を飛んでいるか、海面に浮かんで過ごしている。遠くアリューシャン列島からベーリング海にまで羽を伸ばし、餌を十分に取り込んで体に栄養を蓄えると、毎年十月の繁殖期に鳥島へと戻ってくる。そして、卵をたった一個だけ産んだあと、その貴重な卵を夫婦で交代しながら抱いて温めるのだ。アホウドリは一度つがいになると、死ぬまで添い遂げるという。アデルは、知れば知るほどアホウドリのことが好きになっていった。

 島にこれだけたくさんのアホウドリが群がっているということは、この仮想空間の時間は十月の下旬頃に設定されているということだろう。定位置から観察しているアデルの周囲の風景が切り替わり、島内のすすきが繁茂しているアホウドリの営巣地にジャンプした。アデルは、何となくこの場所に嫌なものを感じた。どこからか、これまで聞いたことのないようなアホウドリの騒がしい鳴き声が耳に届く。そして、顔をしかめたくなるようなひどい匂いが漂っていた。アホウドリは危険な目に遭うと、敵を驚かすために体内から悪臭物を吐き出すという。その匂いだろうか。そう思った直後、アデルは暴れているような羽ばたきと、悲鳴にも似た鳴き声との間に、どすっという鈍い打擲音を聞いた。アデルは恐ろしい予感に襲われた。

 すすきが左右にかき分けられて倒され、人間の影がぬっと現れた。棍棒を手にした男性だった。アデルは男のもう片方の手に、水掻きのある脚がつかまれているのを目にした。まだ温もりが残っていそうなアホウドリの亡骸だった。無残にも頭が潰されて鮮血が滲んでいた。アデルは強いショックを受けて、体ががたがたと震えだした。男は次の標的を見つけたのか、一番近くにいたアホウドリに駆け寄り、棍棒を振り上げた。何をするの! アデルは心の中で叫んだ。鈍い音。鳴き声。鈍い音。男は体の向きを変え、さらにもう一羽に素手でつかみかかった。逃げ足の遅いアホウドリは簡単に捕まり、首を押さえられた。男は棍棒を高々と振りかざした。やめて! 気付いたら、アデルは男に突進していた。読者がVRの世界に干渉できないことは十分に知っているのに、アデルは突進して、男に体当たりをせずにはいられなかった。何の手ごたえもなく男の体を素通りしたアデルは、背後でアホウドリの絶命する声を聞いた。

 なぜこんな酷いことをするのか。アデルは激しい怒りとともに、涙が止まらなかった。外敵を知らない、無垢な心のアホウドリが可哀想でならなかった。アデルはゆらゆらと草原を歩いた。なだらかな丘陵の上に辿り着き、ふと反対側に下りている広い斜面に目を向けた。雪原のように無数のアホウドリが群がる中、あちこちに人間がいて、その一人一人が怖がることを知らないアホウドリを次々と撲殺していた。アホウドリの命を奪うのに、銃も罠もいらなかった。アデルは、アホウドリを殴りつけていたさっきの男の目を思い出した。喜悦も憐憫もそこにはなかった。何の感情も見つけることのできない無心の目で、男は棍棒を振り下ろしていた。

◇◇


明治の始めごろ、この北鳥島のアホウドリの大群を見た人は、それがどんなに壮観であったかを語っている。アホウドリがいっせいに飛びあがると、島そのものが空へ浮かびあがるようであったともいうし、天まで届く純白の柱が海面から立っているようであったともいう。これを付近のひとたちは鳥柱などと称したらしい。

同『私説博物誌』より.

