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epilogue 02【連作短編「epilogues」より】

この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
連作短編「epilogues」をまとめたマガジンは↓こちらです。



 彼のことを、どうして受け入れてしまったのか、と、今も想う。

 目の前で、食べ慣れないスープカレーを、微妙で、神妙な顔をしながら、啜る男。
 わたしは訊く。

「どう?」
「うん……オイシイですよ、多分」
「多分?」

 わたしはその、まるで自分に味覚というものが無いかのような彼の物言いにクスリと笑う。そのわたしを見て、彼は慌てて、こう言い直す。

「いや、オイシイです。なんか、カレースープっていうか、カレー味の洋風おでんっていうか……あ、いや、なんていうか……多分」
「全然、違うわ」

 わたしはわざと呆れたように眉を上げて、スプーンで自分の皿にある大きなジャガイモを崩し、頬張ってみせる。そして、想う。
 こんな風に自信の無い男だったろうか?
 記憶の中にある、彼がもっと若かった時の、あの情熱的な口ぶり。
 全然好みじゃないオトコからの口説き文句は、うっとうしいなりに、やはり若くて、不安な生き方をしていたわたしの自信にもなったこともあったけれど。
 あの頃の、向こう見ずな言葉の嵐は、もう、彼の口からは零れない。
 いや、つい数か月前、再会したわたしを遠回しに籠絡したやり口は、それなり、だった。
 全てを捨てる、とこの男は言った。
 いや、そう言ったと、勘違いしただけなのかも知れない。
 勘違いしたくなったのかもしれない。そういう思い違いを、またしてみたくなったのかもしれない。だけど(そして、だから)、つい、いつものように似たようなことを繰り返している。妻も、帰るところもあるオトコとこうして会い、抱かれている。
 不倫。
 いや、倫などどうでもいい。
 でも、決して実ることのないもの。
 不実。
 実をなすことのない、交錯。
 どこか遠くできこえるサイレンみたいにこめかみが痛む。わたしはそれに気付かないフリをして食事を続ける。とにかく彼は、目の前にある「おでん」を、大して好きでもなさそうにそそくさと腹へと収めて、店の窓の外、暗くて、だから煌めく繁華街を眺め続けている。わかっている。彼の用はとっくに済んでいる。あのホテルの部屋を出た時に。それを引き留めて、この店に誘ったのはわたしだ。わかっていて、意地悪をした。

「アタリの店教えてって言ったじゃない? ウソだったの? ほんとは興味なんてなかった?」

 そう言って、わたしは彼を試した。もしかしたら、冷酷にわたしを振り払ってくれるのじゃないか、と、そう期待したのだ。そうしてくれれば、それ以上のことを期待せずに済む。でも、彼はのこのことついてきた。
 嬉しいかって? 
 そういう単純なものじゃない。わたしは喜びと落胆の雑じった湿った高揚を内臓に感じる。もう一度、あの、さっきそこを出て来たばかりの薄暗い沼に戻って、生臭い獣になりたくなる。

 汚れたい。

 それを、何故かこのオトコには口にできない。
 焦れはじめる身体が感じる暗いものを、わたしは、一刻も早くおうちへ帰りたい男に伝染させるために、ゆっくりと、ゆっくりと、スープカレーの柔らかすぎるチキンを、噛みしめた。


「もう少し、一緒にいて」

 改札前、そんな台詞が、どう聞こえたことだろう。困った顔が見たい。喜ばれると、困ってしまうから。
 本当に、わたしの性格は、善くない。
 自分の気持ちを、単純なものにできない。
 彼の目が泳ぎかけたのがわかる。だからわたしはその手を引き、地下鉄改札前の百貨店の地下入り口へとずかずかと歩いた。
 少しだけだから、とわたしは無垢な笑顔を、器用に作って振り向く。
 掴んだ手が軽くなって、引きずられるものの諦めが、伝わる。
 知ってる。彼は彼で、いろんなものに縛られていることくらい。
 例えば、妻。
 あるいは、言葉。
 そして、若き日の、わたしと彼。
 思い出を裏切ってはいけないという、義務感。責任感。
 そうだ。でも、美しい物語はとうに終わって、わたしたちは、蛇足を生きている。
 彼の『美しかったもの』をわたしは台無しにした。わたしは『美しく』拒絶するべきだった。
 でも、そうできない人間だった。悲しいことに。
 残念な続編――と想って、わたしはふと洋菓子のショーケースの前で立ち止まった。
 彼が、わたしにつられて立ち止まる。わたしはその腕に、恋人らしく、つかまる。

「あ、ケーキかなんか、買いますか? 甘いもの好きでしたっけ?」
「……奢ってくれる?」
「あ? え? あ……あー、はい……」

 安サラリーマンなことくらい知ってる。昔付き合っていた医者と比べたら、滲み出るものが違う。端的に言えば、身に付けるものの、値段が。
 目が肥えてしまって、そうじゃなきゃいやだ、なんてことは言わないけれど。まあ、本人も自分で認めていることだし。とにかくさっきのホテル代と食事代を払ったのだって、かなりのムリに違いない。オトコのかっこつけ。わたしは笑う。

「冗談よ。自分で買う」
「あ、でも……」
「同居人がいるって言ったでしょ?」
「あ、ああ、はい。トモダチの……」
「エイコ」
「エイコさん」
「うん。だから、ちょっとおみやげに」
「はい」
「トモダチへのおみやげをあなたに買わせるわけにいかないでしょ」

