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僕はハタチだったことがある #12【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2014年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。




 もうひとつの死のことも、どうしても書かなくちゃならないことだ。
 本当に簡単にひとは死ぬ。
 僕が何か学んだとすれば、ただそれだけのことだ。



 僕は就職活動に走り回った。
 辞退したあの会社は、スクールの出資元だからこその本当に楽で特殊なケースだったということがわかった。
 時期が遅いこともあって、良い条件も、新卒募集も、殆ど無かった。おまけに、どの面接も失敗したように感じた。
 採用通知は来なかった。スクールで習ったことを使えるような職種を諦めなければならないかも知れない、最悪決まらなければとりあえずアルバイトで食いつなぐこともやむなし、と思い始めた頃、ゆうきから話を聞いたという今泉さんが電話をくれた。
 DTPのオペレーターを募集しているんだ、と彼は言った。彼とゆうきの会社はこの街では割と有名な印刷会社だった。僕は、思わず、立ち上がった。
「まあ、アルバイト扱いだけどね、どうする?」今泉さんは言った。
「何でもいいです。この際」と僕は応えた。
「そうだね。現場の経験を積めば、色々見えてくるものもあるかもしれないし。デザイナーとか?」
「そういうのには興味ないです」
 ちょっと間があって、ははは、という笑い声が聞こえて来た。僕は自分が言ったことが面白いとは思わなかったから、少しむっとした。
 いや、ごめん、本当はこういうひとの方が良いんだ、と彼は言った。
「じゃあ、後で採用担当に話をしておくよ。葉山という女性だ。明日にでも君から連絡するといい」
 僕は、何度も礼を言った。しゃくだとも何とも思わなかった。電話の最後に、今泉さんは言った。
「もしかして、君がその学校を選んだのは、相馬さんと同じ職場に来たかったからじゃないの?」
 僕は、詰まった。ゆうきがその会社で事務をしていることが、学校説明会の時の僕に少しも影響を与えなかったと言えば、嘘になる。僕は、どうでしょうね、そうかもしれません、と言った。相馬さんは幸せだね、と応えて、彼は電話を切った。
 拍子抜けする程簡単に僕は採用された。アルバイトだったからだろう。すぐ来て欲しいと言われた。卒業するまで、昼間学校に通うことも許された。

 夕方から夜にかけて僕は、地下の作業場で他のオペレーターたちと並んでコンピューターに向かい、チラシ用のデータ化された写真の商品を切り抜いたり、画像のゴミ取りをした。
 スクールでは想像もつかない程膨大で、単調な作業の繰り返しだった。だけど、それこそが僕には向いているような気がした。
 建物の別の階にいるゆうきとは殆ど顔を合わせることは無かったが、その部署で二番目のポジションにいた今泉さんが、しょっちゅう声を掛けてくれた。
 良かったよ、と彼は言った。
「以前、あたしなんでもできます、なんて言って入って来たのに、まったくコンピューター使えないひとがいてさ、君もそうだったらどうしようと思ってた」
「僕だってあまり詳しくないです。スクールではソフトの操作は習っても、印刷するところまでは殆どやりません。だから何でついてるかわからない機能とか設定とかもあるんです」
「いやいや、十分十分。少なくとも僕たちの顔はつぶれずに済んだ。その内もっと慣れたら、会社の中全体を案内する時間を作るよ」
 あまり興味があるとは言えなかった。でも、それは何かについての全てを知るための一歩にも思えた。
 僕は頷いて作業に戻った。スクールのひ弱なそれとは違う業務用に用意されたマシンの性能は、まるで自分の能力まで成長したように感じさせた。そんなことは無い。でも、気分が良かった。

 スクールでは、皆が殆ど就職活動や卒業制作を終えて、どこか弛緩した雰囲気が流れていた。
 僕は例のゆうきの絵をスキャンした後、こまごまと手直しすることに時間を費やした。もう何も足すことは無いと思えていたのに、日を置くごとに、その絵の至らなさが目についた。
 でも、こつこつとそれを直していくことを、苦だとは思わなかった。
 貴句や水谷が時々僕のモニタを覗き込んだ。貴句は、なんだ、絵も描けるんじゃん、と言った。水谷は、誰? これ、と訊いた。一番目の愛人だよ、と僕は応えた。百人いるって話だからねえ、と貴句が僕の背中を叩くのを、僕は笑顔でやり過ごした。

 君がいたのか、いなかったのか、僕は気にかけなかった。いた時はいたし、いなかった時はいなかった。
 いっとき僕を不自由にした桂木の死から、多くは解き放たれていたけれど、君との距離に関しては、僕は自由になろうとは思わなかった。
 おそらく君もそれに近い想いでいたはずだ。教室だけじゃなく、部屋にも君は来なかった。
 君が痒みをどうしていたのか、思わないでもなかった。君と僕との間にある、僕の知らない関係を訊いてもみたかった。でも、それらも気にかけないように努力した。



 その日も、僕は放課後会社に向かい、膨大な量の画像の切り抜きをしていた。ベジェ曲線の扱いはスクールではそれ程得意ではなかったけれど、少しずつコツが身についてきて、楽しくなり始めていた。
 作業への集中がピークになっていた時、肩が軽く叩かれて、僕は驚いて振り向いた。今泉さんだった。
「相馬さん、風邪だって?」と今泉さんは訊いた。
「え? そうなんですか?」と僕は逆に訊き返した。
「いや、君も知らないのか。今日休んでるんだ」
「はあ……」
「心配させないようにってことか……。いや、悪かった」
「いえ」
 お見舞いに行っていいものかな、と今泉さんは言いながら離れていった。
 そういう時には琴子がいる。心配は無かった。
 でも、どんな理由でも、理由があれば、僕はゆうきに会いに行きたいと思った。僕は、帰りにゆうきの部屋に寄ってみようと決めた。