◇◇

 江戸時代に、船乗りや漁師が遭難してこの無人島に流れ着き、救助されるまでアホウドリを捕まえて生きながらえた、という話は数多く残っている。のちにジョン万次郎という名で知られる土佐出身の中浜万次郎も、その一人だ。漂流者たちにいくら食べられたところで、数十万羽もいる個体に影響はない。アホウドリが著しく減少した大きな原因は、羽毛を目当てにした乱獲だった。八丈島の実業家、玉置半右衛門が明治二十年に鳥島に玉置商会を設立し、本格的な羽毛採取を始めた。綺麗で質の良いアホウドリの純白の羽毛は、外国に高い値で売れたという。羽毛ラッシュに賑わう島で、アホウドリは大量に殺戮され続けた。山となって積まれたアホウドリの死骸を運ぶためだけに、島内には鉄道まで敷設された。明治三十五年に鳥島の火山が大爆発を起こし、このとき島にいた人間は全員死亡したというが、それまでに少なくとも五百万羽は殺されたとみられている。明治三十九年にようやく保護鳥に指定されたアホウドリだったが、その後も密かに羽毛は採取され続け、昭和八年に鳥島が禁猟区になるまで密猟は絶えなかったようだ。記録によれば、このとき生息していたアホウドリの数は、わずか数十羽だったという。

 アデルはグラスを外して、涙を拭った。

◇◇

「まあ、あなた大丈夫?」

 個室から出たアデルは、泣き腫らして目が赤くなった顔を、サクラコさんから見られてしまった。アデルは笑顔で応えた。

「何でもないです、もう大丈夫です」
「あなた、『アホウドリ』の本を読んでいたでしょう? ごめんなさいね、残酷な場面もある話なのよね。私も迂闊だったわ」

 顔の前で申し訳なさそうに手を合わせているサクラコさんに、アデルは首を横に振った。

「違うんです。私、感動して泣いたんです。あの本を最後まで読んで、本当に良かった。サクラコさん、素晴らしい本を紹介して下さってありがとうございます!」

 アデルは、目の前にあったサクラコさんの合わせていた手を、気付いたらぎゅっと握りしめていた。

 たび重なる火山の噴火と人間による乱獲で、一時、アホウドリは絶滅宣言を出されてしまう。普通、野生動物の個体が百以下になると、絶滅の流れは止まらなくなる。だが、アホウドリに救いの手を差し伸べる日本人研究者が現れた。保護活動を通してアホウドリ復活の願いは徐々に広がり、多くの人から協力が得られ、その結果、絶滅宣言からおよそ七十年後の平成三〇年には、四五〇〇羽まで個体数が増加したという記録が残っている。

「サクラコさん、私には兄がいるのですが、その兄が小さい頃に両親から、私たちの先祖に日本人がいる、と聞かされたそうなんです。私、あの本の途中まで、日本人のことが嫌いになっていました。でも、今はとても好きです。何としてもアホウドリを元の数まで増やすんだという情熱、執念、粘り強さ、そして責任の取り方がじんじんと伝わってきたからです」

 サクラコさんの表情が一瞬、くしゃっと縮まった。そのあと手の甲で鼻を押さえ、「やだ、急に。泣かせないでよ」と目尻に皺を作り笑った。

◇◇

 アデルの身内は、今は兄だけになっている。兄は昨年より北方に働きに出て、会えるのは年に二回程度だ。でも、寂しくはない。自分はよい友達に恵まれている、とアデルは思う。

 両親を事故で失い、施設に引き取られるまで、アデルは兄と火の気のない部屋で、一枚の羽布団にくるまりながら冬の一ヶ月を過ごした。子供のときのこの体験が、『鳥取の布団』の話と重なって、日本に対する関心が大きくなったのだった。そして、あの『アホウドリ』の話を読んだとき、アデルは自分の中にある内なる日本というものが、ここに凝縮されているように思えてならなかった。一介の研究者の手によって書かれた、二百年も前の古いノンフィクションではあるけれど。

◇◇

 見物客で賑わう桟橋には、クリスティーナが先に来ていた。ジムは背が高いので、遠くからでもすでに来ていることがアデルにはわかっていた。アデルは混雑している人波をうまい具合にすり抜けて、ジムとクリスティーナの二人と合流した。