 店員が、充分にこなれた営業用の微笑みでこちらの様子をうかがっている。虫唾が走る。自分もそんなものをはりつけて生きているから。
 店員なら、営業時間が終わればそれを解くことができるかもしれないけれど、わたしはいつまでも剥がすことなんてできないから。
 わたしは「わたし」を二十四時間年中無休でやりつづけなければならないから。
 男の横顔を見上げる。
 わたしはあの時、期待した。
 もしかしたら、今度こそ。
 でも、彼の微笑みも、どこか芝居じみていて、わたしはほっとしながら、どこか胸の中を小さな針で刺されたような気がする。そしてそれが開けた穴から、何か苦々しく、重たいものがにじみ出すのを誤魔化すように、洋菓子の並ぶショーケースに近寄った。
 これみよがしに可愛らしいケーキが、ぴ、と礼儀正しく整列している。
 実はわたし自身、こういうものに興味があまりない。甘いものはそれほど好きじゃないから。
 こめかみが強く痛み出す。
 だから、わたしは店員に、これとこれとこれ、と三つ四つ適当に指さした。



「おかえり」
 痛みに沈みながら部屋に帰ると、エイコが風呂上がりの髪に雑にタオルを巻いて、二人掛けのソファーに身体を伸ばしていた。
 ケーキ買ってきた、おみやげ、とその箱をローテーブルにおいて、エイコの足を乱暴にどけ、わたしもそこに重たくて曖昧な身体を下ろす。
 エイコは、少し冷めたような呆れを、眉を上げて表現し、そして鼻を鳴らす。

「何よ」わたしもぞんざいに訊ねる。
「いや、別に」

 洋風に肩をすくめ、エイコはケーキの箱を持ち上げて、中からなんとかクリームがデコレーションされた一つをつまみ出し、それにそのまま噛みついて、二、三口で、この世からその存在を葬りさってしまった。

「ボディソープの匂いがする」
「え? ケーキ?」
「違う、あんた」

 エイコはわたしに鼻を寄せる。
 わたしはそれを反射的におしのけて、焦りを悟られないようにローテーブルに乗っていたテレビのリモコンを手に取った。

「安い、ラブホの匂い。で、どこで、泥遊びしてきたの?」

 エイコは顔を逸らし、その首筋を人差し指で掻く。
 わたしは図星を突かれたからといって、別に固まってみせる必要もない。ここは、わかりやすいテレビドラマの世界ではないし、わたしもおぼこい小娘でもなくなった。
 わたしは、韓流ドラマの映し出されたリビングの大画面に向けて、リモコンを押す。

「見てるのに」
「続きならいつでも見れるでしょ」
「いいところだったんだよ」
「嫌いなの、韓流。そっちこそ、まるでおばさんみたい」
「おばさん、だよ。まごうこと無く」

 わたしは、ネットフリックスのメニューで、ごく自然に何を見ようか迷っている演技をする。
 エイコは、そんなわたしの演技などどうでもよさそうに、すこし掠れて呟くように、独り言のように、でも確実にわたしに向けて言う。

「わたし」
「うん」
「小さい頃、あんまり裕福じゃなくてさ」
「うん」
「まあ、本当の意味で食うには困ったことはないけど、その先の贅沢みたいなものはあまりなくて」
「うん」
「好きなものとか、あまり買ってもらえなくて」
「うん」
「ケーキなんてものは、お誕生日か、クリスマスくらいの特別なもので」
「うん」
「まあ、それにしたって、アンタが今買って来たみたいな高そうなヤツじゃなくて、近所の安いケーキ屋の雑なケーキでさ」
「うん」
「そんな安いヤツ。でも、お誕生日ケーキですらないわけ。ホールじゃない」
「うん」
「ショートケーキしか出てこないんだ、ウチは。誕生日でも、クリスマスでも」
「うん」
「で、それを妹と分け合って食べたりすんの。びんぼくさい」
「うん」
「でも、他の家では、どうやらそういうときは、円い大きいケーキが出てくるってことを知ったときにさ」
「うん」
「親に、『どうして、ウチのケーキは三角で小さいの? うちも円いの買って』っておねだりしてみたりとか」
「うん」
「親が困ったように笑うんだよ」
「うん」
「まあ、こっちも大体事情はわかるから、それ以上はねだったりしないわけだけど」
「うん」
「でも、いつか、ショートケーキじゃなくて、あの円いケーキを全部買ってやろうって思った。ひとりで食べてやろうって」
「うん」
「……」
「……それで? 今は買えるでしょ? 食べてみた?」
「……いや」
「なんで?」

 エイコはまた鼻で笑い、そして、わたしのこめかみに指を伸ばす。

「痛いんだろ?」
「……うん」

 わたしの視線が床に落ちる。
 なぞっていく熱。
 あのオトコの不器用で中途半端な愛撫で、ぼやけたままだった輪郭が明らかになる。
 すぐにも触れる唇。応える舌。
 そこに残る、ナッツのクリームの甘い粘り。
 エイコの柔らかな動きが、わたしの底に潜っていき、乾ききらないものをすくい上げて、わたしのディテールを描こうとする。
 汚れたわたし。
 あのオトコが、決して見ようとはしないもの。
 いや、何故かあのオトコには、わたしが隠してしまうもの。
 タオルが落ちて、濡れたままのエイコの頭をわたしは思わずかき抱く。それを鬱陶しそうに払うと、エイコの舌は、先端に、くぼみに、丘に、裂け目に、痕を遺して這う。わたしは、ただ、悦びを叫んだ。



 こめかみの痛みはいつしか、すべてかき消えた。エイコは最後にわたしにキスをすると、もう一度シャワーを浴びてくる、と立ち上がった。わたしは、思わず、口走る。

「ありがとう」
「……どういたしまして」

 ひとつ大きくため息をつき、エイコは、まだ余韻に縛られたままのわたしを見下ろして言った。

「あんたは、わたしとは違う」
「……ん」
「オンナが好きだから、こうしてるんじゃない」
「……」
「あんたは誰からも曇りなく祝福される美しい物語を選ぶことが、まだ、できる」
「……」
「そうしないんだね。できないんだね」
「……」
「かわいそうに」
「……」
「でも、わたしもわかってて、つけこんでる。だからこれ以上言わない」
「……わたしは、エイコの、ものよ」

