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僕はハタチだったことがある #11【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2014年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。




 冬休み、僕は呆けていた。
 最後の長い冬休みになるであろうその時に、何もすることが無かった。
 することができなかった。
 正月またばあちゃんのところに行こう、とゆうきが言った。今泉さんと行けばいい、と僕は応えた。電話の向こうで少し黙って、そうか、そうだな、と言ったゆうきの声は悲しげだった。僕は思わず、初詣なら行ってもいい、と口走った。ゆうきは、うん、それがいいな、と快諾した。

 三が日を過ぎた神社は、それでも、人が多かった。ゆうきと琴子と僕は三人並んで、お参りをした。何を祈ったんだ? とゆうきは訊いた。家内安全、と僕は応えた。
「うそつけ、どうせ女かなんかのことだろう?」ゆうきは僕を軽くひじうちした。
「ゆうきは僕のことをどう見てるわけ? そっちこそ何祈ったんだよ?」僕は蹴り返した。
「世界平和?」
「あんたこそ、嘘つきだ」
「嘘じゃねーよ。皆が長生きできて、幸せで、それが一番いいじゃないか」
「はっ」
 ゆうきは、目を逸らした僕の頭に手を乗せた。僕はそれを払いのけようとはしなかった。ゆうきは優しい目をして言った。
「おまえもその内に入ってる。よく祈っておいたから、長生きできる」
 ふん、と僕は鼻で笑った。ゆうきは、むっとした顔をして、ぱちんと僕の額を指で弾いた。僕が仕返しする素振りを見せると、ゆうきはまるで子供みたいに逃げ出した。追いかけようとした僕を引き留め、あなたたちは場所をわきまえてね、と琴子が怖い笑顔で言った。
 何も変わらないような気がした。
 でも、何かが変わっているのだとわかっていた。
 僕の大人であろうとする部分が、駄々をこねたがる部分を、苛立たしく眺めていた。
 部屋に帰って、何となくセイゾーさんのあの曲を頭の中で歌ってみた。空々しく、薄っぺらく感じた。
 ゆうきが今泉さんとしているであろう恋人同士のことが、こんなにどす黒い嫉妬を呼び起こすなんて、詞を作った当時の僕には想像もつかなかった。
 サジマの代わりにならないと言った僕が、あんな形で君をゆうきの代わりにしてしまったことも、その僕のつたない、でも真っ直ぐだった想いを、台無しにしてしまったように感じた。
 何事もキレイなままにはできなかった自分の弱さが腹立たしかった。
 でも、ゆうきに対する想いは、打ち消せないどころか、ますます際立って行った。
 ゆうきの言う通りだった。僕は女のことを祈った。
「僕たちがこのまま何も変わりませんように」と神様の前で善人ぶった遠回しな願いだったけれど、結局、そのひとが欲しい、そう念じたも同然だった。
 僕は自分がまだ他人の幸せを祈ることができるほど大きくないことにも、自己嫌悪していた。

 スクールが始まっても、そんな気分は続いていた。できるだけ君を避けようとする僕をトイレの前で捕まえて、君は言った。
「どうして避けるの?」
「別に。君だって、ずっと僕を掻きに来なかったじゃないか」
「あたしたち、結ばれたわ」
「あんなの……」
「あなたが、どう思って、誰を想って、ああしたかしらないけど、嬉しくなかったわけでもないの」
「……そう」
「いえ……。そうね……わかる? 『嬉しかった』のよ」
 僕はその時君がそこを強調するわけがわからなかった。当然、君が僕の前でケースから錠剤を口に放り込むのが久しぶりであることも、その意味が変わっていたことにも気付かず、君の動作を眺めていた。
「だから――」と君は言った
「だから? 何?」僕はキレた風に訊いた。
 肩越しに君が何かに気付いた。僕は振り向いた。
 そこには桂木がいた。
 桂木は、微笑んでから顔を逸らし、そして教室の方へ戻っていった。
 あいつの所に行けよ、と僕は言った。そうするわ、と君は応えたけれど、僕たちはそこをしばし動けなかった。



 その死はしばらくの間伏せられていた。
 誰も異変には気付かなかった。
 まだ就職先の決まらない学生がたくさんいて、彼らが就職活動のために欠席するのも当たり前になっていたからだ。
 君も何も言わなかった。だから、僕も気付かなかった。

