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愛の自殺装置【断片集・藍田ウメル短編集より】

この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
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 駅から徒歩六分、小さな山の斜面に建てられた矢鱈東西に長い分譲マンション、バストイレ別、1K、家賃三万二千円。

 大家はどこか遠くに住んでいて、ずっと昔財テクかなんかのために買ったらしい。
 そんなことは、あたしにはどうでもいい。
 不動産屋は、案内の時わざと間取りの違う別の部屋に案内して、「日当たり最高です」なんて言っていたけれど、実際に入ったこの部屋のキッチンにはまるっきり日が届かない。
 暗い。
 それもいい。どうせ昼間なんて、部屋にいないから。

 そして、部屋に越してきてから知ったお気に入りの機能がある。
 引越して来てすぐの頃、ガス器具の点検だか修理だかに来たあんちゃんが言った。
 
「この給湯器使う時、キッチンの換気扇使わないでくださいね」

 あたしは、なんで? と訊いた。あんちゃんは皮肉っぽく口を曲げて、何だかわからない用語を使って説明してくれた。
 ガスだか、なんだかの排気が、引っ張られるそうな。
 理科ができないだけじゃなくて、全般に理解力の足りないのは、小学校からずっと言われ続けたことだもの。
 あたしはちょっといらついて、つまり? ってまた訊いた。
 
 あんちゃんは、あたしに向き直って応えた。
「死んじゃいますから」

 だから給湯器使う時は、換気扇絶対使わないでくださいね、そう言い残してあんちゃんは帰って行った。
 あたしは、ほっとしたんだ。
 ああ、これで、いつでも死ねるって。
 しかも「事故」なら、誰にも迷惑もかけない。
 あのろくでなしの親きょうだいにどこかから賠償金くらい入るかもしれない。
 あの人たちは、なにかというとひとの金ばかり当てにするけれど、身内だもの、本当は嫌いじゃない。死んで孝行になるなら、それも悪くないと思う。

 それは置いておいても、いつでも死ねるってのは、とても良い気分がして、この部屋を越そうと思ったことがなかった。それで、かれこれ、四年は住んでいる。



 その四年の間、あたしはたったひとり、レイのモノだった。
 身持ちは堅い方なのかと思う。
 何度も別れの危機はあって、その度にあたしは他の男とも遊んだけれど、あたしをレイから奪い去るまでのヤツはいなかった。
 で、結局、いつも元サヤに収まる。
 正直なところ、ずっとコドモだったころ心を滅茶苦茶にした恋みたいなものは最初から無かったし、新鮮な驚きみたいなものももう無いけれど、色んな意味で、レイはあたしを良く知っていて、あたしもレイを良く知っているから、それが自然なのだと思う。
 長いような短いような。
 これから先、どうするんだろう、みたいなことは考えなかった。
 あまり意味が無い。
 何かあれば、換気扇をまわせば良いと思っていた。


「子供ができた」レイは言った。
「あたしに?」あたしは訊いた。
「お前も、か?」
「ううん。今のところ」

 レイは何だかほっとした様子で、あたしの胸に手を伸ばした。
 あたしはイッた後暫くの間、カラダが敏感になりすぎるタイプだから、乳首を弄ぼうとするレイの指をそっと払った。
 レイはしつこくもしない。わかっているからだ。
 そして、レイはぐっと身体を捻らせ、仰向けになった。
 誰に? とあたしは訊いた。
 お前の知らない女、とレイは応えた。
 あたしは何を言っていいのかわからなくて、ふうん、とだけ相づちを打った。
 レイは身体を起こし、ベッドの傍に置いてあった煙草に火をつけた。

