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「洞察力」 2010年12月27日「美というもの」2010年10月29日

「洞察力」 2010年12月27日

 所謂、玄人と言われる人物は分野を問わず全体と部分を同時に観る眼を所有している。

 如何なる対象も多様なものを包含している。だがその核となるものがありそれを基点にあらゆる様相が状況により生じる。その状況を踏まえたうえで瞬時に判断するのが玄人の眼なのである。
 無論、此処で言う玄人とは単なる博識の事ではない。人生の玄人である。
 それでも芸術表現を観る玄人といえば若干事情が違う。
 現実のあらゆることを見抜く洞察力と芸術の本質を見抜く洞察力は微妙に違うのである。

 この問題は微妙かつ大いに誤解を招く問題を含んでいる。
 芸術、宗教等の本質と融合自覚し得た者のみが是を語れるのだが、これもまた簡単ではない。言葉で語るには大きな障壁がある。この問題は平行線をたどる会話となろう。

「洞察力」(2)

 先に書いた洞察力に関してだが、これも謂わばピンキリで多様なレベルがあり、各分野に於ける達人や玄人は存在する。これら全てを統合する意識となればこれもまた質の問題が生じる。

 「一芸に秀でれば全てに通じる」という言葉があるが通じるというだけで全てを表現出来るわけではない。普遍的な表現には共通の空間、雰囲気がある。
 古今を超えて通じるものが表現されたものから発せられている。それを感受する感受性の有無と、何処までそれを体感実感自覚し得るか、である。
 人類の歴史上には優れた著作や作品等が現存する。またその解釈も多様に存在する。これらの既知の資料をただ用いるものは一般に博学と謂われているが、当の人物がそれらの資料、素材を咀嚼しておのれの養分として血肉化し得ているかが問われる。

 通常の知識では読めぬような専門書、分野がある。その分野の権威が内容の本質や実体を考察解釈し得るかといえばこれも単なる記憶力が良いだけということもある。いわゆるつぎはぎの解釈による言葉には言魂はない。故に読者の魂を震撼させ得る力はない。この問題は現実の全てにも通じる。如何に知名度や権威がある人物と雖もこれは事実である。
 無論、専門書や自分の知らぬ分野を翻訳、知識として与えてくれる事は感謝の意は表するが、個人の偏見的解釈を権威的高みから語られるとあまり愉快ではない。それと如何にも謙虚ぶる人物も然りである。

 ただ、殆どの人々は世間での権威や認知度に左右されやすいのも事実である。あらゆる物事を判断する基準が自分自身に無ければ、是又止む無しというしかない。
 故に、これもまた当然ながら未知のものに対して自分に判断基準がなき場合は理解のしようもない。この繰り返しが人類史を形成している。これは今後も続く問題でもある。

 誰にでも理解できる表現ならば表現の必要は無い。通常の世間話で済む事である。此処で又、区別と差別の問題が生じるが、これもまた厄介な問題を含む。

「美というもの」2010年10月29日

 自明と思うが、芸術表現に於ける美とは単に用いる素材が高価であれ、一般にゴミと称されるようなものであれ、表現自体の美とは何の関係もない。

 何故私がこのような事を書くかというと、或る権威的で学者肌の人物と激しい論戦をしたからである。
 曰く「君が美を追求し、顕そうとするならば素材を選ばねばならない。特に赤色などは高価だが流れ朱という良いものを用いる方が良い。君は恐らく知らぬであろうが。」
 私は猛然と反論した。
「素材自体がどれほど良くともその素材を用いる表現者の感受性が貧弱であれば素材のみが目立つでしょう。それは素材を生かす事とは別の問題です。確かに高価で希少価値の素材は発色もいいのは当たり前です。ただ、問題は表現者にとっては素材の問題ではなく、素材を如何に生かすか、でしょう。」と。

 私は当時まだ三十歳前後で、本質的な内容の会話は相手と刺し違えるような気迫で常に臨んでいた。
 相手は私の殺気立った言動に対し、矜持を傷つけられたのと同時にそれ以上の怖れで青褪め、怯えて震撼していた。
 この問題に関しては今日も基本的には変化してはいない。
 如何なる素材も表現者によって「美」を顕せる事は可能である。

 此処で書きたい内容と同じ内容を前に書いた拙著「小林秀雄論」より引用する。

     *

 ピカソも又、「地獄絵」の前に佇み、「いかにかすべきわが心」の思いをもって苦悩していた。
 「一芸に達すれば」、すべてに通じるのは事実である。当時の文学者よりピカソの「心眼」は、二ーチェやランボオの「祈り」を観じていた。ピカソはランボオと同じく「象徴の森」の住人と化す事は断固として拒否した。象徴の森の住人達の孤独が理解し得なかったからではなく、その孤独の深さゆえに、祈ることが歌でしか表現出来ぬ心やさしき存在達のために、――その深い溝を埋めるにはどうすべきか?

