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僕はハタチだったことがある #04【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2014年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。


 


 僕は世話役を降りて、君たちの隣から最前列の席に移った。
 嘘みたいに平穏だった。
 君たちが学校に来た時は、できるだけ休み時間も外に出ることにした。
 その時には貴句も誘った。君と貴句とを近づけたくなかった。貴句は僕が二人きりになりたがっていると誤解してくれた。
 心が痛まないでもなかった。でも、貴句が君の餌食になる可能性だってあった。僕は貴句を守っているのだと思うことにした。 

 君たちは相変わらず欠席が多かった。先生たちは諦めているようだった。
 僕の代わりには、榛名先生が言ったように、桂木が選ばれていた。
 あの気むずかしい男を先生がどうその気にさせたのかはわからなかったけれど、君たちがいる実習形式の授業の時には、桂木の君たちに教える声が僕の耳にも届いた。何だか張り切っているような声だった。彼のそんな声は、それまで聞いたことが無かった。
 思うに、君たちだって上手かったのだ。教える声に混じって、わあ、とか、すごい、とか、ありがとう、とか、そういう感嘆と感謝の言葉が聞こえた。僕の時とはえらい違いだな、と思わないでも無かったが、君の興味が自分から逸れたのなら、その方が良かった。

 昼休みになってもそんな君たちの「レッスン」が続いていたことがあった。僕はできるだけ君たちの目につかないように貴句と教室を出ようとした。
 すると、後ろから、「年度代表は女に忙しくて、仕事放り出したのかよ」と桂木の声がした。
 僕の足は止まってしまった。振り向くと、桂木が視線は合わさず、だけど、馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。
 お前に何がわかる、と思った。でも僕は言い返すことはできなかった。
 黙っていると、代わりに貴句が切れた。「何言ってんの?」と貴句は凄んだ。続けて「恋もできないし、年度代表にもなれないんだから、みじめよね」と更に馬鹿にした口調で言った。
 桂木の顔が青く強ばった。椅子が、がたっと鳴った。立ち上がった桂木が貴句に向かおうとした。
 僕が慌ててその間に入った時、桂木を止めたのは、君だった。
 君は大きな声でこう言った。
「恋なら、してるわ」
 緊迫した雰囲気に気付いた教室中の皆が、君を見た。君は胸元の辺りに爪を立て掻くような素振りを見せた後、もう一度、言った。
「恋なら、今、あたしとしてるわ」
 そうでしょ? いいわよね? あたしじゃだめ? と君は桂木に言った。 
 皆が驚いたけれど、一番驚いたのは桂木のようだった。彼は口をぱくぱくさせて、挙げ句裏返った声で、ああ、いや、と応えた。
 君は立ち上がり、桂木を抱き締めた。
 事情を知らない一部の学生からは、冷やかしの声が飛んだ。
 ね、だからいいじゃない、そんな人、と君は桂木の耳元で言った。そして、好きよ、と二度繰り返した。桂木は、力が抜けたように椅子に腰を落とした。僕は貴句の手を取って、教室を出た。
「何あれ?」と貴句は言った。
「いいじゃん、ほっとこうよ」と僕は応えた。