 その充分に繕われた言葉に、エイコは、だろうね、と鼻を鳴らす。 そして、本当にそれ以上何も言わずエイコは、バスルームに去っていった。
 罵る権利が、彼女にはある。
 でも、きっと、エイコはオトナなのだ。
 オンナを愛するオンナである以前に。
 コドモをいたぶって、平気でいられる人間じゃない。そして、それをわかっていて、わたしもつけこんでいる。わたしは、彼女の部屋で、彼女の稼ぎで、彼女の「麻酔」で、いま、生きている。
 そしてわたしは、ふと、エイコって、本当は何歳なんだろう、と思う。
 うつろになった意識に、その彼女の、突き放したような声が、バスルームから響く。

「そういえば、電話、あったよ。『恋人』から」

 かき消えた筈の、こめかみの痛みが、頭を締め付けるように、沸き立つように、ざわめくように、にじみ上がる。
 折角の平穏がガラスみたいに音を立てて割れたような気がする。
 スマホに手が伸びる。
 待っていたなどと、思いたくもない。思いたくもないのに、服を着ることすらできずに、発信を押す。携帯にかけてこない『恋人』なんて、あのひと以外にはいない。
 呼び出し音が途切れるなりわたしは叫んだ。

「どうして、携帯にかけてこないのっ?」
「恭実(やすみ)か?」
「教えたでしょうっ!? どうしてっ!?」
「……」
「……っ」
「……」

 理由なんて知ってる。このひとは、わたしともはや二人きりになどなりたくないのだ。たとえ、電話越しでも。苦々しい。

「何の……用?」
「あのひとが、さみしがってる」
「……なわけないでしょ」
「……」
「……」
「……顔を出してはくれないか」
「……」
「君たちに色々あったのは知ってる」
「……」
「……許し合うことはできないだろうか」

 まるで他人事だ。
 クズ。
 わたしは、この世の中にあるすべての罵倒語を発したい衝動に囚われる。でも、悲しい哉、わたしの語彙はそれほど豊かではない。
 だから、衝動だけが身体に満ちる。スマホを持った手に、ギリギリとチカラが籠もる。
 その衝動の激しさに比べて、表現のなんと貧相なこと! 
 こめかみの痛みが、また遠くで鳴る。わたしは知らずに唇を強く噛んで、嘔吐感のような怒りを吐き出しかねている。電話越しの無言の怒りを、読み取る感性などそのひとにはない。
 そうであって欲しいと思う。
 もしそれがただの演技で、古いラブコメのキャラクターみたいに鈍感なフリをしてるようなら、今度会ったとき、出刃包丁を臓器という臓器に何本も突き立ててやる。
 そういう気持ちの良い啖呵は、だけど、声にならない。
 別の言葉が、静かに、出て行く。

「……あなたのために?」
「僕のためにそれができるというなら、それでもいい」
「あなたのせいで……こうなったのに?」
「……すまない」
「……」
「…………すまない」
「……」
「……恭実?」
「……いま、わたし、全裸」
「え?」
「ハダカなの」
「……あ、ああ……」
「……想像した?」
「……」
「いいえ」
「……」
「思いだした? 『オ・ト・ウ・サ・ン』」
「……」
「……」
「……」
「……」

 そして、わたしは沈黙の延長線上で唐突に電話を切り、壊れない程度にスマホを放り投げる。

――蛇足。

 あいつからの電話なんか無視していれば、わたしは最低なりに、もう少しましな気分で今日という日を終えられたのに。
 でも、わたしはそれをスルーできない。
 痛いことに、苦々しいことに、恨みと憎しみと喪失感に雑じる、ほんの少しの、期待のせいで。
 一度スマホの画面が本当には割れていないか確認してから、フラフラとエイコがシャワーを浴びるバスルームへと向かった。
 痛みを痺れさせるために。
 あるいは、わたしの濡れたものを、流すために。
 それが頬だけだったかどうか、わからないけれど。



 たまに思う。もし、わたしの人生が映画になったら――ならないなんてことは知ってる――監督はさぞ困るだろう、と。
 わたしの事件は、大体ベッドの上でしか起きないし、それ以外の生活に見るべき程のものなど何一つない。エイコに「飼われて」からは特に。
 とにかく延々とベッドシーンを撮り続けるのは、大変だろうな、と思う。いっそスマホででも撮れば良い。流出動画くらいにしておいた方が、一部の男たちを喜ばすことができるという意味で、すこしは役に立つかもしれない。
 その程度の人生。
 そして、わたしはまたベッドの上にいる。
 つまらないセックスを、彼が勝手に終えて、その汗ばんだ身体を、わたしの隣に横たえる。そしていまだ乱れの残る呼吸に詫びの言葉を雑ぜた。

「……すみません」
「ん?」
「その……うまくなくて」
「……」
「それに……その……早くて」

 こういうとき、言葉は残酷で、無力で、間抜けだ。
 肯定するのも、否定するのも。
 わたしは、彼の柔らかく呆けたものを探し、優しく握る。
 もう一方の手でその頭を胸に抱き寄せ、心臓を、聴かせる。
 多分、そうするのが一番良い。
 直感ではなく、経験で。
 わたしの脳がたとえどんなことを思っていたとしても、その鼓動は、ウソじゃない。

「きこえる? ……ドキドキしてる」
「……」

 彼は、少し強ばった身体の重みを、その音に溶かすようにして、わたしに預けてくる。わたしは、がっかりする。他のオトコに通用した手管が、このオトコにも通用してしまうということに。
 特別であって、欲しかった。
 学生時代、あのときの無垢な少年のままであって欲しかった。それは、ワガママだ。
 わかってる。そうさせなかったのは自分だ。
 あの頃も、今も。
 彼の安堵の息が、わたしの胸元にじわりと熱を持った。わたしは訊いてみる。
「もう一回、したい?」