 授業の最後に就職を諦めた学生に対して就職辞退届の提出を促した榛名先生が、ちょっといいか、と僕を教室の外に連れ出した。
 昼食の買い物に出掛ける学生に聞こえないように、囁きより一層声を落として、先生は言った。
「相馬、迷ったんだけど、お前だけには言っておこうと思うんだ」
「何ですか?」
「桂木な」
「はい?」
「欠席してるよな」
「はい」
「実は……亡くなった」
「え?」
「病気ってことになってる」
「え? ……えーと、つまり?」
「遺書があったそうだ」
「あ……」
「謝っていたらしい」
「はあ」
「何も為さずに先立つ不孝をお許し下さい、だそうだ」
 僕は風景が歪むような感覚にとらわれた。大丈夫か? と榛名先生は、ふらついた僕を支えた。すみません、と僕は脚に力を入れた。
 ああ、やっぱり言わない方が良かったか、と榛名先生は顔を抑えた。僕は首を振った。
「他には?」僕は訊いた。
「他って、聞いてるのはそれだけだよ。でも、ライバルだったからな、お前達。伝えといた方が良いと思ったんだ」
 きれい事を言うつもりは無い。僕は、その遺書に僕や君のことが書かれていなかったかを、まず気にした。
 悲しみなんかじゃない。怯えが僕の声を震わせていた。
 榛名先生は僕の肩に手を置き、ショックだよな、と言った。ええ、と僕は応えた。
「就職でも、もっと相談に乗ってやれれば良かった。でも、あたしとそんなに変わらない歳だったしな。それに下手をするとあたしより、詳しかった。だから、あいつに対して教師ぶるのは、なんとなく難しかった」
「先生のせいじゃないです」
 僕のせいです、そう言いたくなるのを、僕はすんでで堪えた。先生は、他にはまだ黙っててくれ、と言い、その場を去った。
 僕は壁に凭れ、力無くその場に座り込んだ。
 君が来た。僕が、今、何を知ったか、もうわかっている様子だった。僕の声はしわがれた。
「僕が殺した」
「違うわ」
「桂木から全部奪った」
「違うわ。あの人はもともと何も持ってなかったのよ」
「桂木は君を奪わないでくれと言った」
「違う。あたしは誰のものでもなかった」
「命まで、奪った」
「だから、違う。あなたはそんな度胸のある男じゃない」
「でも――」
「違うって言ってるでしょう?」
 君はそれまで聞いた事も無いくらいの甲高い声で叫んだ。通りすがりの学生が僕たちを見た。君は一つ溜息をつき、彼らが行き過ぎるのを待った。
「あの人を殺したというなら、あたしよ」
「……」
「タカハルを死なせないですって? 何を思い上がっていたのかしら。もう一方の手がまるでお留守だった」
「僕がいたからだ」
「あなたも思い上がらないで」
「だって、そうだ」
 君は、僕の横に腰を下ろした。そして、俯くと、携帯にね、と君は話し始めた。
「携帯にね、あの人のお父さんから電話があった。メモリに残ってる人に連絡してるって。こっちが女だったことが、驚きだったみたい。古い歌じゃないけど、男名前で登録してあったって。両親の目を気にしてたのね。
 恋人だったのか訊かれた。そうだと応えた。葬式に呼ばれた。
 あたし、行ったわ。本当に小さな祭壇で、弔問客もあまりいなくて。ご両親、泣いてた。
 聞いてたのと違って、とても優しそうな人達だった。
 あたしが行くとね、遺族の席に座ってくれないかっていうの。きっとあなたはお嫁さんになるはずの人だったから、って。お願いだから、そうしてくれって。
 断れなかった。苦しかった。
 でも、これは罰だと思った。人の心というものを、あなどった罰だって。
 ねえ、あの人最後に二人きりになった時、なんて言ったと思う? 『ああ、幸せだな、君と出会えて本当に良かった』って。
 あたしには、その言葉が、言葉通りにしか聞こえなかった。何言ってるんだろう、こいつ、くらいにしか思わなかった。
 あたしには、止めるチャンスがあったのよ。あなたと違って。
 でも、止められなかった。だからこれは、あたしが背負うべきものなのよ」
 それにね、あたしは慣れているの、そういうことに、君は最後にそう呟いた。
 だからと言って、僕が楽になるわけじゃなかった。
 もう一度、僕が殺した、と言った。
 君は、深い深いため息をついた。そして、こう言った。
「あたしたちが殺した。そう言えば満足するの?」
 僕は応えなかった。
 君が僕の手を握った。僕は握り返したくなる自分を許すことはできなかった。
 手を振り解いて、僕は立ち上がった。ふらふらと教室に戻り席についた。
 なんとなく振り返った。最後列のかつて自分も座っていた席の空白が僕には痛かった。
 正視できずに教室を見回すと、卒業制作に没頭するクラスメートたちがいた。皆が学生生活最後の情熱に輝いていた。
 僕はモニタを見た。何も描かれていなかった。
 手を見た。
 暗い靄が、まとわりついていた。
 手だけじゃなかった。それは知らぬ間に身体全体にまわって、分けがたく癒着していた。それが、誰かの死を眼前にしてすら、自分のことしか考えられない、ありのままの姿だった。