 僕たちは公園に行き、その頃指定席になっていたベンチに腰掛けて昼飯を食べた。コンビニのサンドイッチを頬張りながら、貴句は、嬉しかった、と言った。
「何が?」と僕は訊いた。
「ほら、とっさに、桂木から守ろうとしてくれたでしょ? それが」と貴句は応えた。
「貴句こそ、言い返してくれた」
「何か悔しくて」
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
 僕たちは目を合わせ、微笑み合った。
 やっと、恋人らしくなってきたねえ、と貴句は嬉しそうだった。
 でも、僕の内心はそれどころじゃなかった。
 本当は恐ろしかったんだ。
 桂木じゃない。君が、だ。
 君が、好きよ、と二度繰り返した時、その目は、桂木の肩越しに、僕をしか見ていなかった。たまたまだ、と思おうとした。思い込みだと自分に言い聞かせた。
 でも、相手は君だった。それだけで、何かあると思うに十分だった。僕は不安を呑み込むために、おにぎりに噛みついた。貴句が、でも早田さんってああいうのが好みだったんだねえ、と言い、はは、と笑った。
「あのさ、さっき、あたし、あの人のことなんで苦手なのかわかった」
「なんで?」
「あの人、表情が変わらないのに、声だけは感情が豊かに出るのよ」
 僕は、言われて、思い返すと確かにそうだったような気がした。そうだね、と相槌を打った。
「なんかさ、テレビであったでしょ? 笑いながら怒るって芸がさ。ちょっと違うけど、あんな感じなの。蝋人形に吹き替えの声がついてる、みたいな。うまく、こう、言えないけど……」
 いや、きっとそうだよ、と僕は言った。でも、いいの、もう関わり持たないし、と貴句は応えた。
 僕たちは、地面を覆う暖かい光を眺めながら、黙って寄り添った。僕はうまく言葉にはできなかったけれど、そんな感じがとても好きになりかけていた。ゆうきを想っていた頃や君に振り回されていた時にはなかった穏やかさだった。そして、貴句はペットボトルのお茶を口にして言った。
「あのさ」
「何?」
「こうして、休み時間の度に教室を出るのってさ……」
 僕は、どきっとした。貴句が君のことを言うのかと思った。貴句を見た。少し、悲しそうだった。
「水谷のためだよね?」
 僕はまた地面に目を落として、ああ、と応えた。
 本当は違う。でも、貴句がそう思うなら、その方が僕には都合が良かった。
 なんか、気まずいもんね、と貴句は言った。

 実は、僕はそれより少し前に、水谷と話していた。水谷は見ていたのだ。忠告だ、と彼は言った。
「あんなところで、恋人じゃない女とキスするなんて、どうかしてる」
 僕が人生初めての万引きをした時のことだとすぐにわかった。僕はまだ君以外とそんな事をしたことが無かったからだ。慌てなかったと言えば嘘になる。僕は言葉を出せなかった。
「まあ、無理矢理されたって感じだったけどな。でも、あの女と何かあるのだけはわかる」
「貴句に言うか?」
「さあね」
「お前も脅すのか?」
 水谷は、何かを探るように僕を上目使いで見た。そして、ふぅと息をついた。
「大体わかった。ま、山田を泣かすな」と水谷は言った。
 何がわかったのか、僕にはわからなかった。水谷は黙ってしまったが、僕はずっと訊きたかったことを訊いた。
「お前さ、貴句の事好きだって、アレ、本当か?」
「本当だよ」
「いいのか?」
「何がだよ」
「僕が、貴句と付き合ってて」
「仕方ないよな。でも、俺のことは気にしなくていい」
「なら、なんであんなこと言ったんだ」
 水谷は、肩でも凝っているかのように、首を回してから、僕を見た。
「俺はさ、言葉にしない想いなんて信じてないだけなんだ。
 そんなものは存在しないのと一緒だよ。
 存在しないもののせいで、苦しいなんて、あほらしい。
 それでも、小説やマンガなら、モノローグや描写で、少なくとも読者がわかってくれるけど、現実の人生には美しく書いてくれる作家も心を痛めてくれる読者もいないからな。だから、ちゃんと言葉にしておくのさ」
 僕は水谷の言っていることが、その時、いまいち良くわからなかった。言わない気持ちにだって、意味があると思いたかった。でも、反論はしなかった。僕の不実を告白なんてできなかった。水谷は、それに、と言った。
「それに、言っておけば、この先、万が一お前から山田を奪うようなことがあっても、卑屈にも卑怯にもならないだろ?」
 そのにっこりと笑った顔が、僕の心に痛みを呼び起こした。僕はただ頷いた。

 そんなことを思い出していると、貴句が、あのさ、と僕に呼びかけた。
「何?」と僕は訊いた。
「相馬ってさ、性欲無いの?」
 噴き出しこそしなかったが、飲んでいた茶が喉で止まりそうになった。は? と僕の声は甲高くなった。貴句の顔は、君みたいに無表情だった。
「いや、だからさ、性欲」
「いや、あるけど? どうして?」
「だって、全然そういうこと言わないし。でも、若い男って、すごいやりたがるっていうし。本当はあたしに興味無いのかなって」
 顔が熱くなるのが自分でもわかった。僕は少しつまりながら、興味ないことないです、と言った。良かった、と貴句は表情を緩めた。
 その頬が赤くなっていたことに僕は気付いた。
「今日、学校終わったら、デートしよう?」と貴句は言った。
「うん」と僕は応えた。
 柔らかい緊張が、二人を包んでいた。貴句が僕の手を握った。君とは違う、遠慮がちな、でも暖かい手だった。
「週末だよ」貴句の声は震えた。
 その意味は僕にもわかった。うん、と応えた僕の声も震えていた。



