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僕はハタチだったことがある #07【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2014年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。



 夏休みが明けて、僕たちは卒業制作の企画書の提出を求められていた。
 貴句と水谷は早々にマンガを共同制作することに決めていたようだった。
「夏休みにね、話し合ったの」と貴句は言った「あたし、ほら、ストーリー作れないじゃない? 丁度、水谷はお話書けるし、いいかなって」
 僕は、いいんじゃない、と言った。そこは妬くところだよ、と貴句は少しむくれた。
 でも、僕は、いつまでもアイディアが浮かばない自分を取り残して皆が方向を決めていくことに焦りはあっても、嫉妬は感じていなかった。
 僕の額にはゆうきのくれたしるしがあった。その時にはもう、僕の心は貴句を離れていたのかも知れない。
 水谷が貴句を連れていってくれることを、どこかで期待すらしていたんだろう。僕は妬くフリすらしなかった。卒業制作の方が大事だった。なのに、どんなに頭を絞っても、僕は自分のしたいことがわからなかった。
 授業中頭を抱える僕を見て、貴句は、もし、良かったら、参加しない? と誘ってくれた。僕は、考えてみるよ、と応えた。
 それを聞いていたタカハルが、僕も混ぜてもらうわけいかないかな? と言い出した。貴句と水谷は少し顔を見合わせて、いいよ、アシスタント的な役割になるけど、と加入を認めた。
 タカハルは嬉しそうに、パシリでも、マッサージでもするよ、と宣した。
 
 君は相変わらず桂木と付き合っていた。でも、君は彼に対してどこかよそよそしいものを漂わせ始めていた。
 その証拠に、君は昼休みも彼と過ごさなくなった。正確に言えば、僕のあとを追うようになった。君は僕がひとりになるのを見計らっては、僕を引っ掻きに来た。何だよ、と僕が訊いても、君は何も言わなかった。
 僕は君の爪を払おうともしなくなっていた。



 さて、ここで、三浦恵みうらめぐみのことを、どうしても書かなくちゃならない。
 若さは、軽率と浅慮を特徴とすると同時に、必要以上の深読みを好む。要は適切に物事を見ることを知らない。
 僕はあの時、君が求めていたのと同じように、何か、複雑なものを彼女から見いだそうとしていた。でなければ、あの不気味さに納得できなかったからだ。でも無駄だった。君だって憶えているはずだ。君が本気で殺そうとした女だからだ。

 三浦恵とはバイト先のコンビニで出会った。高校生の彼女は五時から十時までのシフトに入って来た。
 僕の後輩にあたったが、僕と彼女は交代の時のほんの少しの間顔を合わせるくらいで、特に印象に残っていたわけじゃない。
 深夜シフトのパートナーだった大学生の関さんは、あのコ本当に可愛いな、とよく言っていたけれど、僕はゆうきを見慣れていたせいで、かえって、人の美醜に疎かったから、そうですね、とだけ愛想していた。
 それを聞いていた夕方の主婦パートの猪口さんが、ある時、うん、まあ、そうだけどさ、と割って入った。
「でも、あのコ、ちょっと変わってるのよ。わからないことがあっても訊かないの。訊かないで、ずっと固まってるの。にこにこしながら。お客さんは変な顔してるし、列はできるし、慌ててフォローしようと思うんだけど、こっちも手を離せない時があるし……」
 あたし、仕事も教えないような意地悪だと思われてるのかしらねえ、と猪口さんは苦笑していた。まだ緊張してるんじゃないですか? 高校生だし、それにしても可愛いなあ、と関さんは好意的に捉えていたようだった。
 その興味はどうやら本物で、関さんは彼女を呼びたいがためだけに飲み会を企画した。高校生を飲み会に呼ぶということ自体どうかと僕は思ったけれど、関さんは都合を全部彼女に合わせてまで、彼女から出席の約束を取り付けた。
