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三島由紀夫『小説家の休暇』より


下記の文章は私の或るブログに掲載したものであるが、今日に於いても重要な内容と思うので此処にも掲載する。
 この文章の内容をどれだけの人々が真に理解、体感したか、それを考えると憤怒に似た感情が湧くのを禁じ得ない。

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三島由紀夫『小説家の休暇』より


「一見混沌としか見えぬ無道徳な享受を、未曾有の実験と私が呼ぶのは、まさにこんな極限的な坩堝の中から、日本文化の未来性が生れ出てくる、と思われるからだ。なぜならこうした矛盾と混乱に平然と耐える能力が、無感覚とではなく、その反対の、無私にして鋭敏な感受性と結びついている以上、この能力は何ものかである。世界がせばめられ、しかも思想が対立している現代で、世界精神の一つの試験的なモデルが日本文化の裡に作られつつある、と云っても誇張ではない。指導的な精神を性急に求めなければこの多様さそのものが、一つの広汎な精神に造型されるかもしれないのだ。古きものを保存し、新しいものを細大洩らさず包摂し、多くの矛盾に平然と耐え、誇張に陥らず、いかなる宗教的絶対性にも身を委ねず、かかる文化の多神教的状態に身を置いて、平衡を失しない限り、それがそのまま、一個の世界精神を生み出すかもしれないのだ。」(「小説家の休暇」より:新潮社刊)


 この引用文の内容は名前と時代を伏せても今日でも充分通用する問いがある。
三島由紀夫が三十才の時に書いた文章である。(彼の自死にはここでは触れない)

 三島由紀夫の魂にも小林秀雄が理想とした「和して同ぜず」と同じ直感が闇を照らす閃光のように煌いたのである。

「無私」とは相対的意識と同義であり、ものの見方の視点である。この相対的視点こそ偏見のない「ものの見方」なのである。
 この相対的意識が世界観と化せば悪しき無常観が生じる。無目的、無方向となる意志の喪失である。

 本来の能動的意志とは創造的意志と同義であり、ここに生きた思考が活動する。
 生きた思考という概念は創造的思考・精神である。

われわれはこの「創造精神・意志」に至らぬ限り自滅の方向にへと赴く。或いは毒にも薬にもならぬ宙に浮いた仙人の如き存在と化す。

ただ惜しむらくは彼の意志がさらなる深みへと変容し得なかったという事は如何ともし難い。

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下記拙著「小林秀雄論」より抜粋

 ――「佛界易入魔界難入」。川端康成は好んでこの言葉を書いた。彼も自己認識の果てに無常なる意識に至り、人生を観じ、その中にあっていかに己が身を処すべきか?どう在るべきかと自らに問い続け、あらゆる雑多な、多様な実生活のなかで自己のバラバラになった魂をもって、それこそ日常に生きているあらゆる人々の魂を描こうと、溶け込もうと、現そうと常に努力した、し続けた人である。三島由紀夫の言葉を借りれば「永遠の旅人」として存在していた。川端康成の意識は他者の魂から他者の魂へと、平凡、非凡を問わず、自らを魂から魂へとさすらうジプシーのごとき魂、「空間自体」と化した。
 三島由紀夫は言う。「氏の感受性はそこで一つの力になったのだが、この力はそのまま大きな無力感でもあるような力だった。何故なら強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を自分の裡に受容しなければならなくなるからだ。これが氏の受難の形式だった。」と、さらに「かうして川端さんは、他人を放任する前に、自分を放任することが、人生の極意だと気づかれた。その代り他人の世界の論理的法則が自分の中へしみ込んで来ないように警戒すること。しかしその外側では、他人の世界の法則に楽々と附き合ってゆくこと。」と。だが「戦争」という事件を通して川端康成の魂の裡にはある変化が生じていた。三島由紀夫は自分の師でもある川端康成の秘かに動いた内的意識の変化を見のがしてはいぬ。「戦争がおはったとき、氏は次のような意味の言葉を言はれた。『私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい』――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏った。」――師の名状し難い「痛み」が弟子の三島の眠っていた「実行家の精神」に火をつけた、――その種子がどのような形となるか、川端も三島自身もこの時点では予想だにしなかったであろう。


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