 ゆうきは眠っていた。顔が赤く、汗で湿っていた。何だか部屋が荒れているような気がした。
 僕は額からずれたタオルを、枕元のたらいの水で浸して絞ってから、またその額に乗せた。ビタミンドリンクやら、果物やらをレジ袋から取り出して、座卓に並べている時、琴子? と掠れた声がした。僕だよ、と応えた。何しに来た、とゆうきは言った。
「まあ、ちょっとあわれな独身女を馬鹿にしてやろうと思って」と僕は応えた。
 はん、とゆうきは皮肉っぽく息を吐いたけれど、それはそのまま激しい咳に変わった。
「大丈夫? 琴子は?」
「ああ、あいつも自分の部屋で寝てる」
「琴子も? 風邪?」
「風邪っていうか、もっとしんどい」
「インフルエンザじゃないの? 病院は?」
「まだ」
「行けよ」
「怖い」
「はあ?」
「体温計……」
 ゆうきは、布団で仰向けになったまま、枕元に手を伸ばし、体温計を探した。僕はそれを取ってやった。
 三十九度二分だった。
 これは放ってはおけない、と思った。
 僕は新聞を広げ、当番病院を確認すると、電話でタクシーを頼んだ。楽そうな服を選んで渡したが、ゆうきはやだよう、と駄々を捏ねた。琴子も連れて行く、呼んでくるから、着替えとけ、と言った。
 僕は階段を降り、一階の琴子の部屋のチャイムを鳴らした。随分かかって、琴子が出て来た。しんどそうに笑っていた。病院行こう、タクシー呼んだから着替えて、と言うと、うん、と素直に頷いてくれた。
 僕はまたゆうきの部屋に戻った。ゆうきはまだ布団に入ったまま着替えていなかった。僕は仕方無くゆうきの身体を起こし、パジャマの上からセーターを着せ、ジャージをはかせ、コートを被せた。
 いーやーだー、とか、さーむーいー、とかゆうきは拒んだけれど、身体に力は無く、僕にされるままだった。
 タクシーが来て、立たせようとしても、ゆうきは踏ん張ることもできなかった。僕は保険証を持ち、ぐったりとしたゆうきを背中に背負って慎重に階段を降りた。二人を後部座席に押し込み、自分は助手席に乗った。
 運転手は、インフルエンザかい、と訊いた。まだ、わからないんですけど、熱がひどくて、と僕は応えた。運転手は、だから予防接種しとかなきゃなあ、私みたいに、と言って、ひどくゆっくりと車を出した。

 病院の待合は、ゆうきや琴子と同じように色んな人達がぐったりと椅子に凭れ、付き添いの人達が緊張した面持ちで寄り添っていた。
 幼児の泣く声が響いていた。母親が泣きそうな顔で、でも優しげな声を、子供にかけていた。
 普段は気付かないことだけれど、世の中は病人で溢れている。そんなことに軽く感心しながら、僕はゆうきの顔を見た。熱のある女は色っぽいと言ったひとがいたな、と僕は思い出した。でも、それ以上に、力の抜けたその様子が、可哀想で仕方なかった。
 二人が順番に呼ばれ、検査の結果を待っていた時のことだった。携帯が鳴った。周囲の目が僕に向けられた。当時まだ病院での携帯は禁止だった。僕は握っていたゆうきの手を慌てて離し、誰へともなく謝りながら、外へ出た。
 着信は君からだった。僕は大きく息をついてから、応答ボタンを押した。
「何だよ」と僕は訊いた。
「そっちにタカハルは行ってないかしら?」と君は言った。
「いや、今、部屋じゃないんだ」
「そう」
「それだけ? なら、今ちょっと……」
「死ぬ気よ」
「は?」
「タカハル、死ぬ気なんだわ」
「どういうこと?」
「ちょっと買い物に行くって、出て行ったの」
「買い物に行ったんだろ?」
「三時間経った」
「散歩してるんじゃないの? 何かの加減で歩きたくなるんだろう?」
「携帯を持っていかなかった」
「そりゃ、忘れることくらい……あのさ、今――」
「絶対に有り得ない。あたしとの約束だから。調子悪い時は連絡するって。絶対たすけに行くって。今まで一度も忘れたこと無かった」
「男にはひとりになりたい時だってあるさ」
「ありがとうって言ったわ」
「え?」
「今までありがとうって言ったのよ」
「そりゃあ、そんなこと言うことだって……」
「すぐに気付かなかった。マヌケだわ、あたし」
「あのさあ――」
「あの時と……桂木のあの時と同じ顔してた」
「だからって……」
「あたし、もういやよ。もう、誰も死なせたくない。見逃したくない」
 僕は空を見上げた。雪が静かに絶え間なく落ちてきた。桂木の名前を出されたことで、僕は落ち着かない気分になった。
「たすけてよ」
 君の呟きは、電話越しでも、悲痛だった。
 僕はゆうきと琴子のところに戻った。比較的元気な琴子が、どうしたの? と僕の顔を見た。ちょっとね、友達が行方不明になってさ、と言った。探してあげなくて良いの? と琴子は訊いた。二人を部屋に連れて行ったら探しに行くよ、と応えた。
 ぐったりとしていたゆうきが、ばあか、と薄目を開けて言った。
「なんだよ」僕は言った。
「友達の方が大事だ」ゆうきは言った。
「どっちが大事ってことでもないよ。どっちも大事で、ただ、今、僕の優先順位はこっちだっていうことだよ」
「でも、困ってるから、電話してきたんだろう?」
「まあ……でも――」
「行けよ」
「行かないよ」
「あたしたちは、今泉を呼ぶ」
「そんな……」
「所詮、風邪だ」
 うー、しんどい、とゆうきは琴子の肩に頭を乗せた。琴子は、大丈夫よ、あたしもいるし、と笑った。僕はゆうきを見た。まるで厄介者を追い払うようにゆうきは手を振った。僕は拗ねたのかもしれない。わかった、じゃあ、行って来るよ、そう言って、二人に背を向けた。