 何日かが過ぎて行った。笑ったし、会話もした。食事もした。眠ったし、トイレにも行った。
 そのどれもが、自分が桂木から奪ったものの重さを、突きつけてきた。
 うっかり油断すると、安易に悲劇のヒロイン気取りになりそうな自分がいて、それがたまらなく苛立たしかった。
 いつも通り、と思った。
 でも、意識してしまうと、自分の「いつも」がどんなだったか、わからなくなった。
 何だかはしゃいでるね、とタカハルは昼休みエレベーターを避けて階段を降りようとする僕を捕まえて言った。僕は、どきりとしながら、そうかな、と応えた。
「まあ、普通ではいられないよね」とタカハルは言った。
「知ってるのか?」と僕は訊いた。
「自殺だろ?」
「ああ」
「自殺ねえ……」
「何?」
「感心するよ」
「は?」
「いや、僕もね、しようと思ったことがある」
「え?」
「この病気のなり始めの頃にね。なんていうか、全くわけがわからなくなるわけじゃないからね。あ、こんな声聞こえるのはおかしい、とか、こんな風に感じるけど、これは病気なんじゃないか、とか思う頭は働いてるんだ。
 僕は少し知識があったからね。
 自分が頭のおかしい人になったかも知れない、ってことの自覚はあったんだよ。
 そうなれば、人生おしまいだってね。
 生きているわけにいかない、って思ったんだ。
 まあ、心の中は滅茶苦茶なんだけどね。そう思った。
 で、風呂に入る時、包丁を持ち込んでさ。ま、一応、血が飛び散っても掃除しやすいようにって配慮してね。それで、刃先を手首や首筋に持ってこうとするんだけど、どうしても手がそこから先に動かないんだ。
 生きていても、人生は終わりなのに、どうしても命そのものを終わらせることが怖かった。怖くて随分長く包丁を見詰めていたよ。
 長すぎる風呂を不審に思った家族が様子を見に来てくれた時、本当、助かった、と思った。
 でも、風呂の中で、包丁を持ってるのはあからさまにオカシイからね、それで、僕は初めて病院に入れられたんだけどさ」
「……ふうん」
「だからさ、僕はあんなに辛くても死ねなかったから、本当に死んじゃうってのは、ある意味、スゴイな、と思ってね」
「スゴイ?」
 睨まないでよ、とタカハルは言った。僕は知らずに入っていた顔の筋肉の力を緩めながら目を逸らした。
「僕を止まらせて、彼をいかせたものは、一体何の差だったんだろう、って不思議に思うだけなんだ」
「それは……」
「僕はね、自分が死んだ後、残された人がどんな顔をして、どんなことを言うのか、それが知りたかった。自分のいない世界で起きることに関わることができないということが悔しかった。
 死ななきゃわからないことだけど、死んだら絶対にわからないことでもあるんだ。霊魂を信じてたわけでもないしね。
 それに、この病気をして、体験した色んな事が病気の症状にしか過ぎないということに納得してしまうと余計にそんなもの信じられなくもなった。
 まあ、それは後の話でどうでもいいんだけど、とにかく、死後の自分ってのを信じてなかった。
 そしたら、都合良く自分のいない世界を眺め続けるなんてことはできないだろう? それがかなしかったんだよ、あの時の僕は。
 ねえ、桂木君はさ、そういうのどうでもよくなったんじゃないだろうか? 就職のことも、その先の未来のことも、残される人も。
 きっと考えることに疲れたんじゃないだろうか」
「で?」
「まあ、よくわからないけど……だから……」
「だから?」
「リンや君のことも、もうどうでもいいと思ったんじゃないかな?」
 タカハルの貧乏ゆすりがずっと続いていた。顔を背けていたけれど、僕を楽にしようとそんな事を言っているのがわかった。僕は、ありがとう、と言った。そういうつもりでもないんだ、とタカハルは応えた。
「でも」と僕は言った「桂木が霊魂を信じていたとしたら、どうだと思う?」
 タカハルは眉を上げて僕を見たけれど、何も言わなかった。
 僕たちは黙り込んだ。
 どっちにしろ、そこまで追い込まれた過程に、自分がいなかったとは決して言えなかった。
 僕は、ふと、タカハルの調子が悪かったということを思い出した。そんな相手に気を遣わせている。口の中が苦くなった。
 僕は取り繕うように、そっちこそ調子は大丈夫なのか、と訊いた。まあ、自殺するほどじゃないね、とタカハルは言った。
「それにね、最近、僕は恋をしているよ」
「恋? 誰?」
「片思いだよ。僕はもう二度と誰かを好きにならないと決めていたんだ。自分の人生に誰も巻き込まないつもりでね。でも、好きになってしまった。勿論、告白する気は全く無いけれど、手の届かない恋ってのは、本当に切なくて、苦しくて、素晴らしい」
「誰だよ」
 タカハルは、言わなくてもわかるでしょう? と微笑み、僕の肩を叩いて、離れていった。
 わかるような気がした。そのコは、全く普通で、とてもいい女だった。
 僕は彼の孤独の本当のところも知らずに、タカハルの恋を羨ましく思った。
 あの時に帰りたいと思った。
 僕はあのままでいるべきだった。
 当たり前だけれど、時間が戻らないということの本当の意味がようやく僕の身体に染み込んで来ていた。



