情けない恋の話【断片集・藍田ウメル短編集より】
この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
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恋の話をしよう。
長い話じゃない。
寧ろ短い。
僕がこれまで好きになったのは、たった一人で、特筆すべき出来事なんて、そう多くないからだ。
彼女の名は、名波絵美という。
学生時代に出会った。語学のクラスメートだった。
後に親友となる鎌田圭と絵美と僕は、とりたてて理由も無くつるむことが多かった。
わかると思うが、遠くの美人より近くの普通の子の方が恋愛の対象になりやすい。
絵美がブスだと言っている訳ではない。彼女には彼女のかわいさがあって、僕はご多分に漏れず彼女を好きになった。
しかし、これも良くあることで、鎌田の方が先に告白し、絵美はそれを受け入れた。
僕はそれまでの「良い友達」的ポジションを手放すことが怖かったから、相談に乗ったり、励ましたりすらした。
そうして、僕という男は、嫉妬に藻掻く内面と優しさで厚塗りした外面の齟齬を抱えたまま、彼らに接した。
他に好きになれそうな女もいなかった。
ずっと好きだった。
言えなかった。
笑うよりなかった。
そして、卒業のころには、僕は何でも話せる友達として揺るぎない信頼を絵美から得られるようになっていた。
「一生、あたしたち仲間でいようね」
絵美は袴姿でそう言った。
勿論、僕は、そうだな、と応えた。
他に何を言えたって言うんだ?
僕は恋するあまり、一生彼女の相談相手の役目を選ばされたわけだ。
まあ、いい、それも仕方無いことだ、その内、他に好きな人ができるさ、と僕は思っていた。
甘かった。卒業して離れてみると、どこかよそよそしい会社の女達との会話なんかより、何故か絵美の、その頃の僕には決して愉快では無かった鎌田との恋の話の方が、ずっと嬉しかったことに気付いた。
だから、電話での愚痴を、別に自虐的という訳でも無く、今でも喜んで聞くことができる。
たまには二人きりでも会える。
満足ではない。
でも、満たされない想いを抱えて生きている人なんて世の中にはたくさんいる。
僕もその一人でいることを、いつしか、当たり前のこととして捉えられるようになっていただけだ。
まったく僕は一途だ。誰でもいい、誰かが褒めてくれれば良いのに。
その日も、ちょっと話がある、という絵美と、ある居酒屋で待ち合わせをした。軽く近況報告をし、何杯目かの中ジョッキが空になった頃、ふと表情を落とした絵美が僕に訊いた。
「鈴木、あんた、好きな人いる?」
僕はどきりとした。まさか、ばれたか、というおそれが僕に絵美の目をのぞかせた。絵美もその視線を逸らそうとしなかった。
何か、思い詰めたような目だった。
真意を測りかねて、僕は視線を逸らした。
「いないの?」絵美は再び訊いた。
「いないこともないよ」僕は応えた。
「誰?」
「いやあ、それは……」
僕は、どきりとした胸が、更に高鳴り始めたのを感じて、店員が運んで来た日本酒に口をつけた。
「言えない?」
「言えない……」
「どうして?」
「どうしてって……」
「言えない相手だから?」
「……まあ……」
僕はうつむき、頭を掻いてから膝に乗せた手をぎゅっと握りしめた。これは、ひとつのチャンスなんじゃなかろうか、そうも思った。
でも次の絵美の言葉で、それがどうも違うことを僕は悟った。
「女?」
「は?」
「その相手、女?」
僕は、また絵美を見た。絵美は冗談や思いつきで、そんなことを訊いているわけではなさそうだった。
僕は握った拳を緩めた。
「一応、女、だよ」と僕は言った。
「本当に?」と絵美は念を押した。
「本当に」
「そう」
絵美は視線を落とした。何か口の中で声にならない言葉を呟いているようだった。僕は訊いた。
「僕が、男を好きだとでも思ってた?」
