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僕はハタチだったことがある #06【連載小説】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2014年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。


 

 僕は君のあの宣言に反発でもするように、結局本当に師匠に絵を習いに行こうと決めた。やれるときはやっておこうとも思ったからだ。
 電話すると、鉛筆と消しゴムとスケッチブックを用意する様に師匠は言った。ちょっと用事が重なっちゃって、と指定された日にまで少し間があった。少し気が急いたけれど、大丈夫、焦らなくていいから、と師匠は言った。
 貴句は実家に帰省した。最後の長い夏休みだからね、親孝行してくる、と貴句は微笑んだ。いなくなったらなったで寂しいような気がする自分が嫌だった。
 それもあって、僕は、春から始めていた週二、三回のペースのコンビニの深夜バイトのために暮らそうと決めた。
 ゆうきが電話をかけてきて、夏休みが取れそうだから、ばあちゃんたちの所へ一緒に行こう、と言った。僕は了承した。
 そんな風に僕の夏休みの予定は埋まっていった。君がどうしているのかなんて、全く想像がつかなかった。想像したくなかった。

 アルバイトから帰って泥のように眠り、目が覚めると、携帯に着信を示す表示があった。僕はその名前を見て、久々に嬉しい気分になった。僕は彼に早速電話し、会う約束をした。

 僕たちがかつて通った高校の職員玄関前で、その小柄な身体をぴんと伸ばしながら、セイゾーさんはもう待っていた。セイゾーさん、と声を掛けると、おお、久しぶり、とセイゾーさんは握手を求めてきた。僕も、その小さい手を握り返しながら、久しぶりです、と応えた。
 先生にはさっき会って許可とってあるんだ、とセイゾーさんは、何の遠慮も無く校舎へ足を踏み入れ、音楽室へと向かった。
 夏休みでも案外生徒はいて、校庭から、かけ声やバットの音が聞こえていた。
 あんなにいやだったのに、懐かしくなるもんだね、とセイゾーさんは呟いた。僕は黙って、窓から見える光に満ちた中庭に目をやった。ながらえば――と百人一首の歌が思い浮かんだりもした。

 音楽室に入るなり、ピアノの蓋を開けると、セイゾーさんは、新曲だ、と鍵盤を叩きはじめた。僕はパイプ椅子に腰掛けて、それを聞くことにした。

 セイゾーさん――新内静像しんないせいぞうは、僕の高校の先輩であり、同級生だった。
 矛盾しているようだが、何も不思議なことは無い、彼は出席日数が足りなくて、一度三年生になりそこねただけの話だった。
 病気だった、と噂では聞いていた。でも、体育の授業も普通に参加していたし、少なくとも病弱という印象は無かった。
 ただ、留年した彼は、皆からどことなく距離を置かれていて、休み時間でも一人で黙って席に座っていることが多かった。僕にしたって、彼に話しかけようとはしなかった。
 僕たちは教室特有の微妙なバランスの中で、いつも「その他大勢」だった。誰かと話をするのにも、全体の承認がいるような、そんな雰囲気がある中で、わざわざ平穏を失うリスクを取ろうとは思えなかった。
 そんな僕たちがどうやって卒業後も会うような関係になったかというのには、ちょっとした経緯がある。
 恥ずかしい話だ。僕は、「ポエム」を書いていたんだ。それも、届かない恋心、みたいなやつだ。例えば、こんな風な。

君ばかり見て僕はいるよ
永くそこに空けてる場所が
僕のためじゃないこと
ちゃんと気付いているけど
強くなるただそれだけが
何よりも難しい
きっと手をのばせば 壊れそうな気がする
僕は今日もここを動けない
話す言葉すべて 歌う詩(うた)もすべて
ほんとはひとつしか意味が無い
痛いよ 痛いよ