 物が見えぬ者を責めるわけにもいかぬ。若きピカソの「名状し難い苦悩」、その表現が「青の時代」である。そのピカソの意識は「セザンヌ展」のセザンヌの作品の中に秘められていたばかりではなく、ピカソの日常に対する、人間に対する方法をも含んでいた。

 まさにそれはピカソの魂を「稲妻」のごとく打ったのである。それは正に「啓示」であった。小林秀雄がランボオと出会ったごとき。
あらゆるものを「相対的」に見る事、神も悪魔も、人間もリンゴも、あらゆる偏見を排し、自らが、自然とも、人間とも「和して同じない」そのまま、その意識を日常的次元で維持、持続する事。異次元、多次元を問わず、あらゆるもの、「物」も「観念」も、すべて等しく一枚の「平面」の中に共存、調和させ、響かせること。

 ピカソはセザンヌが誰からも理解されず、独り、「孤独の裡」に西洋において、かつて無かった「一個人の名の元に」、意識的に、「教義」によらず、「体系」によらず、「個人」の救済を全生命を賭けて、ただ独り黙々と歩んでいた「殉教者の魂」を、セザンヌの作品を通して、しかと観たのである。
 だが、問題はいかにして「それ」を日常化するか?表現するか?いかにあらゆる視点、観点のもつれた生々しい現実のなかで自己の内的バランスを保ちつつ「実現」するか。   
 その状況のなかで「ニグロ芸術」との出会いは必至であった。生きた相対的意識と原始人のもつ根源的エネルギーとの「婚姻」、「火と水」の婚姻である。

「汝の成しうることを成せ」という言葉がピカソに聞こえる。ピカソは内的な魂の裡で独りでも歩まんと決意する。

「サバルテスが或る日、君の様に改新の好きな人間が物をとって置くという気持が解らぬ、というと、ピカソはこう答えたそうだ。『それとこれとどういう関係があるというのだね。私が浪費家ではないという処が問題なのだ。こんな具合にいろんなものが手許にあるのは、持っているからで、貯めたからあるのではない。有難い事に、手に入ったものを棄てねばならぬ理由が何処にあるか。』」(近代絵画・ピカソ)

「孤独なしには、何一つ成し遂げる事は出来ない。私は、かつて私の為の一種の孤独を 作った。これについては誰も知らない」
 かつて、二-チェが所有し得なかった「三様 の変化」の子供の無邪気さを「深い孤独」の裡でピカソは獲得したのである。その意味 ではピカソも又、「驚くほど辛い裏道を辿って天道に通じ得た」存在である。
すべて「個 人の名において」一切の責任をとる覚悟が「芸術家失格」が、彼の「孤独の裡」に秘か に成された。

 「青について語る彼の言葉は、祈りに似ていたというサバルテスの観察は正しいであろう。或る宗教的ドグマが問題ではない。ピカソはそんなものは信じていなかった。だが、自己の一種の信じ方がある。内的な啓示に忠実たらんとする詩人のやり方があるのだ。この心の動きは宗教的であるが、空想的ではない。」と。

 これは小林秀雄にもそのまま当 てはまる。小林秀雄のピカソに対する洞察は正しい。ピカソに対するおびただしい数の 「ピカソ論」があるが、どれもこれもほとんど「ピカソ」という一見カメレオン的に見え る存在に「化かされた阿呆」の文章にすぎない。

ピカソは肺腑を突くような口調で語る。
「価値を定めるの は、芸術家のする事ではない、彼の人柄である。もしセザンヌがジャック・エミル・ブランシュの様な生き方をし、考え方をしていたのなら、セザンヌの林檎が、十倍も美しかったとしても、私は、何の興味も感じない。私の興味をひいて止まぬものは、セザンヌの苦心である。これがセザンヌの教訓だ。ゴッホの苦悩である。これがあの人間の現実のドラマだ。その他は泡沫である。」と。(拙著:小林秀雄論より抜粋)
   

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