 とは言え、僕はタカハルをどう探せば良いのかわからなかった。
 僕はあまりにもタカハルを知らなかった。
 とりあえず、君に電話をし、君のマンションの最寄り駅で落ち合うことにした。
 僕は、行く途中、貴句と水谷に電話した。水谷は、別に何も言ってなかったけど、と言った。近藤さんの居場所なんかわからないよ、と言った貴句は不思議そうに僕に訊いた。
「居なくなったって、そんなに慌てなくていいんじゃない? 大人なんだし」
「ちょっと事情がある。僕からは説明できない。でも、もしかしたら命に関わることかも知れないんだ」
 ちょっと考えるような間があって、うん、わかった、じゃあ、あたしも出る、と貴句は言った。僕は落ち合う場所を教えた。

 君は貴句の顔を見て、驚くでもなく、ありがとう、と言った。本当に死ぬかもしれないのね、と貴句は訊いた。君は頷いた。
 駅を中心に僕たちは手分けして探した。大抵の店は閉まっていて、開いている居酒屋やスナックにはいなかった。あっという間に手詰まりになった。  
 雪は降り続いていた。僕は何度も同じ通りを行きつ戻りつして探した。でも、徒労だった。終電も出た。結局話し合って、僕たちは君のマンションに戻った。僕はあの晩のことを思い出さなかったわけではないけれど、君の不安げな様子に感化されて、そんなことはどうでも良くなった。
「行きそうな場所、知らないの?」と貴句は訊いた。
「タカハルはあまり色んなところには行きたがらない人だから」と君が応えた。
 貴句は、ふう、と息をついて、とても言い辛そうに言葉を発した。
「あのさあ、死ぬかも知れないって、それ、早田さんのせい?」
 君は貴句に顔を向けた。貴句も顔を上げた。
「桂木がいて、相馬にもべたべたして、その上、近藤さんと一緒に住んでる。おかしいよ」
 この時、まだ、桂木の死を貴句は知らなかったし、僕たちのことを傍から見ていれば当然の意見だと僕は思った。君は、視線を下げて、そうね、とだけ言った。おかしいよ、再びそう呟くと貴句は俯いた。僕たちはしばらく重く黙り込んだ。
 僕は、とにかく何かをしなければならないような気がした。
「やっぱ地下鉄に乗ってどこか行ったんだよな」と僕は言った。
「ええ」と君は応えた。
「繁華街に出たとしたら、大丈夫なような気がする」
「どうして?」
「なんとなくって言うか、まあ、人もいっぱいいるし、朝までいれるところがたくさんある」
「そんなにお金持ってないわよ」
「あの公園はどうかな?」
「公園?」
「ほら、歩きに行く公園。地下鉄でも、まあ、いけるでしょ? っていうか、僕はタカハルの行きそうなところなんて、そこしか知らない」
 君は、首を振った。でも、思い直したように僕を見ると、思いつく場所が他に無いなら行ってみるしかないわね、と言った。僕は立ち上がった。
 貴句には、タカハルが戻ってくるかも知れないから、とマンションに待機してもらうよう頼んで、僕と君は車で公園へと向かった。途中、君は言った。
「ごめんなさい」
 君が謝るのを初めて聞いた。僕は君の顔を見た。横顔は固い表情だったけれど、泣きたそうな気配を感じた。僕は前を向いて言った。
「別に、いいよ。タカハルと僕とは親友らしいから」
「そうじゃなくて」
「何?」
「あたし、全部わかっていると思ってた」
「うん?」
「全部わかっていて、コントロールしなきゃって。できるって。でもこうなって、そんなことが無理だったって思い知らされてる」
「そう?」
「あなたのことも」
「……こっちも、ごめん」
 クリスマス以降のことがまだ僕の心の中にコールタールみたいに貼り付いていた。自分が酷いことをしてしまえる人間だということが、こうしてタカハルを探す手伝いをする理由のひとつであることに間違いはなかった。
 何もかも、見知った映画やマンガやドラマみたいにキレイにはいかない。
 それが普通なのか、自分だけの問題なのかわからなくて、僕はそれきり黙り込んだ。
 しばらくして、君は、ついたわ、と言った。降り立って見渡すと雪が随分と積もっていた。当たり前だけれど、ひとけは無かった。いないね、と僕が言うのも耳に入らなかったかの様に、君は雪をこいで、ジョギングコースへと向かった。僕はその後ろについていった。
 休憩所を覗いた。誰もいなかった。やっぱりいないよ、と僕は君に言った。君は真っ暗なコースの雪の地面を凝視していた。くぼみがある、と言うなり、君は足を踏み出した。確かに誰かが歩いていったような跡が、降り積もる雪に消えかけてあった。僕は君の後を追った。
 君の背中が必死だった。こんな所を歩く衣装でも、靴でもなかった。でも、君は雪に足を取られながら、一歩ずつ進んだ。
 僕は、途中、君を追い越した。僕の歩いた後を踏んでくればいい、と僕は言った。君は何も言わなかった。何も言わずに、僕を押しのけて行った。僕は再び追い越そうとはしなかった。
 靴の隙間から入った雪が冷たかった。暗くて、ただ君の息が聞こえていた。
 夏には芝生になる広場のところで、君が、こっちに続いてる、と言った。君は埋もれる足ももどかしそうに、速度を上げた。そして、広場の真ん中まで辿り着いた時、君は、タカハル、と叫んだ。僕もすぐに近寄った。
 きつい酒の瓶が三本、雪に埋もれ隠れていた。君はタカハルの身体を抱き起こして、頬を叩き、首筋に指を当てた。
 君はタカハルに積もった雪を払い、生きてる、まだ、生きてる、と小さな声で繰り返し言った。僕がタカハルを雪から引きずり出し、上半身を起こすと、君はその身体をきつく抱き締めてから、名前を呼び、揺すり続けた。
 僕も跪いて、タカハルの名前を呼んだ。
 少し口元が緩んだ。君が息を呑むのが聞こえた。僕たちは顔を近づけた。アルコールの匂いがした。
「ああ、僕はまた失敗したのか」とタカハルは言った。
「死なせないって言ったでしょ」と君は応えた。
「リンの知らない場所にすれば良かった。僕はマヌケだ」
 君がタカハルを支えて立とうとした。でも、よろめいて柔らかな雪の上に倒れた。
 僕が背負う、そう言って、僕はタカハルを背中にのせた。タカハルはぶつぶつと何かを呟いていた。僕たちは来た道を引き戻した。
 相当しんどかった筈なのに、僕は辛いと思わなかった。ただ、一心不乱に、歩いた。
 君が、どうして? これからだって言うのに、と言った。
「希望が、申し訳なくて……重くて……痛くて、辛い」とタカハルが言ったのを僕は聞いた。
「え?」君は訊き返した。
「希望が申し訳ないんだってさ。重くて痛くて辛いんだって」と僕は叫んだ。
「ひとが前を向いて生きることの、何が申し訳ないっていうのよ。馬鹿じゃないの?」
「馬鹿は君も同じだろう?」
「馬鹿は君も同じだろう、だって」
「何が?」
「人間は他人には簡単に言えることが、自分には言えない。君こそ前を向くべきなのに」
 僕はそのままを繰り返して君に伝えた。君は黙り込んだ。
 タカハルを後部座席に横たわらせた時、僕は、病院だよな? と訊いた。君は首を振った。そして、タカハルがしたことは自殺未遂よ、病気のこともあるし、間違い無く入院させられる、例え結果的にそうなるとしても、今日は部屋に戻る、と君は言った。
 凍傷もあるかもしれないし、病院が一番だと思ったけれど、そういう話なら僕には何の権限も無いような気がした。僕は黙って助手席に乗った。