 関さんの浮かれ様と言ったらなかった。普段ならやらないで飛ばすこともある、ポリッシャー掛けを彼は二度もやった。おでんの什器を洗うのだって、いつもは僕に何気なく押しつけるのに、その日は自らすすんでやっていた。
 大抵の男は女の子のことになるとおめでたいし、僕だってそうだから、まあ、うまくいくといいですね、くらいの気持ちでいた。
 でも、飲み会の日、三浦恵は来なかった。携帯かけてみました? と訊くと、関さんは、彼女まだ持ってないらしいんだ、と肩を落とした。
 
 その数日後、たまたま早く店に着いた僕が、バックルームでデータ端末のバイトにも閲覧が許された画面を何とは無しに眺めていると、カートン買いの煙草を取りに来た三浦恵が、おはようございます、と僕に笑いかけた。僕も、おはようございます、と応えた。
 彼女は煙草の棚の扉を開けた。そして指定の銘柄を探しながら、僕に言った。
「飲み会、どうしてもいけなかったの」
「ああ、まあ、高校生だしね、仕方ないよ。関さんはがっかりしてたけど。家で叱られた?」
 彼女は応えなかった。その代わり、笑顔で僕を見た。
「あたしのこと、話題になった?」
 幾分唐突だったと思う。でも、僕はそれが気に掛かりもしなかった。僕は飲み会のことをざっと思い返して、応えた。
「いや、来ないのは残念だね、ってくらいかな」
 彼女は返答もせず、一旦落とした視線を左上に上げて、すぐに棚に戻した。僕は少し違和感を感じたけれど、それは会話の下手な自分のせいだ、と決めつけていた。僕はまた端末の画面に視線を戻した。
 そうして、僕はふと奇妙に思った。三浦恵が、いつまでも、その場を動かないでいるからだった。
 僕は、どうしたの? と訊いた。彼女は、僕を見た。何も見てないような笑みだった。僕は猪口さんの言葉を思い出した。慌てて、どの銘柄? と尋ねた。彼女は応えなかった。僕は少し躊躇ってから、レジに続く扉から顔を出し、レジでいらついている客に向かって、すいません、煙草の銘柄何でした? と訊いた。ラークだよ、と冷淡な返答があった。僕は棚から箱を取り出し、三浦恵に渡した。彼女はそれでも動かなかった。急いでいた。僕は、仕方無く出て行って、レジを打った。
 バックルームに戻ると、三浦恵は出て行く前と同じように笑っていた。僕は言った。
「わからなくなったら、いつでも訊いてね。お客さん、待たせたらいけないから」
 僕が言ったのは、たったそれだけのことだ。
 なのに、彼女の目から涙が零れた。その唇がへの字になって、ううう、と端から声が漏れた。僕は小学生の時だって女の子を泣かせたことが無かった。未熟だった。それが「彼女の都合」であることなんて思いも付かずに、僕はひたすら慌てた。
 何と言ったんだか、憶えてないけれど、とにかく泣き止ませようと、優しい言葉を掛けた。でも、彼女はますます泣いた。泣いて、信じられないことに、制服を着たまま、荷物も残したまま、バックルームを飛び出し、帰ってしまった。
 すれ違いで出勤してきた関さんが、今泣きながら出てったけど、お前何かしたのか? と少し険しい表情で僕に訊いた。僕には、さあ、わかりません、という言葉しかなかった。
 次の日は日曜だった。コンビニの深夜バイトは、体力的にはさほどではないけれど、やはり夜起きていることで、独特の疲労が溜まる。僕はバックルームで座って少し休むのを習慣にしていた。
 その日も関さんより遅れて店を出た。何気なく見た店の横の通りに、三浦恵が立っていた。
 僕は驚いて声を掛けた。どうしたの? 昨日、もし気に障るようなこと言ったならごめん、ああ、そうか、荷物ならバックにあるよ、というようなことを僕は言った。三浦恵は、うっすら笑いながら、僕から目を逸らそうとしなかった。僕は気をまわした。ちょっと待ってて、と言い、バックルームに戻り、彼女のバッグを取ってきて渡した。そして、じゃあ、とその場を去ろうと歩き出した。
