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「小林秀雄の雪舟論」

「小林秀雄の雪舟論」


雪舟に関する小林秀雄の評論は評論になってはいない。
ただ、その生き方に感嘆する一人の感想的独白にすぎぬ。

相対的意識、虚無意識が日常的表現と化した『魂』の孤独を想い、悲哀を想い、そこに深く共感し、自分自身の姿、宿命を重ねたのである。

芸術家が虚無を前提とするならば、更に一歩先に歩みを進めねばならぬ。

だが、雪舟の表現は一切の相対化以上でも以下でもない。
ただ日本の心性に切実に訴えかけるもの、見方によっては鏡のような作用を及ぼす。
無論、雪舟の表現技術は一流である。しかし精神の精髄である大いなる生命の躍動がない。
これでは単に自然界の中に溶解した自意識のみの世界観でしかなく、我々本来の生存の核、意味や灼熱する生命の熱は生じ得ない。
この意識状態はレオナルド・ダヴィンチも同質である。

それにしてもこの両者が日常で獲得した意識状態すら近代から現代の表現者は獲得し得なかったのである。

虚無的意識に観念的に到ったのみである。

感覚界の足場を消失した「自我」は意志、方向性を完全に見失った。

人生の意味が「無意味が意味」となった。

真の自己認識に至る前に自己探求を放棄したのである。

近代から現代に至る歴史上の人物達は虚無的世界観以上のものを獲得し得なかった。その後の表現者達はあれこれと、情報知を通し、単なる類推と継接ぎのみのパズルゲームの如き実体無き観念上のみの考察表現に終始している。

このような状況では小林秀雄も自分が決めた立ち居地を動けまい。
大口を開けた乖離、深淵を橋渡す事に徹した彼の「覚悟」が此処にある。

これは、今日も依然として変らぬ状況である。

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