 足下もおぼつかないタカハルを二人で抱えるようにして、部屋に入ると、貴句が真剣な顔をして、風呂いれておいた、と言った。電話で、無事を知らせ、ぬるい風呂を用意して貰っていた。
 タカハルが、あれ、山田さんがいるよ、と言った。探してくれたのよ、と君が伝えた。どうして? と貴句は訊いた。タカハルは、力無く笑った。
 風呂には僕が付き添った。最初ひどく熱がったけれど、しばらくすると、かくりと壁に頭を預けて、目を瞑り、悪いね、とタカハルは言った。
「嘘つきめ」と僕は言った。
「ん?」
「自殺するほどじゃないって言っていたろう?」
「……ああ、君には伝わってなかったか」
「何が?」
「僕はね、自分の考えてることが全部他人に読まれてるって感じることがあってさ。だから、わざと嘘をついてみるんだ。言わなかったりね。大事なことなら、なおさら」
「全然読めないよ、そんなの」
「そう? 世界は安心だな」
「ちゃんと言えよ」
「うん、言わなきゃな」
 風呂から上がったタカハルの身体を拭くのを手伝い、パジャマを着せて、彼の部屋のベッドに寝かした。
 僕たちが部屋を出ようとすると、ちょっと、山田さん、いいかな? とタカハルは貴句を呼び止めた。少し不思議そうに笑うと貴句はタカハルの枕元に座った。あのさ、君に言っておかなきゃならないことがあるんだ、とタカハルは言った。
 僕は、君の背中を押し、部屋の扉をそっと閉めた。君が、何? と訝しげな顔をするから、僕は、馬に蹴られて死にたいのか、と言った。そのまま、僕と君は見つめ合った。この瞳も久しぶりだな、と思った時、君は、何だか気まずそうに目を逸らして、帰るでしょ、送るわ、と誤魔化すかのように言った。