 誰の事を想って書いたかなんて、もう言わなくていいだろう。
 出来に関しても、何も言わないで欲しい。
 ただ当時の僕にはそうやって詞にでもしなければいられない切実な感情があった。似たような言葉で、同じような内容のポエムをノートに書きためていた自分の事を、最近になってようやくかわいらしくも思う様になったけれど、当時の僕は、自分で書きながら、そういうことをとても恥ずかしい事だと認識していた。だから、誰に見せるつもりも無かった。
 しかし、僕は痛恨のミスをした。そのノートを学校に持っていき、加えて、それを置きっ放しの教科書やなんかと一緒に机に忘れてきたのだ。
 次の日学校に行った僕はひどいものを目にする。
 黒板に僕の詞が書かれてあった。
 「痛いよ、痛いよ」の部分が太字で、赤と黄色のチョークで、強調されていた。
 僕は慌ててそれを消そうとした。すると誰が言ったかわからないけれど、背中で、「いたいよぉ」と声がし、それにつられて爆笑が起きた。僕の胸がそれこそ痛かった。顔が青ざめているのに熱くなり、あげられなかった。矢鱈目ったら黒板消しを動かして、僕は席に着いた。
 皆が自分をあざ笑っているような気がした。教室は正体不明の悪意に充ち満ちている感じがした。授業中も、休み時間も、僕は縮こまって息を潜めていた。
 なんて時間が経つのが遅かったことだろう。僕は終業のチャイムが鳴ると同時に立ち上がり、逃げ帰ろうとした。
 でも、その時、僕を呼び止める声がした。
 僕は竦んだ。こう訊かれた。
「あの朝の黒板の詞、君が作ったの?」
「いえ」僕は否定した。
「でも、君が消した」
「はい」
「君なんだろ?」
「……はい」
「ちょっと、音楽室まで、付き合ってよ」
 僕はその声の主の顔も見ず、よろよろと仕方無く後について行った。彼は二、三度咳払いをし、ピアノを鳴らした。その時に至っても、僕は何かされるのではないか、と怯えていた。
 でも違った。
 彼は、歌った。
 僕の詞にメロディがついていた。
 僕は自分に語彙が多くないのを少し悔しく思う。上手く表現できないが、それは、甘く、切なく、美しいメロディだった。
 僕は呆然と聴いていた。歌が上手いとは言いがたかったけれど、ピアノは確かなものに聞こえた。痛いよ、痛いよ、と彼は歌い終わり、僕にチャーミングな笑顔を向けた。僕はその笑顔が自分をあざけるものではないとすぐにわかった。
 どう? と彼は訊いた。はい、としか応えられなかった。
「勝手に曲つけちゃったんだけど、良かったかな?」と彼は言った。
「はい」
「きっとこんな感じの曲だなって思ったんだ」
「はい」
 きっと、――とか、――とか、聴くんだよね? と彼は僕の好きなアーティストの名前を挙げた。僕は、何度も頷いた。
「俺も歌詞は書くんだけど、どうしても恋愛ものが書けないんだ。ちょっとわからないんだよね。なんていうか、人を切なく想う気持ちがわからないっていうか、ナイーブさがないっていうか、繊細さが言葉にならないっていうか……まあ、むいてないってことだよね」
「でも、曲は作るんですね」
「うん、作るよ。でも、今のこの曲みたいな良いメロディは滅多にできない」
 黒板の詞を見て、びびっと来たんだ、ピアノアレンジには授業時間全部使ったけど、と彼はピアノで和音を鳴らした。
「僕の書いた詞は、こんなうただったんだって、初めて気付きました」
 いいね、褒め言葉だね、と彼は満足げに言うと、サビとなる部分をもう一度歌った。そして、「痛いよ」の部分のところで、僕に笑いかけると、「好きだよ、好きだよ」と言葉を換えた。
 それから、こっちの方がいいんじゃないかな? どう思う? と訊いた。僕に異存は無かった。
 よし、決まり、と彼は立ち上がり、僕に近寄ると手を差し出した。
「シップへようこそ」
「船、ですか?」
「ああ、違う違う。“サイレントイメージプロジェクト”、頭文字でシップ。音楽をする時の、格好つけた名前だよ。まあ、今の所ひとりで勝手に名乗ってるだけだけど。でも、これからは君が作詞家として参加するんだ。するよね?」
 僕は少し躊躇した。でも、彼の曇りの無い確信に満ちた顔を見て、僕は思わず頷いてしまった。彼はさらに手を伸ばした。僕はそれを握った。
「相馬君、だったね」彼は言った。
「新内さん、でしたね」僕も言った。
「セイゾーでいいよ」
「セイゾーさん、じゃあ、僕も“聡太”で」
 強い握手を交わした後、セイゾーさんはまたその曲を歌った。何度も繰り返して。
 僕は朝からの自分が夢だったみたいな気がして、すっかり暗くなってセイゾーさんがやめるまで、ずっとそれを聴いていた。
 それ以来、少なくとも僕にとって、セイゾーさんは無二の親友になった。

 ピアノから指を離すと、どう思う? とセイゾーさんは訊いた。良い曲だと思います、と僕は応えた。
「いや、だから、例えばフラジャイルに比べてさ」
 フラジャイルとは、僕たちのきっかけになったあの曲のことだ。僕は口に手を当てて、首を傾げた。
「そんな難しいことじゃなくさ、単純にどっちが好きか、ってことなんだけど」とセイゾーさんは言った。
 僕は尚更困った。あの曲は特別過ぎるくらい特別だった。
 素直に言えば、あの曲の方が好きだった。でも、セイゾーさんが折角作った新曲を否定するようなことはしたくなかった。
 セイゾーさんは、いや、わかってるんだよ、といつものさっぱりした調子で言った。
「あの曲の方が良いんだ。それは作ってる自分でもわかる」
「いえ、今の曲も良かったですよ」
「でも、越えてない」
 セイゾーさんは少し俯くと、あの曲ができた時には天才になれた気がしたんだけどなあ、と呟いた。
「ま、いいか。どんな作曲家だって、名曲ばかりを書いたわけじゃない」
 そう言うと、セイゾーさんは足下に置いてあった鞄から、カセットテープを取り出し、僕に差し出した。
「この一年で書きためた曲、聡太君に合いそうな曲が、今のも含めて五曲入ってる。歌詞頼むよ」
「ええ、良いですけど……」
「けど?」
「歌うんですよね? 人前で」
 セイゾーさんは東京の大学の音楽サークルにいた。当然ライブもする。
 確かにあの曲によって解放された部分が僕にもあったとは思うけれど、世間で流れる音楽の歌詞に比べて、自分の書いた詞が劣っているのもわかっているつもりだった。そんな詞が人に聴かれるということに僕はまだ馴染めずにいた。
 あの教室の爆笑が僕にはまだ聞こえていた。歌詞を書くということは、それと何度も対峙しなければならないということだった。僕はそれが怖かった。
 歌うさ、とセイゾーさんは言った。
「俺は聡太君の詞が好きだし、良いと思う。良いと思うものは、皆に聴かせたいし、皆と一緒に楽しみたい。ダメかい?」
「いえ、まあ、でも……なんというか、曲に釣り合ってないというか……」
 まだ、聡太君は自信が持てないんだなあ、とセイゾーさんは頭を掻いた。そして僕に向き直って、こう考えようよ、と言った。
「四十人弱のクラスの中の一人が君の詞を気に入った。
 それは俺だけどね。
 たった一人としか君は思えないかも知れない。
 でも四十人の内の一人が認めたってことは、八十人ならもう一人気に入る人がいるかも知れないってことだ。ちょっと控えめにして、百人に二人でも良い。
 そうすると、千人なら二十人、一万人なら二百人、十万人なら二千人、ずーっと飛ばして、一億人なら二百万人いるってことだよ? 
 ダブルミリオンじゃないか。半分に見積もったって、ミリオン確実だぜ? 
 それでも、残りの大多数が怖いかい? 百万人が良いと言っても、自分のことを釣り合わないと思うかい?
 俺という一人は、百万人に支持されるかも知れない可能性のある、そういう一人なんだよ」
 僕はセイゾーさんをまじまじと見詰めた。何の疑いも無い目をしていた。僕は半ば呆れ、半ば感心しながら、溜息をついた。
「どこまでも前向きなんですね、セイゾーさんは。ねえ、もしかしたら、一億人中のたった一人がセイゾーさんだったかもしれないじゃないですか」
 あ、ばれた? とセイゾーさんは少し舌を出した。そりゃわかりますよ、と僕は言った。
「うん。そうかも知れない。だから俺は本当は誰にも支持されなくたって、曲を作るし、演奏することをやめないんだ。俺にとってこれ以上楽しいことはないからね」
 セイゾーさんは本当に楽しそうに笑った。何だか僕も楽しくなって、締め切りが無いなら、という条件で詞の件は引き受けた。

