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「病人」だったわたしが、入院中に「健康」のスタートラインに立てた理由。

「もうわたしは《 健康なひと 》ではないんだな」
「《 健康なひと 》ではなくなってしまったんだな」

1年前の今ごろ、病院のベッドのうえでそんなことがあたまのなかに浮かんでくると、なんだか宇宙人にでもなってしまったようなきもちになった。
街中で車椅子をこいでいる若い女性とかを見ても、
とくべつ「かわいそう」とか同情みたいなきもちにはならないし、
目が見えないだろうひとが杖をついたりしていても、
邪魔にならないかな、くらいの配慮はするけれど、
『障害者』という目で彼らを見ることはない。

だけど、

じぶんが病気になって、そして、無理できない病気で、疲れやすくて、外から見てもわかりにくくて…一見、それまでのじぶんと変わったところなんてなさそうに見えるのに、あきらかになにかが変わったような感じがして。
圧倒的に、もう、これまでの《 健康なじぶん 》ではなくなってしまったことがかなしかった。

それは、
いままでしてきたような仕事ができなくなってしまうかもしれないことや、ライブに行けなくなってしまうかもしれないこと、
旅に行ったり、ダイビングしたり、
楽しいことができなくなってしまうかもしれないこと。
そして、もう女性として出産を経験できないかもしれないことや、
結婚対象として見てもらうことができないかもしれないこと、
見てもらえたとしてもそれにはきっととてもハードルが高いだろうということが、わたしのなかの女性性が否定されたような気がして、


とてもとてもかなしかった。


もう、一人前の《 ひと 》ではなくなってしまったような気がした。


そんなとき、Amazonに届けてもらった1冊の本にすくわれた。
それが、東大病院循環器内科の稲葉俊郎先生の「いのちを呼びさますもの」だ。

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本の中には、

「健康」は「調和」とも言い換えられる。
WHOによると「健康とは、病気でないとか弱っていないということではなく、肉体的にも精神的にも、そして社会的にも、全てが満たされた状態にあること」と書かれている。(中略)つまり、「健康」とは、自分自身が主観的に実感を伴って体感される心身の状態。

と書かれている。
そして、自分にとっての「健康」とはなにかを自問自答する必要があると先生は言う。

「元気になる」「健康になる」という考え方を重視すると、生活や人生は「元気」「健康」を中心に動いていくことになる。(中略)そうした中で、病気や痛みと共存できる道を探しながら、ともに行きていく新しい道を発見していく

つまり、病気になってしまったからだの部分は、もとに戻すことはむずかしいけれど、いまのその状態からスタートできる、「あなたにとっての《 健康 》に向かっていこうよ」と、言っているのだとおもった。

わたしにとっての「健康」ってなんだろう。

わたしにとっての「健康」とは、前を見てわくわくしている状態だ。
そしてやりきった満足感に浸ったり、ミスチルのライブで音楽を体感したり、海の波の音を聞いたり風を感じたりして、とにかく「いま」を味わうことだ。

「健康」じゃなくなってしまったとき、背中を丸めて、未来のことばかり考えて怖くなってしまったり、なにもやる気が起きなくなってしまったりして、世界が真っ暗になってしまう。

わたしにとっての「健康」をあらためて考えてみると、たしかにそれならいまのからだでもスタートできそうだと思えるようになった。

ーーーーああ、だいじょうぶだ。わたしは、またこれから、あたらしい《 わたし 》をはじめればいいだけなんだ。

さらに先生はこう続ける。

人間の体は、調和と不調和の間を行ったり来たりしながら、常に変化する場なのだ。全体のバランスを取りながら、その根底に働く「調和の力」を信じ、体の中の道なる深い泉から「いのちの力」を引き出す必要がある。それが人の「全体性を取り戻す」ことにほかならない。

調子がいい状態を維持していくことが絶対的に大切なわけではない。
調子がいいときも、わるいときもある。そんなふうにからだもこころも揺らぎはある。揺らぎながらも、それぞれにとっての「健康」へ戻っていけるようにととのえていけばいいのだ。

たしかに、病気はある。
その事実は消えることはない。
だけど、
病気があってもなくても、わたしはじぶんがどう生きたいか。
それを、いまのじぶんでできる範囲でやっていくだけなんだ。
そしてそれは、修行でもなんでもないんだから、楽しんでいけばいいだけなんだ。

わたしは、わたし。
あたらしいわたしの人生の、スタートラインにたったような気がした。

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