 僕はゆうきの部屋へ向かってくれるよう頼んだ。今泉さんがいるかも知れない。でも、ムスコが病気の母親の部屋を訪ねて、悪い事はない筈だった。車は夜の街を静かに走り続けた。信号で止まった時、君は言った。
「まだ、思い出してくれないの?」
 僕は低い車の天井に目を遣った。
「残念だけど、僕はちょっとした事情で、子供の頃の記憶が無いんだ」
 君は目を動かさなかった。僕は、ごめん、と言った。本当にあたしの一人相撲だったのね、と君は応えた。信号が青になり、君はアクセルを踏んだ。
「でも」僕は言った「君の母親と僕の父親が心中したってことは、わかったよ」
「心中……それは、違うのよ」君は言った。
「え?」
「本当は、あたしの母親が、あなたの父親を殺したの、それだけのことなの」
 ねえ、話をしましょうか、そう言うと、君は車を路肩につけて止めた。
 僕は君を見た。君はハンドルに手を乗せ、前を向いたまま、こちらを見なかった。
 でも何から話せば良いのか、わからないわ、と君が呟いた。良いよ、好きなところからで、と僕は言った。
 ヒーターの送風音を、たまに通り過ぎる車の音が、消していった。
 どれくらい経ったか、君が、背もたれを倒して、僕にもそうするように促した。僕は言われるままにした。
 君は、僕の手を取った。僕が少し手を強ばらせると、君は、お願い、と言った。僕は、少し考えて、手を君に任せることにした。じんわりと、汗で湿っていた。嫌だとは思わなかった。
 あたし、と君がぽつりと話し始めた。
「あたし、小さい頃、退屈だとひとりででかけちゃう上に、手癖の悪い子供だったのよ。ううん、悪気は無いの。ただ、欲しいモノがあると、お金を払わないで店からでもどこからでも持って来ちゃうの。
 母親は相当悩んでたらしいわ。母の遺した日記にね、そういうことが書いてある。
 何月何日、今日、りんどうはチョコレートを持って帰ってきた、某月某日、知らない絵本が増えていて、本屋に払いに行った、とかね。
 父親は単身赴任でいないし、友達も少ないし。今は知らないけど、昔は警察官の妻ってだけで、煙たがる人もいたしね。
 かと言って、警察官の妻同士のつきあいなんて、旦那の階級がそのままスライドしたような、権力のピラミッドだから、堅苦しくて打ち明け話なんかできない。
 まして、娘が万引きしますなんて、なおさら言えないでしょう? 
 とにかく悩んでた。それはあたしをどう矯正するかってことから始まって、結局誰にも頼れない寂しさみたいなところに記述は行き着くの。
 あたしは孤独だ、って。誰も助けてくれない、って。
 まるで、思春期の文学少女みたいにね。
 でも、それが変わる。
 ある日、またあたしがガムかなんかを持って帰ってきた。母は慌てて、店に財布を持って払いに行った。謝る母にね、店員は、いやそれなら、お金いただいてますって言うの。いや、そんなはずはない、娘にはお金を持たせてない、って押し問答してたら、そこに子連れの男が、財布の落とし物ありませんでしたか、と現れた。
 店員は、ああ、こちらの方からお支払いいただきました、って。母は少し驚きながら、お礼を言った。
 いや、可愛い子だったんで、な? と男は自分の子供に笑いかけた。子供も笑って頷いた。何度も頭を下げる母に、男はひげ面のとぼけた顔で――母がそう書いたのよ――奥さん、その代わりと言っちゃなんですが、とりあえず千円貸してくれませんか? 財布なくしちゃって、と言った。
 母は、それならお礼に差し上げます、と三千円を男に握らせたの。男は拒んだ。
 まあ、そこはよくある遣り取りがあって、結局、男は、わかりました、奥さん、お借りします、でも明日、必ず返しますから、同じ時間にここに来て下さい、と言って去って行った。
 母は半信半疑で次の日そこに行った。あたしを連れてね。
 男はちゃんと現れて母に三千円返した。そして、初めて、名前を訊くの。相馬光太郎です、と男は名乗った。あなたのお父さん。あなたもいた。
 だから、あたしたちはその時には出会ってたのよ。それに関してはあたしもちゃんと憶えているわけじゃないけれど。
 でも、あたしとあなたはすぐ仲良くなった。あなたのお父さんが、二人の初恋かもしれないなあ、なんて、言ってたそうよ。
 うん、あたしには好きな子がいたって憶えてた。あなたは優しかった。二人でとりたてて特別なことはしなかったと思うけど、とても楽しくて、後になって思うととても幸せで、完璧な子供時代だった。
 そこにはあなたがいたのよ。
 そして、約束したの。お嫁さんにしてくれるって。旦那様にしてあげるって。指切りして。
 そういう二人だったのよ、あたしたち。
 そんな風に子供同士が仲良くなると、親同士もそうなるみたいね。あたしたちがさっきの公園の広場で遊ぶ間、二人は世間話なんかをした。あたしの手癖についても、始まりが始まりだから、包み隠さず相談できた。
 ねえ、その頃から日記はまるであなたのお父さんの記録帳みたいよ。相馬さんはこう言った、こんな仕草をした、こんな顔をしていた、って。どんどんのめりこんでいくのがわかるの。本人は気付いてなかったかもしれないけど、第三者が見れば、明らかに。
 昼間から子供と遊べるってのはどういう仕事なんだろうか、訊いても良いかどうか、とか凄く悩んだりしてるの。
 ある日母は思いきって訊いたわ。そしたら、一応元作家です、更多郎というペンネームでした、とあなたのお父さんは応えた。母はそれはもう嬉しくなった。
 一応で、元、だとしても、作家と知り合いになれたんですもの。
 あたしが生まれて遠ざかっていたけれど、かつては本が好きだったことも思い出すの。
 母がね、その本を読み終えた時の感激っぷりったらなかった。素敵、面白い、才能がある、そういう言葉で日記のページはいっぱいよ。
 あなたは読んでないって言ってたわね。事故で生命維持装置をつけられた恋人を守るために、仕事やら家族やら全てを捨てて看病して、最後はお金も無くなって疲れ果てて、桜の花を見て、何故か楽しくなって、棒か何かで滅茶苦茶に花を散らさせた後、恋人の生命維持装置を止めて、自分も死ぬって話。
 悪く言うつもりはないけれど、あたしはそこまでとは思わなかった。
 でも、あなたのお父さんは、母のアイドルになったのよ。退屈で、思い通りにならない孤独な生活の光にね。
