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わたしがスピリチャルを語らなかったわけ



あなたにとってのスピリチャルとはどのようなものだろう。

わたしにとってのスピリチャルは、暮らしに溶け込むごく自然なものなのだ。


それが広まったきっかけ

スピリチャルという言葉が広く使われるようになったのは、恐らく20年ほど前、江原啓之氏や三輪明宏氏が某テレビ番組で口にされるようになってからだったと思う。

それ以前、この言葉はどこかタブー視されていて、口にするだけで「なにを可笑しなことを…」とか、「大丈夫?」などといわれていた。

わたしはといえば、当時その番組を食い入るように観ていた。タブー視されていた世界が公になった、そんな気分だったし、よくわからない不思議なことにかなり強い興味を持っていた。

その番組では時空を超えた聞いたこともないような言葉がポンポンと飛び出していた。そんな言葉が気になって、どうしても観たい、そんな気分で毎週観ていた。

それでもわたしはそれを怪しい話だなとも口にしていた。こんな話をそのまま受け入れちゃいけない、騙されちゃいけない、体の奥底でそんなアラームが鳴り響いてもいた。


予言通り!

そんなわたしの長所は人の言葉を覚えているところ。もちろんそれは短所でもある。そんな特徴があるお陰で、やがて飛び上がるほど驚く経験をすることになった。

その番組では芸能人と呼ばれるゲストの前世が紹介され、その後そのゲストの近未来が語られていた。

未来の話だ。

かつて母が占いでは現在と過去しか占えないといっていた。とはいえ母は占いなどほとんどしたことがないのだけれど。

ところがその番組ではゲストの未来が語られたのだ。テレビでだ。しかもその後、その予言めいた言葉が現実となった人が複数いらした。

それは直ぐにそれと分かった人もいたけれど、数年後、あ!と驚いた人の話もいくつかあった。そう、記憶力のいいわたしはそれを驚きをもって受け止めたのだった。

そこから徐々に見えない世界は存在していると感じていたはずだ。

ただスピリチャルに関してはどうしても素直になれなかった。怪しいもの、そんな気分から抜け出せなかったのだ。

だからわたしはずっとスピリチュアルに無関心を装っていた。


無意識

さて、人は何かに取り組んでいるとき自覚しながらそれをやる。けれど無意識の領域は、何も考えていないときに突如として開くものだと感じている。

今朝、それがやってきた。

机の上の整理をしている時、「あ!そうだったのか」と思った。

それは4日前に考えたけれど答えが出なかったものの解のようなもの。

といっても丸っとした少し明るい光のようなものが不意にわたしの意識にやってきたという感じで、クリアに言葉が掴めたわけではない。感覚で何かがピンときたという程度のもの。

そこでわたしは慌てて音声配信スタエフのliveボタンを押した。

その丸っとした何かがすっかり消えてしまわないうちに言葉にしなきゃと慌てたのだ。

それは無意識の領域の言葉を、意識の世界に置き換えようとした瞬間だった。


目に見えないもの

4日前、note仲間のお一人とzoomでお話しをした。そのとき、その方に聞かれたのだ。

「どうしてumiさんはスピリチャルを否定するような言い方をするのですか?」と。その方は確か前回お話しした時にもそんなことをおっしゃっていた。よほど気になられていたのだろう。

ただ自分ではそんなことを問われてもさっぱり分からない。分からないというより、そのことに向き合ったことが無いといった方がしっくりくるのかもしれない。

だって見えないのだから。

見えないことを、どんなふうに口にしていいのか、どう表現したらいいのかわたしにはわからない。


無意識とスピリチャル

とはいえ、わたしの中では、無意識とスピリチャルはかなり近い気がしている。

その2つを言葉にするなら、無意識は自分が記憶したすべての言葉の集合体から抜き出されて表に飛び出してくる言葉のようなもの。

イメージとしてはChatGPTがインプットされたすべての言葉の中から必要なものを掬いだして行間を埋めつつそれを文字化することと似ている。

といっても、この無意識については色々な見方があるらしい。無意識の領域は個人の枠を超えて繋がっていて、それは宇宙に存在するエネルギーであるという人もいる。

けれどわたしの感覚では、無意識はわたしの中にある。自分が経験したことのないあらゆることをわたしの無意識が知っているとは思えないのだ。

そしてスピリチャルは、自分の外側からやってくるもの。こちらは全くの新しいもの。わたしの知らないものという感じ。

この2つに共通することは自分から働きかけていないということ。

それは外から、そして内から、わたしに向かって勝手にやってくる。


合図と解

言葉にすれば信じてもらえないようなことがおこることがわたしにとってのスピリチャル。だからスピリチャルとは、何かを伝えるために外からやってくる合図だと思っている。

それから、答えを出せずに次へ進んだとき、後からそのが追いかけてくることがある。それはトイレや風呂でよく起こる。だから数学に親しんでいた頃、必ずメモ帳を持って動き回っていた。なぜならその閃きは瞬時に消えるから。この解は自分の無意識のなかから掬い上げられたものだとわたしは思っている。

