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僕はハタチだったことがある #13【連載小説】【最終回】

 この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
 また、この作品は2014年にKDP・Amazonで電子出版された作品に読みやすくするため改行や若干の言葉の変更などを加え、分割して順次掲載する予定のものです。以前の電子書籍版とストーリーにおいて変更はありません。
 途中からお読みの方、#1(第一話)から最新話までをまとめたマガジンはこちら↓です。




 卒業式兼終業式は例年通りホテルの式場を借りて行われた。僕たちのコースの年度代表は、桂木だった。本人が出席せず、彼の父親が卒業証書や賞状を受け取るのを、クラスメートは不思議そうな顔をして見ていた。
 まだ、クラスに桂木の死は知らされてなかった。そうなることは、榛名先生から相談されていた。
「無遅刻無欠席は保ったけど、お前、社員として就職できなかったからなあ」
「はい、いらないです」
「かといって、他はどいつもこいつも無断欠席しやがって……なあ?」
「あの、桂木にやることはできませんか?」
「え?」
「いや、せめて、卒業させてやりたいって。生きてる人間の傲慢な感傷でしかないかも知れないですけど」
「ふむ」
 榛名先生は少し考えると、じゃあ職員で議論して、それでコンセンサスを得た上で、ご両親と相談してみて決めよう、確かに余計悲しい思いをさせるだけかもしれないし、と言った。
 どういう遣り取りがあったかまでは知らないけれど、彼の両親がそうして来たと言うことは、きっと多少なりとも良い考えだったのだ、と僕は思った。
 僕はご両親の涙を見て、まだ息が詰まるような気がした。でも、きっと、そういうことに慣れていくしかないのだ、と僕は思っていた。
 そういう思いを共有できるはずの君は、タカハルと共に、いなかった。卒業資格はいらない、聴講生扱いで良いと言って入学してきた君たちだったから、当然と言えば当然だった。
 それに事情があった。タカハルは自ら入院することを選んだ。どうしても、不安定な心を自分では抑えきれないんだ、とタカハルは言った。
「リンにはこれ以上できることはない。餅は餅屋っていうだろう? 専門家に任せようと思うんだ」
「まあ、よくわからないけど」
「たすけてくれて、感謝してる」
「うん」
「生きるよ。君の選択と努力を無駄にしないためにも」
「また、嘘じゃないのか?」
「君がそう訊くってことは、頭の中は漏れてないんだな。安心した」
 僕たちは笑った。きっと彼のことを理解なんかできない。でもそれでいい。僕はその時初めてタカハルを友達と考えても構わないんじゃないかと思った。
 式は滞りなく済み、クラスの集合写真を撮って、解散となった。けれど、皆ロビーで最後の別れを惜しんでいた。僕も何人かと卒業後の連絡先などを交換した。
 水谷もいた。東京だっけ? と僕は訊いた。まあね、また学校だ、と水谷は言った。
「編集者になる学校だっけか」
「まあ、とりあえず。どっちにしろやっぱり作家には向いてないような気がするし」
「そう」
 僕は、あの夜、水谷がしたことや貴句への気持ちについての本当のところを訊きたくなった。どうしようか口ごもっていると水谷は何気ない顔をして言った。
「少しは面白くなったろう?」
「何が?」
