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煙草を冷やす【断片集・藍田ウメル短編集より】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
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 大学一年の頃、僕は片思いをしていた。仮に相手の名前をサクラサクラとしておこう。

 同じ学部で同じサークルだったサクラサクラのそばに僕は常にいた。出来るだけ同じ講義を取り、サークルのたまり場では、隣の席を必ず確保した。

 まわりはきっと僕の恋を分かっていただろう。
 「山口〔僕の事だ〕に用があるなら、まずサクラサクラを探せ」と言われていたのを僕は知っていた。
 自然に仲良くなるなんていう不自然な事は、まだ僕のテクニックの内に無かった。とにかくべったりと。それが僕の思いつく全てだった。

 サクラサクラがどう思っていたのかは知らない。
 優しさか、それとも他の何かの思惑があるのか、サクラサクラは決して嫌な顔などしなかった。話しかけてくるにも、一緒に歩くにも、それこそサクラサクラは自然だった。

 僕たちはよくお互いの煙草に火をつけ合った。何がきっかけだったかは忘れたが、僕たちが同時に煙草を銜えた時は、腕をクロスするようにして火をつけあった。
 そして、細いカプリの煙を吸い込んだサクラサクラは僕に煙を吹きかけるのだ。僕もそれに応戦した。
 そんなじゃれ合いは恋愛とは言えないまでも、それがある種の好意の交換だと僕に勘違いさせるには十分な程度の習慣で、結局僕は疑うこともしなかった。

 一緒にいない時も、殆どはサクラサクラのことを考えて過ごした。それこそ寝ても覚めても、というやつだ。
 こういう場合の「考える」は特に考えていないのが普通だ。何ら論理的な構造を組み立てた訳でも、驚くような結論を導き出したわけでもない。
 ただぼんやりと、サクラサクラのイメージを脳裏に過ぎらせていただけに過ぎない。そして答の代わりに、ため息をはき出すのだ。

 もちろんオナニーの時の妄想には必ずサクラサクラを登場させた。射精するのに妄想上のサクラサクラを裸にする必要すらなかった。
 その右手が悪戯っぽく僕の小さな棒を握り、真っ白い、美しい歯並びの口元を微笑みで緩ませて、「スケベ」と僕の耳もとで言う。
 サークルの飲み会で、下ネタを話す先輩にサクラサクラが言った言葉を耳の奥で再生させるのだ。そんなことだけで、僕は迸ることが出来た。まだ僕の性欲と恋心は未分化だった。
 恋しい気持ちが高まると、僕は何度でもオナニーした。何度だって出来るような気がした。



 そんな風に、僕の片思いがいつ終わるとも知れずに、一年が過ぎた。僕たちは二年生になった。

 サークルは恒例の新入生勧誘の時期を迎えていた。
 僕たちのサークルも、他のサークルと同じように、校門から校舎までの道の一角に勧誘の看板と机を並べた。
 勧誘は主に新二年生の仕事だった。交代で当番をすることになっていたが、僕とサクラサクラはそこでもやはりペアだった。
 周りが僕に気を利かせてくれたのだろうと思う。

 サクラサクラは面倒くさそうに煙草を燻らせていた。
 僕はと言えば、暖かな光の中でサクラサクラの眩しさに見とれていた。
 時々、説明を求めてくる新入生たちに連絡先を記入させたりはしたが、入会を確定させることは出来なかった。
 正直に言えば、新人が入るかどうかなんて、僕にとってはどうでも良かった。サクラサクラと一緒にいられる、それさえ出来れば、サークルに他の人間なんて必要なかった。
 そんな僕を知ってか知らずか、サクラサクラはチェーンスモーカーばりに煙草を吸った。
 「巻煙草 身体任せて口まで吸わせ灰になるまでぬしのそば」
 そんな都々逸を僕は思い出した。僕はそんなものになりたかった。


 その新入生はやる気無さそうに「いいっすか?」と僕たちの前に立った。僕は笑顔を作って、「どうぞ」とパイプ椅子を勧めた。サクラサクラも一瞬愛想笑いを浮かべたが、すぐに風に吹かれて中々火のつかない百円ライターを擦り始めた。
 名前を訊くと、二宮、と彼は応えた。そして僕は定型文通りにサークルの活動内容を説明した。
 その間もサクラサクラはライターを擦り続け、やっと火がつくと、いつもの様に僕に煙を吹きかけた。
 僕は仕方無く笑ったが、二宮はだるそうにサクラサクラを見ると、僕の話を手の平で遮り、言った。

