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「どこで死にたい?」と聞いてみた。

「どこで死にたい?」
そう聞くと、父は「病院」と言った。
まわりのひとに合わせようとしたり、《 ふつう 》をこよなく愛する父のことだから、「ふつう病院だろう」という感じで病院と言ったんじゃない?
そうおもって、イラッとした。
ちゃんとじぶんのこと、考えてよ。

しばらくして、母におなじことを聞くと、
「あんたたちに迷惑をかけなかったらそれでいい」と。

ああ。父もおなじだったのだ。
わたしたちこどもに迷惑をかけないように死ぬには病院がいちばんいい、とおもったのだろう。
そうおもうと、イラッとしたじぶんに、ことばの後ろにあるおもいに気づけなかったじぶんにイラッとした。そして、そんなこと言わないで、どうしたいかぐらい言ってほしい、と、それもまたイラッとした。

昨年、厚労省の『人生会議』のPRポスターが炎上して1日で発送中止になったことで話題になり、『人生会議』ということばを耳にしたひとも多いだろう。

もしもの時のため、自分が望む医療やケアについて前もって考え、家族等や医療者・ケアチームと繰り返し話し合い、共有する取り組みであるACP(アドバンス・ケア・プランニング)の必要性が知られていました【注; なお「もしもの時」と付いているのは厚生労働省の定義であり、本来のACPは「あらゆる年齢や健康状態の成人」が対象になります】。

https://news.yahoo.co.jp/byline/otsushuichi/20191127-00152518/より。

元気なうちに、父にも母にも聞いておきたいとおもったのだ。

でも、父も母も、「迷惑をかけたくない」の一点張り。
どうしたものなのだろうか。
もちろん、今すぐにこたえを出すものでもないし、なんども話し合って考えていく過程そのもののほうがたいせつな気がする。

以前、なにかの番組で、「わたしは延命治療は受けたくないけれど、娘が生きていてほしいというもんだから、それがわたしの生きる理由です」と、高齢の母親が言っていたという。
じぶんの意思、ではなく、家族の想いを尊重すること、それが本人の意思になるのだという。

たしかに、ひとはみんなひとりで生きているわけではない。
じぶんがどう生きたいか、それをたいせつにするのか。それとも、家族の想いをたいせつにするのか。

わたしは。

わたしは、家で死にたいとおもう。
死ぬときに、真っ白い天井を見上げてずっと暮らすのはごめんだ。決まった時間に熱や血圧を測りにきて、夜もはやくから電気を消される。朝は早くから採血に来たり、いつも誰かの気配を感じながら生きるのはつらい。
慣れたじぶんのベッドで、好きな音楽を聴いたり本を読んだりしながら過ごしたい。

ある80代の女性は、もうずいぶん昔からホスピスを予約していた(?)とかで、夫が死んで何年もひとりで人生をがんばったし楽しんできた。だから、がんであと半年しか生きられないと言われても、もうほんとうはなにもしたくないのだと、おなじ病室のひとに話していた。
だけど、娘が治療してほしいというから今まで治療をする、と。

別の80代の女性は、がんが2つあって、手術をしたからあとひとつ。まだまだ治療は続いていくの。だけど、せっかく親からもらった大事なからだなんだから、がんばらなくちゃね、と話していた。

どちらもただしい。
悲しくなるほどどちらもただしい。

「ほんとうは・・・」という本音がとおらない世界で、なんとも切なく、胸が痛くなるけれど、でも、それも、ご自分で悩みながら揺らぎながら決めたことなんだろうな、とおもうとそんな揺らぎも含めて受け止めることができたらいい・・・とおもう。

「迷惑をかけたくない」という親の気持ちと、
「親の意思を尊重したいからほんとうの本音を言ってほしい」という想いのせめぎあい。

いつだって、親の想いと子も想いはせめぎ合う。

でも、せめぎ合いながら、揺らぎながら、納得がいく場所を探していくしかない。
それにはやっぱり、話し合う、ということは避けて通れない。

あなたの人生のこと。
たいせつなひとの人生のこと。
なんどもなんども、話し合うしかないのだ。

そして、どう死にたいか、は、どう生きたいか、でもある。

だから、どう死にたいか。
ちゃんと目をそらさずにかんがえていきたい。

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