 どうしていいのかわからなかった。
 何をしても縛られてしまっているような不自由さは続いていた。「自由に生きろ」と言われ続けて、僕はその真逆にいるような気がした。
 いっそ全部をダメにしたかった。
 抱かせてくれますか? と僕は師匠に訊いた。久しぶりの挨拶もしなかった。師匠の眼の前で、僕は何かのモチーフにでもなったようだった。傷つきに来たのね、師匠はそう言った。
「こんな時、断ってあげるのが、いい女なんでしょうけれど、でも、本当はあたしもダメな女なのよ」
 師匠は僕に指を使うことさえさせなかった。どこまでも甘く、柔らかく、暖かく、僕を舐め上げた。
 傷つきに来たのよね、とまた師匠は言い、そして、だから優しくしてあげる、その方が痛いものね、と耳元で囁いた。
 本当だった。僕は、死にたくなった。
 帰り際、師匠は、卒業制作は進んでる? と訊いた。描くべきものがありません、と僕は応えた。それは裏返して自分に価値が無いと言っているようなものよ、と師匠は言った。
「先生はずっと何かを隠してる」
「……」
「秘密はひとに嘘をつかせるわ。例えば、『描くべきものがない』とかね」
「嘘なんかじゃ……」
「……光を、見るのよ」
「光?」
「先生、正直でありなさい。本当のことをぶつけなさい。
 命がけのこの世界では、自分の中の“本当”で勝負しない人間は、いずれその嘘のせいでがんじがらめになる。
 折れる。負ける。後悔する。通用しないの、ごまかしなんて。
 誰より自分には見えているんだから。
 だから、その目に見える本当を描きなさい。
 たかが場末のスクールの、たかが卒業制作だもの、下手だっていいのよ。 
 そして、その結果、何が起きたっていいじゃない? 世の中失敗作の方が多いんだから。きっと皆忘れてくれる。
 でも血まみれの手で“本当”を選び取ったという事実は、それだけは、あなたのカラダに残る。
 それはきっと……きっとね、いつまでも自分を導く光になってくれる」
 何だか説教くさいわね、と師匠は微笑した。僕は首を振った。
 言われて見れば、全てが僕の心の中の嘘のせいに思えた。それは蝶の小さな羽ばたきでしかなかったかも知れない。でも、巡り干渉し増幅し合って、ひと一人の命の火を吹き消した。
 僕は、どんなに都合の良い、遅すぎる選択だと言われても、その蝶を殺さなければならない、と思った。
 ここを貸してくれませんか、と僕は言った。衝動的だった。でも思いつきでは無かった。
「描きたい人がいます」僕は言った。
 師匠は僕の目を覗き込んだ。僕はそれをしっかりと見詰め返した。いいわよ、そう言うと、師匠は僕に背を向けた。