 彼はもう一度、息をついてから、ごめんなさい、もう今日は、と申し訳なさそうにまた詫びる。わたしは少し笑って、冗談めかして言った。

「とっとくってこと?」
「え?」
「奥さんの分」
「あ、いえ、そういうわけでも……」
「ねえ」
「はい」
「奥さんってどんなひと? 漫画家さんって言ってたよね」
「あ、はい」
「どんなひと?」
 彼はわたしの胸に、少し低くて重たい声を籠もらせた。
「そんなこと」
「ん」
「訊かないでください」
「……ん、ごめん」
 わたしは取り繕うように、彼を強く抱き締める。彼の声が少し湿った。
「良いヤツです」
「……」
「あいつが男だったら、最高の親友になってくれたと思います」
「……ん」
「僕の方が、あいつの善いトモダチになれたかどうかはわかりませんけど」
「……ごめん」

 彼は、わたしの腕を払うようにベッドから立ち上がり、そして、天井を見上げて、ひとつ大きく、情けなく、ため息をついた。



 わたしたちは、そして、ホテルから、地下鉄の駅までを歩いた。
 歩きながら、暗くて、眩い繁華街を、彼は、ぼんやりと見ていた。
 そして、わたしはそんな彼の様子をうかがいながら、違う二種類の感情に、引き千切られつづけていた。
 ただのオトコであってくれたという安堵と、特別にしておきたかったという後悔と。
 もちろん、そんな葛藤はもはや意味はないし、そんなものを表情に反映させるほど、コドモでもない。
 ただわたしは、そういう場面の男女に相応しい女を、微かな笑みで演じていた。まるで幸せでたまらない、とでもいうように。
 改札の前で向かいあった時、彼は、それじゃあ、と言った。どこか、悲しげな笑み。ああ、と思う。永くはもう、ない、と。わたしは、だけど、気付いてやらないことにする。そして、少し不満げに問うた。

「木戸くん?」
「はい?」
「わたしといても、嬉しくない?」
「え?……いや、そんな……」
「失敗したとか思ってる? 実は、がっかりした?」
「え、いや、そんなことは――」
「ずっと街並ばっかり見てた」
「あ……はあ」
「わたしのこと見ない」
「……見たくないわけじゃ……」

 彼はそのまま少し考えるように俯いて、相変わらず目を逸らしたまま、ぽつり、と言った。

「僕たち、セックスばかり、してますね」
「……」

 わたしが、少し驚いた風に顎を引くと、彼は慌てたように顔を赤くした。

「いや、だから、わかってますけど、それはそれで、悪くない――いや、いいんですけど、すごく、いいんですけど! 今の僕たちにはそれくらいしかないって、わかってるんですけど……でも……」
「でも?」

 そのまま彼は息を切らすように言葉を失い、ごまかすように、それじゃあ、と手を上げて、改札へと消えて行った。
 わたしも、その背中が見えなくなるのを待って、逆方向の改札を抜けた。



 酔客の息が籠もる車両に、いらつくわたしは揺られる。ぼんやりとあの男の若い日を――つまり自分のそれを、思い出す。
 彼はこう言った。
「リンゴさん。僕はこれが、最後の恋で構わない。この後、遠藤恭実っていう女性以外のことを、美しいなんて想わないでしょう。忘れないでください。僕はこの先あなたの人生に現れるどんな男より、あなたに焦がれた男です」
 自信過剰で、自分勝手で、盲目で、コドモっぽくて、陳腐な、歌謡曲によくあるような、そんな言葉。
 メロディがついたら、おそらく何人かくらいは感動させることができるのかもしれない。でも、その時のわたしは違った。
 そんな言葉を心のどこかで蔑んでいた。
 報われないから、消えずに滾るのだ、その「情欲」は。
 でも、蔑みながら、彼のことを決して恋人として考えることが不可能ながら、最後の最後まで決定的に拒絶できなかったのは、そんな陳腐な言葉を真っ直ぐに伝えられるその想いが羨ましかったからだ。
 そんな風にあからさまに恋を口にできる彼が妬ましかった。
 眩しかった。
 わたしにはないものだった。
 元々なかった。そういうことに、しておきたかった。

――結婚なんか、したくせに。

 不意に思考が乱れる。わたしの中にある矛盾が唐突に胸を蹴る。
 壊してやりたい。
 どうしようもない衝動。
 わたしは見たい。そんな言葉が、容易く裏切られるところを。
 報われてしまえば、ウソになって、消えてしまうものだと。
 ただこの世に間抜けで情けない人間しかいないってことを。
 そのことに自分で気付いて、勝手に傷つくあの男を。
 わたしと同じ泥の底に落として、そして、微笑みながら見殺しにしたい――。

 こめかみが痛む。耳鳴りが、脳を貫く。

 わたしはつり革を握りながら、自分を抱き締めるように肩を強く掴む。
 でも、どんなにチカラを籠めても、その曖昧な輪郭を、掴むことができなかった。

 エイコ、と想った。
 エイコ、エイコ、エイコ、と、想った。
 わたしの痛みを舐め取るあの舌。
 何も問わずに、ただわたしの輪郭を描き出すあのひと。
 わたしの全てを、知らないままに理解してしまう、美しいオトナ。
 今、彼女に全部を頼って、生きている。
 悔しい。
 そうしてもらわなければならないのをわかっていて、そうされれば楽になれることを知っていて、わたしは、今、それを強烈に拒みたい衝動に囚われる。