 僕の部屋は、そこから歩いて十分くらいのところにあった。僕は気付かなかった。確かに僕は、君が言った通り、後ろをもう少し気にした方が良かったのかも知れない。僕は部屋の前で、唖然とした。彼女が、あたりまえのように僕の横に並び、さもドアを早く開けろと言わんばかりに僕を見ていたからだ。僕は、鍵を差し込んだ手を止めたまま、言った。
「悪いんだけど、これから眠るんだ。だから……」
 自信なさげな口調だったかも知れない。少なくとも絶対的な拒絶を示すことはできていなかったと思う。恐らく、それを見越した上で、三浦恵はまた泣いた。ぼろぼろと、涙が落ちていった。ああ、と声が出たけれど、僕はどうしていいものかわからなかった。固まりながら内心慌てている僕の手に、彼女は手を添えて、鍵を回した。

 彼女は座卓の前に座ったまま、僕が何を話しかけても、にこにこと笑うだけで、言葉を返さなかった。
 話があるというわけではなさそうだった。
 僕は、できるだけ生活のリズムを崩したくなかったから、早く眠りにつきたかった。
 十分だったか、一時間だったか、とうとう僕は彼女に、帰ってくれないか、と哀願することになった。
 彼女は零れ落とすみたいに表情を暗くして、立ち上がった。僕はほっとした。見送ろうと僕も立ち上がると、彼女は背中を見せたまま、今日はお父さんがいるの、と言った。へえ、だか、はあ、だか、僕は応えた。
 そりゃあ、日曜の多くの家庭には父親がいるだろう、それがどうしたんだ、と思っていると彼女は言った。
「お父さんがいると、お仕事があるの」
「うん?」
「お仕事、嫌なの」
 何だか変な感じがした。でも、僕は、何の仕事? と訊いてしまった。コンビニ以外にも何かバイトをしてるのか、と思った。その程度の気持ちだった。
 彼女は首を少し傾けて、振り返った。
「誰にも言っちゃいけないの」
「あ、そう」
「お父さん、あたしのことアイシテルんだって」
「うん」
「だから、誰にも言っちゃいけないの。でも、本当は嫌なの」
 いつのまにか、上目使いの彼女の目が僕を捉えていた。
 僕はやっぱり鈍感なんだと思う。気付く人なら、そこでピンと来て、聞かなかったふりができただろう。つくづくマヌケだった。僕は彼女の言葉に付き合ってしまった。
「嫌なら、やめればいいんじゃないかな」
「でも、痛いから」
「痛い?」
「お仕事すると、お父さん優しくなるから」
「えーと、つまり……殴られるってこと?」
 彼女は、顎を少し引いた。それを肯定だと思った僕は、彼女が殴られているということだけで、胸がつまって何も言えなくなった。ゆうきとふざけている時は別として、僕は殴られたことが無かった。だから、彼女を可哀想だと思ってしまった。
「それは、帰らなければ、避けられることなの?」と僕は訊いた。
 彼女は、また、顎を少し引いた。僕は自分の頭を右手で押さえるくらいしかできなかった。すると、みるみる彼女の瞳が潤んだ。
 僕は、人間の涙は悲しい時にしか流れないと思っていた。
 ああ、泣かないで、と僕は言った。彼女は涙をぎりぎりに溜め光らせて僕を見た。
「いてもいい?」彼女は訊いた。
 僕は冷血漢にはなりたくなかった。色々と嫌だと思ったけれど、頷いていた。
 こっちは寝るから良い時間になったら帰るんだよ、と彼女に言い、僕はベッドに横たわった。
 でも、あまり知らない人間が部屋にいるせいで、うまく眠りに入ることができなかった。
 彼女はテレビを見るでも、本を読むでもなく、そこに座っていた。
 僕は寝返りを打ち、布団を頭からかぶり、彼女に聞こえないように、溜息をついた。そして羊を数えてみた。三十匹を数えたくらいで、君のことを考え始めていた。
 君が現れて以来、世界が難しくなった。こんな状況も君のせいに思えた。
 進もうと決めた時には困難が降りかかるものだ、と言ったのは何のマンガだったか、それともドラマだったか、と僕は思い出そうとした。思い出せなかった。
 いつのまにか眠りが降りてきていた。そして、次気付いた瞬間、僕は何が起きているのかわからなかった。
 快感だった。