 次の作品を読みたい、と切実に思った。でも、彼は、もう書けないんです、と悲しい微笑みを返すだけだった。母はがっかりするの。でも、この人はもっと書けるって思ってるの。そのために協力できることはないか、考えたりしてるのよ。馬鹿みたい。
 そういう力になりたいという思いは、すぐに、あたしこそ力になれる、という思い込みに変わったわ。
 ねえ、そこまで行ったら、もう恋以外の何物でもないじゃない? 次の小説なんて、実はもうどうでも良くなってるのよ。
 色々と遣り取りが書いてあったけど、あたしから見れば、あなたのお父さんは至極まっとうな人で、母のそういう想いを上手くいなそうとしてたわ。
 でも、母はそうは捉えなかった。むしろ燃えたのね。小説の主人公のような一途な恋を自分に向けさせたいわけ。
 ねえ、考えなくてもわかることだけれど、互いに妻も夫も子供もいるのよ? 二人の間に一途な恋なんて、初めから存在しないの。
 もうフィクションも現実も自分の都合の良いようにつぎはぎして改変しちゃってるのよ。
 きっとあなたのお父さんも迷惑だったのね。段々会えない日が増えていった。
 昨日も会えない、今日も会えない、明日はどうだろう、光太郎さん、更多郎さん、会いたい、会いたい、愛してる、って、もう、正常な人妻でも、母親でも無いの。
 たまに休みで帰ってきた父親に抱かれながらでも、あなたのお父さんのことを想ってるの。父が赴任先に戻ると、何度も小説を読み返すのよ。
 苦しいの。どうしてそんなに苦しいかわからないの。
 ただあの人とひとつになりたい。
 そして、母は思いつく。花を散らせば良いって。小説の主人公が最後恋人を自分だけのものにしたみたいに、あの人を自分のものにしようって。
 どういう風にかは書いてなかったけど、どうせ、一度で良いからとか最後だからとか言って、誘い出したんでしょうね。地下鉄のホームで、背中に顔を埋めて、そのままやって来る車両に、自分の身体を預けながらあなたのお父さんを押し出した。
 まあ、地下鉄に飛び込んで、身体がどうなるか知らないけれど、肉片になって、愛するひととひとつになれて、本望だったでしょうよ。でも、残されたあたしは……」
 君の手は強く強く僕を掴んでいた。その痛みを振り払おうとは思わなかった。
「無理心中ってこと、だよな?」僕は訊いた。
「ええ」と君は応えた。
「日記にそう書いてある?」
「そうするって決意みたいなものはね……でも、父親が言うには、カメラの映像があったらしいわ」
「なら、なんで……」
「その後すぐに父親が転職せざるを得なくなったってことも併せて考えれば、可能な限り穏便に済ませたい人達がいたってことじゃないかしら。わからないけれど」
 君は顔を窓の外に向けていた。僕はそれを見て、そして天井に目をやった。
「君が僕を選んだのは、初恋の……約束の相手だったから?」
 君は静かに息を吐いた。
「そうよ。あなたは幸せだった頃のシンボルなのよ。
 ええ、本当はずっと忘れてた。お互いさまね。
 でも、色々あって、あたしが自分の記憶の中にそれを見つけたとき、それこそが、それだけが、あたしにとっての希望に思えた。
 そこに戻りたい一心で、あなたのこと調べたの。
 わかってる、子供の頃の約束なんて馬鹿げてる。
 だから、最初はすれ違うくらいで良いと思った。それで夜間コースに入学した。そしたら、あなたいたんだもの、そこに。白衣なんか着て。予想外のことに、飲む薬を間違えたくらいよ。
 でも、見つけてしまったら、離れたくなくなった。近づきたかった。いつ気付いてくれるかと思った。なのに、あなたあたしのことを思い出しもしなかった。幸せそうな顔して。
 ちょっと悔しくなった。あなたが大人になっていくのも嫌だった。でもあなたどんどん変わっていくんだもの。いつのまにか意地になってた」
 ごめん、本当にその頃の記憶が全く無いんだ、と僕は謝った。事情があるんじゃ仕方無いでしょう? と君は呟くように言った。
「だけど、そうならそうで、普通に言ってくれれば良かったのに」
「言おうとした」
「え?」
「いつかあなたに渡したテープ憶えてる?」
「あ……」
「あれ、今の話とか、その頃のあたしの気持ちとか、そういうものを録画してあったの」
 あのテープは、僕は腹立ち紛れで滅茶苦茶にして、捨てた。僕は溜息をついた。
「ちゃんと口で言ってくれれば……」
「あたしは父親を殺した女の娘でもあるのよ? どんな顔して言えるの? 面と向かって言える勇気が無かった。近づきたいのに、素直にはできなかった」
「僕は知らなかったよ。何も」
「だとしても……」
「憶えていたとしても、本当に、大したことじゃない。君が殺したわけでもないし、うちは早死にの家系でそういうのは皆慣れてるし。死に方のバリエーションが増えた、くらいのことだよ」
 君は顔を背けたまま、本当にあなたは幸せなのね、と呟いた。まあ、金は無いし、仕事はバイトだけどね、と僕は返した。
 君は僕の手を離し、シートを元に戻した。僕もそうした。君はハンドルを握り、サイドブレーキを戻すと、こう言った。
「あたしの心はひとよりずっと複雑だと思ってた」
「うん」
「でも、違った。ただ皆と同じように恋をしていただけだったのかも知れない」
 君は、笑った。まるで、雛が初めてさえずるみたいな君の笑い声が響いた。
 僕は、驚いて、そして、笑顔を返した。
 じゃあ、送るわ、と君は言い、ぱたりと笑うのをやめた。笑いながらの運転はまだできない、とちょっと低い声で君が言うのが、なんとなく可笑しかった。途中、それでもいつもから比べると随分軽い調子で君は言った。
「それでも、あなたから、あたしのことを思い出して欲しかった」
「女心? そりゃあ、そうかも知れないけど、もし、言ってくれたら、こんな――」
 僕はぐっと言葉を止めた。
 その、「もし」は僕たちにとって、もう軽いものではなかった。
 君を責めたくなかったし、自分を棚にあげたくもなかった。
 ふと、ゆうきの家に続く道を通り過ぎたのに気付いた。僕はそれを見て、あ、と声を上げた。え? と君が反応して少しハンドルを切った瞬間、僕は全てがゆっくりになるのを見た。
 エアバッグが開き、自分が前のめりになり、君が人形みたいに揺られた。音は聞こえなかった。良くわからないブランクがあって、目を開くと、君がハンドルに突っ伏していた。
 血が、それも大量の血が、君の化粧もしてない肌を伝っていた。



