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epilogue 01【連作短編「epilogues」より】

この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
連作短編「epilogues」をまとめたマガジンは↓こちらです。



 ラブソングみたいに、偶然昔好きだったひとと行き会うなんてことはないと思ってた。

 この街は大都会みたいに広くもないし、ひとだって多くないけれど、でもそれなりに「街」だから。

 でも、その日、会社の健康診断で病院に向かう途中、地下鉄の階段を上がり切った時、僕は、彼女を、見つけた。少し躊躇って、でも、駆け出していた。信号が変わって、歩きだそうとした彼女に、僕は、叫んでいた。

「リンゴさん!」

 驚いたように立ち止まり、そして、恐る恐るといった風に僕に顔を向ける彼女。僕は息を切らして、その前に立った。
 どんな顔をしていいかわからないから浮かべる笑顔がそこにあった。

「お久しぶりです」
「……」
「僕です。木戸です」
「……あ」
「木戸です。その、大学でお世話になった、その……」

 お世話になった、という自分の選んだ言葉のよそよそしさが、なにげに自分を傷つける。
 まあ、それ以外に言いようもない。どちらかと言えば、「ご迷惑をかけた」の方が良かったのかもしれない、などと思っていると、彼女は、さっきまでの笑顔のよそよそしさを解いた。

「木戸くん?」
「ええ、木戸です」
「……なんか、変わったから」
「そうですか?」
「少し、痩せた?」
「ええ」
「それに、メガネと……スーツ」
「ええ、目悪くなって、それに、一応、会社員なんで」
「そう……」
「ええ」
「そうね」
「ええ」

 それ以上、何を話していいのかわからなかった。彼女も、そんな風だった。
  失敗したな、と思った。
  僕たちに、美しい思い出話なんてない。
  ご迷惑をかけた、のだ。本当に。
 でも、目の前にいる彼女の、当時、好きだった面影は、そのままだった。 むしろ、時を経て、その印象が、濃密になっているような気がした。
 嬉しい。
 その感情こそが、僕の傷を舐める。
 だから僕は、少しきまずくなって、それじゃあ、と唐突に背を向けた。
 でも、懐かしい声が、背中から僕を呼び止めた。

「木戸くん!」
「……はい?」
「あ、あの、だから……連絡先」
「え?」
「……あ、え、えっと、その、皆、木戸くんの連絡先知らないって言ってて。時々、上京したときとか集まるのよ? シモムラくんとかも懐かしがって、会いたいなあ、って言ってて」
「……ええ」
「だから、携帯とか、メールとか、LINEとか……」
「……はい」

 僕は、名刺を取り出し、個人的なメアドを書いて、彼女に渡した。彼女は、クスリと笑った。

「名刺、だって」
「はい」
「ちょっと、変な感じね」
「はい」

 名刺なんてものに、違和感を感じなくなるくらいの時間は、社会人になってから過ぎた。でも、そんな風に改めて言われると、なんだか少し、胸の辺りがくすぐったくなった。
 彼女は微笑った。僕も、そうした。
 そして、その時は、そのまま僕たちは別れた。



 僕には妻がいる。
 彼女は、漫画家……いやそのタマゴで、そのタマゴが今にも孵ろうとしているところだった。
 敢えて編集には秘密にしているが、彼女がデビュー作にしようとしている作品は、僕が原作を書いた。まあ、よくあるギャグ入りのラブコメだけれど。
 妻は絵を得意にしているが、ストーリー作りには、欠陥を抱えていた。
 設定や断片的なシーンは思い浮かぶのに、それを繋げて物語にすることがどうしてもできなかったのだという。
 そのせいで、長くくすぶっていた。
 いずれ専業アシスタントもやむなし、と思いながら、それでも、自分の名前を有名雑誌に並べる夢を諦めきれずにいた頃、僕と出会った。
 良く行くコンビニの店員だった。つりをよく間違える娘だった。でも、すぐにそれに気付いて、慌てる姿に愛嬌があった。必要以上に恐縮するでもなく、ごめんなさあいと笑う顔が、可愛らしかった。
 いつしか、軽い冗談を言いあうようになり、流れで、飲みに誘い、本当に気軽についてきた彼女と、なんとなく関係を持った。
 その時、彼女の夢と現状を聞いた。まるで平凡な人生を歩んできた自分には、それは、とても魅力的な話だった。
 その夢に乗りたい、と思った。
 僕は、そのどちらかと言えば貧弱な身体を抱きながら言った。

