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だれの価値観をたいせつにするのか。

「お風呂に入れてさしあげたいとおもってるんです。
ただ、今の状態だと、呼吸が止まってしまう可能性もあるんです」

電話口からは、無理しなくてもいいです、のような、入浴をしぶる返答が続いているようだった。
「・・・でしたら、なおさら入れてさしあげたいとおもうんです」

*。*。*。*。

長い時間を施設で暮らし、これ以上の治療などはしなくていいです、との家族の希望で、病院へはいかず、施設で人生の最期をむかえる決断をした家族との会話だった。
本人は、約2週間まえには、もうあぶないかもしれない、そんな状況になった。しかし、その後危機的状況からは脱し、とはいえ、それはもういつ旅立ってもおかしくはない状況が続いてはいた。

そんなある日のできごとだった。

「お風呂に入れようと思ってるんです」

お風呂か・・・。
介護士さんから言われたときには、どうだろうか、と一瞬暗い雲がこころのなかを過ぎった。
食事も食べることができていないこの状況で、呼吸も2〜30秒とまってはまた再開する、というようなこの生命レベルで、おふろに入れることにからだが耐えられるだろうか、と。

それでも、声をかけると「はい」と返事をしてくれるようすを見て、お風呂のあいだはなんとかなるかもしれない、ともおもった。

あるスタッフのこころのなかには、「入浴中に呼吸がとまるかもしれない。でも、それでも入れてあげたい」というおもいがあった。

ひとにはいろんな価値観がある。
まだまだ急性期や病院の感覚が抜けきれないわたしの感覚では、無理しておふろに入れなくてもいいんじゃないか、ともおもったのは正直なところだった。入浴がからだにかける負荷はとても大きい。たとえ全介助したとしても。それが、旅立ちへの背中を押すことにだってなりかねない。だから、わたしは無理しなくてもいいんじゃないか、とおもった。
でも、それでもおふろに入れてあげたい、とおもうのは、そのひとの生きてきた人生や経験からくるものだから、それは尊重したい、ともおもった。

いのちに関わるかもしれないその場面で、だれの価値観をたいせつにすればよいのだろうか。
そして、それにかかわるひとたちはみんなどうおもっているのだろうか。

「おふろに入れてあげたい」とおもった介護士は、入浴がどれほどこのひとのからだに負担になるか、入浴中に呼吸がとまってしまう可能性がなくはないということを理解していたのだろうか。
それでも、おふろに入れてあげたいとおもっただろうか。
それとも、そこまでとはおもっていなくて、入浴中に呼吸が止まっていることに気づいたら、どう感じるだろうか。

入浴中に呼吸が止まってしまった場合、直接介助をしない看護師は、それを覚悟でのことだし家族が納得していればそれでもいいのかもしれない、とおもえる。

だけど。

直接介助している介護士さんへのこころの負担はかなり大きいとおもう。
それは急性期で医療にかかわることが、《 素手でいのちをさわる 》ような感覚に恐怖を覚えたことが大きい。急性期医療にかかわることは、『いのちに触れる』とかいう生やさしいものではない。今わたしが、この手が、このひとの命を終わらせしまうかもしれない。その恐怖とプレッシャー、そしてそれが現実に起きたらと考えると、きっと簡単には生きていけないとおもう。

いま、この手で抱えているひとが、いまこの手できれいにしているこのからだが、ふっと顔をみた瞬間、息をしていなかったら・・・・。

それを覚悟したとしていても、一瞬で血の気がひく。

そう考えると、そこで入浴をすすめることはどうだったのだろうか、とほんのすこし疑問が残る。

結果、入浴中に呼吸がとまることはなく、「気持ちよかった?」ときくとうん、とうなづいた。家族も、「おふろがすきだったから」とよろこんだ。

死を目の前にして、お風呂に入れてあげることができるというのは、施設だからこそできることなのかもしれない。病院では、命を助けることが最優先の場所がほとんどだから、からだに負担がかかる入浴は、体力が低下しているひとにはあえてしないことが多い。
だけど、それでもなお、気持ちよさを感じられるかもしれない、おふろに入れるという選択ができるということのすばらしさも、同時に感じてはいた。施設だからこそできることもあるのだ。

*。*。*。*。

だれの価値観もたいせつにしたいとおもう。
価値観とは、そのひとが、生きてきたなかで感じてきたことの集大成で、だからこそ大切にしたいとおもっているものだから。
だけど、結果はだいじょうぶ、で、よかった、となったけれど、職種がちがうひと同士、まだまだ話し合う余地は残されているんじゃないかともおもうできごとだった。

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