絵美は首を振って、でも……と言葉を詰まらせた。
「残念だけど」僕は言った「僕はモテないからひとりでいるだけで、基本女の人が好きだし、そういう妄想に応えられるようなことはないよ。それに、もし、そういう趣味があったとしても、絵美には隠さないよ。何でも話す。隠し事なんてしない」
僕は嘘をついた。
何でもなんて話せるわけがない。
でも、そういう嘘に僕は慣れっこになっていた。
平然と酒を飲んだ。
絵美は顔を上げ、まるで小学生が成績の良くない通信簿でも開くような表情で僕を見て、ごめん、わかってる、と消え入るような声で言った。
「そういう噂でもあったの?」と僕は訊いた。
絵美は首を振った。
「なら、なんで?」
絵美はぐっと身体を縮めた。そして、何事かを決意するように頷くと、テーブル越しに僕の方へ前のめりになった。
「あたしも、鈴木には何でも話す。仲間だもんね」
「ああ、そうだね」
「でも、ちょっと言いにくい話なのよ」
「そう?」
「だから、本当に、内緒の内緒にして欲しい」
「僕が秘密を誰かに話したことあった?」
「無い」
「だろ? 話せよ。いいよ。聞くよ」
僕は、微笑みを作った。なかなか良い笑顔だと自分では思った。それを見ると、絵美は残ったビールを呷り、ふう、と大きく息を吐いた。
「圭が浮気した」絵美は言った。
「そりゃ……」
「いいのよ、それ自体は。……いや、良くないか。でも、まあ、良くあることよね」
「わからないけど」
「問題なのは、相手が男だってことなのよ」
「は?」
「男と浮気したのよ、あいつ」
口が勝手に開いた。
そして、打つべき相づちも打てなかった。
騒々しい店内で、僕たちのテーブルだけに静寂がしばらく続いた。
絵美は、驚いた? と皮肉っぽく笑った。
僕は、上ずってしまう自分の声に、余計動揺しながら、応えた。
「そんな、あいつ、そんなこと今まで言ったことなかった」
「よね?」
「いや、ちょっと待って、どうしてそんなこと……」
「ずっと様子がおかしかったのよ。何か、目が泳ぐし、会話もうわの空だし、……まあ、あたしの身体にも触らないし……それで、冗談半分で問い詰めたの。そしたら、『実は……』ってな感じ」
「はあ……怒ったの?」
「怒ったわよ。腹が立った。でも、あいつ、『相手は男だから、確かにすることはしたけど、友達でしかないから』って」
「はあ」
「大学の時の友達だって言うんだけど、名前は言えない、って。そういう同性愛的なものを隠してる男なんだって。だから、もしかしたら、って」
「まあ、僕じゃないよね、それは」
「そうよね」
はあ、と絵美は大きな溜息をついた。僕もつられて溜息が出た。
「また、どうしてそうなったんだ?」
「なんか、どうも相手が失恋したって言うんで、慰めてたら、そういうカミングアウトがあって、それで、なんとなく、って感じらしい」
「なんとなく、ね……それにしても誰だ? そういうやつ大学にいたんだな……そりゃいただろうけど、自分の周りで全然そういうの気付かなかった」
「驚きよね」
「そうだね。許したの?」
「許すも何も……どこに怒って良いのかわからなくなっちゃって……」
絵美はくしゃくしゃと頭を掻きむしり、そして、どん、とテーブルを拳で叩いた。
「どう思う?」
「どうって……男でも、女でも、浮気は浮気じゃないの?」
「そうよね。でも、単なる友達で、それ以上じゃないんだって。浮気ですらないって。えっちなビデオ見て、ひとりでするのと変わらないって」
「……うーん」
「友達とできる? そういうこと」
「いや、僕は男とは……ちょっと」
「っていうか、シた相手を、まだ、友達って言える? 友達となら浮気じゃないって」
僕は腕を組み、視線をテーブルに落として、少し考えた。
酔ってる時のことだ。
あまり良いことは思い浮かばない上に、思い浮かんだとしても、ろくなことじゃない。僕は言った。
「じゃあ、絵美が、これから、試してみればいいんじゃないかな?」