「僕がストーリーを書こうか?」
「え?」
「手伝いたいな。なんなら、君の夢が叶うまで、僕が養ってもいいし」

 僕は、その問いをその娘が詳細に検討しないようにするために、技術をこらした。所詮アダルト動画の受け売り程度の技術だったけれど。
 それが功を奏したか、彼女は次の朝言った。

「あのさ、昨日の話」
「ん?」
「だから、ストーリーを作ってくれるって」
「うん」
「結婚してくれるなら、考えても良い」
「……」

 まあ、どのみちそんな予定も約束も他に無かった。この先ファムファタルが現れそうにも無かった。だって、そんなものには既に出会ってしまっていて、決定的に拒絶されていたのだから。
 もう、永遠に会わないと決めたのだから。
 僕たちは、その次の日に婚姻届けを出した。

 それ以来、僕たちは共同名義で作品を作り続けている。その内のひとつが雑誌の編集の目に止まり、奨励賞を貰った。
 妻はとても喜んだ。いつまでもその講評のページを眺めてはにやけていた。にへらにへらと笑い続ける妻を横目で眺めながら、僕も微笑った。
 でも、僕は複雑だった。講評は、ほぼ、絵への賛辞であり、ストーリーについては、まだまだ努力が必要の旨のことが軽く触れられているだけだったから。
 いや、僕は、彼女を手伝うだけでいいのだ、と思った。
 思うことにした。

 そして、もうすぐ、正式なデビューだというところまで来ていた。彼女はその原稿の追い込みを続けている。
 創作している人間の現場など何の色気も無い。鶴の恩返しで、のぞいてはいけなかったのは、多分、風呂にも入らず、飯も食わずやつれ、髪をフケだらけのぼさぼさにし、目の下にクマを作って、だらしない部屋着で機を織っていたからに違いない。きっとのぞかれた恥ずかしさで、鶴は飛び去っていったのだ。
 きっと。
 帰ると、そう僕が確信するくらいの様相で、妻はペンを走らせていた。僕は微笑って言った。

「メシ、食う?」
「……ん、いらない」
「そう、オレ、勝手に食べるけど」
「……ん」
「何か手伝うことある?」
「ない……っていうか、アンタ、不器用じゃん」
「まあね」
「普通の定規使って曲がった線引くひと、初めてみた」
「まあ、ね。でも、デジタルにしないの? デジタルなら、真っ直ぐ引けるよ、オレでも」
「ん、自分のパソコン買うお金とかないし」
「買えば? 出すよ、そのくらい」
「……いいよ、そんな気使わなくて」
「ん、そう?」
「うん……それにわたし、ペンと紙で書く方が好き」
「……」
「まあ、便利そうだから、ちゃんと自分で稼げるようになったら、考える」
「……うん」
「それに、そんなことしてくれなくてもさ」
 妻は顔を上げた。無邪気に、嬉しそうに。
「ユウジさんと組んで、結婚して、ほんと、人生好転してる」
「うん」
「アゲチンだね、ユウジさんは」
「そうかな?」
「うん、これ終わったら、いっぱいしなきゃ」
「……うん」
「うん、楽しみにしててね、大好きなことも、いっぱいしたげるかんね」

 妻は、舌をぺろりと伸ばして、何かを舐め上げるように首を動かしてから、また原稿に視線を落とした。そんな卑猥なジェスチャーも、愛嬌がある。
 僕は苦笑しながら、かつて僕たちが出会ったコンビニで買った弁当に手を付ける。味気ない、その味は、僕に妻の裸を想像させた。