「アレですか? 二人は付き合ってるかなんかっすか?」

 僕は答えに窮した。すると、すぐさま二宮が見せただるそうな態度を真似て、サクラサクラは応えた。

「そう見える?」
「まあ、見えますね」と二宮は言った「っていうか、こっちの人の好意に付け込んで、甘やかされてる様に見えるっすね」

 サクラサクラの顔色が変わった。僕はサクラサクラと二宮の顔を見比べて、ただ慌てることしか出来なかった。

「あたしが何に付け込んでるって?」サクラサクラは挑発的な笑顔を浮かべて言った。

 それを鼻で笑って、二宮は僕の方を向き、すいません、続き、お願いします、と言った。
 ああ、と応えたが、僕はサクラサクラと二宮の顔を交互に見ることを止められなかった。

「何に付け込んでるって?」サクラサクラはまた訊いた。

 二宮は口角を片方だけ上げて笑うと、首を振った。
 どうぞ、と話を促されて、僕は活動内容の続きを話そうとした。
 しかし、サクラサクラは立ち上がって、もう、帰って、と二宮に言った。
 二宮は、仕方ねえなぁ、と呟きながら、席を立った。
 そして、「煙草吸う女、俺嫌いなんすよ」とサクラサクラに言った。「あんたに…」と何か言い返そうとしたサクラサクラを遮って二宮は言った。

「こんな勧誘の時にのうのうと煙草を吸ってるってのが、甘やかされてる証拠だって言うんっすよ」

 サクラサクラの顔が赤くなった。
 どうしていいか分からない指が、煙草を挟んで震えていた。
 僕はただそんなサクラサクラを見上げていることしかできなかった。
 二宮は「俺、このサークル入りますよ、新歓コンパ、決まったら教えて下さい」と連絡先を書き残して、去って行った。

「あいつ、何?」とサクラサクラは言った。
「さあ」と僕は応えた。

 あたしの煙草なんて、いつものことじゃない、腹立つ、腹立つ、腹立つ、とサクラサクラは怒りを込めて呟き、根元まで燃えた煙草をいらいらと灰皿代わりの空き缶に擦りつけた。まあ、まあ、と僕はサクラサクラを宥めた。


 座り直し、僕は新入生の流れを見るとも無しに眺めた。
 もう一年か、と僕は思った。
 確かに先に進むのなら良い頃合いなのかも知れない。
 僕は机の上の名簿に視線を落として、勇気を振り絞った。

「付け込むなら、それでいいよ」僕は言った。
「あんたまで……あたしが何に付け込んでるっていうの?」とサクラサクラは訊いた。
「僕の……つまり……好意に」

 それを聞くと、サクラサクラは俯いてしまった。
 僕たちはそれからしばらく黙り込んだ。交代のメンバーがやって来て、僕たちは任を解かれた。
 帰り道、サクラサクラはとても歯切れ悪く言った。

「もう少し、なのよ」
「何が」
「あんたのこと」
「さっきのこと?」
「時間なのかも知れないって、思うのよ」
「好意のことか」
「大事に思ってる」
「ありがとう」
「でも、もう少し……」
「わかった」

 僕は嬉しかった。それまで一方的だったものが、そうじゃなくなるかも知れないのだ。それを知っただけでも、僕には十分だった。



 二宮は捨て台詞ではなく、本当にサークルに入会した。サクラサクラは彼に冷たかった。
 どんな厄介な人間か、と僕も内心不安だったが、よく先輩を立て、働き、一年生を纏めた。
 僕とサクラサクラの事は、恐らく、他の連中に聞いたのだろう、からんでくることは無かった。


 ある日、たまり場に二宮と二人になることがあった。
 学生らしく、くだらない話をした。流行の音楽や映画や女の子の事を。
 二宮は高校時代の自分の恋愛をコメディのように脚色して披露してくれた。二宮が可哀相であればあるほど、話は面白かった。
 二宮はその話の最後に言った。

