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「親殺し」オイディプス的体験(「自叙伝」より抜粋。)

「親殺し」オイディプス的体験(「自叙伝」より抜粋。)


 これは私が24歳の時に体験した現実の事件である。前後の詳細は省くが此の事件の意味を私は2年後に強烈な内的神秘体験を通して理解した。
併せて個人史と人類史が密に連動しているのも、である。

 私は言葉を必要とした。此の時から他者との交流の為に言葉の世界に踏み込んだ。
 私は言葉を用いるにあたり骨格は哲学、肉付けは心理学、様々な状況での人間との処し方は文学と。極限状態の意識状態で片っぱし読み漁った。
 如何なる著作もタイトルと最後の二、三ページ読めば瞬時に内容は分かった。さらには神秘学に至る。中途半端な神秘家が多い中ルドルフ・シュタイナーのみが唯一冷徹で公正かつ厳密な人物であった。その橋渡し的役割の中間状態に小林秀雄が存在していた。

 私は日常の中で如何に神秘学用語を用いずに一般の人々との交流が可能か、が日々の課題となった。
 未だ真の対話の土台すら形成されていないのを痛感した。
 それ以降は創造的人間関係形成と称して分野問わずの活動に自分自身の全てを賭けて生きてきた。

 自分自身の心身のバランスを取る事自体困難な状況下であった。
 

               *
  

 私の父が子離れ出来ないのである。
 いわゆる、親離れと子離れがある。

 私はスナックにほとんど寝泊まりしていたが、店が休みの時には自分の家に帰っていた。 

 父は、義母と些細なことで隣りの子供の部屋へ来ていた。我儘な駄々っ子のように単に寂しいのである。私は何度か父に説教した「何の為に再婚したの、かあさんがかわいそうだろう」と。

 正月の休みに入って年が開けても父は酒を朝から飲んでいた。私はなるべく知らん顏をしていたが父の酒量はあがり、近隣にも迷惑やトラブルが起き始めた。私は、父を義母や兄弟達に私はまかせていた。  

 その時期、スナックには近所に下宿していた女子大の女性がたまに顏を出しては美術や文学に関する話しなどをしていた。私は彼女と話す事で気を紛らわす事が出来たが、やがてそれも限界が来た。父が私の働いているスナックに来てはコーヒーにウイスキーを入れてくれと頻繁に来るようになった。
 
 やがて父は浮浪者のように酔っては路上で寝たり、糞小便を垂れ流すようになった。 それが三カ月も続いては義母や兄弟の手には負えなくなった。 

 私は考え抜いた末、決意した。この状態で父が生き恥を晒し続けるのなら、父を殺して自分も死のうと。 

 決意をしたら私が何の感情も無く、淡々と静かに笑みを浮かべても殺せるか?その状態で父を殺せるかが私の課題となった。
 
 私はまたしても食を絶った。常の父を包丁で刺し殺す場面を思い浮かべて.......
 その覚悟を秘めた意識状態の時の私の顏は他人から見たら涼しげに見えていたらしい。 

 七日経つと私の精神は全く無感情の状態になり、私の頭は空っぽになった。この時に私は狂うことの出来ない自分を知った。極限の状態になると私の精神は空の状態に至るのを体験したのである。

 私は、日本酒の一升瓶をぶら下げて父のいるアパートに行った。  
 私が来た意味が、最初は父も義母も分からなかった。  
 私は父の前に座った。包丁と日本酒を父の前に置き栓を開けた。私は恫喝する強い口調で父に言った。
「今から、おれの指を切ってこの酒の中に入れる。そして、それを飲め。その後でおれは、お前を殺す!」  
 父は私の尋常ではない殺気を感じたのか、かなり狼狽し始めた。
 私は、再度言った。
「この野郎!飲めと言ったら、飲め!」  
 私は立ち上がって殺気立って言った。  
 義母が私を必死で泣きながら止めた。
「こうちゃん、あと一週間だけ待って!何とかするから」  
 父は完全に怯えていた。私が父に対してこれほど厳しい態度をとったのは私も始めてであり、最後でもあった。
「お前は親を殺すのか」  
 父のその言葉に私は凄まじい声で言った。
「親だと?ふざけるな!何だ、その様は、そんな無様なてめえが親だと、ふざけるな!」  

 さすがに父は私をこれ以上刺激したら殺されると思ったのか、真っ青な顏で全身が震えている。義母が私の足にしがみつき泣いて、勘弁してくれと言っている。  
 義母も苦労した人であった。
 私は父の胸ぐらを掴み言った。
「分かった。一週間だけ待つ、それでも酒をやめていなければ、殺す!」  

 私は表に出た時に不意に涙が溢れた。何とも名状しがたい感情であった。
 私は本気であった。私は自分の父を殺した、この感情は複雑であった。  

 一週間後に私は父の所に行った。  
 父は完全に怯え、酒は一滴も飲んでいなかった。

 一ヶ月以上、父は「幸吉がおれを殺しに来る」と怯えていたらしい。  

 その事件以来、父は酒も煙草も止めてしまった。  
 私は、煙草位はいいのにと思った。  

 私の「親殺しの事件」はそれからの生存に対する苛酷な真の自己認識の旅の始まりであり、この時の私は、まだまだ泥中の中でもがいている「蓮」の種にすぎなかった。


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