 その後になって、ようやく僕たちは近況を報告し合った。帰省してきた実家では出来の良いお兄さんと比べられて肩身が狭いことや、大学の勉強がちんぷんかんぷんなこと、警備のアルバイトは退屈だけど頭の中で曲を作るには悪くないこと、などをセイゾーさんは話してくれた。
 モテてもいたらしい。女出入りも激しかったようだ。最短三日で二人ってことがあったなあ、と何の悪気も無さそうにセイゾーさんは言った。
 そして、本当に恋愛がわからないんだ、とぼやいた。
 帰り際、セイゾーさんは「まだ、つらい恋をしてるの?」と訊いた。
「僕、そんなこと話しましたっけ?」と僕は訊き返した。
「いや、フラジャイルはそういう詞だったからさ」とセイゾーさんは言った。
「それは……フィクションですから、作り物ですから、恋に恋する乙女ですから」
 冗談で誤魔化そうとした僕の頬は熱くなった。セイゾーさんは上目使いに僕を見ると、にやりと笑った。それから、帰省中また会えたら会おうと約束して、僕たちは別れた。
 つらい恋、と僕は思った。そして、愕然とした。それは、一体どの恋のことなのか、自分でもわからなくなっていたからだった。



 数日後、僕が小脇に抱えたスケッチブックの感触をどことなく決まり悪く感じながら吹き抜けの階段を降りた時も、師匠の店には客がいなかった。
 いらっしゃい、今、店閉めるから、と師匠は例の声で言った。僕が、お言葉に甘えてきちゃいました、お願いします、と言うと、師匠はこっくりと頷いて、我流だからあまり期待されても困るけれど、と微笑した。
 夜は十時になろうとしていた。そういう指定だった。閉店後ってだけじゃなくて、光源が電灯しかなくなるから、初心者にはその方がいいのよ、と師匠は電話で言っていた。
 僕は促されるままテーブルの席に座った。師匠は階段と店を区切るガラスのアコーディオンドアを閉め切ると、カウンター奥のバックルームに回り、スイッチを切り替え、ライトを僕のいるところだけにした。
 背中にぽっかり闇が出来た。
 僕がテーブルにスケッチブックをそっと乗せると、鉛筆も持ってきた? とバックルームから布張りのトルソーと画板を抱えて出て来た師匠は訊いた。僕は頷き、鞄からまだ削ってないステッドラーの様々な硬さの鉛筆数本と消しゴムを取り出して、スケッチブックの横に並べた。カッターは? と師匠は訊いた。言われませんでしたけど、と僕が応えると、あら、そう? じゃあ、貸すわ、と言って、カッターを僕に手渡した。
 何に使うんですか? と僕はマヌケな質問をした。鉛筆を削るに決まってるでしょう? と師匠は可笑しそうに言った。鉛筆削りを使うんじゃないんですか? と僕が更に訊くと、そうねえ、あたしはデッサンの時は普通使わないわねえ、と応えた。
 僕は何だか自分がものすごく無知であるような気がして、身体を縮こまらせた。ただの心の準備みたいなものよ、あら、緊張させちゃったかしら、と師匠は言い、大丈夫、誰にでも知らないことはあるから、と僕を励ました。
 そして、僕の隣に椅子を寄せて座り、画板を伏せて置いた。そんな動作が、どこか優雅に感じた。じゃあ、先生、まず、あたしが昔描いたもの見て貰おうかしら、と師匠は言った。僕は苦いものを感じた。
「あの、『先生』は、やめましょうよ。僕は年下だし、今は寧ろ僕が生徒なんだから」
「あら、『先生』って良い呼び方だと思わない? あたしは好きだけど」
「僕は良い先生では無かったし、だからこそ余計こそばゆいです」
「じゃあ、何て呼ぼうかしら、相馬さん? 相馬君? 聡太さん、聡太君、相馬、聡太……」
 いやいや、と師匠は首を振った。
「やっぱり先生が良い、落ち着くもの」
 僕はわざと顔をしかめてみせて、じゃあ僕もあなたのことを先生と呼びます、と言った。お好きにどうぞ、と師匠は微笑み、じゃあ、改めて見て貰おうかしら、と画板を裏返した。
 僕は息を呑んだ。やっぱり僕は自分の表現力の無さを恥じながら言うけれど、迫力があった。クラスメート達の描いたものを僕はモニタ上でたくさん見ていた。
 でも、そのデッサンにはそれらにはないものがあった。
 ギリシア神話の女神を写し取ったものだとは後になって知り、写真でその胸像も見た。僕の見る限り、確かに正確に描かれていたけれど、正確なだけじゃない、例えば好きなミュージシャンのCD音源しか聞いたことの無かった人がライブに行って初めて感じる息づかい、空気、感覚、といったようなものが、光と陰に転じてそこにはあるような気がした。
 それがデッサンというものに対する褒め言葉になっているのかどうかわからない。けれど、僕はとにかく圧倒された。容易に口にできる言葉を見つけられなかった。
 師匠はずっと微笑んでいた。そして、まあ、だいたいこういうことなのよ、もっと良い手本を借りてこられればいいんだけど、ちょっと都合が付かなくてあたしので間に合わせてもらっちゃった、と言った。
 僕は、これは無理です、と無意識に首を振っていた。
 ん? と師匠は僕の顔を見た。
「こんなの、絶対に描けません」
 師匠はいっそう微笑んで、そりゃあ今日始めた人がいきなりこれを描けたら、世の中の絵描きは皆首吊るわ、冗談だけど、と言った。僕はぎくしゃくと師匠に顔を向けた。
「僕も死にそうです」
「この程度で死ぬんなら、美術館に行ったら五趣六道を何回巡ることになるかわからないわね」
 ねえ、と師匠は僕の肩に手を置いた。
「よく覚えていて。よく見てね。あなたは必ずここまで辿り着く。
 すぐにとは言えない。もしかしたら五十年後かも知れない。
 でも、この程度なら、必ず描けるようになる。やめなければ、ああ、あの人はあまり上手くなかったなあ、とか、逆に、でもこんなところがすごかったなあ、と思える日がきっと来る。
 そのために、まずは鉛筆を削るところから始めましょう」
 僕は猫の舌が舐め上げるかのような声に催眠術でもかけられたかのごとく、知らずに鉛筆とカッターを持ち上げていた。