「結局ね、女を同じ種族と思っちゃいけないんです。奴ら、宇宙人です。同じ言葉で喋ってるようで、全然違うこと言ってるんです。誠実さなんて期待しちゃいけません」

 ひでぇな、と僕は笑った。先輩はなんか恋バナないんすか? と二宮は訊いた。そしてすぐに、あ、現在進行形でしたもんね、と膝を叩いた。

「実際、どうなんすか?」二宮は訊いた。
「よくわからんよ」と僕は応えた。
「主導権握られてるんすね」
「よくわからん」
「堪えられないな、そういうの、俺」
「そうか?」
「狩りなら一瞬、そうしたいもんです」
「相手は動物じゃないぜ」
「似たようなもんです、その内わかります」

 二宮はにやりと笑った。その目が何かぎらりと鈍く光ったような気がしたが、僕も笑顔を返した。




 最近はアルコールハラスメントがうるさく言われるようになったが、その頃はまだ一気飲みや未成年の飲酒に寛容だった。
 僕たちはアホみたいに酒を飲んだし、よく潰れた。
 その夏の日の定例コンパでは、同じ曲を順番に歌い、カラオケの自動採点で得点の最も低い人間が一気飲みをすることになっていた。
 僕は歌が下手だった。何度もグラスを空けさせられた。
 グラスの中身はどんどんアルコール度数が高くなっていった。
 酔っ払って、その内、採点とは関係無く、自分からすすんで飲むようになった。そして、潰れた。


 サクラサクラが心配そうに声を掛けてくれていたが、ごめんごめん、と言いながら、僕は二次会の会場へ向かう途中で道路に座り込んで動けなくなった。
 サクラサクラは、ちょっとみんな待って、と叫びながらも、僕を見捨てなかった。
 どうするのよ、と困ったように呟くサクラサクラを薄目で見ながら、絶えず襲ってくる吐き気の中から、嬉しいような、寂しいような、不思議な気分がわき上がってくるのを感じていた。
 このままずっとサクラサクラといられるなら……僕がそう思った瞬間、大丈夫っすか? と二宮の声がした。
 サクラサクラは何も応えられなかった。
 まだ、二宮を嫌いなままだったからだ。
 大丈夫じゃないっすね、と二宮は言った。
 大丈夫よ、あんたはみんなと行って、とサクラサクラは喉が硬くなったみたいな声を出した。
 あ、そうっすか? それじゃあ、と二宮は背を向けた。
 サクラサクラがため息をつくのが聞こえた。サクラサクラは僕の腕を肩に回させ、僕を何とか立たせようとした。しかし、僕の身体はどう頑張っても、力が入らなかった。
 もうっ、とサクラサクラの苛立った声がした。
 すると次の瞬間、僕の身体を掴む強い力を感じた。
 二宮、とサクラサクラの呟きが聞こえたと思うと、僕の身体は誰かの背中におぶわれていた。俺の部屋、すぐ近くなんす、と僕の頭のすぐそばで二宮の声がした。付き添ってくれますよね、と二宮が言った。
 多分、サクラサクラは頷いたのだと思う。道中、僕が二宮の背中で吐いた時、サクラサクラの小さな悲鳴が聞こえたから。
 大丈夫っすよ、こんなのただのゲロです、と二宮は言った。僕は自分の身体のコントロールを失ったまま、結局二宮の部屋まで連れて行かれた。


 僕はベッドの上に寝かされた。俺、ちょっとシャワー浴びます、水飲ませてください、と二宮が言い、すぐにシャワーの流れる音がした。
 僕はまだ頭も動かせなかった。口元にひんやりしたものを感じて、何とか薄目を開けると、サクラサクラが僕の顔を濡れたタオルで拭いていた。
 ごめん、と口を動かすと、馬鹿じゃないの、とサクラサクラは応えた。不安げな、震えた声だった。僕はその声を捕まえることが出来ずに、眠りに落ちた。