「今日は島に風があるそうよ。海面から上に向かって吹いてくるやつ」

 興奮気味に話すクリスティーナの言葉に、アデルも嬉しくなって応じた。

「わあ、最高の風ってわけね」

 二人の会話が耳に入ったのか、遠い沖の方に目を向けていたジムが振り返った。

「すべての条件が揃っている。今日は必ず飛ぶよ。賭けてもいい」

 自信たっぷりに話すジムにも、アデルはすぐさま反応する。

「賭けなくていいよ。だって、私も飛ぶと思っているもの」

 アデルは朝早くこの町の港にやって来た。桟橋に集まっている多くの人たちは、皆、ここから三キロほど離れた沖にある鳥島を見に来ているのだ。鳥島は、二百年前まではまだ絶海にぽつんとある孤島だった。アデルはそのことを、図書館にあるクラシックブックで知った。

 大規模な地殻変動が起きて、北半球の太平洋にいくつもの島が誕生した。海底火山が噴き出して、そのまま陸地になったところもある。新大陸の誕生は、これまでの地政学を塗り替え、国家の枠組みを大きく揺さぶる事態を引き起こした。

 人間という生き物は、個体の数が増え過ぎると、戦争という手段で自然に仲間の間引きをはかる遺伝子プログラムが作動するようだ。

 アデルは、そんな地球の歴史が経過したあとに生まれている。太平洋の周辺にあった旧大陸には、様々な名前の国家があったという。アデルはその中でも、かつては日本と呼ばれた島国に、最近は関心がある。ここから肉眼で望める直径二.五キロの小さな鳥島に、現在のような奇跡を復活させた国。そのための努力を続けてきた人たちが築いていた国。

「オキノタユウが飛び立ったぞ!」

 誰かの声に、アデルは顔を上げた。

 鳥島を繁殖地にしているオキノタユウは、日本人の手で絶滅危惧種に追い込まれた巨大な海鳥だが、その後、日本人によって手厚く保護され、復活した奇跡の鳥でもある。かつてはアホウドリと呼ばれていたらしいが、いつしか、古名の「沖の太夫」と呼ばれるように変わっていった。アデルはこの呼び名をとても気に入っている。

「島ごと飛んでるみたい」

 隣でクリスティーナは感極まっている様子だった。アデルも、十万羽のオキノタユウが一斉に飛び立つ瞬間、島が真っ白に膨らんだように見えたのが忘れられなかった。自然が作ったこのマスゲームのどこかに、神々しいメッセージが隠されているように思えた。

 十万羽の白い塊は、縦に細長く伸びていき、次第に鳥柱と呼ばれる形を取り始めた。青い空に純白が映えて、吸い込まれるほど美しかった。

「アデル」

 不意に、頭の上から名前を呼ぶ声がした。アデルが見上げると、ジムと目が合った。

「アデル、君はひとりじゃないからな。いつだっておれたちがいるから。頼ってくれよ。遠慮は無用だ」

 突然、ジムがどうしてそんなことを言い出したのか、アデルはわからなかった。けれども、今は素直にその言葉を受け入れようと思った。オキノタユウは、帰る場所があることを信じて北の空から戻ってくる。鳥柱を見ていて、アデルはそのことを思い出した。

(了)


四百字詰原稿用紙約十九枚

この作品はフィクションですが、アホウドリは依然として絶滅の心配がある海鳥です。
筆者


◇◇◇

■参照・引用 参考文献

『私説博物誌』 筒井康隆 新潮文庫

画像1


『明治日本の面影』 小泉八雲著・平川祐弘編 講談社学芸文庫

画像2


■参考資料・参考WEBサイト


公益財団法人 山階鳥類研究所
https://www.yamashina.or.jp/hp/toppage.html

アホウドリ復活への軌跡|バーチャルラボラトリ|東邦大学
https://www.mnc.toho-u.ac.jp/v-lab/ahoudori/index.html

その他、様々な記事を参考に致しました。特に上記二つのサイトからは多大な知識を授かりました。お礼を申し上げます。

◇◇◇

チューリップ/『アルバトロス』

※チューリップ、13枚目のアルバム『2222年ピクニック』(1982)に収録された『アルバトロス』は、アホウドリのことを歌ったバラード曲です。
現在よりも圧倒的にアホウドリの個体数が少なかった頃に、この歌は作られています。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?