 学校が終わって、僕と貴句は手をつないで、繁華街を歩いた。
 何も話さなかった。
 日が暮れて、街の明かりがキラキラと視界を飾っているのに、どこを見ていいのか、わからなかった。
 ただ、鼓動が、僕の身体を飛び出してでも行きそうに、跳ねていた。
 地下鉄に乗ったはずなのに、僕はそれを憶えていない。気付いた時には、貴句の部屋にいた。
 僕は貴句を壁に押しつけて、キスをした。キスをしながら、僕たちはもつれるように部屋に上がり、ベッドに倒れ込んだ。服の上から小ぶりな乳房を揉むと、僕は、その時初めて、貴句を愛しいと思う切実な心を感じた。
 何度も唇をつけ、同時に、貴句のジーンズのボタンを外そうとした。
 上手くいかなかった。
 舌を引いて、ちょっとまって、と貴句が言った。シャワー浴びるから、と言った声は途切れ途切れだった。Tシャツをまくし上げようとすると、貴句は、お願い、と手を抑え、反対の手で僕の胸を押した。
 僕は、少し冷静になり、身体を離した。
 貴句はゆっくりと身体を起こして、責任とってね、と言った。
 僕は少し驚いて貴句の顔を見た。貴句はその僕の顔を見、慌てて、あ、そういう重い意味じゃ無くて、そういう台詞があったの、言ってみたかったの、と指を広げて両手を突き出した。僕は、少し可笑しくなって、貴句こそ責任とってね、と返した。
 貴句は微笑んで、待っててね、と僕の頭を抱いてから、ユニットバスに入って行った。
 
 僕はベッドに腰掛けて、自分の荒くなった息を持てあましていた。マンガの並ぶ書棚や、整理された画材や筆記具があった。
 テーブルに置いてあった雲形定規が珍しくて、手に取って、どう使うのかも想像できずに、振ってみたりもした。
 ノートがそこにあった。僕は何気なくそれを開いてみた。絵が、書いてあった。何かキャラクターの設定のようだった。リアルなアニメ風の硬質な絵で人物が描かれていた。
 上手に思えた。少なくとも僕には描けないレベルだった。
 でも、すぐに僕は貴句が自分の絵を見られるのをいやがるのを思い出して、慌ててノートを閉じた。
 その時、僕の携帯の着信音が鳴った。飛び上がりそうだった。ディスプレイには君の名前が表示されていた。僕は浮かれた興奮の栓が抜かれたような気がした。

 結論から言えば、その夜、僕は上手くできなかった。貴句が色々試してみてくれて、何とかなりそうになっても、挿入しようとすると、とたんに固さが足りなくなった。そんなことを何回も繰り返している内に、朝になった。
 貴句は、よくあることだって色んな人が書いてるよ、と言ってくれた。でも、僕は気まずかった。
 男のメンツということばかりでは無かった。
 君が僕の携帯を鳴らしたせいだ。
 僕は応対しなかった。でも、それが気になって、どうしても集中できなくなった。
 何のために掛けてきたのか不安だった。あの夜のこと、あのキスのこと、君の言葉が頭を過ぎった。
 そして何故だか貴句を何かの代わりにしているような気がした。
 僕は君が欲しかったんだろうか? 桂木に嫉妬していたとでも言うんだろうか?
 いずれにせよ、僕のいくらかの部分が、君によって縛られていたのは、確かだったんだろう。まだ、はっきりと自覚はしていなかったけれど。


