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すとれちあ丸

今回は船の話に入る前に昭和40年代の伊豆諸島を取り巻いていた状況について少し触れたいと思う。

1960年代に「離島ブーム」といわれる現象が起こり、島嶼地域が観光地として一大ブームとなっていた。

神津島 観光絵葉書より
多幸湾の賑わい
(昭和40年代)


「離島ブーム」とはなんぞや?

それ自体は1960年代頃の若者の間で起きた旅行ブームの延長線上だった様で、最初にブームとなったのが伊豆諸島とされている。1965年頃がその始まりの様で1980年頃まで続いたというがイマイチ判然としない。何故かと言うとそれに関する回顧、懐古は散見されるがブームの研究や資料がほとんどないからで、昭和50年生まれの小生も幼少~小学校高学年位までの大混雑、ただただ大混雑(笑) しか記憶にない。

伊豆諸島東京都移管100年誌より
神津島 前浜港の賑わい(昭58)
定期船「ふりいじあ丸」と夏期増発便の「さくら丸」の二隻同時接岸


離島ブーム以前の伊豆諸島では、ほぼ大島のみが観光地として知られており、他の島々に観光客が訪れるという事はほとんどなかったそうである。大正後期~戦前にかけて東海汽船(当時の社名は東京湾汽船)が精力的に伊豆大島の観光開発をした事や、野口雨情の「波浮の港」のヒット、三原山での投身自殺の増加などがその主な所以である。 

離島ブームにより、大島以外の島にも多くの観光客が訪れるようになったのだがこちらの記事を読んで下さっている皆さんの中にも神津島や八丈島にキャンプやダイビング、新島にサーフィンに行ったり異性との親交を深め? に行ったり(笑)した方もいるのではないだろうか?
とにかく当時のハイシーズンの島は人、人、人であふれ、早朝から深夜まで喧騒や様々なトラブル、また残念な事だが観光客と島民が絡む事件等も多かった。

1953年に施行された「離島振興法」による島嶼地域の開発は島嶼住民の生活向上と産業促進を目指していた政策であると同時に交通環境の整備も掲げていた。
「特定船舶整備公団」がその前身で1966(昭41)年に発足した「船舶整備公団」(現 独立行政法人 鉄道·運輸機構)による船社と公団との共有建造、所有により国内の旅客船も急速にその数を増やして行った。
そういった施策や、折からの離島ブームにより来島する観光客も増加の一途をたどるという状況の中で東海汽船の保有船舶の整備が進んで行ったという経緯もある。

東海汽船絵葉書「楽しい船旅」より
貨客船「椿丸」
1948年建造、元中川海運の「第一照国丸」で、1959年に東海汽船へ移籍。 1977年引退~解体
東海汽船絵葉書「楽しい船旅」より
貨客船「淡路(藤)丸」
1948年建造、元南洋海運(後の東京船舶)「淡路丸」を1949年買船、1966年に「藤丸」に改名。「椿丸」と同時期を伊豆諸島海域で活躍した。 
1978年引退~解体

昭和40年代の東海汽船は「客貨分離」の方針で貨物をほとんど積まない「純客船」の整備を進め1964年就航の「さくら丸」を皮切りに「はまゆう丸」「かとれあ丸」「ふりいじあ丸」「さるびあ丸」と立て続けに5隻を投入して行った。  一方島への貨物、物資輸送は戦前、戦後すぐに建造された古参の貨客船や貨物船が担っていたが年々増加する観光客や島嶼住民の向上していく生活様式によりその輸送力も不足となっていたのではないかと考える。特に東京から南へ約300kmの八丈島方面への貨物輸送は比較的小型の貨物船、貨客船ではその役が重かったのではないだろうか。これらは全て推測となるがそういった経緯もあり、この後紹介する船が建造されたのではないか…という所でやっと本題に入ろうと思う(長いよ!)

竣工記念絵葉書  表紙
竣工記念絵葉書  2枚目
竣工記念絵葉書  3枚目
竣工記念絵葉書に添付された一般配置図


東海汽船は各島貨物のコンテナ化に伴い新たな貨客船を計画、大型貨客船「すとれちあ丸」は三菱重工 下関造船所にて建造され1978(昭53)年に東京~三宅島~八丈島航路に就航した。

すとれちあ丸 就航絵葉書①

これによって既存の投入船「ふりいじあ丸」は下田船渠にて後部遊歩甲板を撤去、デリックと貨物艙を備えた貨客船へと改装され東京~各島~神津島航路に配転された。

すとれちあ丸 就航絵葉書②

総トン数3.700t、全長110.9mという大型船型、船体中央に大きな角型ファンネル、船首にトムソン式デリック(10t)と貨物艙、船尾に5t吊りのトムソン式デリックを備えた無骨なスタイルは当時幼かった自分の目にも特異に映ったことを記憶している。

竣工パンフレット  表紙
竣工パンフレット  見開き①
竣工パンフレット  見開き②
竣工パンフレット  裏表紙

宣材写真でも分かるように船尾のデリックブーム下にはオーニングが取り付けられているが、就航初日には早くも取り外されコンテナが積まれていたという(船尾はオンデッキ積み)。

旅客定員は沿海で約2700人と東海汽船史上最大の保有船となった。 特等が12室、特一等が20室、一等和室が18区画と上級船室のスペースが多くとられている。

機関は二機二軸二舵でバウスラスター、同社初の可変ピッチプロペラとフィンスタビライザー、最大舵角45度のフラップラダーを装備していた。晩年は燃費低減設備の実証実験として船尾端バルブが取り付けられた。

船尾端バルブの概略図

個人的に印象に残るトピックはいくつかあるが、その一つは昭和天皇のご乗船が挙げられる。
1982(昭57)年11月、天皇、皇后両陛下が八丈島、三宅島をご旅行した際に八丈~三宅までをこの「すとれちあ丸」で船旅を楽しまれた。陛下は船旅が大変お好きだったというが、これが皇后様とご一緒に乗られた最後の船との事だった。

もうひとつは本船の生涯で3回経験した噴火による「避難」であろう。

1983年10月 三宅島の御山噴火、86年 大島三原山噴火、そして2000年再び三宅島 御山が噴火し、その度に多数の島民が本船で本土へ避難した。
2000人近くを一度に運べると言うメリットは災害対応でもその能力をいかんなく発揮する事が出来た。いざ避難という時に港に現れた力強いその姿に安堵された島民の方も多いのではなかろうか。

1990年代のシップガイドより
1990年代のシップガイドより

就航中は御蔵島岸壁の完成により寄港定期化の実現もあったが晩年は大島~各島~神津島航路にも投入されることもあったそうだ。
2005年に売却が決定、香港籍となり船体から上部構造物を取り払い中国~日本の造船所とを結び船体ブロックなどを運ぶ専用船「常秀丸」として数年活躍した後に解体された。


と、ここまで本船が就航した経緯の推察からその一生を長々語ったが、実は小生この船に1度しか乗船した事がないのである(!)   
表紙にした船名のアップ写真は時化による欠航で竹芝に日中停泊していた時に撮影したものであるが、全体を撮影する事はしなかった様だ当時の自分(アホ)

1989年夏  東京へ向かう「かとれあ丸2」より浦賀水道を写す
画像右手に見えるのがすとれちあ丸(豆粒!!)

いつも遠目で眺める力強いその姿に「また乗りたいな」と思いながらもその思いを遂げることが出来なかった…と言う後悔の念だけで筆を進めた事を記して「すとれちあ丸」の紹介を終わりたいと思う。

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