 何かが僕のその部分をなまめかしく擦っていた。僕はその快感に身を任せそうになりながら、混乱した頭で状況を何とか把握した。
 飛び起きて、その手を払うと三浦恵が少し驚いたように僕を見ていた。
「何してるの?」と僕は訊いた。
「お仕事」と彼女は応えた。
「お仕事?」
 彼女はまた僕の股の間に手を伸ばそうとした。僕は思わず身を屈めた。
 きっとそれなりの時間僕はそうされていたのだ。そういう高まりが脚の付け根に溜まっていた。
 でも、しつこく伸びてくる三浦恵の手を払いながら、僕は、ようやく彼女の「お仕事」の意味に気付いた。
 背中が、鳥肌に浸食されていくのが、わかった。

 とにかく要領を得なかった。何を訊こうが、三浦恵はうすら笑いを返すだけだった。
「お仕事って、いつもしてるの?」
「……」
「さっきみたいな事?」
「……」
「お父さんと?」
 三浦恵は視線を斜めに上げて、お腹減った、と言った。僕はもどかしさを感じながら、冷蔵庫から買い置いてあったプリンを取り出してやった。
 厄介だ、と思った。でも、何かしなければならないような、何をしていいのかわからないような、不思議な焦燥感が僕の胸を締め付けていた。
 プリンをスプーンでつつきながら、彼女は「お仕事、する?」と訊いた。僕は慌てて、いや、そんなことしなくてもいいから、と応えた。
 でも、彼女によって高められた感覚の余韻がずっと波打っていて、心の中のきれい事をさらっていきそうな気がした。
 もし、君とのアレによって、痛い思いをしていなかったら、ふらふらと彼女に覆い被さっていたかも知れない。
 男は、いや、僕という人間は、本当にバカだった。こんな深刻な場面でも、欲情を消しきることができなかった。
 僕は立ったり、座ったり、狭い部屋の中を歩き回ったりした。
 チャイムが鳴って、僕は少しびくっとした。おそるおそるドアを開けた。
 あんな風に思ったのは初めてだったけれど、君の顔を見た時、僕はどこかほっとした。
 君は玄関から三浦恵の顔をちらと見た。そして、何もいないかのように、僕の身体に腕を回すと背中に爪を立て、行くわよ、用意して、と言い、背中を向け出て行った。
 僕は、戸惑いながら、でも、三浦恵といる緊張に耐えられずに、これ、部屋の鍵、出て行く時はポストに入れて置いて、と言い残して、君の後を追った。



 初心者マークはついていたけれど、君の車の助手席は悪くなかった。後ろではタカハルがちょっと難しそうな顔をして、貧乏ゆすりをしていた。
 あのさ、と僕は君に声を掛けた。君はそれを遮って、言い訳なんていらないし、する必要は無いわ、と言った。そうじゃなくて、と僕は言った。君が薬で酩酊していた時のことを思い出していた。
「まさか、薬飲んでないよね」
 君は視線もよこさずに僕の肩に手を伸ばすと、二、三度、引っ掻いた。タカハルが、最近リンはあまり薬必要ないみたいなんだ、と言った。
「皆が、買って欲しがってたよ」とタカハルは言った。
「そう?」と君が応えた。
「もう、あてにされてる」
「近々、連絡するわ」
「おい、そういうのって病院で貰えるんじゃないのか? それともなんかもっとやばい何かなのか?」と僕は訊いた。
 タカハルがふっと笑って言った。
「ちゃんと貰えるし、違法のドラッグみたいなものでもないよ。でも貰える量に限度がある。リンにはそれじゃ足りなかった。だから、他の患者から買ってたんだよ」
「いいのか? それ?」と僕は訊いた。
「さあね」とタカハルは応えた。
 公園に着いて車を降りると、タカハルは、じゃあ、と手を上げて、待ちきれないと言わんばかりにジョギングコースを歩いて行った。
 それを追うでもなく、ゆったりとした君のペースに合わせて、スタジアムを見上げながら僕も歩き出した。
 こんな所、随分来ていなかったな、と思った。でも、いつ来たのか、記憶が無かった。
「歩きたくなるんですって」と君は言った。
「タカハルが?」と僕は訊いた。
「薬の副作用よ。どうしてもじっとしていられなくなる。止める薬もあるけど、やっぱりどうしようもなくなる時がある。だから、そういう時はここに来るの」