 僕は貴句といるのが辛くなって、次の日の昼頃、自分の部屋に戻った。戻って、驚いた。君がアパートの柱に背を凭れていた。
「なんで、ここにいる? っていうか、なんで知ってる?」僕は訊いた。
「あなたは普段からもっと後ろを気にした方がいいわよ。マヌケね」君は言った。
 僕はそれ以上話をしたくなかった。鍵を取り出し、部屋に入ろうとした。君はその手を止めた。
「何だよ?」
「どうして、電話に出なかったの?」
「どうしてだっていいだろ? 僕にだって手を離せない時だってあるし、大体君の何でも無い。何かあるなら、近藤か、恋人の桂木と話せよ」
 君は僕の身体に鼻を寄せ、くんくんと嗅いだ。僕は思わず身を引いた。
 君は僕をまじまじと見詰めた。相変わらずの瞳だった。
 僕は自分のしたことを全部読まれてるような居心地の悪さを感じた。
「うまくいかなかったのね」君は言った。
「何が?」僕は問い返した。
「酷い顔してる。いいけど。あなたが誰と何をしようが」
「そうだよ、君には関係無い」
 悪いけど、これから眠るんだ、と僕は言って、部屋に入ろうとした。君は首を傾げ、テープ、と言った。
「とうとうあのテープ見なかったのね」
 どうして何でもわかるのか、少し恐ろしく感じながら、僕は、ああ、と応えた。君は、そう、と俯いた。
「ところで、ああいうものがコピーできるというのは、誰でも知ってることだと思うの」
 僕は、自分が君からまだ自由になっていなかったことに、ようやく気付いた。



 僕たちは地下鉄に乗った。あの日のように君はぴたりと僕に寄り添って座った。僕の気持ちなんてどうでもよさそうだった。
 僕は最初むかついていた。理不尽さに叫び出したいような気分だった。
 でも、君の、いや多分女の持っている熱というのは、男のそういうものを溶かしてしまう作用があるのかもしれない。僕は次第に投げやりな、でも落ち着いた気持ちになっていた。
 君は何となく浮かない様子だった。そんな気がした。
 始終あらぬ方向を見ていた。ある駅で子連れの母親が乗り込んできた。子供は子供らしく取り留めの無い話をし、母親が疲れた様子ながらも優しくそれを聞いていた。君はいつしかそれを見ていた。
「母親のこと憶えてる?」と君は訊いた。
「いや、全然」と僕は応えた。
 そう、と君は言った。僕は逆に訊いた。
「君は?」
「天気が良いわね」
 答えになってないと指摘することもできたが、そういう議論が君とは成り立たないのを僕は知っていた。僕はただ俯いた。
 すると君がぶつぶつと独り言のように言った。
「一体、母親はあたしたちにこの世に生まれた幸せを与えてくれたかしら。とんでもないことよ。母親があたしたちを危険に満ちた世界に投げ入れてくれたおかげで、そこから全力を尽くして逃げ出そうとしているのがあたしたちではないか」
 何かの台詞なのか、と思った。貴句がよくやるように。でもその引用元もわからない僕は気の利いた返しもできなかった。何も言えなかった。そして次の駅で君は、降りるわ、と言って立ち上がった。



 そのブティックは、地下鉄の駅からすぐの商店の集まった区画にあった。
 君はその前に立つと、ケースを取り出し、錠剤を一粒飲み込んだ。
 いい? 何も話さなくていいからね、と君は言った。僕が頷くのを見て、君はその店のドアを開けた。
 僕はその後について入った。中年の女店主が退屈そうな顔をぱっと笑顔にして君に近づいて来た。
「まあ、りんどうちゃん」と女店主は言った。
「お久しぶり、オカアサン」と君は言った。
 でもその呼び方、やめてくれる? と君は言った。ああ、ごめんなさい、りんどうちゃんはこの呼び方嫌いだったのよね、カワイイのに、と女店主はさして悪気も無さそうに応えた。そして、僕を見た。
「こちらは? 恋人?」とオカアサンは訊いた。
「ええ」と君は応えた。
 僕には訊きたいことも、異論もあったが、君の指示通り何も言わなかった。ただ、どうも、と軽く頭を下げた。
 あらあら、まあ、まあ、とオカアサンは僕を上から下まで見て、余計に笑顔を作った。
「今度の人は優しそうね」とオカアサンは言った。
「“今度の人”なんて、冗談が過ぎるわ。それに優しいだけじゃ無いのよ。すごく頼りがいがあるの。しかも学校で一番優秀なのよ」君は楽しそうに応えた。
「あら、そう? それは良かったわね。安心したわ」
「ええ、安心してちょうだい。ところで、カツミさんはお元気?」
「ええ、ええ、元気よ、あの子も最近カノジョもできて、楽しくやってるわ」
「そう、良かった。安心したわ。どうなることかと思ったもの、それに――」
 オカアサンがまたにっこり笑って、言葉を遮るように、りんどうちゃんに似合いそうなものあるのよ、と陳列棚に促し、君たちは服を身体に当てたり、試着したりし始めた。
 僕は黙ってそれを見ていた。
 鈍感な僕でも気付いていた。
 君が笑っていた。本当に笑顔だった。
 うふふ、おほほ、と楽しそうに会話しながら、その上で、二人の目が本当には笑っていないのが、気持ち悪かった。
 笑いながら、会話そのものとは違う遣り取りをしているように感じた。
 僕は一刻も早く帰りたいと思った。でも、君が服や小物を選び、山のような荷物を僕に持たせた時には、ゆうに九十分は過ぎていた。オカアサンは、去り際、またいらっしゃいね、りんどうちゃんに会えるのは嬉しいわ、カレシもね、と僕たちの背中に言った。

