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死と生、と生、と死。

「こぼさんように気をつけりぃよ」

とおくから声が聞こえる。
わたしは、目の前にいるおばあちゃん…ではなく、ひいおばあちゃんに小さいスプーンにすくった白い液体を口に入れる。
手元のスプーンは小さくて、ひいおばあちゃんの口にそぉっと近づけて、入れる。

仏壇の前の畳のうえで、ふとんに仰向けになって、ひいおばあちゃんは寝ている。仏壇に背をむけて、わたしはひいおばあちゃんのほうをむいて座っている。ひいおばあちゃんの奥、さらにその部屋の奥にある台所からおかあさんたちの声がきこえる。

2さいくらいだろうか。
そんな光景をいまでもおぼえている。

ひいおばあちゃんが亡くなったとき、いとこが怖がるなか、わたしはこわがらずにそばにいたんだそう。

まぁ、ちいさすぎて、死っていうものがわかってなかったっていうのもあるのかもしれないけれど、身近に接していたから、死んだからってこわいとは思わなかったのかもしれないな、ともおもう。

病院でうまれて、病院で死ぬのがあたりまえになっていて、生や死が日常から切り離されてしまって。でも、ほんとうは、だれだって、いつ死ぬかわからない。生まれてくることも、死んでしまうことも、あたりまえにあるはずなのに、そんなこと、なかったことみたいにして暮らしてる。

自宅分娩がいい! とか、在宅死がいい! とかいうつもりはまったくなくて。

そうじゃなくて、生、も、死、も、あたりまえにある。
そして、老いも、病も。

病院も、施設も、亡くなったら、ほかのひとの目に触れないようにそおっと裏口からおくりだす。

でも、死はだれにだって起こる。

死亡率100%なのだ。

生きるってつらいことがたくさんある。
それでもここまで生ききった、すばらしい。

死って究極の達成かもしれない。

そんなすばらしいひとを送り出すのに、こそこそとしないで、
華やかに送り出せたらいいのになぁ。

じぶんの年齢の倍以上も生ききっている大先輩たちの大往生。
おつかれさま、とにぎやかに見送ってみたい。

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