そして、このスピリチャルと無意識は、共に自分の思考が緩んでいるときやってくる。

けれどそれを再現することもできなければ、誰かに向かって信用してくださいというつもりもない。

ただわたしは時々それを受け取っているとしか今のところ表現しようがないのだ。


わたしの中のスピリチャル

そんなスピリチャルな経験なら幾度もしているし、幼い頃にはそれがよく起こっていた。

小高い丘の上にある地元の神社で子どもたちだけで遊んでいると、日暮れ時によく大人の姿を見かけた。けれど走って見に行っても大人はいなかった。そんな事ならいくらでもあった。

それから夕方、友達数人で泳いでいた時、プールに設置してあったコンクリートの小さな部屋の小窓から人影が見え隠れしていた。その時も確かめに行ったけれど鉄の重たいドアには頑丈な南京錠がかかっていて、そもそもそこは人が入れるようなスペースはなかった。

デジャブも繰り返し起こった。大人が口にする言葉が発せられる前からそれとわかった。誰かが口を開くと、あゝこのシーンはすでに経験済みだ!と思えることがしょっちゅうあった。

そう、幼い頃からそれはおこっていた。

そんなことを江原さんも三輪さんも当然のように受け入れていらした。けれど、わたしはいつだって「まさかね」と打ち消しながら生きてきた。「そんなばかなことがあるわけないよね」と。


確かなもの

数日前、「どうしてumiさんはスピリチャルを否定するような言い方をするのですか?」といわれた方の問い。どうにも答えられなかった。

それが今朝、ふとわかった気がしたのだ。

だからliveで話しはじめた。

その行き当たりばったりな感じではじめたliveで出た言葉は、「わたしは女性の働き方について書いたり語ったりしているので、スピリチャルは口にしたくなかったんだと思います」というもの。

つまり科学的に再現性のないものを口にすることをわたしは恐れていた、そんなことを話したのだ。

もしもそこにスピリチュアルを持ち込んだなら、苦しんでいる状況を、その女性はスピリチャル的な思考で考えはじめるだろうと。

それはその人が前世で犯した罪滅ぼしのための苦行であったり、その苦しみを超えなければその人の人生が前に進まないというサインだったり。

そんなふうに現実にある不平等な事柄や制度を、スピリチャル的思考で読み解いてしまうと、現実問題が解消されなくなってしまう、そんなことを思いながら話をした。

そう、わたしは長い間、この国の女性の働き方について疑問を持っている。

わたしが気になっているのはこの国の女性に対する歪な制度の在り方だ。そして当事者である女性がその詳細を知らされていないこと。

だからこそ、わたしが語ってきたのは確かな情報を中心としたものなのだ。それは数字であり、歴史であり、誰かが発した言葉の記録たち。

わたしは確かなもので人の心をノックしたいと思ってきた。


確かめようもないもの

ところがLiveで思うままにお喋りして数時間が経過してふと思ったのだ。

「待てよ、わたしがあのLiveで語ったのは、無意識から降ってきた解の半分だったんじゃなかろうか」と。

何か掴めたつもりで話してはみたけれど、口にしたのはその半分だった。

本当は気づいているのだ。確かめようのないものにわたしたちがどれほど苦しめらているかということに。

スピリチャルは確かめようのないものだ。けれどそんな物ならこの世にいくらでもある。

それなのにわたしはスピリチャルだけを、目に見えない怪しいものとして蓋をしてきた。


見えないけれど存在するもの

そんな見えないもの、つまり無意識とスピリチャルに共通するのは、きっと言葉だ。

内側からやってくる言葉と、外側からやってくる合図、どちらも言葉に置き換えると、その意味を受け止めることができる。

それと同じように、この国ではもう80年近くも人々が目に見えないものに縛られている。多くの人はもはや幻想だと思っているかもしれないけれど家父長制はこの国に今も生き続けている。

もちろん人々の無意識の中の話なのだけれど。

その無意識がいったいスピリチャルとどれほど違うというのだろう。

いずれも確かめようのないものだ。けれどそれでもそれは確かに存在している。


自由と縛るもの

もちろん今、この国の制度は大慌てで欧米に倣おうとしているけれど、それじゃ駄目なのだ。

そもそも欧米と日本とでは誰もが共有している意識が違う。いや、無意識が違うと言った方がいいのかもしれない、

わたしはその無意識を、自分が接したことのあるすべての事柄がストックされているととらえている。

そこには人に言われた言葉や、読んだ文字や、観た映画の会話、それから山ほどの経験が収納されている。

だから欧米と日本の無意識は違う。

欧米には人は自由であるという考えがベースにある。

それは欧米社会が契約社会であることからもよく分かる。もちろんそれはキリスト教の教えでもある。個人は弱い。ゆえに自由には生きられない。けれどそんな個人が強いものから搾取されないような仕組みが欧米社会には昔からある。だから誰もが自分には権利があると思っている。