「もしかして、学校休む時ってそういうこと?」
 君は応えなかった。代わりに芝生が広がった広場のベンチを指して、座りましょう、と僕を促した。
 そのまま僕たちは視線をジョギングコースに向けて、黙り込んだ。
 アンザイも、ナオコも、首を吊った、と君は唐突に言った。僕は君が誰のことを言っているのかわからなかった。
 君の顔を見なかった。どうせ、表情は変わらないからだ。
 そういう病気だと思われてるのよ、美しくするにはそうするしかなかった、と君は言った。
「でも、薬は随分進歩した。薬を飲み続ける限り、多くの場合、普通に近く生きられるようになった。なのに、人の見る目は変わらない。レッテルをはって、世界の外側に隔離することしか考えていないわ。生きるためには働かなければならない。お金だけの問題じゃない。だけど、施しを与えるからまともな人間には関わるな、と言わんばかりの世界よ。タカハルはそういう人たちが働くところにも通ってみたらしいけれど、月四、五千円しか貰えなかったって。本当に働きたくて、お金が必要なのは本人たちなのに、福祉が本当に食わせているのは一体誰なのかしら」
 僕はその頃にはタカハルの病気がどういうものか何となく理解していた。だから君の声の厳しさの理由もわかった。
 僕にしたって、タカハルは別としても、そういう人たちを遠ざけたい気持ちがあるのを否定できなかった。
 僕はいつかタカハルが言ったことを思いだした。リンの優しさは本物だ、筋金入りだ、と。
 君が救おうとしているのが、たった一人だということを、自己満足だと切って捨てることなんて出来なかった。君は言った。
「あたしは、タカハルに、絶対、死を選ばせたりしない」
 僕は、その言葉を重く聞いた。その重さが僕を俯かせた。僕たちはそのまま黙り込んだ。
 どのくらいそうしていたかわからないけれど、タカハルがしんどそうな表情をして何度か前を通り過ぎた。
 日が随分傾いて、遠くから近づいてくるタカハルが大きく腕で丸をつくって見せた時、君は、ところで、と言った。
「あたしの傍にずっといてくれない?」
「……僕には好きな人がいる」
「どの人のこと?」
「さっきの部屋のコじゃないよ」
「構わないけど。あなたが誰を好きでも」
「ああ」
「そうね……部屋にいたアレ。偽物だわ」
「はあ?」
「道ばたの石よ」
「なんだそりゃ」
「躓かないでね」
「……気を付けるよ」
 君は一歩前に出て、僕に振り向いた。
「あたしの痒い場所が見つかったの」
 君は僕の頬に触れ、そして、軽く擦った。その間、僕の目をじっと見ていた。
 本当に君の瞳の不思議さといったら、形容しがたい。
 僕は、吸い込まれそうになりながら、君の手を取った。
「まさかと思うけど、こないだからずっと僕を引っ掻きに来るのは……」
「どうなの? 傍にいてくれる?」
 僕は君の手を離し、わざとらしく、首を振った。君の瞳から逃れるためだった。
「その前に、あの時のことを明かすのが、先だろう? 君だったのか、タカハルだったのか」
 君は少し呆れたように、まだそんなこと気にしてるの? と言わんばかりに瞼をぱちぱちとさせて、それについては約束するわ、あなたが見つけ出してくれたらね、と言った。何をだよ、と僕は訊いた。女ごころみたいなものよ、マヌケ、と返ってきた。僕はそういうやりとりにもう慣れてしまっていた。仕方無いな、と僕は肩を竦めて、外国人みたいなジェスチャーをした。
「りんどう」と君は言った。
「は?」と僕は返した。
「真田りんどう、この名前、知らない?」
「りんどう、って君の元オカアサンが君に言ってた名前だよな」
「憶えてないのかって訊いてるのよ」
「いや、本当に、全然」
 君は僕に背を向けて、タカハルの来る方へと歩み出した。そして、わざわざ偽名なんか使って馬鹿みたいね、と硬い声で言った。
「本当の名前。ヒントよ。憶えておいてね」
 僕には正直名前のことなんてそれ程印象に残っていなかったし、どうでも良かった。