 鉛筆の芯の出し方も、その持ち方も、姿勢やスケッチブックの置き方すら、僕はその時まで知らなかった。まるでずぶの素人相手に、今なら「ググれ」で済まされそうなことにも、師匠は苛立つ素振りを全く見せなかった。随分時間がかかった。
 そして、用意が済むと、描きやすい光と陰ができるようにトルソーを配置して、じゃあ、これを描きましょうか、と師匠は言った。
 師匠は指と鉛筆を使って、比率を測る方法を教えてくれた。それを基に僕はおそるおそる紙にアタリをつけた。
 でも、その後、どうしても僕は描き始めることができなかった。鉛筆を持ったまま動けなくなっている僕を見て、師匠はカウンターへ行き、グラスと何か酒のボトルを持ってきた。
 僕は、描けません、と情けない声で言った。
 師匠は、ボトルから琥珀色の液体を注いで、僕にグラスを差し出した。
「じゃあ、違う紙に、何でも良いから、好きな絵を描いてみて、これを飲みながら」
 僕はグラスに口を恐る恐る何度か口をつけ、最後に一気に飲み干した。ふわあと頭が膨張したような気がした。それでも手が動かなかった。
 好きな絵? それが僕にはわからなかった。
 師匠は空いたグラスにまた注いで、こう言った。
「先生の場合、絵だと思うから、描けないのね、じゃあこうしましょう、この紙の端から端まで横棒を引きましょう。ゆっくりでも早くでもなく、下手でもいいから、出来るだけ丁寧に、ちゃんと配置や間隔にも気を遣って。そう、お話でもしながら」
 師匠は脚を組み、ゆったりとした構えで、僕を見据えた。僕は線を引き始めた。手が震えた。上手く引けなかった。
 こんな線コンピューターなら一瞬だな、と頭のどこかが言った。
 でも、そういうことではないのは僕にだってわかっていた。僕は鉛筆を汗ばむ手で握り直した。師匠は、何の前触れも無く、言った。
「茜ちゃんもね、閉店後にここに何度か来てたのよ。用事っていうのは、だから、茜ちゃんのこと」
「へえ、お元気でしたか?」
「元気、あきれるくらい」
「そりゃよかった」
「やっぱり簡単だったわ」
「はい?」
「だから、可愛がってあげたの」
「えーと……つまり?」
「つまり、そういうことよ、わかるでしょ?」
 僕にとって衝撃の告白だった。僕は思わず師匠の顔を見た。からかってるでも嘘をついているでもなさそうな表情だった。手を止めないで、と師匠は言った。
「カウンターに乗せてね、キスをして、触って、指で、舌で、言葉で、いじめてあげた」
 ここでも、と師匠はテーブルに指を置いた。
「ここでも、イカせてあげた。悶えてたのよ、あえいでいたの、ここで、女が、裸で、それも女を相手に、毎日のように」
 はあ、と声を返したけれど、それは掠れて消えた。
 僕は喉がやたら渇いて、グラスに鉛筆を持ったまま手を伸ばし、また一気に流し込んだ。
 僕はどぎまぎしながら、線を引き続けた。丁寧に、と僕は自分に言い聞かせた。
「ねえ、自分がイカせた女が、あんな顔して欲しがる女が、今日もどこかで真面目な顔して生きてると思うと、なんだかゾクゾクしない? 先生はそういうことない?」
「その、僕には、わかりません」
「あら、わかってると思ったのに」
「僕は、その、恥ずかしいですけど、まだ、女の人を知りません」
「まあ」
「すみません」
「なら、なおのこと、茜ちゃんを誘ってみると良いわ。きっとあの子も喜ぶ、先生も大人になれる、誰も傷つかない。なんならあたしが誘導してあげてもいい」
「いや、やめときます」
「どうして? あの怖い女の子が気になる?」
「そういうんじゃないんです。むこうにはカレシもいます。僕にも、身体はまだですけど、カノジョがいます」
「でも、どう見ても、先生のこと好きよね。というより執着かしら?」
「迷惑ですね」
「嘘、ね。それとも余裕? やっぱり、何かあったのね」
「特にありません」
「それも嘘。先生、嘘をつく時、少し身体が右に傾くから、すぐわかる」
「ええ?」
「あの子のこと好き?」
「だから、気にしてません」
「嘘」
「嘘じゃないです」
「秘密でも握られてるとか」
「いいえ」
「ほら、また嘘をついた」
 ちらと見た変わらぬ微笑みの中に鋭く目が光っていた。言葉が止ったのに、その声の余韻がどうしようもなく僕の感情を逆立て続けた。
 頭で、指で、腹の底で、血がどくどくと流れていた。そして、それが噴き出していきそうに感じた。
 静寂の後、師匠はまた言った。
「本当は?」
「ええ、そうですよ、問題ありますか?」
 心拍がその言葉を押し出した。それが何を意味するかなんて、僕は考えていなかった。
 ただ、次の瞬間、身体に閉じ込められていた何かが指先から鉛筆に流れ通い、黒の液体になってこぼれ落ちた。そして、幾筋も、幾筋も、紙の終わりまで、それは増殖していった。