 横殴りの夜の雪の中を、僕はその手を引いて歩いた。まるで、結婚式の新婦を強奪でもするかのような高揚が胸を満たしていた。
 最初、くつろいでテレビドラマを見ていたのを途中で連れ出されて不満げに理由を問う声が聞こえたけれど、それも師匠の店に着く頃には消えていた。
 いつかトルソーを描いたテーブルの椅子を指して、そこにそのひとを座らせた。少し首を傾げ、呆れた様に僕を眺めるとゆうきは、で? ここで何をしたいわけ? と訊いた。
「描きたいんだ」僕は言った。
「何を?」ゆうきはまた訊いた。
「ゆうきを」
 ゆうきは視線を店の中へと動かし、えーと、と頭を掻いた。だめかな? と僕は訊いた。
「いいけど……モデルって……脱ぐのか?」
ゆうきは真顔でそう言った。僕は笑った。
「脱ぎたいの?」
「やだよ、寒いし」
「暖房なら、いれるけど?」
「バカ」
 中年の女が若い女のように顔を赤くした。それが、グロテスクでも、不自然でもないのが、ゆうきだった。
 ゆうきはいつも僕と同じ年齢でいてくれた。僕は、その「ハタチ」の女の恥じらいに肌の裏側がくすぐられるのを感じた。一刻も早く、鉛筆を持ちたかった。
 そんな気持ちは初めてだった。はやる想いをなだめながら、僕は道具をテーブルに並べた。コートを脱いで、あのさあ、とゆうきは言った。
「お前、コンピューターの学校にいるんだよな?」
「うん」
「こういうことも習うのか?」
「いや、スクールでは習わないよね」
「じゃあ、なんで?」
「卒業制作」
「いや、それなら尚更、なんでコンピューター使わないんだ?」
「後で、スキャンして、仕上げをするよ」
「写真とか撮ってトレースしたりでいいんじゃ……」
「それじゃだめなんだ」
 殆ど気持ちの問題でしかなかった。CGとしても、普通の絵としても、出来上がるものに、価値は無い。
 それはわかっていた。
 僕はゆうきの身体を自分に対してほんの少し斜めにさせてから、席に着いた。表情は作らなくて良いから目は僕の方を見ていてくれる? と言うと、ゆうきは、ふん、と息をついて、瞳を僕に向けた。そのまま動かないで、と言った。まあ、就職も決まったし、一つくらいは言うこと聞いてやらなきゃなりませんな、とゆうきはぼやいた。僕は微笑んで首を振った。
「ん?」
「辞退した」
「は?」
「辞退したんだ」
 ゆうきは、目を丸くした。頼むよ、動かないでよ、僕はそう言った。ゆうきは、この就職難の時代に……と軽い溜息をつき、首を振ると、仕方無さそうにさっきと同じ顔に戻った。

 その日、ゆうきの部屋に行く前に、僕は多田さんを訪ねた。支社の小さなミーティングルームで、いい話じゃなさそうだね、と彼は言った。
「折角の内定をいただきましたが、辞退させてください」
 昔、景気の良かった頃の学生が内定を断る時ひどい仕打ちを受けた話をどこかで耳にしたことがあった。僕は身構えていた。
 彼は、面接の時と同じように、ニュートラルな表情で僕を少しの間見ていた。そして、わかりました、と机に手をついて立ち上がった。ああ、簡単なものだな、と僕は思った。僕も立ち上がって、申し訳ありません、と深々と頭を下げた。いやいやそんなそんな、と彼が言ったのを聞いて、僕は部屋を出ようとした。すると、彼は僕を呼び止めた。
「はい?」と僕は振り向いた。
「桂木君ね、年齢がやっぱり問題になったんだ。新卒では難しいってね。でも僕は買っていた。熱意は確かにあった。君の推薦もあったしね。だから、僕は彼の就職が春まで決まってなかったら、契約社員での採用を持ちかけようと思っていた。うちにも正社員への登用制度がある。彼ならきっと実力を示してくれるってね」
「そうですか」
「それでも、辞退するかい?」
 僕は、微笑んだ。微笑まなければならなかった。
「誰かの死を担ぎながら、御社で働き続ける覚悟が、ありません」
 本当に申し訳ありません、僕は再び頭を下げると、後は何も見ずに、足を出した。「だから、遅すぎたと言ってるんだ」貴句なら、こう言っただろうと、僕は思った。
 でも、怒りではなかった。涙にはならない程度の感覚が胸の奥を擦っていた。
 きっとこれのせいで、僕は残りの日々を少ない求人に縋りつくように仕事を探さねばならなくなった。
 バカだった。だけど楽になった。
 それに、先の見えなくなった不安は、思ったより不快では無かった。