 ぼんやりとしていた。事故のせいか、首筋が痛み、軽い吐き気が続いていた。
 線香の匂いと読経と人びとの黒いシルエット。色んな人が入れ替わり立ち替わり色んな言葉を僕にかけた。ご愁傷様です、とか、気持ちを強く持って、とか、君は息子になるはずだった、後は心配するな、とか、少し休んでなさい、とか、そういう言葉がどこか遠くで聞こえていた。
 僕は機械的にそれに応えた。もしかしたら、微笑ってすらいたかも知れない。いつのまにか、そこには誰もいなくなり、僕はなんとなく棺をずっと見ていて、その中が実はからなんじゃないか、とかあまり現実的じゃないことを空想したりした。
 中に入っているものを確認しなきゃいけないような、見たくないような、奇妙な好奇心と恐怖とに少しそわそわした。
 こんなときは泣くべきだ、と心のどこかが主張した。
 いや、悲しすぎるときはかえって泣けないものだ、と頭のどこかが知った風に言った。
 まったく僕たちは知らぬ内に耳年増になっていて、いつも何かしらのフィルター越しにしか、物事に接することができない。目の前の死そのものではなく、そんな自分を包む薄い膜が僕を寂しくした。
 僕は合い鍵を返しに行って以来会っていない師匠の肌を何となく想った。彼女になら、そういう事がわかって貰えるんじゃないか、と感じた。
 水谷がいつか言ったように、心の中を美しく書いてくれる作家も、それを読んで泣いてくれる読者も、現実にはいない。
 なのに、誰かに見て貰わなければ、僕はちゃんと悲しくさえなれない。
 僕は自分の薄情さの根の深さをその時初めて知った。
 そして、君が現れた。僕たちは君の高価で頑丈な車のおかげで、思ったより酷い怪我をしなかった。相手の怪我もそう重くなかった。
 面倒くさい色々はあったけれど、僕は不幸中の幸いだと君に言った。あなたがいきなり声を出すから、と君は責める風でもなく応えた。
 慌てて駆けつけてきた君のお父さんと初めて挨拶をした。なんというか、普通の人に見えた。相馬という名前を彼はどう聞いたんだろう。かつての妻を奪った男の、僕は息子だった。気付いてなかったんだろう、あなたは娘の恋人ですか? と丁寧な言葉で彼は訊いた。僕は、友人です、と応えた。
 友人という言葉には収まらないものがあまりにも多いような気がしたけれど、僕はもう一度、ただの友人です、と言った。
 疲れていた上に、携帯の電池が切れていて、ゆうきの部屋に電話もせず、僕は自分の部屋に戻った。留守番電話の着信ランプが点滅していた。そこに録音されていた琴子の声を聞いてから、その時まで、僕はずっとぼんやりしていた。
 頭に包帯を巻いた君は棺に手を合わせて、そして、振り向きもせず、ねえ、お顔を見てもいいかしら、と訊いた。どうぞ、と僕は言った。君は小窓の蓋をそっと開けた。
「同じ人間じゃないわね」と君は言った。
「そりゃ、死んでるからな」と僕は、カチンとするでもなく、応えた。
「そうじゃないわ。キレイ過ぎて」
 君はしばらくその顔を眺めて、蓋をまたそっと閉じた。君は僕の前に立ち、そして、ごめんなさい、と言った。僕は君が謝る理由がわからなかった。ただ、首を振った。
 君はそれを見て、顔を背けると、でもあなたはタカハルを救ってくれた、そのことは忘れないで、と言い、その場を去って行った。
 僕の脳裏を瞬時に過ぎったのは、タカハルの命が自分にとってそれより大事だったのか、という問いだった。
 勿論僕がタカハルを探しに行ってなくても、結果はこうなってしまっていただろう。
 命は平等だと言う。
 遥か高みから眺めれば、多分そうだ。
 でも、僕という限られた視点から見れば、歴然とその重みには差がある。
 桂木の死はどうだ? 同じ死なのに、もうそんなものはどうでも良くなっていた。
 その、教えられてきたことと、自分が感じていることの間にあるギャップが、僕をたまらないほど罪深く感じさせた。
 そして、その上、僕は重い方を見捨てた。もう考えたくなかった。ぼんやりしていたいと思った。
 僕は、ゆうき、と呟いてみた。そんな呟きも、どこか演出じみていた。