 スマホが震えた。メールアドレスが、表示されている。それまで電話帳に無かったアドレス。僕はそれを手に取る。妻が訊く。

「誰? トモダチ?」
「……仕事関係」
「だよね、ユウジさん、トモダチいないもんね」
「ひどいな……そうだけど」
「学生の頃のトモダチ、皆と絶交するなんて馬鹿だよね。何があったか知らないけど」
「馬鹿で悪かったな」
「わ、た、し、は、ずっと、トモダチでいてあげるからね」
「嫁だろ、お前」
「あ、そうだった」

 まあ、トモダチなのだ。多分。今でも。僕はメールを開く。そこに、こんな文面。

『今日は、びっくりしました。
 でも、会えて、声をかけてくれて嬉しかった。
 もし、良かったら、これからは連絡しあいましょう。
 遠慮無く、ね。』

 遠慮無く、なんて言葉を字面通りに受け取るほど、僕はコドモじゃない。  
 でも、その頃の渇きがいまだ残っていることに、即座に返信したくなる指のせいで、気付いた。
 僕は、なにげなくスマホを食卓においた。
 そんな「自然な」演技ができる。
 今は。
 作業を続ける妻を横目に、僕は、コンビニ弁当を、かき込んだ。



 メールは何度かやりとりされた。最初は、ただ、挨拶のように。距離を測り合うような間隔と頻度で。
 そして、いつしか、そういうツールが普及していった当初と同じように、新しいトモダチ同士が一日中メールを送り合っていたように、僕と彼女は、他愛ない文章を遣り取りするようになった。

『今日、とてもおいしいスープカレーの店を見つけた。
 しばらく通っちゃうかも』
『いいですね。僕、まだ、スープカレーって店で食べた事無いです。レトルトしか』
『あなた、本当にこの街のひと?(笑)』
『めちゃめちゃ地元民ですよ。失礼なw』
『(笑)でも一度食べてみるといいですよ。店によっても全然違うし。ハズレは多いけど』
『じゃあ、あたりの方を教えてください』
『自分で探しなさい。自分で見つけるから価値があるの。って、本当は自分が好きな味に自信が無いだけ(笑)』
『www』

 こういう、普通の。
 まるで、あの頃のように。
 でも、あの頃と違う。僕も、距離を測れるようになった。
 昔の僕なら、じゃあ、連れてって下さい、おごりますから、と返信したはずだった。(笑)をつけながら、でも、真剣に。
 寂しいな、と思う。寂しい。
 でも、僕だって学ぶ。会話をするくらいのことで、もう、恋には落ちない。落ちる意味が無い。結果は、もう知ってる。
 彼女はあの頃の話をしない。それは、悟れ、ということなのだ。もう、蒸し返すつもりはない、ということを。
「その話」はするつもりがない、と。


 あの頃、僕は彼女が好きだった。それまでも何度か恋はしてきたけれど、その恋は、人生で最大瞬間風速で暴れる嵐のような恋だった。誰かの言い回しを借りるなら。
 彼女は、たまたま入ったレジャー系サークルの二つ上の同郷の先輩だった。そして一年生の世話役みたいな役職にいて、僕たちをケアしてくれた。
 だから、僕に優しかったのだって、本当は、その職責を果たしていただけなのかもしれない。そのくらいのことなら、だけど、その時の僕だってわかっていた。
 でも、歌だった。彼女は、僕に、人生で初めて、「歌」というものを教えた。彼女は、学内イベントの時だけ椎名林檎のコピーをするバンドに誘われてボーカルをした。
 僕は、そのステージで歌った彼女に見惚れ、聞き惚れた。
 それまで、僕は彼女のそんな姿を見たことが無かった。まるで、そこに、本当に、林檎がいて、僕たちの鼓膜を、肌を、内臓の裏を引っ掻きながら、陶酔の渦に引き込んでいるように感じたのだ。
 そういったバンドに対する半信半疑のオーディエンスを、いつのまにか熱狂に誘って。
 そして、僕は恋に落ちた。浸かった。溺れた。
 僕は「リンゴさん」と彼女を呼ぶようになった。彼女は最初困ったように苦笑していたけど、その内、それに普通に呼応してくれるようになった。それが、何か特別な繋がりのように思えた。
 毎日、彼女を追いかけ、夜には電話をし、口説き続けた。
 ただそれだけで、他にドラマもストーリーも無いのに、僕だけが盛り上がって、泣いて、わめいて、縋って、彼女を手に入れようとした。
 でも、彼女は、拒絶しない代わりに、受け入れてもくれなかった。
 決して。