 僕は、鉛筆を置いた。ぐったりと身体が重かった。まるで、激しい射精でもしたかのような疲労だった。僕は椅子の上でだらりとなった。
 師匠は、見せて、と言った。僕は、スケッチブックを差し出した。師匠はそれを嬉しそうに眺めた。そして、良い出来ね、と言った。特に最後の一本が素晴らしい、と目を細めた。
「そうねえ、題名は『緊張、驚き、欲情、羞恥、嘘、怒り、真実』ってところかしら? そのままだけど」
 師匠は僕を見て、今の感じ憶えていてね、と言った。僕はただ頷いた。

 その日のレッスンはそれで終わった。多分これ以上は無理だから、と師匠は言った。結局鉛筆だって道具なんだから、使い慣れないとダメなのよ、線を引かせるのにはそういう意味もあったの、とも言った。
 残りの始発までの時間、僕は何も言わず、ただ自分の描いた線を不思議な気分で眺めていた。いい仕事ができたらね、それを眺めているだけで、美味しいお酒が飲めるわ、と師匠は言った。これを描けたら、乾杯しましょうね、とトルソーのラインを指でなぞった。つまり、僕の「線」はまだそこまでじゃなかった。
 でも、何かは掴めたような気がした。「絵を描く」という言葉が、僕を縛っていた。師匠は、何の関係も無い、しかし衝撃的な会話することで、そこから僕を自由にした。
 帰り際、僕は、安田茜とのことが本当なのか、訊いてみた。やっぱり茜ちゃんとしてみたい? お願いしてみようか? と師匠ははぐらかした。僕は、にやりと笑った。
「いや、いいです。それにお願いするなら、『師匠』のほうが好みです」
 まあ、と師匠は楽しそうに口を抑えた。そして、線を描く練習を忘れないでね、と僕を早朝の街に送り出した。



 更に数日後、ゆうきと琴子と僕は、JRの特急で、父親とゆうきの実家のある港街へと向かった。
 ゆうきはホームで、あたし、列車って嫌いなんだよね、動けないし、時間掛かるし、揺れてるし、それにあの独特のニオイ、酔っ払っちゃう、おまけに隣の知らないオジサンとか身体寄せてくることあるし、とずっと文句を言っていた。
 じゃあ、歩けよ、と僕が憎まれ口をきくと、ゆうきは、お前がさっさと免許を取れば良いんだ、と僕の頭を小突いた。僕が肩を押し返すと、またゆうきが僕の頭を、さっきより強く叩いた。そして軽い暴力の応酬になった。
 僕たちは乗り込む寸前までそんなことをし合っていたが、最後は琴子に、いい加減になさい、とたしなめられた。
「知らないオジサン」と並ばなくてもいいように窓際にゆうき、その隣には琴子を座らせ、僕はその反対の通路側に、知らない老婆と並んで座った。
 ちょうど昼時で、僕たちは乗り込んですぐ、琴子の作った弁当を広げた。食べやすい様にと、カツやハムとチーズや玉子サラダを巻いたロールサンドと小さめの色とりどりの俵型おむすびを中心に、しいたけの肉詰めやからあげやプチトマトにピックの刺してあるものが詰まっていた。
 どれも僕の好物だった。隣の老婆が「まあ、カワイイお弁当」と僕の弁当箱を覗いて言った。僕が、おひとついかがですか、と言うと、老婆は喜んでロールサンドに手を伸ばした。「あら、とてもおいしい」と笑顔になった老婆を見て、僕も何だか嬉しくなった。
 そして、何の気無しに、カツロールサンドを口に入れようとして、ふとその手が止まった。改めて弁当を見詰めた。琴子が、どうしたの? 髪の毛でも入っていた? と不安そうに“笑顔で”僕を見た。
 君の話を思い出していた。僕はこういうものをあたりまえに思っていた。それ以外の可能性など想像もしなかった。仮にも母親があんなことをする。一方で、全くの他人がこんなに労力(と、きっと愛情)を注いでくれる。その対比に胸のどこかがじりっと痛んだ。
 琴子が僕を見ていた。僕は慌てて、いや、違うんだ、あまりにおいしそうなんで消えちゃう前によく見ようと思ったんだ、と言った。なあに、それ、と首を傾げて、琴子は自分の分のおむすびを口に入れた。
 僕は、その横顔に、ありがとう、と言った。琴子はおむすびに噛みついたまま驚いて僕を見た。そして、むせたようにして、どうしちゃったの? と大きく首を振って僕とゆうきを交互に見た。
 本当にありがたく思ってる、と僕は言った。ええ? と琴子は泣きそうな目になって、でも“笑って”いた。
 聡ちゃん、どうしちゃったんだろう、と琴子はゆうきの肩を揺らした。一人暮らししてようやくありがたみがわかったんだろうさ、とゆうきは窓の外に目をやったまま言った。
 複雑な思いで食べた弁当は、それでもやはり、美味かった。

 ばあちゃんは、いきなり抱きついてきた。あらあら大きくなって、と嬉しそうだった。僕は、正月に会ったばかりじゃないか、と言った。男子三日会わざれば、っていうじゃない? 精神的な話よ、とばあちゃんはまた僕を抱き締めた。
 琴子が、すみません、また来ちゃいました、とおみやげを渡すと、いいのよ、琴子ちゃんはもううちの娘みたいなものだもの、と笑い、ゆうきが、ただいま、と言うと、あら、どちらさま? ととぼけて、また僕の顔を見た。
「聡太、何食べる? 美味しい和菓子あるよ、ケーキもあるし、モンブランだったよね、モンブランも今は色々種類があるのね、全部買ってきたわ、そうそう今晩、良い肉も買って来たからすき焼きよ、神戸牛、グラム三千二百円、すごいでしょ? それともお魚が良い? 海老もたくさんあるから刺身で食べよう? 好きでしょ? どうする? とりあえず、お茶? コーヒー? そうだ、疲れてるでしょ、お風呂わかそうか?」
「うん、とりあえず今はいいよ、晩飯楽しみにする」
 それをじっとりと見ていたゆうきが、毎度毎度、何、この差は? とぼやくと、ばあちゃんが、命短し、相馬の男なんだから、価値が全然違うわ、精一杯大事にするわよ、女はほっといても長生きする、とつっけんどんに言った。僕は微妙な気分になった。
 あ、そうそう、ひいばあも聡太に会うの楽しみにしてたのよ、挨拶してきて、とばあちゃんは言った。どう? ばあちゃん、とゆうきが訊いた。大丈夫、あちこち関節痛がったりするけど全然健康、それより最近ぼけたフリすること覚えて困ってるわ、とばあちゃんはうんざりした顔を作った。