 水谷は、にっこり笑うと、何も応えず、背中で手を振って、ロビーを出て行った。
 僕が意味もわからず、立ち尽くしていると今度は貴句が僕の隣に立った。貴句は、なんか終わっちゃったね、と言った。ああ、と僕は応えた。
「相馬とは同僚になれると思ったのに」
「ああ」
「つくづく縁が無いんだね」
「そうかもね」
 僕たちは、見つめ合った。貴句は大きく息を吐いた。
「近藤さん、来れなくて残念だ」
「どうするの?」
「何が?」
「告白されたんじゃないの?」
「ああ、病気のこと」
「うん、まあ……それと――」
「良くわかんないよ」
「うん」
「怖いような気もするし、でも、一緒にいればそんなことはなかったし」
「うん」
「だから、一生友達でいようって決めたの」
「うん?」
「何があっても、ちゃんと、友達でいようって」
 貴句の顔は真剣だった。なんだ、恋の告白したんじゃないのかよ、タカハル、このヘタレめ、と僕は心の中で思った。病気の告白が貴句にもたらした固い友情の決意が、果たして、タカハルにとって良いものなのか、それとも針のむしろなのか、僕にはわからなかった。
 間違ってるかな? と貴句は訊いた。いや、僕もそうするよ、と僕は応えた。
 少し二人で俯いた。僕は湿っぽい感じを振り払おうと、いつもみたいに何か台詞でも言わないの? と訊いた。人となりては童のことを捨てたり、かなあ、と貴句は苦々しく笑った。
 貴句は他の女の子達に呼ばれた。結局俺にはあいつらだけか、と呟き、その中には相馬も入ってるよ、と手を振って、貴句は離れていった。別れが来なければ、それがどういう繋がりだったかわからない自分に僕は笑うより仕方が無かった。
 僕は榛名先生に挨拶をしてから、帰ろうと思った。先生は、スーツ姿の僕を上から下まで見て、おつかれ、と言った。ありがとうございました、と僕は頭を下げた。先生は、やめてくれ、と少し嫌がるように手を振った。僕が頭を上げると、榛名先生は言った。
「ところで、百回失敗したか?」
 僕はアシスタントをしていた時のことを思い出した。笑顔が勝手にできた。
「どうでしょう、百回とは言えないですけど、結構やりました」
「そうか、良く頑張った」
「はい」
「次は、千回失敗しろ」
「ええ?」
「そしたら、一緒に酒を飲んでやる」
「それはいらないなあ」
「なんだと?」
 僕と先生は笑いあい、そして、固く握手を交わした。先生は左手をぽんと僕の肩に置いて、口を耳元に近づけた。
「相馬、お前は死ぬな」
「まあ、でも、うちは早死にの家系で――」
「命より大事な仕事なんてないぞ」
 先生は本当の事情を知らない。僕は、あるいはこの人になら、全てを相談できたのかも知れない、と思った。でも、今更そうしようとは思わなかった。ただ、はい、と応えた。そう言えば、閉校の後の次の仕事どうするんですか? と僕は訊いた。先生は頭を大げさに抱えて、それなんだよなあ、とぼやいた。
 僕はその後何人かと別れの挨拶をして、ホテルを出た。
 何と言ったらいいか、手応えみたいなものが、何もなかった。卒業したからと言って、その日劇的に自分自身が変わるわけじゃない。小学校でも、中学校でも、高校でも、そうだった。
 僕たちは平凡な日々の、その内の一日を、押し流されて行くだけの話だ。
 それに抗おうとする夢も理想も、僕には無かった。
 自分の凡庸さを僕は想った。
 こういうものと僕は一生付き合っていくんだ、そう帰りの地下鉄の中で決めた。