「トモダチでいてって……他に好きなひとでもいるんですか?」
「いない、けど」
「なら!」
「……」

 そんな遣り取りを何千回したかわからない。
 でも、それにだって終わりが来た。あれは、大晦日、サークルの一部の人間が集まって年越し鍋をしていた時だった。就職も決まった四年の先輩が改まった表情して、実はご報告がある、と姿勢を伸ばした。
 僕は、何も、気付いていなかった。

「実は、リンゴとオレ、付き合うことにしたんだ」

 その頃には、僕が彼女を呼ぶ「リンゴ」という愛称がサークル内にも定着していた。

 その名前は僕のものだ、その名前を使って、そんなことを言うな! 

 僕の中に怒り。いや、そんな単純なものじゃない熱が満ちた。二人は並んで、気恥ずかしそうに微笑みあっていた。
 ああ、と思った。そうか、そういうことか。
 僕は、受け入れられなかった自分の恋に焼かれて、ただ、その場を買い物でも行くフリをして、離れた。
 
 衝動に震える拳をただじっと堪えて、僕は電車が深夜も運行しているはずの大晦日の夜、何駅も離れた部屋までの道をただ歩いた。
 その恋に感情的になった分だけ、自分の愚かしさへの羞恥がのしかかる。
 やがて、言葉にならない虚しさ。
 ぽっかりと空いた穴。
 それが彼女が作ったものなのか、それとも出会う前からあったものなのか、僕はわからないままその穴を見詰め続けた。
 それは、彼女のカタチをしていて、その時、その瞬間の彼女以外の何かでは決して埋められないのだ、という気がした。
 そして、その穴が永遠に、僕の心の中にあり続けるだろうという、思い込みに似た確信だけが、僕の心を荒く切なく波立たせた。
 僕という人生が続く限り、消せない、永遠の欠落。
 そして、僕はその年の初めての陽の光の中、真っ暗な自分の影をひきづりながら、もう、このサークルにはいられない、と力無く決意した。
 僕は皆には適当なことを言って、そのサークルと彼女のもとを去った。まったく、今思うと、なんて幼稚なことを、と思うのだけれど。
 でも、僕は、彼女への恋と、それまでの関係を全て断ち切り、その後を生きて来た。
 もう、自分の人生は、その最大の祭りは終わったのだ、と。
 そして、かつて都会で名をなすことを夢見ていたはずの僕は、地元に帰り、就職した。つまらない仕事だ。内容を明かす価値もないくらいに。でも、それが相応しい、ずっとそう思ってきた。

 でも、そこに、偶然がある。僕はその偶然に問わずにいられない。
 何気ない遣り取りを続けて、それを訊かずにいることの方が不自然になったとき、僕の指は勝手にこんなメールを送信した。

『もう、歌わないんですか?』

 そのメールの返信は、なかなか返ってこなかった。僕は、後悔することになった。失敗した、と思った。胸が痛かった。でも、それだけのことだった。



 妻のデビュー作は、好評だったらしかった。特に絵柄に対する評価はネットなどでも高かったらしい。物語に対する特に褒めるような言及は無かったらしい。
 いや、エゴサした。らしい、というのは嘘だ。そうだった。
 むしろ、低評価だった。
 そして、ここからが本当に伝聞になるが、すぐにというのはムリだが、連載に向けてアイディアとネームを練ってくれと編集から要請があったそうだ。シリアスな職業もの、という条件がついて。
 良かったね、と僕は妻に言った。
 頑張ってね、と妻は笑った。

