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「階段に座る男」

「階段に座る男」


地下鉄の銀座駅出口に近い階段の中ほどに中年の浮浪者らしき男が座っていた。

私はその男と眼が合った。男はにやりと笑みを浮かべて軽く会釈をした。
その瞬間私の全身に或る種の戦慄が走った。私は特に階段を上りその男を通り過ぎた。
だが、私は自分に走った感動にも似た戦慄が何故起きたのかと思い、少し離れた場所からその男の様子を観ていた。
その男は見境なく会釈をしている訳でもない。だが、時折会釈をしている。
私は会釈された人物を観察した。会釈された人物の殆どは一瞬薄気味悪い表情や怪訝な顔つきで足早に通り過ぎて行く。
私は所要があったのでその場には10分程しかいなかったのだが特に際立った共通点は見いだせなかった。

地下鉄の階段を上がり地上に出た瞬間に二つの光景が浮かんだ。
一つ目は小林秀雄が言った「探る眼なんか恐くない、、」という情景である。
二つ目は、私が幼い時に生まれ育った田舎にいた痴呆と言われていた子供であった。
その子とはどうしても友人になれなかった。彼は冬の雪降る日でも平気で池に素っ裸で入っていく言動があった。私は彼に憧れていたのだ。

私は不思議な感動に襲われていた。その感動の意味は理解したが言葉にはしにくい。
魂を震撼させるものや事件に対しては言葉では顕しにくいのである。
「美は沈黙を強いる」といったものと似たものではあるが沈黙の質が微妙に違う。

私は半ば非現実的感覚になっていた。
目的地に行く為、意識的に現実に戻ると足早に先を急いだ。

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