 君は、すたすたと足早に歩いた。僕は幾つも紙袋を下げてついて行った。僕は苛立つ思いを口にした。
「いつから僕は君のカレシになったんだ?」
 君は何も応えなかった。
「君のカレシは桂木だろう? 荷物を持たせたいなら桂木に頼めよ」
 地下鉄の駅へ降りる階段の前で、君は立ち止まった。
 振り向くと、歩きましょうよ、と言った。勘弁してくれよ、と思ったが、君はお構いなしだった。君は、そのまま駅を通り過ぎると、川の方へと向かった。僕は荷物を持ち直して、仕方無く君の後を追った。

 川岸には、ジョギングやサイクリングをする人が時折通り過ぎる以外、ひと気がそれ程無かった。君は、手を腰の辺りに組んで、俯いて歩いていた。僕は君の背中に訊いた。
「母親は死んだんじゃ無かったのかよ?」
 君はちょっと顔をこちらに向けて、また前を見ると、少し間を開けて応えた。
「母親が何人いたって構わないでしょ? 金を持ってる気の多い男のコドモには何人も母親がいるものよ」
「ああ、再婚か、二人目?」
「七人目」
「まじで?」
「冗談よ」
 君の冗談は冗談に聞こえなかった。僕は儀礼的に笑ったけれど、溜息みたいな音しか出なかった。
 君は立ち止まると、すっと川を指さした。
「その荷物、川に捨てて」
「は?」
「捨ててよ」
「だって、全部合わせて、すごい高かったじゃん、もったいないよ」
 僕は手に持った荷物に目を遣った。君がカードで支払った金額があれば、僕は三、四ヶ月は余裕ある生活が出来そうだった。それを捨てろという君の感覚が理解できなかった。
「着ないから、いいの、気色悪いから、いいの」
「でも、川になんか捨てたら、怒られるよ」
 君は振り向いて、僕につかつかと近寄ると、荷物を無理矢理奪おうとした。僕は、やめろって、と叫び、君の手が届かないように両手を挙げた。
 ジャンプしても届かないのがわかると、君は一つ大きく息を吸った。そして、次の瞬間、拳を僕のみぞおちに入れた。手加減無しだった。
 僕は、その場にうずくまった。
「な、何するんだよ?」
 僕が手を離した荷物の一つを君が取り、柵の方へ走って、放った。荷物はゆっくりと沈みながら流れて行った。
 君は残った紙袋もそうしようとしたが、僕が暴れる君を何とか抱き抑えた。
 君は、身体に力を込めたまま、でも、僕の腕を払おうとしなかった。
 あの女、と君は呟いた。
「あの女の底意地の悪さ、わからなかった?」と君は訊いた。
「底意地って……」
「呼び方を変えなかった、あたしがいやがるのわかってて、最後まで変えなかった」
 確かにオカアサンは君をりんどうと呼んでいた。
「りんどうって、あだ名か何か?」
 君は、きっ、と僕を見た。そして、しばらく何かを探るように僕の目を覗くと、首を振って、力を抜いた。そして、僕の胸を両手で押した。僕は君を離した。
 君はまた僕に背を向けた。そして、噛みしめるように語り始めた。
「あの女はね、父の二人目の嫁。克己っていう高校生の男の子を連れてね。
 男の子はつまらない、女の子ができて嬉しい、とか何とか言ってたわ。あんな調子で、笑いながらね。
 あたし、今に比べれば、ずっと素直だった。とても嬉しいって程じゃなかったけど、それなりに歓迎はしてたの。
 最初は、ぎこちないなりに上手くやってた。
 でも、すぐ、少し違和感を感じ始めたの。何かと干渉するようになってきたのよ。
 例えば、下着とか、着る服とか、文房具とか、本とか、友達づきあいとか、その他もろもろ。派手だとか、高い、とか、教育に良くないとか、あなたのためだからね、って笑顔でね。
 塾に通ってたんだけど、夜遅くなるのは危ないからって、もっともらしく言って、辞めさせられた。
 ピアノもご近所から迷惑だって言われたって。それまで、そんなこと言われたことなかったのに。でも、もしかしたら我慢してた人がいるのかと思って、あたしは弾くのをやめた。
 その内、あの女は父に言って、お小遣いの権限を自分が持つ様にした。それまで、確かに貰いすぎなくらいだったかも知れないけど、あの女は一円たりともよこさなくなった。何かが欲しい時には、あの女に頭を下げて、お金を貰わなきゃいけなくなった。
 でも、あの女は、そんなもの必要ないじゃない? 他で代わりがきかない? 頭を使わなきゃだめよ、なんて言いながら、滅多にお金をくれることが無かった。
 あたしだって、そりゃ、不快だったけど、あの笑顔で言われれば、確かに今まで贅沢過ぎたかもしれないって思わないでもなかったわよ。
 毎日の食事もね、一品一品、どんどん減っていくの。あたしのだけ。自分と自分の連れ子は豪華なもの食べてるの。父は夕食時に殆どいなかったけど、たまにいる時だけ、あたしは皆と同じものを食べられるの。
 でも、そんな時、あの女の目が、ぎらりって光ってるのよ。あたしが口にものを入れると、その度に、あら、女の子のわりに食べるのねえ、あたしは小食だったから、うらやましいわあ、って言うのよ。
