トマト配りとテルマエ・ロマエ


庭にトマトを植えて3年目。今年はえらい不作だ。2.5畳くらいの庭だけれど、豊作の年はすごい。飾り付けにはしゃぎすぎたクリスマスツリーみたいに赤い実がぶらさがっていて、ボウルを脇にかかえて収穫する。はじめて収穫したときはどうしようかと思った。採れすぎて。

で、どうしたかといえば、会う人会う人にプチトマトを配った。
なぜか? そうせざるを得なかったから。

食べきれないから、とかそういう現実的な理由じゃない。誰かに分けないと、気持ちのおさまりがつかなかったのだ。
「もらいすぎている」「ひとりじめしてはならん」という強烈な感覚があった。

たんなる土から、おいしい実ができる。私は思い出したときに水をやるだけ。ほぼ何もしていない。なのに、受け取ってしまった。


圧倒的に人智を超えるものに触れると、誰かにシェアしたくなるのですね。
『世界は贈与でできている』を読んで、あのプチトマト配りは、富士山を見て誰かに写メを送るのと同じ、そしてテルマエ・ロマエの浴室設計技師ルシウスと同じだと思った。

『世界は贈与でできている』では、テルマエ・ロマエが贈与の話として解説されている。
古代ローマからなぜか、現代日本の風呂場にワープした主人公ルシウスが、シャンプーハットとかフルーツ牛乳とか日本の風呂文明にいちいち真剣に驚き、それをなんとかしてローマ市民に届けようと奮闘するわけなのだ。

まあ贈与論としてのテルマエ・ロマエはこの本を読んでもらうことにして。Kindleを引っ張り出して、久しぶりに読んだ。1話完結のはずなのに、全6巻。なんでしょうね、これほど品のあるドタバタコメディもないと思う。

主人公ルシウスの行動にけがれがない、というか滞りがないのですよね。

たまたま自分が手に入れてしまった最先端の文明からの”贈り物”を、驚きと感謝とともに受け取って崇拝する。(私たちにとってはシャンプーハットという卑近なモノを、異文化の人が過剰に崇める落差が愉快なのだが)

そして、シャンプーハットという贈り物を独占するのでなく、みずからが担った仕事のために役立てる。仕事に奉仕することが、ローマ皇帝のためであり、ひいてはローマ市民のためである。

彼の思いはすべて、よりよい風呂、つまり、同胞たちのよりよい生活のために向かっていて、私腹を肥やそうとしないのですよね(仕事に邁進して3年ほど家をあけたら奥さん出てっちゃって、ルシウスさんは猛烈にへこむわけだけど)。 


そして、後半に出てくる悪者は、古きよき(でもちょっと廃れた)温泉街を潰して、リゾートにしたてようとする金持ち。つまり、歴史をないがしろにして私腹を肥やそうとする奴らとして描かれる。
んでもって、主人公が恋する女もそういえば、芸姑かつ歴史学者。つまり、歴史を受け継ぐ者、つまりは先人への敬意を抱いている人だったね。


ははー。
そうかそうか。テルマエ・ロマエが面白いのは、ギリシャ彫刻がドリフのコントしてるよ!みたいな落差もあるけど、それだけじゃないね。

基本姿勢が、この世界の叡智を喜ぶという「祝福」にあるから、どことっても気持ちよいのかもしれない。まあこんな能書きどうでもよいのでぜひに。

うめざわ


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