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「創造は虚無を前提にする」

 私はこのような内容を繰り返し「金太郎あめ」の如く40年近く手を変え品を変えて警鐘を鳴らしてきた。
 無論、実生活においてただ生きることに汲汲としている人々にはこの問題は問わぬが、、。

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「創造は虚無を前提にする」

 このタイトルは小林秀雄が言った「芸術は虚無を前提とする」を言い換えただけである。
芸術という言葉・概念が狭義に限定されて用いられているからだ。
最も最近は誰も彼もが「アーチスト」と呼ばれるようになったが。

 虚無とは狭義の意味での「私」が消滅する、ということである。だが、これを通常の思考は矛盾と考える。
「私という基盤が消滅してしまえば一切は消え去るであろう」 と。
 これは知覚する主体である「私」が消えれば世界も消え去る、或いは存在しない。通常謂われる「虚無的世界観」の信奉者の基点となっている考察方法である。
 世界は表象にすぎぬ、と言った哲学者に代表される世界考察の存在達、及びその亜流たちはこの身体の五感覚に限定された思考考察に呪縛され、結果的には「我々人間存在は無意味な生を生きている不条理な存在である」と結論付ける。
 何のことはない。単なる偏見を一切排する一視点、意識状態にすぎない、ということがどうしても理解し難い。拠って立つ足場無くして、どうやって判別、区別、判断できるのか!?と。
 この意識状態を徹底した状態が「批評の極点」といわれる。

 無私という概念のスタート地点である。或いは相対的意識状態の視点観点でもある。
 歴史的文献情報的にはシュールレアリストから実存主義を基点とする表現者達はこの意識状態に於いて足掻きもがきつつ表現活動をした。
換言すれば「無私に至らん」としたのである。この状態の危険を小林秀雄は「模倣者は呪われるであろう」と言った。無方向の意識状態に耐えうるような存在はさらに先に進むからである。

 ゲーテが言った『死して成る』の真意である。
 これを個人の魂、精神が獲得せぬ限りは難破、自己喪失は必至である。この個人の受難劇とも謂える試練は世界中に既成の価値観を打ち壊さんとする様々な表現へと転化された。

 観念上では実生活との相対化、芸術表現の日常化へと論理は進む。一切は芸術であり、芸術では無い、と。、、 環境芸術、社会芸術、概念芸術等々。

 小林秀雄はこれらの表現形式には一切触れてはいない。実体無き概念に汲々とする不毛さをよく知っていたからだ。

 表現者自らがこの事情を語りえない、語り難い状況は浅薄な批評家、評論家を無数に生み出す結果になった。

 この事情は今日でも悲惨ともいえる百花繚乱状態を呈し、続いている。

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