「え?」
絵美が、本当に間の抜けた顔をした。
僕たちは会話も無く俯いてホテル街を歩いた。
途中、絵美は何度も何かを思いついたように顔を上げては、二、三歩歩いてまた俯いた。
いつのまにか繋いだ手が、お互いの汗で滲んでいた。
もうホテル街が終わるというところまで来て、僕は思いきって、ここにしようか、と問うた。
絵美が落ち着かなく動く瞳のまま、そ、そうね、と応えた。
部屋に入り、微妙な距離を保ちながら、視線を合わせられないまま、僕はベッドに、絵美は椅子に座った。
お茶淹れる? と絵美は立ち上がった。いらない、と僕が応えると、絵美は、そう、とまたすとんと座った。
そして、ぎこちない笑顔を僕に向け、何か言おうとしては、顔を逸らすことを何度か繰り返した。
僕だって、緊張していたけれど、余裕ぶってそれを眺めていた。
大事なところだった。
ここを失敗すれば、もう一生絵美を抱くチャンスなんてないような気がした。
僕は、シャワーどうぞ、と言った。
絵美は、お先にどうぞ、と返した。
僕は、一緒に浴びようか、と提案してみた。
絵美は顔を真っ赤にして、なら、あたしが先に、と駆け込むように、バスルームへと向かった。
変だった。シャワーの音がいつまでも聞こえてこなかった。僕は、しばらく待って、脱衣所を覗いた。
服を着たままの絵美がそこで何かを思い詰めたかのように、立ち尽くしていた。
僕はその理由なんて訊かずに、絵美を抱き締めた。
じわりと胸の奥から熱いものがにじみ出して、それが全身に広がるような気がした。
これが、何年も想い続けたものの本当の感触なのだと思うと思わず目頭が熱くなった。
でも、絵美の身体は、僕の抱擁に応える様子もなく硬かった。
僕は不安になり、動揺し、慌てて腕に力を込めた。顔を寄せても、腹を合わせても、その硬さは変わらなかった。
僕は、ただ反応が欲しいばかりに、唇を絵美のそれに近づけた。
絵美は顔を逸らした。
怒りのような、焦りのようなしびれが、僕を乱暴にさせて、僕は絵美の顔を抑えるようにして、唇を奪った。
まるで銅像にしているみたいだった。
一度唇を離して、目を覗き込むと、潤んだ光が僕を見詰め返していた。そして、次の瞬間、絵美の腕が僕をぎゅっと抱き締めたかと思うと、絵美は今度は僕がさっきした粗暴なそれとは違う柔らかなキスを僕にした。
舌なんか使わない可愛らしいキスだった。
僕は熱くなった。
でも、絵美は僕をそっと押し離した。
そして、可笑しそうに天井に向かって、ははは、と笑った。
「何?」僕は訊いた。
「だめだわ」絵美は応えた。
「え?」
「ダメダメ、友達は友達。そういう気にならないよ」
呆然とする僕を置き去りに、絵美は出て行こうとした。
僕はその手を掴むことさえできなかった。
部屋のドアの前で、絵美は背中を向けたまま言った。
「ありがとう。良くわかった。あいつのことは、徹底的にとっちめる」
僕の返事を聞いたかどうか、絵美は勢いよく出て行った。
僕は、やりきれない想いで、狭い部屋をぐるぐると歩き回り、それに疲れると、広いベッドで横になった。
まあ、好きになった人がちゃんと貞操観念をもっていたことが嬉しかった、なんて嘘だ。
当て馬にさえなれなかった自分が悲しくて、手の届きそうだったものを逃したことが悔しくて、結局一瞬でも触れてしまったもののリアルさに身悶えして、僕は朝までその部屋にいた。
うん、折角のホテルだ、絵美をみぐるみはがして、滅茶苦茶なことを強要し、淫らな言葉を言わせる妄想をしながら、何も出なくなるまで、オナニーしてやった。まったく、ざまあみろ、だ。
コレが唯一僕が人に話せる情けない恋にまつわる出来事だ。
に、しても、大学の友達の中にいるという鎌田の相手は誰なんだろう。その内、聞き出してやろうと思っている。
<了>
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