 たすけて。
 たすけて。
 たすけて。

 地下鉄が、停車しドアが開く。
 わたしの視線は、降りようとする中年のみすぼらしいスーツ姿に止まる。
 それでいい。なんでもいい。
 理由なんてなくわたしの足はフラフラとそれに引き寄せられ、本来降りるべきではない駅のホームに立つ。
 わたしの手は、そのスーツの裾を掴んでいる。男が不審げに振り返り、わたしを睨む。
 わたしは、こんなとき、笑ってはいけないことを知っている。
 むしろ警戒させてしまうから。
 作ってみせたひどく悲しい表情に、すでに涙が充填されていた理由など知りたくもない。
 わたしは男のスーツを掴み直し、まるで駄々っ子のように、その場に泣き崩れる。冴えない中年男が、突然のことに慌てるのを、涙の視界の端に冷たく眺めながら、<そこ>に至る手続きをできるだけ簡略化する手管を、わたしは考えていた。



 ローテーブルにわたしが置いた箱を、呆れたように眺めてから、エイコは、ふ、と鼻を鳴らした。

「ケーキ?」
「ホール。食べたいって言った」

 エイコは苦笑しながら額を軽く掻いて、外国映画の俳優みたいに首を振った。

「まあ、言ったけど」

 叶わない夢? 馬鹿馬鹿しい。ホールケーキくらい、いつだって食べればいいのだ。今でも貧乏ってわけでもあるまいし。わたしは、少し雑に箱をエイコに押しつけた。

「どうぞ、存分に」

 エイコは髪を掻き上げ、それから、やさしげにわたしを見詰める。わたしも、それと同じように目尻を下げてみせる。エイコが、はは、と軽く笑う。

「何?」
「いや……最初は」
「ん?」
「花だったね。百合」
「……」
「次はたこ焼き」
「……」
「それから、安いワイン」
「……」
「肉まんの時もあった。お寿司とか、チキンとか」
「……それが何?」
「いや」
「だから、何? 気の利いたものを知らない、とでも馬鹿にしてるの?」

 エイコは、わたしの肩を抱く。とても自然に。
 だからわたしは自分の不自然さに意識を持って行かれる。自分の浮かべていた微笑みの、その余裕のなさを暴かれたような気がする。
 そして、エイコはまるで母親が娘に物語でも聞かせるかのように、囁く。

「別に、機嫌なんてとらなくていいよ」
「……」
「もともと、恭実をひとりじめしようなんて……いや、ひとりじめできるなんて想ってないから」
「……」
「そんなことをさせてくれる簡単な子じゃないって、理解ってるから」
「……」
「だから興味を持ったとも言えなくもない」
「……」
「それに」
「……」
「恭実がどんな子であろうとね……いや……恭実であろうがなかろうがね」
「……」
「ひとなんて、ひとの心なんて、ひとりじめできるものでもないから」
「……」
「わたしは、そのカタチのいいカラダをほんの少し、貸してもらうだけで、充分満足してる」
「……」
「だからいいよ、とってつけたような気遣いなんて」
「……どうせあなたのお金だし?」
「……ふふ、そうだね」

 エイコがわたしの首筋に鼻を埋めた。わたしは、今日自分が貪らせた男たちのニオイを確かめられているような気がして、でも、逆らえずにされるにまかせた。
 彼らと違って、彼女は的確だ。いつものように。確実にわたしに火をつける指先になぞられながら、自分にとって都合の良いエイコの人間観に、わたしはほっとする。
 だけど、同時にざわめくものをどこかで感じる。そして、ふと、想う。
 エイコは、諦めている。なにか、決定的なものを。
 自分にとっては重くて痛くて、うっとうしくて、でも、手放せないものを、このエイコというオトナは、諦めているのだ、と。
 そんな思いつきも、でも、エイコによって高められるものにすぐに消えて、堪えられない声を上げようとしたとき、わたしの喉の代わりに、固定電話が鳴り響いた。
 やれやれ、とローテーブルにエイコは手を伸ばして、子機を耳に当てた。そして、相手の声を聴き、眉を上げると、それをわたしに押しつけた。
 そして、もしもし? と問うその声のせいで、わたしは自分に乗ったままのエイコのカラダに衝動的に爪を立てることになった。

「もしもし? もしもし?」
「……何?」
「あ、ああ恭実」
「はい、恭実ですが何か?」
「あのひとが……君のお母さんが、倒れた」
「……」
「もしもし? 聞こえてる? 脳出血だって、今、手術中で……それで」
「……だから何? オトウサン?」
「何って……ああ、○○中央病院だ、すぐ……」
「残念だけど」

 わたしは、様子をうかがっていたエイコの頭を引き寄せて、キスをする。内臓の入り口を、湿らせ、もつれるように電話の向こうに、語りかける。

「残念だけど、オトウサン、わたし今、いいところなの」
「は?」
「いま、シてる最中なのよ、オトウサン」
「……え? 何を……いや、そんなことより――」

 眉を潜めるエイコの頭を、軽く下へと押す。
 固まったままのエイコに、お願い、とわたしは呟く。
 少し躊躇ったように、視線を逸らしたエイコが、しかし、すぐに、やれやれ、と呟きたげに、その身体を、舌を、わたしの開いた脚の間へと意図通りに動かす。

「いまね、舐めてもらってるの。エイコに。知ってるでしょ? いつも電話にでるひと」
「……恭実」
「とても上手なの。どうでもよくなるの」
「酔ってるのか? ……ふざけてないで、お母さんの一大事なんだ」
「オトウサン、良く聞いて。あなたなんかより、エイコはずっと上手」
「おい! いい加減に――!」

 わたしはその苛立つ声に、わざと大きな喘ぎを被せて返す。

「……いい加減に……」
「どう? ムスメの喘ぎ声。懐かしいでしょう?」
「……死ぬかもしれないんだ」
「だから、何!? 人間なんだからいつかは死ぬわよ! 人間でよかったわよ、本当の怪物じゃなくて!」
「……君の、お母さんだ」
「あなたの、恋人でしょ」
「……たったひとりの親じゃないか」
「それを壊したのは、アンタでしょ? オトウサン」