 僕はすぐ仕事に戻った。決まっていたように、朝からシフトに入った。
 楽しくも、辛くも無かった。
 今泉さんが、時期が来たら、社員として働けるように手を打つからな、と言ってくれた。ありがとうございます、と礼を言った。
 彼を信用していなかったわけではない。でも、それほど期待をしているわけでもなかった。
 淡々と僕は画像を切り抜き、ゴミを消した。部屋にいるときは、ゆうきを描いたスケッチブックをずっと眺めて過ごしていた。発表に使ったデータを見るコンピューターはまだ無かったし、色々加えた修正も、何だかその時になって思うと、余計なことだった。
 ゆうきは、その下手くそな鉛筆の跡の中にこそ、いるような気がした。
 何時間でも、僕はそれを見続けた。

 卒業式後、初めての休みのその時もそうだった。チャイムが鳴った。僕は不完全なゆうきの絵を見ながら、でも、誰が来たのかをわかっていた。
 君だった。
 君は上がれとも言わないのに、靴を脱ぎ、ベッドに腰掛けた。僕もその隣に座った。
「あたしたち、明日警察に呼ばれるわ」と君は言った。
「何で?」と僕は言った。
「あの娘が、あたしに何かされたって言い出したらしい」
「何か、ね」
「かなり曖昧にだけれど」
 僕は息をついた。面倒くさいな、と思うと同時に、仕方無いか、と諦めが僕を俯かせた。君は、僕を睨んだ。
「連中は、証拠が無いから、自供で何とかしようとしてる。あたしたちが、知らない、わからない、やってない、って言い続ければ何とかなる。弁護士もこっちで手配する」
「どっちにしろ、そんなに甘くないだろう?」
「全部認めて楽になろうとしたりしないでね。あなたはヒーローじゃないのよ」
「もう、僕は、いいんだ」
「あなただけの問題じゃない。あたし、こんなところで立ち止まるわけにはいかないの」
 僕は君を見た。怯えでも、不安でもない、強い光が瞳の中で揺れていた。
「あたしのために嘘をついて」
 君は僕の膝に手を置いた。ははは、と僕は笑った。我ながらわざとらしかった。
 どうしてそういう情報が君のところに漏れるわけ? と訊いた。知らなくていいことは知らなくていいのよ、と君は応えた。
 僕の目はいつのまにかゆうきの絵に戻っていた。
 君はそれと僕を交互に見て、そして、顔を背けた。
「タカハルがうちを出ていくわ」と君は言った。
「そう」と僕は応えた。
「退院したら、部屋を探すって」
「そう」
「この国の福祉は生きようとする人間を殺したりはしないんだ、ですって」
「そう」
「でも、飼い殺しには変わりない」
「そう」
「あたしがしようとしたこと、全部失敗した」
「そう」
「あたしは、もっと知らなくちゃならない」
「そう」
「大学へ行く」
「そう」
「タカハルに、希望が申し訳ないなんて言わせたものと戦うために」
「そう」
「たすけてほしいの」
「そう」
「あたしたちは、同じ闇をわかちあった」
「そうかな?」
「今度は、同じ光を見たいの」
「……そう」
「小さかったあたしたちの約束を、今、かなえて」
 君が額を僕の肩につけた。僕はその小さな頭に目をやった。
 そして、またゆうきを見た。
 押し返す力もでなかった。僕は心に浮かぶ色んな言葉の表面を口の中で舐めてから、それはできないよ、と言った。
 君はばっと顔を上げた。そして、おもむろにスケッチブックに手を伸ばした。君はその紙の端を掴んで力を入れようとしたまま固まった。
 僕は言った。
「それを破ったら、君を許せなくなる」
 君はそれを聞くと、目を強く閉じ、少し躊躇ったように指を動かした後、でも、それを二つに引き裂いた。
 僕は切れ端が床に落ちるのを見ていた。怒りや悲しみというには、あまりに手応えの無い空虚な感覚が、僕の動きを封じていた。
 君にしてしまったこと、してやれなかったことが、去来した。
 随分と長く沈黙があったような気がして、ひどいな、と口が動いた。君に向けるべきは笑顔よりなかった。
 立ちすくんだ君を見上げた。泣いていた。
 その表情がそれまで見た事ないほど崩れていた。
 そして、あ、あ、と声が漏れたかと思うと、それは震えるような叫びに変わった。
 もう絶対に君を選べない、と心が言っていた。
 なのに、腕は君の身体を強く抱き締めていた。
 君はいつでも僕を複雑にしてきた。その時もそうだった。
 僕はたまらない疲労を感じていた。でも、腕の中の破裂し続けるものを容易に離すことができなかった。
 僕は気付いていなかった。それが、君が取り返そうとしていたものであったことを。
 君は、泣いて泣いて、日が暮れるまで泣いて、最後に、ねえ、背中が痒いわ、と言った。僕は、強く君をつかまえていた腕を緩めて、背中に爪を立てた。
 君は、気持ちよさそうに微笑むと、僕の胸を少し押して、さよならなのね、と言った。僕も、微笑んで、さよならだね、と応えた。



 君が帰った後、僕はベッドに横たわり、天井を見ていた。
 何も無くなったな、と思った。もしかしたら、明日来るという警察との遣り取り次第で、仕事も無くなるかも知れなかった。
 僕は何気なく携帯を開いて見た。
 電話帳に登録されているどの名前も、僕のこの気持ちを受けとめてくれそうにないと思えた。
 溜息が出た。携帯を放り投げた。
 放り投げて、でも、未練がましくそれを眺めていた。
 そして、本当にふとその人を思い出した。
 僕はがばと身体を起こし、震える指で携帯を持ち上げ、発信ボタンを押した。五度呼び出し音が鳴り、その人は、いつもと同じように、おっとりとした声で電話に出た。
「どうしたの?」
「今、好きな人いる?」
「突然ねえ」
「どうなの?」
「いないけど?」
「じゃあ、結婚してくれないか?」
「いいよ」
「……え? ……いいの? 考えなくても?」
「うーん、よくわからないけど、難しいことは、聡ちゃんが考えてくれたんでしょう?」
「いや、まあ……」
「それに、聡ちゃんのお願いなら、断れないもの」
「なら、もうひとつお願いがあるんだ」
「なあに?」
「僕が、ゆうきを忘れそうになったら、窘めて欲しい」
「うん。でも、聡ちゃんは忘れないと思うよ」
 僕にはもう言葉が無かった。
 でも、電話の沈黙の向こうに笑顔があることだけは間違いがなかった。ほぼ衝動的だったけれど、僕はこの人となら、生きていけるとその時には確信していた。
 あら、でも、と声は言った。何? と僕は訊いた。これってすごい年の差ねえ、と琴子が言った。そうだね、と僕は応えた。
 電話を切った後、僕は、自分が、確かに何かに収まったのを感じて、深く深く眠りに就いた。