 忌引きが明けて、学校に戻った。すぐに卒業制作の発表会が行われた。
 ひとりひとりプロジェクタによって映し出される作品を前に、その工夫や苦労を話した。
 どれも良くできていた。
 貴句たちのグループの作品発表にタカハルの姿は無かった。でも、貴句は発表の途中、何度もタカハルの貢献を強調する言葉を使った。
 何か言いたい、それだけでは足りない、といった思いが僕には感じられた。
 卒業制作を作っていた様子の無かった君もいなかった。
 僕は例のゆうきの絵を披露した。特別な仕掛けがあるわけでもなし、さして皆の関心を呼ぶものではなかった。まばらな拍手を受けて、席に着くとき、こんなものだよな、と僕は妙に納得するものがあった。
 これは、僕にだけ、特別なのだ、そう噛みしめた。

 放課後学校を出ようとする僕を、榛名先生が呼び止めた。大変だったな、と先生は言った。いえ、と僕は応えた。
「あの絵は、その……亡くなった方?」先生は訊いた。
「ええ」と僕は応えた。
「キレイな人だったんだな」
「まあ、そうですね。でも僕は絵が下手なので、絵で女をくどくのはやめておけと言われましたけど」
「そうか……叔母さんだったか?」
「ええ、叔母です。でも、ずっと親代わりというか……父親で、母親で、友達で、恋人でした」
 榛名先生は穏やかに微笑して、僕を見詰めた。僕も微笑を作った。本当に大事な人だったんだな、と先生は言った。そうですね、と僕は応えた。
「愛してもらったかい?」
「僕に全部をやると言ってくれました」
「良かったな」
「はい」
 先生はちょっと視線を逸らして、僕に背を向け、しかし、すぐ振り返った。良いことを言おうとしている顔だった。
「何ですか?」と僕は訊いた。
 ん、ん、と咳払いして先生は言った。
「誰かに愛されたって記憶は、この先何度でもお前を救ってくれる。辛い時も、悲しい時も、それがあるだけで、人は顔を上げることができる。何度でも、だ」
 僕は、その声が、久しぶりに可笑しく感じられた。「何かの引用ですか?」とにやり僕が笑うと、先生は心外そうな顔をした。そして、何度でもだぞ、ともう一度言うと先生は白衣を翻して、去って行った。

 僕はその日仕事の前の空き時間に師匠を訪ねた。
 完成した卒業制作を見て貰うためだった。通夜や葬儀の間感じたことを話して、わかってもらいたかった。身体を合わせたら、何か変わるような気もした。
 店には相変わらず客はいなかった。モニターをしばらく眺めていた師匠は、うん、と言った。僕がもっと感想やアドバイスを求めようとその顔を見ても、それ以上作品に対する言葉は無かった。そして、師匠は言った。
「もう、おしまいね」
「え?」
「あたし、恋人がいるのよ」
「……ええ」
「正確には、もうちょっと自由な関係だけれど、恋人は恋人」
「はい」
「カレとの間に約束があるの」
「約束?」
「浮気をしても、同じ相手とは三回までって」
「で……?」
「だから、おしまい」
 じわり、とその言葉が胸に染みて湿らせるのを感じた。そうなって初めて、それが恋だったと身体が言っていた。僕は、そんな、と縋るように口走っていた。師匠は楽しそうに笑顔になると、僕の髪を掻き遣るように撫でた。
「それとも、カレと闘って勝ち取ってくれる? ちなみに、お金持ちで、権力があって、怖い人だけれど?」
 僕は頷くことも、首を横に振ることもできずに、拳を握りしめた。さ、と師匠は僕を立たせた。僕は向かいあうと、引き千切られようとしているものを止めるための言葉を探した。でも、結局見つからなかった。
 マヌケにも、僕はあなたにとって何でしたか、などと訊いてしまった。師匠は馬鹿にする風でもなく言った。
「浮気は三回まで。ねえ、先生とは四回シたわ」
 僕はもう何も言えなかった。ただ、最後の口づけが、いつまでも終わらなければいいのに、と思った。

 まだ、仕事まで時間があった。僕は会社まで歩くことにした。
 焼けるようなざわめきが胸に満ちていた。
 何を考えるでもなく、まだ融けそうもない雪の地面を、見詰めて歩いた。
 大勢の道行く人々とすれ違った。僕はいつのまにかそういう人々の顔を見ていた。
 自分の知らない人たちが、自分に関係のない事情で、自分の行かない場所へと歩いていた。
 その一生僕が関わらない人達それぞれの中に、考えがあり、感情があり、言葉があることの途方も無さに、僕は恐ろしくなった。
 そして彼らは、僕が彼らに感じているように、自分には何よりも大事なこの自分のことなどどうでもいいのだ。
 僕は、気温のせいではなく、身震いした。寂しい、と思った。
 僕は立ち止まって、動けなくなった。そして、ふと手を額に当てた。ゆうきがキスしてくれた額だった。
 お前は寂しいだけなんだよ、とゆうきは言った。
 その時になってその言葉が意味を持った。
「あたしは、ここにいる。ずっとだ。そういう想いをこめた。だから、お前が寂しくなったら、いつでもここを思い出せ」
 思い出そうとした。僕は思わず目を額へと向けた。
 当然、額は見えなかった。
 でも、その先に空が広がっていた。
 雲の多い、いかにも冬の曖昧な空だったけれど、確かに光はそこにあった。
 その時流れた涙が、純粋なものではなかったとしても、今の僕はそれを許そうと思っている。

 二月、僕のハタチを彩ったものが、次々と掌から零れていくのを、僕はただ見送るしかなかった。


<#12終わり、#13へ続く>



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