 もっと、して、と、わたしは天井に叫ぶ。
 耳に当てた受話器の向こうの沈黙が、無言のまま、それでも切れない。
 わたしは、エイコの触れるものに集中できずに、でも、声だけは大げさに湿らせて、その沈黙にぶつけ続ける。
 何分だったろう。何秒だったのかもしれない。
 わたしの演技が、いつか、堪えきれない嗚咽になった頃、耳元で、すまない、という掠れた声がして、わたしの手から受話器がすべり落ちた。


 その夜、明け方まで、エイコに抱き締められながら、わたしはこんなことを話した。

「うちは、早くに父親が死んで、それで、ずっと母親と二人だった。でも、父方の祖父というひとが、小さいけれど、それなりに景気の良い会社を経営していたから、その援助で、どちらかと言えば恵まれた生活だったの。何も困ることなんかなかった。父親がいないことの引け目なんて、どこにも感じる必要の無い暮らしだった。とりたてて何がなんて言えないけれど、でも、それは、今なら、幸福、と言える。何も考えなくてよかった。
 そして、わたしがもうそろそろ高校受験って頃、母が、男のひとを家に連れて来た。母より、八つも年下の、若い男。なんていうか、痩せてて、背が高いのに、どこか頼りなげで、そのくせ、図々しくて、ひとなつこっくて、いつも冗談ばかり言って、わたしたちを笑わせる男。
 わかってた。母親が、彼にぞっこんだってことは。わたしと二人でいるときには見せない媚びみたいなものを、いつも漂わせていることくらい、コドモのわたしだってわかる。
 そして、母をそんな風にするその男の魅力みたいなものも、同時に。
 ねえ? それがわかるってことは、どういうことか、わかるでしょ?
 それなりの大学を出ていたらしくて、勉強なんかもよく見てくれたり、一緒にゲームしたり。漠然とした父親への憧れみたいなものもあったのかもしれない。
 わたしも、いつか、あの男に惹かれるようになってた。
 母親と同じ媚びを、わたしもいつか発していたんだと想う。
 そして、オンナ同士って、そういうの、わかるでしょ?
 母親は、彼を、隠した。わたしが高校生になってしばらくたった頃には、家に、連れてこなくなった。そのくせ、外から帰って来るたびに、その男の匂いを、漂わせてるの。男の残り香と、自分のオンナの匂いを部屋に充満させて、その日二人でした食事のことや、行った場所なんかのことを話してね、どんなに楽しかったか、二人がどれだけ親密だったかをひけらかして、そして笑うのよ。優越感そのものみたいに。
 ……悔しくて。ただ、悔しくて。
 でも、それは、今思えば、母の焦りの裏返しみたいなものだったかもしれない。世間的に賞味期限切れ間近の子連れオンナが、八つも年下の男と付き合ってるんだもの。仮に自分の娘であっても、敵に見えてしまうものだったのかもしれないとは思う。
 でもね、十六、七のコドモがそんなものを忖度なんかできなかった。わたし、その男の職場を訪ねて行ってね、それで、本当にまるで父親を慕うムスメみたいにね、そんなフリをして、隠れて会うようになった。すぐ、そうなった。ちょっと誘っただけで、男はその気になった。
 簡単だった。いつも、男のクルマで。夜の公園の駐車場で。会うって言ったって、殆どヤるだけのことだったけれど。でも、好きだって、本当に好きだよって、男はそのたびに言った。罪悪感があるほどに、幸せだった。あとは……たまにカラオケなんかも行ったけど、そのくらい。おおげさに、男はわたしの歌を褒めてくれて、いつかきっと歌手になれるよ、なんて言って。
 それも嬉しかったけど、わたしにはそんなものよりなりたいものがあった。欲しいものがあった。
 本気で好きだった。全身で、全霊で、体中一つの細胞まで間違い無く、その男が欲しかった。
 だから、カラオケルームでも、求められるまま、結局最後はいつもと同じようなことをしてた。
 でも、そんなことも長くは続かない。恋するオンナがもうひとり、嗅覚を研ぎ澄ませて、同じ家にいた。
 あのふたりがいつそんな話をしたのか、わからない。でも、ある日、わたしは、ただ母親から、こう言われた。『わたし、あのひとと結婚するから』。
 わたし、わけがわからなくて。だって、あの男は好きだって、言った。わたしのことを、そう言って抱き続けていた。
 問いつめた。それはもう、みっともなく。そしたらね、あの男が言った。
『きみのお母さんがこう言うんだ。わたしと結婚したら、あのコと何をしてても、わたしは何も言わない、って。でも、あのコを選んだら、わたしは二度と……その、つまり……』目眩がして倒れそうになった!
 わたしを選んでよ! って叫んだ。でも、あの男、なんて言ったと思う? 『きみのお母さんを諦めきれない』ですって! 
『本当は、きみのお母さんの方が、“色々と”いいんだ』だって!
 目眩の上に吐き気がして、こめかみが痛くなって……ひどく痛んで。でも、悔しくて、犯すみたいに男に跨がって、絞り尽くすみたいにしたけれど、でも、彼の『評価』は結局変わらなかった。ごめん、って言った。
 わたしは、負けた。
 泣き叫んだのかな、わめいたのかな、憶えてないの。
 ただ、わたしは、その後、結婚するふたりの邪魔になるから、と援助してくれてる父方の祖父の家に移った。そして、そこから、大学に行かせてもらったの。
 あとはもう、どうでもよかった。
 サークルとか入ったけど、恋とか、もう、馬鹿馬鹿しかった。サークルの誰と誰をキョウダイにしても、オジサンとの不倫も、別に何も思わなかった。……だから……でも……」