「あんたに何がわかるっていうのよ!」

 サクラサクラが叫んでいた。僕の身体は痺れていた。

「怒るなよ、それとも図星だった?」

 二宮の声だった。何か険悪な雰囲気がした。
 しかし、僕には何が起きているのかわからなかった。分かった所で僕はまだ声を出すことができなかった。

「違うわよ」サクラサクラが言った。
「何がどう違うのか言ってみろよ」二宮が訊いた。
「あたしにはあたしの事情があって……」
「ほら、言えない。やっぱりあんたも他の女と一緒だよ。男の好意を弄んで、良い気分でいるだけなんだ。自分は特別だってね。でもそれに気づきたくないから、気付いてるから、友達でいようなんて考えてる」
「違う」
「なら、そいつと付き合えばいいじゃん」
「それは……」

 僕はようやく薄目を開けた。サクラサクラの肩が見えた。サクラサクラはバッグを引き寄せ、何かを探していた。カプリの薄い箱を取り出して蓋をあけたが、中身は空だった。もうっ、とサクラサクラは空箱を握り潰した。

「どうして、みんな、二言目には付き合うだの付き合わないだの、って言うの」泣きそうな声だった。
「それが自然なことだからだ」二宮が応えた。

 サクラサクラは黙り込んだ。どちらかの深い呼吸が聞こえた。きっと僕は起きようと思えば起きることが出来た。しかし、その遣り取りにどんな顔をして加わればいいのか分からなかった。僕は寝たふりを続けた。
 あたし、とサクラサクラは小声で言った。

「あたし、昔――」
「ちょっと待った」と二宮が言った「その話そうとしてること、そいつも知ってんの?」

 サクラサクラは首を振った。

「なら、聞かない」
「だって、あんたが……」
「今は、だよ。もし、聞くとしたら……二人きりの時に」

 二宮が表情を崩した雰囲気がした。サクラサクラの肩から力が抜けたのが見えた。

「あ、あるわけないじゃない、そんな事」サクラサクラが声を上ずらせた。
 そりゃそうだ、と二宮は明るく応えた。

 サクラサクラは、煙草買ってくる、と立ち上がった。あ、ちょっと待って、と二宮が言った。何か部屋の中をがさごそと探しているらしかった。
 あれ、おかしいな、という二宮の呟きが聞こえた。
 何? クローゼットとか、本棚とか探してんの? まさかそんな所に隠してるわけじゃないでしょ? 煙草嫌いなんでしょ、というサクラサクラの声が聞こえた。
 あ、そうだそうだ、と二宮が言い、バタバタと足音がして、冷凍庫の引き出しを開けたのが分かった。はい、二宮はサクラサクラに何かを投げ渡した。
「これ、カプリじゃない?」サクラサクラが言った。
「お詫び、不躾な後輩としての」と二宮が応えた。

 ええ!? とサクラサクラが驚きの声を挙げた。

「で、どうして冷凍庫なの?」とサクラサクラは訊いた。楽しげな声だった。
「なんでだろうね?」と二宮は言った。

 サクラサクラはカプリの箱を頬に当てた。

「気持ちいい」

 僕の言わせたことのない言葉だった。

 身体がびくんと動いた。目も同時に開いた。
 あ、起きました? と言った二宮はいつもと同じ笑顔を浮かべていた。
 サクラサクラは少し驚いたような素振りを見せ、そして、眉をしかめて、飲み過ぎだよ、と呟いた。

 二人が付き合い始めたのはそれから間もなくだった。
 勿論、僕ではなく、二宮とサクラサクラだった。
 僕の気持ちを知っていた連中は、慰めてくれたり、サクラサクラをけなしたりしてくれた。でも、僕はそれに乗って悪口を言おうとは思わなかった。サクラサクラはそうなることだって見越して、二宮を選んだ。
 結局恋愛は時間ではないのだ。

 傷つかなかったか。
 どちらとも言えない。
 僕には言えなかったサクラサクラの過去がどんなものだったか、知りたくてしょうがない夜もあった。
 二人が僕のいないところでしていることを思えば、内臓が爛れそうにさえ感じた。
 僕にその火傷の跡がないとは言えないのかも知れない。

 だからなのか、僕は今でも煙草を吸う女を好きになる傾向がある。
 そして、いつ部屋に来るとも知れないその女の好む銘柄を一つ、冷凍庫に冷やしておくことにしている。

<了>

藍田ウメルの長編はこちら↓


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