 襖を開けて、ひいばあ、聡太です、と声を掛けると、ひいばあちゃんは、おお、来たか、入れ、入れ、と言った。僕はあぐらをかいて、ひいばあに向かい合った。
 ひいばあは僕の顔をじっと見た。そして、生きてるな、としわがれた声で言った。はあ、何とか、と僕は応えた。
 ひいばあは短い銀色のキセルの火口にゴールデンバットを立てて火を点け、深く吸い込み、煙を吐き出しながら言った。
「子供はできたか?」
「まだ学生です」
「そうだったか」
「はい」
「女は済ませたか?」
「いえ、残念ながら」
「早くしろ」
「はい……善処します」
「仕事を持ってる女にしろ」
「はい?」
「そうすりゃ、一人でも子供を育てられる」
「……はい」
「光太郎は女も早かった」
「はあ」
「いつも違う女を連れてきた」
「はあ」
「それで、あんなことに」
「はあ?」
「まあいい、生きてりゃ良い」
 ひいばあは手で僕を追い払う仕草をした。僕が立ち上がって、部屋を出ようとすると、ひいばあは、ところで、名前は何と言ったかな、と言った。これがフリか、と僕はにやりと笑って、聡太です、と言った。

 夕食は楽しかった。ばあちゃんがぴったり僕の横に座って、箸一つ動かすのにも世話を焼こうとしたのが少しうっとうしかったけれど、肉はちゃんとグラム三千二百円分の価値を舌の上で表現したし、海老の刺身もぷりぷりとして甘かった。
 やっぱりこっちの海のものは近所のスーパーと違うわ、と琴子は箸に挟んだ海老をうっとりと見て言った。あら、じゃあ皆で引越して来ればいいのよ、とばあちゃんは言った。仕事があるんだよ、とゆうきが応えると、誰があんたもって言ったのよ、あんたが寮のある高校に入ってくれた時はせいせいしたわ、もう戻って来なくて良い、とばあちゃんは舌を出した。ゆうきはふて腐れたように、ちっと舌打ちをした。

 夕食後、後片付けを引き受けて食器を洗う琴子の後ろになんとなく立ち、その背中を見ていた。なあに? 何見てるの? と琴子は言った。なんとなく、と僕は応えた。
「琴子さあ……」
「なあに?」
「結婚、しないの?」
「どうしたの? 突然」
「いや、なんとなく。っていうか、僕とかゆうきの世話をするために、結婚しないのかなって。だとしたら、悪いなと思ってさ」
 あはは、ゆうきと違ってモテないのよ、あたし、と琴子は皿を水切りかごに置いた。
 琴子のことだから、気付いてないだけじゃないの? と僕は言った。にぶいからねえ、あたし、と琴子は笑った。でも、本当に、モテないのよ、とさして気にしている風でも無く、付け足した。
「それにね」と琴子は言った「小さい時の聡ちゃん、本当に可愛かった。やんちゃで、甘えん坊で。あたし、なんか、どきゅんと来ちゃったの。ああ、この子が育っていくのを見たいって。きっとそうなったら嬉しいって。本当にそうだった。だから、あんまりにも幸せで、結婚とかなんて、考えたことなかったなあ」
 その弾んだように皿を洗う、程良い肉付きの背中を見て、少し、目が潤んだ。僕がまだ子供だったら、飛びついてしまったかも知れない。
 僕は胸の中がぐうっと熱くなるのをどう表現して良いのかわからなくて、天井を見上げた。そして、ありがとう、と言った。ええ? と琴子はびっくりした様に顔をこちらに向けた。
「なんか、今日変だわ、聡ちゃん」
「僕は、大きくなったよ」
「うん。嬉しい」
「もう、自分の事を考える時期なんじゃないかな?」
「うん。考えようかな」
「そうだよ」
「そうかもしれないわね」
 僕はふと思い出して、師匠のあの話を聞いて以来、うっすら気になり始めていたことを訊くことにした。
「あのさ」
「なあに?」
「ゆうきと琴子って、実は夫婦なの?」
「そういう感じかもしれないわねえ、確かに」
「いや、そういうニュアンスじゃなくてさ、その……恋人っていうか、せ、性的にっていうか……何言ってんだろう、僕」
 琴子の動きが、少し止まり、ああ、と声がした。
「どうなの?」僕はまた訊いた。
「いやあねえ、そんな風に思ってたの?」
 琴子は振り向いて僕を見詰めた。笑っていた。
「そういうのは、ありません」
 ごめん、変な事訊いて、としどろもどろに僕が言うと、琴子は、そういうところも男の子なのかしらねえ、と呟いて、また食器洗いに戻った。
 ばあちゃんが、風呂が沸いたから入んなさい、と向こうから僕に呼びかけたのをいいことに、僕はその場を離れた。
 僕が育つのを幸せだと琴子は言った。湯船につかりながら、僕はもっとその人を幸せにしたいと思った。

 次の日、僕たちは墓参りをした。僕はそれ程信仰心の厚い方ではないけれど、ばあちゃんやひいばあやゆうきや琴子が手を合わせているのを見て、何となく神妙な気分になった。
 もし、僕が三十まで生きられなかった時にも、こうして長生きの女達が自分を思い出しに来てくれるだろうということに、何となく寂しいような、怖いような、でも頼もしいような不思議な思いがした。
 光太郎、お前の息子もハタチになった、生きてる時はろくな事しなかったけれど、死んでからくらいはちゃんと守ってやりなさい、とばあちゃんは墓石に向かって呟いた。あいつにそんなことできるかよ、とゆうきは言った。ちょっと厳しい目でゆうきを見たばあちゃんは、すぐに表情を緩めて、それもそうねえ、と溜息をついた。