 エイコがやっと、訊いた。

「『だから、でも』、なにさ?」

 わたしのエイコに抱きかかえられた頭の中に、あの、いかにも上京したての、野暮ったい少年のイメージが浮かんだ。
 苛立たしい。
 でも、わたしはそれを上手く言えずに、エイコの匂いをかぐように、大きく息を吸い込んだ。香水なんてしないひとだ。でも、甘く、ほんの少しだけからい、優しいものが香っていた。

「わたし、ウソをついた」
「うん」
「本当のことを言うフリで、違うウソをついた」
「うん」
「……うん」
「うん」

 そして、ひとつ、小さな咳をすると、抱きかかえていたわたしを静かに放し、エイコは立ち上がった。そして、その背中で言った。

「わたしさ、滅多に服なんて買ってもらえなかったんだけど」
「うん」
「そりゃ成長すれば、どうしても買わなきゃならないこともあってさ」
「うん」
「で、あるとき、白いシャツを買ってもらったんだ」
「うん」
「それがさ、すごくこう、格好いいんだ。そう思えたんだ。だから意気揚々とそれを着て学校に行ってさ」
「うん」
「でも、多分給食の時にでもソースかなんかを知らずにこぼしてて。家に帰って鏡を見たら、ぽつん、って染みがついてて」
「うん」
「コドモだし、しみ抜きになんか頭回らなくてさ、一体どうしたと思う?」
「……」
「『あ、全部、ソースで染めちゃえばいいんだ!』って思いついちゃってさ」
「……やったの?」
「うん」
「馬鹿じゃないの?」
「ほんとにね」

 ハハハと呆れたように笑って、エイコは、コーヒーを淹れよう、とキッチンに向かった。
 わたしは、説教されたな、と思った。
 敢えて彼女にしてはわかりやすすぎる真意を汲まないことにして、わたしは、陽の光がカーテンの隙間から差し込み始めた部屋の中、飼い犬の惰眠を貪るために、瞼を下ろした。




 だからと言って、何も解決しないし、わたしの蛇足の物語は、相変わらずベッドの上で続いている。
 約十年後の、物語。
 取り立ててドラマティックでもエロティックでもないセックスが今日も終わる。
 お前は慣れてるけど、そういうの、出さない方が男は大事にしてくれるぜ、だから最初は相手に任せて、あなたを気持ち良くしたいからどうしたらいいか教えて、って教わるフリをしながら、少しずつそういうの出してくんだよ、と言ったのは誰だったか、ああ、大晦日の夜、わたしと恋人のフリをしたあの先輩だった。
 彼はあわれで間抜けな後輩を救うと言いながら、その実自分もその後輩をあわれで間抜けにしていたのだ。馬鹿馬鹿しい。
 でも、そんなヤツに教わった手管を、いまも演じている。

「おまえなんか、真剣にさえならなきゃいつでもやれるのにな」

 そうも言われた。いまのわたしは苦笑するしかない。
 その十年後のあわれで間抜けな男はすこし目をつぶり荒い息をゆっくり整えていて、わたしはそれを背を向けて聴いている。
 真剣じゃない分、少しはあわれではなくなったろうか? わからない。
 また少し痛み始めたこめかみに少し眉を潜めたとき、突然、彼は身体を起こし、ベッドから降りて、スマホを弄り始めた。

「何!?」
「あ、ちょっと待ってください……」

 何か真剣にフリック入力している彼を呆然と眺めていると、彼はすぐにそれを打ち終え、顔を上げた。彼は、目が合うと、ちょっと瞳を輝かせて、でもすぐに、何か照れくさそうに、視線を逸らした。

「え、何?」
「いえ」
「奥さん?」
「いえ……そういうのじゃなくて……。あの、嫉妬します?」

 頭が反射的に「全然」と言う。でも、そんな言葉は、出さない方がいい。

「少し……?」
「……それに関しては、ほんと、すみません。でも違います」
「じゃあ……?」

 男は少し躊躇い、そして大きく息をついて、今度はまっすぐとわたしを見詰めた。

「?」
「あの、実は、あの頃も言わなかったんですけど」
「何?」
「僕、実は、その……」
「うん」
「ポエム、みたいなものを書いてて」
「は?」
「ずっと、思いついたフレーズを書きためてて」
「はあ」
「実は、リンゴさんに言った言葉の多くがそういうもので」
「……」
「いや、ほんと、今思うと、なんか、ほんと、恥ずかしいんですけど!」
「……うん」
「で、それで、いま、おもいついちゃって」
「うん」
「で、ちょっと……」

 また、ほんとうに照れくさそうに彼は視線を逸らす。うん、まあ、恥ずかしいだろう。
 本人は一生懸命書く割に、他人にはどうでもいい、何がいいのかわからない、しらけてしまうような気恥ずかしいポエム。
 確か、中学時代、そんなポエムをラブレターに書いて、相手に晒されて嘲笑を集めていた男子がいたっけ……。
 でも、こういうのは、一度は見せてもらおうとするのがマナーのような気がした。
 わたしが、見せて、というと、彼はまんざらでもなさそうに、スマホのメモアプリを立ち上げたまま、すんなり画面を差し出した。

空っぽなままの僕に
あの頃の奇跡がいま

 で? と思った。たった二行。取り立てて、褒めるべきところもない。わたしの困惑を先回りして、彼が慌てる。

「いや、だから、ただの思いつきで、ほんとに、コレをトリガーにして、膨らませてく感じなんです。だから、アイデアを忘れないようにっていうか、そのためのメモっていうか――」

 わたしは微笑む。まるで、幼稚園の先生にでもなった気分で。

「奇跡、って?」
「え?」
「奇跡って何?」

 彼は、少し複雑に笑って、そして、真剣な視線を、わたしの足下に向けた。

「……あなたと……こんな風になるなんて、あの頃の僕だったら奇跡だと思ったはずなんですよね」
「……」
「僕は、いま、奇跡の中にいるんです。少なくともあの頃の僕の」
「……」
「なのに、なんででしょうね」
「……?」
「……なんででしょうね」
 