「だからさ、結婚するよ」
「あたしと?」
「いや、だから……」
「冗談だよ」
「だよな」
「その女と?」
「まあね」
「おめでとう」
「……ありがとう」

 これは危機なのだろうか、とも思わなかった。
 たとえ、レイが誰と結婚しようと、仮に、あたしが他の誰かと恋に落ちようと、あたしはレイとあたしの関係が消えてしまうもののようには感じなかったから。
 ただ、性欲の塊みたいなこの男があたしとする時には「もし病気を持ってたらうつしたら悪いからさ」と絶対に忘れなかったコンドームを、そのどこの誰かもわからない女とは使わなかったということに、ちょっと胸がちりっとしただけだ。
 でも、つけてても百パーセントじゃないと言うし、あたしは言葉にして責めようとも思わなかった。

 ただ、背中を丸めて煙草を吸うレイの浮き上がった背骨を見ていた。あたしは初めて抱かれた時から、それが好きだ。
 何度も見てきた。
 この先もずっとそうだ。おそらく。


 出会った時、レイは大学三年生で、コンビニの深夜のアルバイト店員だった。あたしも夕方のシフトのアルバイトだった。
 まだ、高校生だった。
 何だったかなんてもうどうでもいいんだけれど、あたしには欲しいものがあって、金が必要だった。それで、こつこつと給料を貯金していた。
 貯金なんて、あの家にいる限り無駄なことだと、あたしはわかっていたはずなのに。
 案の定、隠してあったその通帳と印鑑とカードを、あの父親は家捜しして見つけて、全部を引き出して、パチンコだか、酒だかに使ってしまった。
 わかっていたことだし、わかっていて見つかる所に隠してた自分が悪いけれど、泣きたくなるくらい構わないと思う。
 そんなあたしの顔を見て、何かあったの? 相談に乗るよ、と言ってくれたのがレイだった。
 あたしは、その時、さして親しくもなかったレイの胸に飛び込んで泣いたんだ。
 しばらく後、レイが大学四年生になって、あたしが今の会社に就職して、身体の関係を済ませてから、レイは、ずっと気になって見ていたから話しかけるチャンスだと思ったんだ、と言った。
 同時に、カノジョがいるとも告げられたけれど、あたしはそのことを別にどうでも良いと思っている自分が少し不思議だった。
 たったひとりを選ばなきゃならないなんて、どこかの誰かの、都合の良い嘘だと思う。
 複数を同じように愛せるひとがいて、こっちがそれで十分なら、それでいいんだ。
 若いからかもしれないけれど、レイは他の女を抱いた後だって、あたしをおざなりになんかしなかった。
 全部、レイに教えられた。
 

 レイはいつのまにかベッドの縁に座っていた。あたしも身体を起こした。それでさ、とレイは言った。

「それでさ、まあ、こういうの、やめにしようかと思ってさ」
「こういうのってどういうの?」
「……それは、つまり、女関係?」

 あたしは立ち上がって、冷蔵庫からビールを持ってきて、レイに一本渡し、もう一本の口を開けて、ごくごくと飲んだ。
 別に理由なんて無く、顔が笑っていた。
 レイはそれを見て、ぎこちなく唇の端を上げた。

「まあ」レイは言った「夫に……父親になるわけだし、なんていうか、その、責任? 区切りというかさ」
「足りるの?」
「え?」
「あんた、今までだって、ひとりじゃ足りなかったじゃん」
「いや、それは……」
「妊娠してたら、できない時期もあるよね」
「まあ……」
「今まで通り、使えばいいじゃない? あたしも」
「……いいのか? それで」
「別に、いいけど?」

 きょろきょろとレイの目が動いていた。飲みなよ、とあたしはレイにビールを勧めた。レイは、ちょっと躊躇ってから、ビールを呷った。そして、堪えきれないみたいにちょっとげっぷをしてから、はあ、と大きく息をついた。

「何か、もっとめんどくさいことになると思ってた」
「そう?」
「でも、なにかしらの区切りはやっぱり必要な気がする」
「いいじゃない。別に。難しいこと考えなくても」
「そうかな」
「何かとひとは区切りを付けたがるけど、そんなの何の意味も無いし、色んなことがだらだらと続いてくでしょ? 本当に区切りを付けたければ……」
「れば?」