 僕は、スケッチブックを開き、鉛筆を持った。
 本当の絵描きの人はどうか知らないけれど、何も描いていない白い紙というのは、僕を不安にさせる。
 それは僕に問うのだ。
 それは本当に描くべきことなのか、それを描ききる技量があるのか、と。
 鼓動がいつのまにか早まっていた。深呼吸をした。大丈夫だ、と口にした。
 この心ひとつあれば、最後までやれる、そう自分に言い聞かせた。
 上半身だな、と思った。胸の下辺りまでを画面に入れようと決めた。まずは頭の位置を、おそるおそる、紙になぞった。ただそれだけのことだったけれど、紙はもう僕のものになっていた。
 そして、自信が無いなら最初にきちんと測りなさい、という師匠の教えを思い出した。絵の上手い人なら自然とやれるだろうことに、細心の注意を払うことを確認し、習ったように鉛筆と親指をゆうきに向けて立てた。
 ひとつ決まっていると、それを基準に、肩幅や首の長さ、太さ、胸の位置と言った各部分が測りやすくなっていた。次々にあたりをつけた。
 口や鼻や目の位置を決める時、僕は何だか奇妙な気分になった。
 丁寧に測っている内に、それがゆうきであるという当たり前のことが、分解されて、理解の網をすり抜けようとしていたからだった。
 僕はそのかけらを拾い上げて、もう一度、美しいものに組み立て直さなければならない、そういう使命感に似た何かで、身体が満たされていくのを感じた。
 作業は順調にはいかなかった。僕はゆうきを見詰め、そして鉛筆を動かした。
 完璧な二つの弧の交わりが創る大きな目、その二重瞼のふくらみ、くぼみ、その間から優雅にまっすぐ鼻先へと続く光、丸くせり上がった上下の唇の合わさった鮮やかな谷、くっきりと陰に強調された顎のライン、肌のつややかな感触、はらりと落ちた肩までの髪の一本の狂おしさ、僕はそれらを見ようとした。
 見えていたのかも知れない。でも、今、言葉でも上手く表現できてないように、鉛筆ならなおのこと、思い通りにはならなかった。
 やはり、少し習ったくらいでは、見たままを指先に伝えることは難しかった。
 でも、身体を満たしたものは、ずっと僕の中でそのままであり続け、諦めることを考えさせなかった。
 はっきり意識していたわけではないけれど、僕はゆうきを描くことで、そういう未熟な自分を紙に残すことを選んだ。
 未熟な自分に落胆しないことを決意していたんだ。
 僕は何度も測り、何度も消しゴムを使った。悲しかったり腹が立ったり、時々嬉しかったりした。僕はその喜びが生まれる度、そこを新たな足場にして、次に進んだ。
 ひとより随分時間がかかったかもしれないけれど、鉛筆を立てて細部を描き込み、僕を見詰める瞳の光を練りゴムで抜いた時、その像は、もう今の僕には出来ることは無い、と告げてくれた。
 僕は、手から落ちた鉛筆が、軽いかつんという音を鳴らすのを聴いた。
 ゆうきは、もういいか? と言った。僕は頷いた。
 ふわあ、モデルを職業にしてるひとたち尊敬するよ、もういやだ、と天井を仰ぎ、手足を伸ばすゆうきに僕は言った。
「愛してる、ゆうき」
 もう僕にはその言葉しか無かった。少し動きを止め、顔を向こうに逸らすと、ゆうきはひとつ咳払いをした。あたしはさ、とゆうきは壁に向かって言った。
「あたしは、兄さんが好きだったよ」
「うん」
「多分、お前が今言った言葉の意味で」
「……それって」
「お前、小さい頃のこと憶えているか?」
「いや、全然」
「不自然だろ?」
「いや、不便ではないよ」
「でも、お前には両親の記憶が無い」
「うん」
「本当のことを言う。お前の母親な、お前を殺そうとした」
「え?」
「首を絞めてさ。あと少しで死ぬところを、偶然立ち寄ったあたしと琴子が止めた」
「それは……」