 その後、僕たちはばあちゃんの家に帰り、特に何もせずに過ごした。ひまでどこかへ出ようかとも思ったが、観光しようにも、かつて栄えた港がある程度の、今はすっかりさびれた街に見るべきところは少なかった。
 スケッチブックと鉛筆を持ってくれば良かったと思った。勿論、線を引くだけなら、そこにあるものを借りることはできたのだけれど、何となく、何かをはがされて内臓が露出したような、あの時の感じが戻って来ないような気がした。
 僕は諦めて、ただごろごろと眠って過ごそうと決め、夕食の時間までそうした。
 夕食は寿司だった。特上を十人前取ったのよ、とばあちゃんは誇らしげに言った。僕は未だに「握りが云々」ということは理解できないし、その時もそうだったけれど、ネタに関してはちょっとそこらでは食べられない鮮度と質だったのはわかった。
 これも食べて、あれも食べて、とばあちゃんが急かすのに合わせて食べていると、僕はいつのまにか許容量を超えるほど満腹になって、横になったまま動けなくなった。
 ぼんやり天井を眺めていると、貴句や水谷に勧められてレンタルで見たアニメの「知らない天井だ」という台詞が思い浮かんだ。
 貴句はどうしているだろう、と思った。
 その思いは、いつか、貴句をどうしたらいいだろう、という自問に代わった。心が重くなった。
 重くなったこと自体が、その問いの答なような気がした。
 僕は、自分の手を見た。
 いつか、貴句の胸に触れた手だった。
 その手が、汚かった。
 君が絡め取った指が、かすかに、動いていた。



 ふと目が覚めると、僕はタオルケットを掛けられて、居間にそのまま寝ていた。腕時計を見ると二時を指していた。
 僕は身体を起こし、何気なく周りを見回して、ぎょっとした。
 暗がりの中に人影があって、その大きな目が僕を見ていた。目を凝らすと、それが、ゆうきだとわかった。起きたか、とゆうきは言った。
「何してるの?」
「眠れなくてね、若い男の寝姿をサカナにビールを、ちょっとね」
 なんだそれ? と言いながら目をやると、座卓の上に、ビールの空き缶が五缶並んでいた。ちょっとじゃないじゃん、と僕は言った。
 ゆうきは、お前もどうだ? と缶を差し出した。涼しい気候とは言え夏だった。喉が渇いていた。僕はそれを受け取り、半分程を一気に喉に流し込んだ。ゆうきが微笑んでいた。
「なんだよ?」僕は訊いた。
「なんでもねーよ」ゆうきが応えた。
 僕たちは暗がりの中で、何となく見つめ合った。しばらくそうしていたが、気まずくなって、僕の方が先に目を逸らした。勝った、とゆうきはガッツポーズをした。僕は、猫にこれやったら絶対嫌われるからな、と負け惜しみを言った。いいんです、猫なんか飼わないから、とゆうきは返した。
「へ、寂しいくせに」と僕は言った。
「誰が」とゆうきは言った。
「あんたが」
「お前がだろ? 寂しくなったから、琴子に、ありがとう、なんて言ったんだろう?」
「違います」
「違わないね」
「ぜってー違う」
「やっぱりそうだ。まだおむつ取れてねーのかよ」
「誰が? こっちはもうカノジョだっていて……」
「ほう」
 ゆうきがにやにやと笑っていた。僕は俯いた。なんだよ、聞かせろよ、とゆうきはビールを口にした。
 僕は言葉を失って黙り込んだまま、ゆうきの顔を見ていた。
 変わってなかった。美しかった。君や貴句のことをいっとき忘れてしまうくらいに。
 それを言ってしまわないように、僕は話題を探した。焦るほど、言葉は出なかった。
 やっと口を開いた時、僕は自分でも思ってなかったことを訊いていた。
「父さんのことだけど……」
 ゆうきはそれを聞くと、ちょっと視線を逸らし、ビールを呷った。そして、少し外を歩こうか、海沿いにでも、と言った。