 最終的にはね、あたしの前には一膳の軽く盛ったご飯とたくあんが二きれしか並ばなくなった。粗食は健康にいいのよ、なんて。
 でも笑顔なんだもの。腹が立つけど、自分のためかもしれないって考えも消せないのよ。
 参考書も買えない、シャーペンの芯さえもクラスメートにたかった。男の子に取り入って、うまくものを巻き上げるようになった。何も買ってもらえないんだもの、仕方無いじゃない?
 でも、そんな媚びを売っていたら、女子には嫌われるわよね。以前は家にも遊びに来ていた友達もあたしを避けてるみたいだった。いつのまにか、あたしは一人になってた。
 こんなこともあったわ。ある時、どうしても新しい下着を買わなきゃならない時があって、お願いします、下着代ください、ってお願いしたの。そしたら、あの女、あら、下着? 良いわよそんなの買わなくて、あたしの履けば良いじゃない、って言って、自分のお下がりを押しつけたわ。しみつきの、ゴムの伸びた、下着よ。水泳の授業だったのよ? 皆の前でそんなの出せる? あたし、生理だってことにして水泳の授業は全部休んだ。
 不自然よね。他の子の目が気になった。どんどんあたしの居場所が無くなっていった。
 家に帰っても、あの女が、散らかってたからあなたの部屋の掃除してあげたわ、と言うの。その度に、どんどん部屋からものが無くなっていった。
 大切にしていた人形とか写真とか、本とか服とか、少しずつ、確実に。
 熱い風呂は身体に悪いからと言われて、殆ど水で身体を洗ったし、トイレは外でしなさいって言われたから、夜中でもコンビニに走ったわよ。
 今思えば、本当にあたしはバカなコドモだった。それでも母親というものが大事だったのよ。
 でも、決定的だったのは、やっぱり食べ物のことだった。秋の遠足だった。弁当をお願いしたわ。なんなら、自分で作りますから、材料費くださいって。でも、あの女は、『とても嬉しそうに』、任せてちょうだい、腕を振るっちゃうわ、って言った。
 あたし、半信半疑で、でも、楽しみだったのよ。飢えていたから。
 次の朝、あたしはそれを持って、家を出た。そして、昼になって、あたしは愕然とした。たくあんすらなかった。
 ごはんに、ただ、醤油がかけてあるだけだったのよ!
 涙が、溢れて、溢れて、止まらなくなった。
 かっこ悪くて、情けなくて、皆から離れて、一人であたしはそれを食べた。
 あたし、醤油色のご飯を頬張りながら、この気持ちを一生忘れないと決めた。
 自分があんな女に良いようにされていた悔しさを。
 そして、何も出来なかった自分の幼稚さを絶対に許しちゃいけないと思った。
 だから、家に帰って、あたしは、おいしかったわ、と満面の笑みで言った。オカアサンはとても料理が上手なのね、と言ってやった。あの女の顔が引きつるのを初めて見た。
 その後、あまり話してはこなかったけど、連れ子の克己と二人になった時、高校へ持ってくオニイチャンの弁当はどんなものが入ってるの? と訊いた。とんかつとか、卵焼きとか、鮭とか、と何の気無く言ったわ。あら、美味しそう、とあたしは言った。そうなんだ、母さんの弁当は昔から美味いんだ、とあいつは言った。
 そのあたりまえだという顔がとても気に障った。
 あたし、だから、決めたの。こいつらを滅茶苦茶にしてやろうって。滅茶苦茶にして、追い出してやろうって」
 君は、興奮する様子でもなく、でも、深く深く、息を吐いた。
「追い出したわけだね?」と僕は訊いた。
 ええ、と君は応えた。どうしたか、聞きたい? と君は僕を見た。あまり、聞きたくなかった。僕は黙り込んだ。君は、舌で軽く唇を舐めて、言った。
「克己をね、操り人形にしてやったの。あたしの言うことなら、何でも聞くように」
 僕のほうで、溜息が出た。
「僕のように?」と僕は訊いた。
 君は首を振った。
「似たように見えても、あなたとは違う。あたし、あなたに嘘をついたことないわ」
 そりゃ、どうも、と僕は言ったけれど、それはそれで厄介だと思った。
「面白いのよ、あの男、あたしが見てるだけで、勝手に一人でするの。あたしの名前を呼びながら。
 変態よ。あたしがそうしてやった。
 見ていて欲しくて、あたしに言われるまま、あの女や父に暴力を振るうようになった。家は滅茶苦茶になった。そこで、あたし、父親に今までの仕打ちを告げ口した。
 オニイチャンがしてることもね。
 あいつら、出て行かざるを得なくなった。
 あの店は父の手切れ金代わり。でも、あんな趣味の悪い店じゃやってけないでしょ?
 だから、あたし、買ってやるの。生きてけるように。
 どこまでもみじめな気持ちでいさせるために。
 あんなこと言ってたけど、克己、大学に軒並み落ちた後、何年も浪人した挙げ句、今、部屋から一歩も出てこないそうよ。己に克つって名前なのにね。親子で一生苦しめばいいのよ。ざまあみろだわ」