「え?」
「だって、ストーリー作ってくれるんでしょ?」
「いや、だって……オレ、そんなの作れないよ。こないだのだって、相当苦労したんだぜ? やっぱムリ――」
「大丈夫だって……わたし、すごくサービスするよ? 頑張れ頑張れ!」

 上機嫌で「サービス」を始める妻を見下ろして、僕は、不思議な気分がした。
 つまらない、終わったはずの人生に何か胎動のようなものを感じたのだ。
 もしかしたら、僕は、作家になれるのかもしれない。共同名義だけど。でも、こんな退屈な人生から、何か輝くような場所へと逃げ出すことができるのかもしれない。
 強引に引き出される快感に身を任せようとしたとき、スマホが震えた。その時、僕のスマホを震わせるのは、そのひとしかいなかった。僕はスマホを手に取って画面を眺めた。

「誰?」
「仕事のひと……ちょっと返信するからやめてくれる?」
「いや」
「あ?」
「されながら、返信を書きたまえよ」
「おいおい」
「なんかエロいっしょ?」
「……」
 正直な身体が、それを拒否できない。僕はスマホの文面を眺めた。

『返信遅くなって、ごめんなさい。
 本当は、言わなきゃいけないことがあって、でも、上手く言えなくて。
 でも、メールで言うことじゃないって、思って。
 もし、良かったら、会えませんか?
 今、○○駅にいます。待ってます』

 僕は思わず立ち上がり、妻の口から抜けたものをしまい込むと、その頬をそっと両手で包んだ。

「何?」
「仕事」
「えー?」
「ごめん」
「それ、大事なの?」
「納期前日に、エラー出して機械が止まったらしいんだ」
「えー? なんとかプリンタ?」
「うん。小さな会社だから、信用問題になるって、すごく困ってるらしくて、営業としては、何とかしなきゃならない。致命的な故障なら新たな商売のチャンスになるかもしれないし、まあ、どうせ、余計なとこ触ったんだと思うけど」
「うーん……この後いっぱいしようと思ってたのに」
「ごめん、帰ってきたら必ずするから」

 僕は、スーツに着替えて、鞄を持った。とりあえず。玄関に立った僕を呼び止めて、今度は妻が、僕の頬を両手で挟んだ。

「いっぱい、だからね」
「約束する」

 僕はその手をそっと押し戻してから、努めて穏やかに扉を開け、ゆっくりと玄関を出た。そして、思い切り最寄り駅へと走り出し、今、向かいます、と返信した。



 薄暗い店内に、パーティションで区切られたテーブル席。どの席からも、小さなステージが見える。曜日や時間によって、主にジャズが演奏されるそうだ。でも、その時は、ただ暗がりがぽっかりと空虚にそこにあるだけだった。
 僕は目の前にある控えめなランプの光に照らされる「ドラマ」を見る。
 僕の、「永遠の欠落」。
 微笑んでいる。微笑んでいて、哀しげだった。

「ごめんね」
「いいえ……昔、その……いっぱいご迷惑かけましたから」
 彼女は俯く。
「迷惑、なんて」
「いえ。迷惑、だったでしょう?」
「……」

 僕たちは微笑みながら、でも、お互いに俯いて、視線を交わせない。でも、彼女が言う。
 それが呼び出した責任だとでもいうように。

「迷惑じゃなかった、と言えば嘘になるね」
「……ですよね」
「でも、迷惑、という言葉は、ちょっと違うの」
「……?」
「つらかったの。あなたの気持ちが」
「え?」

