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「小林秀雄と川端康成」




「小林秀雄と川端康成」

「――ところで私達は果してよく『奇術師』であり得たろうか。相手は軽蔑を浴せたつもりであろうが、私は『奇術師』と名づけられたことに、北叟笑んだものである。盲千人の一人である相手に、私の胸の嘆きが映らなかったゆえである。彼が本気でそんなことを思ったのなら、私にたわいもなく化かされた阿呆である。とはいえ、私は人を化かそうがために『奇術』を弄んでいるわけではない。胸の嘆きとか弱く戦っている現れに過ぎぬ。人がなんと名づけようと知ったことではない。」(川端康成・末期の眼)

 川端康成の本音が現われている文章である。小林秀雄は川端康成の「いかにかすべきわが心」を察していた。
 故に川端康成論の中で「川端康成の小説の冷たい理知とか美しい抒情とかいう様な事を世人は好んで口にするが、『化かされた阿呆』である。――彼が、二人の男、二人の女さえ描き分ける才能を持っていないのを見給え。」そして小林秀雄が「批評家失格」を表明したごとく「小説家失格はこの作家の個性の中心で行なわれ、童話の観念は、『胸の嘆き』の裡で成熟する。」
 自らと重ね合わせ、又「何故この少年の世界が、あらゆる意見や理論や解釈や批評の下に、理想と幻滅とが乱れ合う大人の複雑に加工された世界に抗議して立ち上がってはいけないか。」

 小林秀雄と川端康成、この二人の魂が、表現の核が重複し、本音を吐露する。悲哀の音調をもって。だが、ただ佇む事を自己に対して許さぬ小林秀雄はこうしめくくる。
「彼は十三年間文芸時評を書き続けて来た鋭敏な批評家でもある。何でも承知しているのだ。だが、正銘の芸術家にとっては、物が解るとい.う様な安易な才能は、才能の数には這入らない。天賦の才が容易であるとは間違いだ。作家はそれを見付け出して信じなければならない、そしてそれはその犠牲となる事だ。彼もまたその犠牲、従って一種の無能者でもある。」と。(拙著「小林秀雄論」より抜粋)


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