けれど日本では個人が家の一部という考えが脈々と受け継がれてきた。人よりも家だったのだ。もちろん第二次世界大戦後、その形は無くなったけれど、それでもわたしたちはまだ自由にはなれていない。

なぜなら、わたしたちは今も無意識に操られているから。


縛る思想

わたしはスピリチャルを語ってはこなかった。それが不確かなものだから。けれどその不確かなものにわたしたちは足をすくわれてもきている。

この国に浸透する思想、それは目には見えないけれど人々の無意識に今もまだ深く刻み込まれている。

教育や、親、社会を通して、明治大正のころからそうしたものが刷り込まれてきた。それが儒教という宗教のように強い力を持つ思想だ。

その思想は女性を決して開放しない。

人は目上の人を敬い、女性は男性をも敬わなければならない。女性は社会の枠組みの下に位置する。それが社会を平和に導く最もいい考え方だと繰り返し刷り込まれてきた社会なのだ。

もちろんそれでは女性は自由にはなれない。

儒教とは序列がかっちりとしていて、仕える側がいて、使う側がいる、そんな政治的な思想なのだ。


残る無意識

高等教育を通して良妻賢母が浸透したこの国で、教育の強さをよく思う。なにしろ良妻賢母は多くの女性が支持している生き方でもある。

そんなバカな、それはもう古い話しだと思われるだろうか。いや、そんな声ならわたしはなんども耳にしてきた。女性はこうでなければと口にするのは男性ばかりではない。

子どもは女性が育てなければ可哀そう、介護を男性にさせるのは気の毒すぎる、そんな女性の声をわたしはなんども耳にしてきた。

そしてここnoteに書かれる人もいる。

地域の集会に出席したら女のくせにといわれたと。地域によっては今もまだ男性のみが地域をリードする。女性は男性とは違う場で話し合いをする。口出しなんかしてはならない。そんな地域がまだ日本中に残っている。

そんな中、地方で育った若者が東京や大阪や名古屋や福岡へと働きに出るのがこの国なのだ。だからこの国はなかなかクルリとは変わらない。

人は自由であるという欧米文化とはそもそもこの国はベースが違う。

そんなことを考えながらこの国の制度を眺めると、この国の働くための制度の多くが女性を守るという考え方をベースに作られている。女性は弱者であるという考えだ。確かに女性は社会の最下位、そんな思想が浸透した社会だ。

それではどこまでいってもこの国の働き方は男女平等にはならない。

もちろん、そんの思想から自由な人もいる。けれどそこから完全に開放されている人は実に幸せな人なのだ。

罪悪感と無意識

そんな思想をベースにこの国では家父長制が敷かれてきた。もう今ではそんな制度はありませんよといわれても、実際にはガッチリと人の無意識に、そして社会制度にそれが残っている。

そんな社会には何かがあるとずっと思ってきた。

そう、そこで生まれるのは罪悪感だと思う。

その罪悪感はわたしたちの無意識を通すことで生まれる。

無意識にそれが刻まれた女性は、目上の人にも男性にも意見がいいにくい。

仕方がないと黙り、言葉を飲み込む。その上、そんな色々を素直に受け入れられない自分を責めてしまう。

思想と教育のパワー

この罪悪感がどれほど人を閉じ込める力を持つか、誰でも一度ぐらいは経験しているはず。

そのパワーは実に巧みにわたしたちを操る。

そんなことを言ってみても仕方ないし、とか、わたしが我慢すればいいのだからとか。その諦めの気持ちを抱かせる向こう側にあるのは刷り込まれた無意識。

そこを通すことで罪悪感が生まれる。そしてその罪悪感がわたしたちにブレーキをかける。

たかが言葉。されどその言葉が人の人生にゆさぶりをかける。

それは人を一歩も動けなくする。人の口をふさぐ。だから日本の女性は、若くてもそれは不平等だと拳が振り上げられない。

罪悪感とは、こんなふうに作り出せる。

それほど思想や教育は強いのだ。


おわりに

自分の内側から言葉が聞こえてくることがある。スピリチャルは外から、無意識は内から自分をノックする。どちらも受け身だ。

そして刷り込まれた思想が、わたしたちに罪悪感を抱かせる。であればそこを取り除けばいい。そうして女性はようやく自由になれる。そしてそこに能動的にノックできるのはわたしたしかいない。

思想がわたしたちの心や体を縛ることを自覚しておく必要がある。

見えないから口にできなかったスピリチャル。見えないからこそいいにくかった儒教という思想。

けれど見えなくても影響を受けるこはがある。

必要のない刷り込みは消してしまおう。

自分のために。


※最後までお読みいただきありがとうございました。


※スタエフでもお話ししています。

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