 そして、僕たちはへとへとになったタカハルを迎え入れて、その公園を後にした。
 部屋に帰ると、三浦恵はもういなかった。僕は、少しほっとしながら、今度は速やかに眠りにつくことができた。
 その後暫くの間僕がその部屋では眠れなくなるなんて、思いもしていなかった。



 月曜日、スクールに行った僕がすぐにその異変に気付くことは無かった。榛名先生の声が空気を裂くようないつも通りの教室だったし、君は無表情で桂木の横にいて、タカハルが貧乏ゆすりをし、皆がコンピューターを無言で操る、何も変わらない光景だった。
 ただ、傍に近づいても、貴句が僕を見ようとしなかったことを、後になって思い出すことができるくらいの認識だった。
 僕は企画書をどうしようかということだけを考えていた。セイゾーさんがどんな風に僕を励ましても、やっぱり、何かを作るということは僕にとって恐ろしいものであり続けていた。
 考えても、考えても、脳の中の想像力を司る部分の手前に何か分厚い扉が立ちはだかっているような気がした。
 僕がクリエイター志向を持っていなかったことは本当に幸いだと思う。大きすぎる夢に自分を無理矢理合わせようとして、破綻していかずに済んだことだけは間違い無い。
 一歩スクールを出れば、大方、僕はそんな創造の苦しみから逃れることができた。それで充分だ、と思うようになってもいた。
 その日もそんな調子だった。僕は特に何も考えずに、地下鉄の改札を通ろうとしていた。その時、後ろから僕を引き留める声がした。
 振り返ると、そこに桂木がいた。
 彼はぎこちなく笑った。僕も、どうすればいいのかわからなくて、同じようにぎこちなく笑い返した。

 喫茶店に入ると、桂木はすぐさま煙草に火を点けた。誘われてついてきたものの、彼の意図も、何を話すべきだかも、わからなかった。
 もしかしたら、君のことかもしれないな、くらいは思った。そうだとしても、僕から切り出す必要を感じなかった。だから、注文したアイスコーヒーが来るまで、僕は彼のはき出す煙をただ見ていた。
 桂木は、煙草を灰皿に押しつけた。まず、あやまっとこうと思う、と桂木は言った。
「君たちには、随分、辛くあたった。申し訳無い」
 僕は、別に、いいです、と応えた。いや、本当に反省してるんだ、と桂木は頭を下げてみせた。勉強するところではしゃぐのもあまり良くなかったかも知れません、と僕は言った。頭を上げて、どこか遠くを見た桂木は言った。
「うらやましかったのかも知れない」
「うらやましい?」
「君たちは、若いし、屈託が無い。俺は違う。君たちより四つも年上だ。焦っていたんだ」
「はあ」
「君、ご両親は?」
「いません」
 桂木は、少し、はっとしたような表情をした。僕は、いや、随分昔に亡くなったんです、別に今どうとも思ってません、と軽く手を振ってみせた。桂木は何かを考えるかのように俯いた。
「それも、うらやましいかもしれないな」
 そんな事を言われたのは初めてだった。大体、憐れまれるか、スルーされる話題だった。桂木は神経質そうに視線を動かしながら、コーヒーを啜った。
「俺は、一人っ子でね。両親は健在だ。一人っ子を甘やかしちゃいけないって随分厳しかった。
 四つの目が俺をいつも注視していた。兄弟でもいれば、親の目は分散されたんだろうけどね。どこに行っても、何をしてても、親の目から逃れられなかった。
 頭はそれ程良くなかったが、良い子でいろ、良い学校に行けってプレッシャーは相当なもんだった。
 何とか親の期待に応えることだけが、俺の存在理由だった。
 でも、大学に入って、一人暮らしを始めたら、何をしていいのかわからなくなった。
 大学の授業にもついていけなかった。普通なら遊んだりするんだろうけど、俺にはできなかった。
 いつも四つの目が見ているような気がした。
 取り立てて何をするでもないのに、ただ苦しくて、苦しくて、ぼんやりと過ごした。
 俺の大学時代は、だから、何も無い。気付いたら、卒業できないことになっていた。
 親は激怒した。大学を辞めさせて、この街に引き戻した。