 また、沈黙。
 顔を上げる。
 見詰める先に、変わらずにそこにあるもの。
 ああ、僕は。

「ごめんなさい」
「何が、ですか」
「わたしたち……いえ、わたし」
「はい」
「わたし、嘘をついた」
「え?」
「わたしね、あの、大晦日の日、嘘をついた」
「……」
「先輩と付き合うことにした、アレ、嘘だった」
「は……」
「ねえ、知ってる? それだけじゃない」
「……何を、ですか?」
「有名だったのよ、あのサークルで」
「……はあ」
「木戸は可哀想なくらいリンゴに夢中なのに、リンゴは冷たいって」
「いや、それは……」
「ううん。それは正確じゃない」

 彼女は、く、と唇を噛んだ。妙な沈黙。そして、少しだけ皮肉っぽく微笑しながら首を振って、顔を上げた。

「……」
「……そう……そうね、リンゴが中年の医者のオジサンと不倫してるのも知らないで、追っかけてる木戸は可哀想だって」
「……は」
「事情を知ってた先輩がね、言ったの。『お前に言えない事情があるのは知ってる。でも、それを知らずにお前に惚れきってる木戸があまりに間抜けであわれだ。いい加減引導を渡してやれ、協力する。お前のためじゃない、木戸のためだ』って」
「はあ……」
「それで、あんな風に」
「……はあ」
「だから……ごめんなさい」

 彼女は深く頭を下げた。僕はそのつむじを呆然と眺めていた。
 はあ、そういうことだったのか、と思った。
 そんな芝居のせいで、自分は全てを捨てたのだ。
 全てを断ち切って、他人に友情や恋愛を期待せずに、孤独に生きてきたのだ。
 すこし指先がしびれているような気がした。でも、それだけだった。
 その程度のことだった。
 僕は、笑った。

「ごめんなさい」
「い、いや、大丈夫。大丈夫です。頭を上げてください」
「でも」
「本当に。大丈夫です」
「……」
「頭を上げて」

 彼女はそのことばに、恐る恐るのぞきこむように顔を上げた。瞳が震えていた。

「僕を、見て下さい。大丈夫です」
「……」
「そんなことでしたか。不倫なんて、よくあることじゃないですか」
「……」
「それだけの、たった、それだけのことじゃないですか。だいたいあんなに勝手に舞い上がってた僕も悪いし……」
「……でも」
「はい」
「だけど、言えなかった。……知ってる?」
「なんですか?」
「あなた、とても嬉しい言葉をいくつもくれたの」
「え? そうですか?……何、言いました? 僕」
「もう、言われたわたしが自分で口にするのも照れくさいような、でも、とても嬉しい言葉を。いくつも」
「……」
「だから、内緒。それは、墓の中まで持って行く」
「……はあ」
「でも、だから、その言葉に相応しくない自分が、つらかった」
「……」
「あなたが美しい言葉を発するたびに、わたしは、嬉しくて、哀しくて、傷ついた」
「……」
「そして、同じくらい、その言葉を発した心を、傷つけたくなかった。汚したくなかった」
「……」
「つごうのいい話だけれど」
「……はあ」
「本当に。多分……本当に」
「……いや、まあ」