「まあ、あのひとはそのまま家を飛び出して、トラックに跳ねられて、死んだ。多分、状況からして、自分から飛び込んだんだろうって。だから、自殺ってことになってる。それはいいんだけど、その時、何の加減か、お前、十日も目を覚まさなかった。あたし、祈ったよ。この子を目覚めさせてくれって。死なせないでくれって。何故なら、お前は兄さんの遺したものだったから」
「……うん」
「目が覚めた時、お前まるっきり色んなことを忘れてた。琴子が不憫がってさ。でも、あたしは嬉しかった。生き残ってくれたから。そして決めたんだ。あたしのムスコにしようって。兄さんの息子で、あたしのムスコだって。それは、何にも代え難い、あいつとの繋がりに思えたんだ。そういう風に結ばれたんだって」
「うん」
「お前は、そういう存在だよ」
「うん」
「全部をお前にやるよ」
「うん」
「そのくらい大事だ」
「うん」
「でも、お前の欲しいものは、あいつが持って行った」
「うん」
「応えてはやれないんだ」
「うん」
「だけど、だからこそ、お前の気持ちはわかる。それはこんなあたしたち二人にしかわけあえない痛みだ」
「うん」
「自由に生きろなんて言ってごめん」
「うん」
「苦しかったよな」
「ううん」
「ごめんな」
「うん」
「本当にごめん」
 ゆうきが泣いていた。その場を動けなかった。
 語彙が貧弱なのを馬鹿にしないで欲しい。このひとを言い表す言葉が、やはり、ひとつしか思い浮かばなかった。
 ――美しい。
 何を聞こうが、たとえこの先もっと残酷に拒絶されようが、どうせ僕は何度でもこのひとに見とれてしまう。それは、理屈でも、言葉でもない。
 僕は諦めた。
 手に入れられないものを、愛し続けようと決めた。
 多分それが僕の運命だと思った。
 せめて、互いの最も暗いところを共有したことを証明する涙が頬を伝っていくのを、少しでも長く見ていたいと思った。それで十分だった。
 どれくらい経ったか、ゆうきが涙を拭い、どれ、絵を見せてみろ、と言った。僕はスケッチブックを渡した。ゆうきは、お前、絵で女をくどくのは今後やめておけ、とにやりと笑った。何だよ、失礼な、と僕は返した。
「でも、まあ、子供が母の日のプレゼントとして渡すなら、上等だ」ゆうきは言った。
「五月にはプリントアウトして渡すよ」と僕は応えた。
「それ、なんか味気ないな」
「じゃあ、もう一回モデルしてくれる?」
「それもいやだ。印刷でいい」
 描き上がった絵を眺めつつ、軽口を叩きあった。いかにも僕たちらしかった。
 始発までの時間、僕は、自分の憶えていない小さい頃の話をねだった。大抵は、よくある気恥ずかしい話だった。
 父の話もした。僕が父の唯一の作品を読んでないと言うと、そのうち読んでやれ、とゆうきは言った。面白いの? と僕は訊いた。ありふれたラブストーリーだ、だから絶版なんだ、とゆうきは顔をしかめた。
 心中の話にもなった。相手は近所の子持ちの主婦だった、とゆうきは言った。遥さんとの結婚はともかく最終的にそんな相手に負けたのが悔しかった、とゆうきはもう何も隠す様子は無かった。
 僕は正直疲れ切っていて、それほど注意深く聞いていたわけじゃなかったけれど、始発近く、話も終わるかという頃のその言葉は僕の眠気を、完全に、吹き飛ばした。
「相手の旦那が乗り込んできてさ、そりゃあ、あたしたちは酷いこと言われたんだ。母さんは、負けずに言い返してたけどね。あいつ何と言ったかな……サナダ? 真田って言ったっけ」
 その名前が偶然の一致だとは、僕は不思議と思わなかった。

 一月、その雪の下に、甘やかな子供時代の終わりが眠っていて、その寝息が確かに聞こえ始めていた。


<#11終わり、#12へ続く>



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