 ここら辺り、昔は砂浜だったんだ、とゆうきは消波ブロックの積まれた海岸を見て言った。僕は二、三歩後ろをついて歩いた。
 釣りもしたなあ、簡単な仕掛けで、ニシンの小さい切り身なんか餌にして、まあ、うぐいくらいしか釣れないんだけど、とゆうきは人差し指を釣り竿に見立てて、投げるふりをした。一人で? と僕は訊いた。光太郎兄さんとだよ、とゆうきは言った。
「っていうか、それも最初の一時間かな。
 兄さんはさ、なんつーか、こう、いい加減なヤツでさ、釣りをしてても、すぐ他の何かに気を取られてどっかいっちゃうんだ。
 結局最後まで竿の番をするのはこっちでさ。
 あいつは貝殻とか、ガラス玉とか、変わったゴミとか、そういうの集めたりして。あたしが怒ると、キレイな貝殻をあたしに握らせて、『これをお前にあげたかったんだ』って笑うんだ。
 それで、つい許してしまう。
 今思うと、その頃から女たらしの素質があったね。社会不適応者の素質もだけど。
 まあ、そういう男なのは、大きくなっても変わらなかった。あっちこっちでバイトして首になったり、辛抱できずにやめたり、行く先々で女作って世話してもらったり。
 まあ、ウチは男の子に甘いから、母さんは何も言わなかったけど、次は何をするのかって、それなりにハラハラして見ていたよ。
 そしたらアレだもんな、『俺、小説を書いた。賞を貰った。それから、子供もできた。だから、結婚した』だもの。皆驚くのが先で、反対もくそも無かったよ。
 子供は、相馬の家では貴重な男の子だったしな。お前だけどさ。
 まあ、これからはまともにやるだろう、と思ったんだけど、結婚したからって人間は変わらないね。
 相変わらずふらふらと女を渡り歩いていた。遥さん――お前のお母さん、よく泣いてたな。その頃のあたしは、まあ、ああいう男を選んだんだから自業自得だなとも思わないでもなかったけどね。
 仕事だって、賞を取った後、よくわからないけど、色々出版社とかにせっつかれてたらしいんだけど、とうとう兄さんは次の小説を書かなかった。
 あたし、訊いたことがある。何で書かないのかって。そしたら、見つからないんだって言った。人にあげられるものが見つからないんだって。
 なんだそりゃ、と思ったけど、あいつはこうも言った。俺は皆にあげられるものを探すのが好きだと思っていた、でも違った、本当はそうすることでただ人に認めてもらいたいだけだった、悲しいよ、って。
 なんだか子供っぽいこと言いやがると思って、あたしはあいつの頭を殴ったけど、あいつはそれ以上何も言わなかった。
 そうしている内にあいつは死んじゃった」
 ゆうきは、すうっと鼻で息を深く吸い、空を仰いだ。
「お前、兄さんがどうやって死んだか、知ってるか?」
「まあ、だいたい」
 子供は大人が思っているより、大人の話を聞いている。昔、ひいひいばあちゃんが生きていた頃、ひいばあがひいひいばあちゃんに言っているのを僕も聞いていた。
 短命は相馬の家系だけども、自分から地下鉄に飛び込むなんてのはなかったですねえ、何を考えているのか最後までわからない子でしたねえ、光太郎は、と。
 僕もゆうきと同じように空を見上げた。
「自殺、だよね」
「うん。まあ、だいたい合ってる。でも、ひとりじゃなかった。心中だった」
 僕の知らなかった事実だった。僕の口は開いたままになった。
「まあ、当時は仮にも作家が妻以外の女と心中したってんで、色々やかましかった。ありもしない物語が微に入り細に入り作られたよ。せめてひとりで死んでくれれば、遥さんは苦しまなかったかもしれない。半分ノイローゼみたいになってた。そして、自殺した。後を追ったのかなあ。あたしなら、絶対しないけどな」
 いつのまにかゆうきは僕を見ていた。どうだ? ショックか? と訊いた。僕は、正直に言うと、驚いたけれど、それ程ダメージを感じなかった。
 自分にはどうにもできないほど遠い昔の話だった。学校で習う歴史のように感じた。
 それに、どっちにしろ、その事件とその時の自分の間には、もう、ゆうきや琴子との幸せな時間がしっかりと流れてしまっていて、どうにも自分と関わりがあるように思えなかった。
 薄情かも知れないけれど、僕は、全然、と応えた。
 ゆうきは微笑んだ。僕は遠く水平線に目を向けて訊いた。
「どうして、ゆうきは僕を育てたの? ばあちゃんとことか施設みたいなところにいてもおかしくなかったのに」
 ゆうきは、ふっと笑って、言った。
「貝殻、みたいに思ったんだよ」
 そのまま、ゆうきは歩いて行った。僕は少しその後ろ姿に見とれていたけれど、慌てて追いかけて横に並んだ。
 僕はそんな話を聞いてもなお自分の心の中にどうしても言いたい言葉があるのに気が付いていた。
 あのさ、と僕は言った。ゆうきは呆れた顔をして、折角良い感じでまとめたのに、まだなんかあるのかよ、台無しだ、と言った。
 あのさ、と僕は繰り返した。
「やれるときはやっておけ、って良く言ってたよね」
「ああ」
「自由に生きろとも言った」
「言ったよ」
「だから、言いたいことも言うんだ」
「やめとけ」
「僕は――」
「だから、言うなよ」
 ゆうきは僕に背を向けたまま、髪を掻き上げた。そして、もう一度、言うな、と低い声で言った。
「何で? 自由にしていいんだろ?」
 ゆうきは道に落ちていた石を蹴った。こつこつこつと石は転がっていった。
「それは……その言葉は、お前を自由にはしないよ」
「言うさ、僕は――」
「やめておけ、な? お前は、今、寂しいだけなんだよ」
 そう言うとゆうきは立ち止まり、振り向くと、そっと近づいて、僕の頭を両腕で抱いた。
 僕は……僕は……、と言いかけた声がゆうきの肩でくぐもった。よしよし、とゆうきは言った。
 そして、肩を掴んで、身体を離し、少しだけ背伸びして、額にキスをした。
 強く、強く、キスをした。
 唇を離した後、ゆうきは僕の目をまっすぐ見た。真剣な顔だった。冷たいとも、怖いとも思えなかった。ただ、めいっぱいの気持ちを感じた。そして、キスをした額に指を触れて言った。
「あたしは、ここにいる。ずっとだ。そういう想いをこめた。だから、お前が寂しくなったら、いつでもここを思い出せ」
 ゆうきは僕とすれ違って、ばあちゃんの家の方に歩き出した。僕も、後を追った。僕が何を言うかわかってるの? と僕はその背中に訊いた。お前、ポエムはもう書かないのか、と茶化すようにゆうきは応えた。読んでたの? と僕は思い切り赤面したけれど、月も星も無い曇りの夜のおかげで、それは見られることがなかった。
「自由に生きろ、やれるときはやっておけ」とゆうきは、また、言った。


 君のいないところで、僕はこんなことをしていた。
 皆が僕を後押ししてくれていた。
 僕はどうしても先に進まなければならなかった。
 どこへだかはわからなかった。
 ハタチで、自分の進む先が見えていなかったのは、ちょっと情けない話だったかも知れない。でも、僕は崇高な理想や遠大な目的を持つタイプじゃない。ただ足を前に出す、僕はたったそれだけのことを、決意した。
 君は、旅行から帰った僕を部屋の前で待ち構えていた。僕は呆れて微笑った。どこに行ってたの、と君は訊いた。本当にセックスしたわ、と君が言った。その同じ口で、あなたが必要なの、と呟くと、君は部屋に入ろうとする僕を後ろから抱いて、胸を、腹を、腕を、顔を、掻きむしった。君が何を考えているかなんて、やっぱり想像もつかなかったけれど、君が秘密を理由にこんな風に僕を縛るなら、僕はそれをさえ引きずっていこう、と思っていた。

 八月、暑さが人を駆り立てるとするなら、僕もそういう一人だった。

<#6終わり、#7へ続く>



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