 わかるんだ、そんなのに従わなくて良いって。大学を辞めても、好きなように生きればいいってね。
 でも、笑っても良い、俺はこんなトシになっても親が怖い。親が決めたレール以外の道を見るのが恐ろしい。
 従ったよ。
 親はね、俺をクズ扱いだよ。見てないと怠惰な生活をすると思ってる。
 だから、自分たちの監視のもと、手に職をつけさせるために、就職させるために、このスクールに叩き入れた。
 惨めだった。
 その上、俺は君たちを見て、焦った。引け目を感じた。知らずに対抗心を燃やしていた。負けられないってね。
 それは、親の意向とも合致していたよ。
 俺は何としても一番でなくちゃならなかった。
 一番になって、まともな社会人にならなくちゃならなかった。年度代表になれば就職は安泰だって聞いていたしね。
 でも、一番は君が持っていった」
 僕を見詰めた桂木の目は揺らいでいた。それは以前見せたような敵愾心の籠もったものではなかった。不安げで、悲しげなものだった。
 僕は、すみません、と口にしていた。いや、謝ることじゃない、と桂木は言った。
「と言っても、君がなった時には、憎しみで一杯だった。君たちをガキだと見下しながら、自分が一番子供っぽかった。それは認める。俺は今、恥ずかしいよ。君たちや先生たちに食ってかかったことがね」
 桂木が小さく見えた。本当に恥じ入っている様子だった。
 僕は打ち消す言葉も見つからなくて、彼と同じように俯いた。しばらくして、彼は顔を上げた。
「それを、気付かせてくれたのが、リンなんだ」
 ああ、そこか、と僕は思った。頷きもせず、僕は桂木の言葉を聞いた。
「リンはね、今言ったようなことを聞いて、可哀想な人ね、って言った。
 俺が必死で思わないようにしてきたことだった。自己憐憫なんて、最悪だからね。
 それにもっと恵まれない人たちがいるのもわかっていたつもりだった。
 でも、リンは俺を可哀想だと言って、抱き締めてくれた。
 泣けたよ。
 俺は泣いた。
 そして、つっかえていたものが、どこかへいってしまった。
 俺は、人生で初めて理解者を得たような気分になった。
 人間ってのは本当に簡単なことで目を開くことができる。誰かが、わかってくれるだけでいいんだ」
 僕は平静を装いながら、気まずさと闘っていた。
 桂木にとって君がどんなに大事かがなんとなくわかったし、その君が僕と共有している秘密が決して軽くはなかったからだ。
「だから、リンだけは取らないで欲しい」と桂木は言った。
 傍にいて、と言った君が、フラッシュバックした。やはり、言葉は出なかった。
「リンに君のことが好きなのか、って訊いた。リンが、特に最近、君のことばかり見ているのくらいは俺にだってわかる。だから、訊いた。
 そしたら、特別なんだって言った。君とは運命なんだって。全てはもう結ばれてしまっているんだって。
 それと俺たちの関係は別物なんだって。
 うん、それでもいい。何なら、君たちが肉体関係を持ってもいい。既にそうだったとしてもいい。
 でも、決定的に俺からリンを奪わないで欲しい」
 お願いだ、と桂木は頭を下げた。
 僕は桂木のつむじを見ながら、頭を上げさせることにも気が回らずに、その言葉の意味を考えていた。
 どう考えても、アレ以前に、僕と君との間に何かがあったような言い回しだった。
 僕は本当に何かに気付かなくちゃならないのかも知れないと思った。
 どのくらいたったか、はっとして、そんなことしません、と僕は言った。本当に? と桂木は悲しみやら喜びやらでくしゃくしゃになった顔を僕に見せた。本当に、と僕は返した。
 それがいつか嘘になりそうな、そんな不安が、僕を席から立ち上がらせた。



 そして、部屋には三浦恵がいた。
 僕は驚いたけれど、問いただそうとは思えなかった。
 彼女の特別の問題が、安易な質問を許さなかった。
 いい人でありたい、いい人だと思われたい、という無意識の欲求が人を厄介ごとへとはまらせるのだと、僕はその時知らなかった。