 まあ、何を言われても、だ。
 時間は過ぎ、物事は移りゆき、僕という人間も変わった。
 どんな謝罪の言葉も、どんな心から発されているかなど、わからない……と考えてしまうくらいには。
 僕がどんな美しい言葉を過去に並べたかは憶えていないが、でも、僕にはわかる。そこにワガママ勝手な、恋のような、恋のフリをした、衝動しかなかったことを。
 だから、今、彼女が、ただ、自分を守ろうとして、そんな打ち明け話をしていないとは限らない、と僕は想う。思ってしまう。
 でも、いいのだ、それで。
 人間は本当のことなど言えない。何万、何億言葉を費やしても、そこからこぼれ落ちるものがある。それをすくい取ることができなかったからと言って、それを嘘だ、不誠実だと、責めることはできない。
 だけど、だ。それを当たり前のものとして認められるようになった自分を、僕は寂しくて、哀しくて、可哀想だと思った。
 かつて、永遠に欠落して、僕に空いた穴。
 僕が、それにどれほど苦しみ、耐え、すべてを諦めてきたか。
 わかってる、それはかっこの悪い自己憐憫だ。
 僕は、少し投げやりになる自分を感じた。
 うん、永遠だと思ったソレは、いまや、どうでもいいことだ。
 いや、それは深い森の奥の古い枯れた井戸のように、普段思い出されることもない。
 なんてことない。どうでもいい。
 もし、僕がそこからまだ痛みを汲み出せるとしても、それは、もう僕という人間を、変えてしまうほどのものでは決してないのだ。
 ……でも、ふと、思う。
 あの日の彼女のカタチをした欠落は、いまこの現在の彼女というピースで、埋めることができるのだろうか? 
 目の前で感傷的に震える「ドラマ」に僕は訊いた。

「そんなことより、もう、歌ってないんですか? それこそプロになれるくらい上手かったのに」

 彼女は、少し微笑むと、首を振った。

「実は、わたし、歌うの好きじゃなかったの」
「え? そうなんですか? あんなに林檎そのものみたいに歌えるのに?」
「だから」
「え?」
「そっくりだから。そっくりにしか歌えないから」
「……ああ」
「わかる?」
「……まあ、なんとなく」
「イミテーションにしかなれないものね」
「……」
「あの時の、わたしの恋みたいに。いまの、わたしみたいに」

 くそ、「切なくて、苦くて、良い思い出」か! 勝手にやってくれ。

 だが。
 だけど。

「僕は、それでも、好きになりましたよ。たとえ事情を知ってても」
「……」
「あなたがニセモノだというその歌を、僕は、それでも、聴きたいと思ったはずです」
「……」
「僕は、そのために、全てを失っても良かった」
「……」
「いえ」
「……」
「今でも」
「……」
「僕、結婚したんです」
「……」
「妻が、います」
「……」
「……」
「……」
「ステージがありますね」
「……」
「歌ってくれますか」

 彼女は、しばらく、僕を見詰め、そして、テーブルの上の僕の左手の甲に、そっと掌を重ねた。



 深夜に帰宅した僕を、妻は約束通り、「いっぱい」愛してくれた。
 その間中、頭の中に歌声が響いていた。もう、その声が「林檎」なのか「リンゴ」なのか、わからなかった。

「ねえ、次の作品さあ、今の仕事のこと書けば? 職業もの」
「あのなあ、だれが冴えない営業が夜呼び出されて、設定初期化してくるだけの仕事の話読みたいんだよ?」
「あ、そうかあ……やっぱ、医者とかかなあ、なんで医者にならなかったの?」
「馬鹿だから」
「そっかー、わたしもだった!」
「はは」
「あはは」
「っていうか、自分で書けよ、全部」
「えー? 書くっていったじゃん」
「やっぱ、ムリ。才能ない」
「うそつき! 別れる!」
「『えー? 捨てないでー!』」
「棒読み! でも、何があっても捨てないよ。だって、ユウジさん、わたしのラッキーチャームだから!」
「そうだったのか」
「そうだよ、特にここが」

 僕の「小さなお守り」を、今日はちょっと元気がないですねー、疲れてるんですかー? などとふざけながら妻が弄ぶのを、僕は苦笑しつつ眺めていた。

 美しいもの。
 僕に向けられる愛情。
 それが僕の汚れを照らす。
 自分を汚した自分を傷つける。
 同じ傷を負った肉の甘みが、舌に蘇る。
 その舌で、僕は「愛してる」と言う。
 なんども「愛してる」と言う。
 その「夢」にも乗り続けるために。 
 スマホが震える。
 いいの? と妻が訊く。
 僕は微笑んで、言う。

「トモダチだから、いいんだ」

<01 了 02へ続く>

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