 レイはあたしを見た。
 あたしは首を振った。

「でも、もう、絶対にしたくないわけじゃないんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「なら、いいじゃない?」
「でも、やっぱり、なんか、自分の子供の母親になる女に悪いっていうか……」

 あたしはレイの目を見た。レイは逸らしたまま、あたしを見ようとしなかった。
 溜息がでそうになった。
 あたしは肩が凝ったような気がして、首を大きく回した。
 レイは、色々考えてますって感じの間を開けて、呟くように言った。

「やっぱり、ダメだと思うんだ」

 ふうん、とあたしは返した。
 
 ごめんな、レイはそう言って、シャワーを浴びるよ、とバスルームへと向かった。
 あたしは、ぽつんと、ベッドに残された。
 本当に、子供ができるとか、結婚するとか、あたしにはどうでも良いことだった。
 そのどうでも良いことが、レイにとって大事だということが不思議でならなかった。
 
 悲しみ?
 怒り? 

 自分でも良くわからない液体みたいなものが、肺の下あたりでふつふつと沸き立っていた。
 あたしは、まるで自分のものじゃなくなったみたいな足をバスルームに向けて踏み出した。


 レイは最初驚いた素振りを見せた。でも、あたしが、最後の一回、と言い、跪いて股間のモノを口に含むと、すぐにその気になったみたいだった。
 男はわかりやすい。十分硬くなっても、あたしは、舌の動きを止めなかった。レイの好みのやり方で、でも、できるだけ焦らすことは忘れなかった。  
 シャワーヘッドから噴き出し続ける湯があたしの輪郭を流れて行った。あたしは壁に凭れるレイの両乳首へと手を伸ばし、きゅっとつまんだ。
 レイは、すごく良い、と女の子みたいに声を漏らした。
 これ、いいでしょ? とあたしは訊いた。
 レイは、馬鹿、と応えて、イッても良い? と喉を伸ばして天井を仰いだ。いいよ、とあたしは口を離して言った。でも、このままもう一回してくれる? と訊いた。わかった、とレイは言った。
 口の中で受けとめた後、あたしはそれを舌の上にのせてレイに見せた。レイはそれが好きだった。満足げだった。
 もう一回、約束よ、とあたしは、萎えかけたそれをまた咥えた。

 まだかな、と思った。

 どっちにしろ、あたしはいつまででも、レイを気持ち良くしてやらなければならなかった。
 そうだ、できるだけ引き延ばす必要があった。
 あたしは、換気扇のスイッチを入れて、ここに来た。
 あたしはそれまでも無かったくらい、全身全霊をかけて、レイを刺激し続けた。



 レイは本当に生まれ変わったら、種馬にでもなればいい。
 結局あのままバスルームで三回も射精した。
 シャワーは出し続けていたし、換気扇だってちゃんと回っていた。
 あたしは内心いつそうなるのかが気になって、楽しむどころじゃなかった。
 ただひたすら疲れて、そして、死にもしなかった。
 レイが、さよなら、といつもより湿った声で言って、部屋を出て行った後、あたしは、給湯器に向かって、嘘つき、と八つ当たりで何度もパンチしたけれど、最後はなんだかアホらしくなって、アホらしくなった上に、何だか楽しくなって、にやにやと笑いながら寝た。
 レイをしばらくは思い出しもしなかった。



 レイに酷い病気をうつされたと気付いたのは、それから五週間後くらいのことだ。ひどい吐き気で気付いた。
 内臓の中に異物がある。
 それはどんどん大きくなるらしい。
 放置しておくと、大きくなって、あたしの中から出て、泣いたり、歩いたり、勝手なことを言ったりするそうだ。

 さて、どうしようか、今迷っているところだ。とりあえず、機能不全のこの部屋を出ようかなんて、考えている。

<了>

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