 僕は君が可哀相なんだか、怖いんだかさっぱりわからなかった。
 とりあえず、君が幸せでなかったのだけは伝わってきた。
 君が表情を消している理由もわかったような気がした。それは痒みや薬のせいもあったかもしれないが、それ以上に、表情というものが嘘をつくのに堪えられなかったからだ。
 でも、君はオカアサンに笑った。笑いながら心の底で怒っていたんだ。
 悲しい笑顔だった。
 僕は、紙袋を握りしめて、川縁の柵のところに立った。君が僕を見ていた。僕は右眉を上げてみせると、川にゴミを捨てることに関する法律が無いことを祈りながら、全部を放り投げた。
 そして、君の手を取って、その場から走って離れた。
 ありがとう、と聞こえた気がした。気のせいでいいと、僕は思った。

 帰りの地下鉄のホームで、君は僕の背中に、人目も気にせず、身体を預けた。
 そして、このまま押したらどうする? と言った。やめてくれよ、と僕は慌てて振り向き、君を押し返した。君は、冗談よ、と顔を背けた。
 でもその時は一緒に飛び降りるから、と僕を見ずに呟いた。
 それを冗談だとは君は言わなかった。
 
 六月、この街には梅雨がない。でも、君は僕の心を、少し、湿らせた。


<#4終わり、#5へ続く>



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