 なんでだろうね。ほんとにね。



 また地下鉄の駅までをわたしたちは歩く。彼はまた街並を眺めている。わたしはその袖を引く。彼はその手に、自分の掌を重ねる。

「僕ね」
「ええ」
「この街のことあまり知らなくて」
「え? 地元でしょ?」
「ええ、まあ、一応」
「一応?」
「実は、この街に越してきたのって、高校生の頃で。親は気に入ってそのまま老後用のマンション買っちゃったりしたんですけど」
「そうなの?」
「ええ。それで、高校生の頃って、勉強だけだったんです、僕」
「……」
「どこにも、遊びに行かなかった。そんな余裕なかった」
「……」
「学校と予備校と家を行き来するだけで、行き来する間も、単語帳とか一問一答とかやりながら通ってたくらいで、ほんと、僕はこの街のことを何も知らなかった。なんなら通学路の風景すら憶えてないんです」
「ふうん……」
「働いてるいまでこそ、多少、道やなんかも憶えて、詳しくなったけど、でも、相変わらず、僕は街なかのことがわからなくて。どこで遊んだらいいかとか、観光地とか、名物とか」
「うん」
「それでね」
「うん」
 彼は、周りの様子を一度うかがい、そして、わたしの耳に顔を近づけ、小声で言った。
「僕たちセックスばかりしてますよね」
「……うん、まあ」

 この前も、そんなことを言ったな、と思う。何が悪いのか、結局、それが、行き着く先だ。

「あの頃、僕、あなたと実質学校でくらいしかあわなかったでしょ?」
「うん」
「本当は、いろんなところ行ってみたかった。渋谷とか原宿とか横浜とか鎌倉とか浅草とかね、田舎者でしたから」
「……」
「あの頃のあなたと、作りたかった思い出が、いっぱいあって」
「……」
「でも、それ、もう、永遠に、作れないものですよね」
「……」

 彼は、少し、悲しげに深く息を吐いた。わたしも、つい、俯いてしまう。

 可笑しくて!

 あなたが焦がれていたあのオンナは、多分その頃、複数の男達や女達とベッドの上にでもいたのだ。

 本当に、こいつは、間抜けだ。

 でも、彼は、すっと顔をあげ、そして、わたしを優しく見詰めた。わたしも、微笑む。

「でもね、今、絶賛奇跡中なわけです」
「……」
「だから、今、今度こそは、この風景をおぼえておきたいって」
「……」
「あなたと歩いたこの街を、忘れたくないって」
「……」
「ラーメンも、スープカレーも、いろんな名物なんか、食べ歩いたり。駅のタワーも、テレビ塔も、藻岩山も、動物園も、ドームも、たくさんある公園も、夜の街も、あなたと」
「……」
「そしたら……そしたら、もしかしたらって、僕は、あの頃の僕を、救えるんじゃないのかって」
「……」
「あなたの歌も、もっと聴きたい――って、わかってます、贅沢、ですよね。っていうか、今の立場を棚に上げて何言ってんだってことですよね」
「……」
「あなたが歌いたくないのは、聞きました」
「……」
「だから、ムリになんていいませんけど……」
「……」
「……ハハ」
「……」
「だけど」
「何?」
「だけど、あの頃の僕が言うんです」
「……」
「あなたを」
「わたしを……?」
「……あなたの全部が欲しいって」
「……」
「あなたを全部、欲しいって」

 こめかみが痛い。わたしの演技が強ばる。

「本当に?」
「ええ」
「そう」

 唇を噛みしめたい歯が、口の中で蠢く。
 間抜け。
 どうして、この男はいつまでも、本音しか言わないのか。言えないのか!
 彼にそのつもりがなかったとしても、暗に「いま」の彼が、「あの頃」の彼ほどの熱情を持って無いことをこの一連の会話であっさりと白状してみせた。ほっとする。それでいい。

――だけど。

 彼は、少し立ち止まり、そして、振り向いたわたしに真剣な顔をして言った。

「もう少し、待って貰えますか?」
「……」
「僕が、もう少し、強くなるのを」
「……」
「あなたへの想いを証明できる日を」

 そして、シリアスに流れた自分を照れるように彼は顔を背けると、なんていうかこういうの照れくさいって言うかだからその――などと言い訳がましくごにょごにょ呟いて、歩き出した。

 そんな台詞はつまらない。陳腐だ。ガキクサイ。
 証明しようとなどしないで。
 わたしはいらつく。どうしようもなく。そんなものがわたしの心を重くする。
 間違って証明などされたら、わたしだけが、演技をし続けたわたしだけが、間抜けになるから。
 一方で馬鹿にしながら、もう一方で期待してしまうわたしが、自分の中で証明されてしまうから。
 こうして「永遠の恋人」でいようとする間抜けなコドモを、見詰めなければならないから。
 転落の自由を奪い続けるこの男に、わたしの全てを晒して、そんなものを吹き飛ばしたい衝動が、全身に漲る。
 わたしは、わたしの性格の悪さに、ふと、苦笑した。
 わたしは、やはり、知らずに待っているのだろうか。彼がもっと致命的なほどの、何か渾身のものを籠めたひと言を発する日を――わたしの全てが演技だとして、その演技になにか特別な価値をくれる瞬間を。
 わたしは、そして、こう応える。

「いいよ」
「……」
「待つ」
「……はい」
「待ってるよ」
「……」
「信じてる」
「……ありがとう」

 こめかみが痛い。こめかみが痛い。こめかみが痛い。

 わたしは、一刻も早くエイコの部屋へと帰ることを切望しながら、できるだけ幸せに見えるように、充分にこなれた微笑みで、彼の奇跡の中を歩いた。

<02 了 03へ続く>

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