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私の過去:闘病生活とその中での気付き

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大病をしたころから現時点までのことを、ツラツラと書き起こしています。書き出すことで、今まで受け入れられなかった部分が受け入れられるかも…といった気持ちで書いています。
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#大学

44.装具を外すとき

私は麻痺した足に装具を着けて歩いていました。 この記事にあるレベルの装具ではなかったにせよ、フラットな病院内の廊下ではなく凸凹、傾斜がある一般道では装具を装着しないと怪我をしてしまうため、外すことは叶いませんでした。 そうなると履く靴には限りがあります。 「装具 靴」で検索をすれば分かりますが、靴でのお洒落が出来なくなります。今現在は装具を装着していてもお洒落な靴を履けるように、当事者さんが開発して販売している靴はあります。けれど、当時は開発されてもいなく、私自身も当事

36.同期の卒業式

話が前後しますが、その年の3月に私の同期が卒業しました。 私の退院は5月なので、外泊許可をもらい一旦東北から戻りました。 我がままを聞いてもらって、同期と同じ卒業アルバムに掲載してもらいました。 やっぱり、途中で死ぬかもしれない病気になったことは、私にとっても同期たちにとっても強烈な印象を残しましたから。 他学科の友達らとは卒業してしまうとナカナカ会えるチャンスがなくなるので、卒業式への出席は切望しました。 大学側も病院側も快諾してもらえ、保護者席に座り、式を見学す

26.同期と一緒には卒業できない

病気になった初期のころから、私は「同期たちと一緒に卒業をする」と決めて入院中からゼミに通ったりしていました。 でも、不可能だったんですよね。 1年、2年生の段階で9割がたの講義単位を取り終えていたので、あと1年半で卒業しようとすれば単位的には問題がありませんでした。 教育実習がネックだったのです。 私の所属していた学部は教育学部の教員養成課程だったので、当然卒業には教育実習が不可欠になります。しかも、その数年前から4年生の時に実習に行く制度が3年生、4年生と2期に分け

25.怪我をしても元に戻るよね

大学に復学して数日後、ある男子学生、女子学生(それぞれ同期)に声を掛けられました。 男子学生「膝のボルトを今度抜くんだよ。」 女子学生「膝のじん帯を切ってしまって装具状態、松葉状態。不自由な気持ち分かる。」 みんなスポーツばかりしていたから、怪我は付きもの。 私も、かっては怪我ばかりしていました。 でも、この身体になってからは「怪我は治れば元の身体に戻るよね、良いよね。」と浅ましく考えるようになってしまって。 怪我で再起不能になる人もいるから、そんなことを思っては

24.大学に復学してみたら

大学は隣の県にあり、ずっと通学していました。 10月から復学ということなので、通学の際に使っていた電車の混み具合を考えると、早朝の普通に乗ることがベストだと考えたのですが、1人での通学はまだまだおぼつかないし、かといって母がついて行くこともどうかということもあって、同期の1人が通学していたので同伴通学を彼女にお願いしたところ、快諾してもらえました。 ⁂ 10月に入り、早朝の6時半前後の普通電車に乗り込みました。 始発じゃないので出発駅には人は多かったです。座って行ける

21.退院する朝

PTの訓練は順調に進み装具も納品され、装具を付けた病院外周のお散歩も平気になったころから、私は次のステップの「退院すること」を考え始めました。 大学も夏休みに入っていましたが、10月から始まる後期には完全復帰を願っていましたし、その前に家での日常生活に復帰をしないといけないので8月のお盆シーズン前に退院することを決めました。 もっとも、180日ルール(標準的算定日数)のリミットにも近づいていたこともあって、退院する方が良いとも判断していました。(2月発症だから、180日後