 彼女は僕のTシャツを無断で着ていた。そのめくれた裾の下に薄桃色の布がのぞいていて、そこから、だらしない両脚がベッドの上に投げ出されていた。
 僕が目を逸らした先の座卓や床の上には、いくつも箱菓子や袋菓子が食い散らかされていた。
 きっと昨日僕が預けた時に合い鍵を作ったんだろうと推測できたから、それも敢えて訊かなかった。
 僕が他にしようが無くてその場に座り込むと、彼女は僕に近寄り、オニイチャン、と首に抱きついた。そんなことばかり気になってしまう僕を蔑みたいなら、そうすればいい。僕はその甘い菓子の匂いと彼女の柔らかさのせいで、彼女が昨日握っていた部分を強く意識することになった。
 僕はまるで自分がその肌を引き寄せる磁石になってしまったみたいに感じながら、なんとか彼女を引きはがした。
「オニイチャン、お仕事、する?」三浦恵は首を傾げた。
「しない。絶対。それに、オニイチャンと呼ぶのはやめてくれる?」と僕は応えた。
「お父さんはね、お仕事の時、お父さんって呼ぶと喜ぶんだあ。だから、“オニイチャン”」
 それだよ、と僕は言った。それこそが問題だった。三浦恵はきょとんとした。
「それは、いけないことだよ。あっちゃいけないことだ」
「どうして?」
「どうしてって……」
 僕は、それがどうしてダメなのか、良い説明が思い浮かばなかった。親等が近いから? 遺伝学的に? 畜生でもしない行為だから? 
 考えるほど、何だか酷い嘘をつこうとしているような気分になって、僕は口ごもったままになった。
 また三浦恵は、お仕事する? とうすら笑いを浮かべた。いや、ほんとにしない、と拒否して、僕は思いついた。
「そうだ、嫌だって言ってたよね?」
 彼女は顎を引いた。
「君が嫌なことは、たとえお父さんでも、強要しちゃいけない。まして、暴力で強要するなんてことは絶対にダメだ。それは犯罪だ」
 不思議そうな目で、三浦恵は僕を見ていた。Tシャツの襟元からそれなりに豊かな乳房の膨らみが見えた。
 僕はそんな性的緊張から逃れたかった。だから、考えてもいなかった事を口にした。
「警察に行こう」
 口にしてしまうと、それ以上良い行動は無いような気がした。
 僕は姿勢を正すと、もう一度、警察に行こう、付き添ってあげるから、と言った。
 彼女にとって最善の道の筈なのに、しかし、彼女は、うわあん、と声をあげて泣き始めた。
 そして、慌てる僕を押さえつけるように、彼女は僕に抱きついた。頬が、耳が、彼女の涙で濡れた。
 きっと彼女は自分の身体の価値と力を良く知っていたんだ。柔らかな凹凸が僕の胸や腹の上でつぶれているのを、僕は無視できなかった。
 警察に行く、これは僕にとっても最善の道だった。でも、その考えは、身体をくすぐるうねりに揉まれてどこかへ消えてしまった。
 三浦恵は、僕の肩を押し、床へと抑えつけた。三浦恵の泣き顔に貼り付いたような唇が近づく時、ああ、とだけ思った。
 僕はいつか見たアフリカの映像のガゼルになったような気がした。ライオンが僕の首の急所を噛み、内臓を啜ろうとしていた。
 それは悪くないように思った。
 ただ熱くて、取り返しがつかなかった。
 でも、その牙がより深く差し込まれようとしたその時、僕の耳に君の声が蘇った。きっと神の声を聞く人にはあんな風に頭に響くんだろう。
 躓かないでね、君はそう言った。
 その事の意味はともかく、その音の鮮烈さに、僕は我に返った。
 全てが痺れるように三浦恵のコントロール下にあった身体をやっとの思いで動かして、僕は彼女を突き飛ばした。彼女は驚いたように見ていた。
 僕は立ち上がると、旅行に行ってから出しっぱなしだった大きなバッグに手当たり次第に服やら貴重品やらを詰め込んだ。僕はそれを抱え、最後に迷ってスケッチブックを取り、何も言えず、自分の部屋を飛び出した。
 飛び出してしまって、それでもまだ自分の中で蠢く欲情を感じながら、僕は途方に暮れた。

<#7終わり、#8へ続く>



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