 警察では、随分と執拗に聴取を受けた。脅しに近い言葉もあった。
 全て話して楽になりたい気持ちはピークに達していたけれど、僕は君の言う通りにした。
 君のためばかりじゃないのは明らかだから、恩を売るつもりは無い。
 僕は、真っ直ぐ、清く、格好良くなんて生きられない。
 でも、汚れたついでだから、君の前進を邪魔するのはやめよう、と思ったのも事実ではある。
 僕はもやもやとした不自由を受け入れた。
 君の寄越してくれた弁護士のおかげもあってか、最終的には、部屋を乗っ取られた時、すぐ警察に通報しなかったことをこってりしぼられた後、僕は解放された。
 部屋に帰って、僕はすぐにでも琴子の部屋に引っ越そうと決めた。
 どこから片付けようかと考えている内に、部屋の片隅に置いてあった、あの日君が僕に「万引き」させたコーラのボトルが目に入った。
 何気なく手に取り、キャップを捻ると、ぶしゅう、と噴き出して、カーペットに泡状の液体が散らばった。僕は苦笑した。
 そして、久しぶりに飲んだコーラはどこかぼやけた味がした。

 三月、あれだけ深かったこの街の雪が、僕のハタチとともに、消えてしまおうとしていた。
 そして、四月、僕は誕生日に、婚姻届を提出した。



 君のいた僕のハタチの話はこれでおしまいだ。その後について書くことはそれ程多くない。でも、幾つか書き留めて置こう。

 僕自身については平凡なものだ。仕事は、ほぼ一年間アルバイトとして働いていたが、今泉さんの約束通り、次の新卒募集に合わせて、正社員として採用された。
 内容は相変わらずドラマティックなものじゃない。でも、僕は飽きずに続けている。
 身分が安定した後、子供もできた。琴子の年齢的に急ぐ必要もあった。
 男が二人。年子だ。
 最初の子供には、琴子と相談して、勇希と名づけた。下の子は、光太にした。父親の名から貰った。ばあちゃんは、早死にした連中の名前なんて、と文句を言ったけれど、想像力に乏しい僕にはそれ以外に考えられなかった。
 子供は元気で、琴子は素晴らしい母親だ。君は何度も僕を幸せだと言ったけれど、家族といるときほど幸せだと感じたことは無い。もうそれ以上書かなくていいだろう。

 水谷は東京の専門学校を出た後、小さな編集プロを転々とし、最終的にライターになった。
 彼の所属しているパチンコ雑誌をたまに読む。いつか電話した時、何故パチンコなんだ? と訊くと、いや、東京でつい手を出したらやめられなくなった、と言っていた。
 時々おばかな企画記事の写真に彼がいるのを僕は何だか嬉しく思う。彼の名前が出る文章はやはり会話形式が多い。
 結婚はしていないそうだ。その理由が、単に相手がいないのか、それとも結婚が法的に認められない相手しか好きになれないからなのか、いまでも、謎だ。

 貴句は二年東京で勤めて、この街の支社に転勤になって戻って来た。
 たまにメールで、その内会おうね、と遣り取りするけれど、中々実際会うところまでならない。
 絵は今でもたまに描くけれど、仕事に忙殺されて、本格的なマンガを描くまでにはいかないそうだ。僕には上手く見えた絵がこうやって埋もれていくのを残念に思うけれど、ひとにはそれぞれ選択がある。うかつには口出しできない。
 そう、口出しできないのはタカハルとの関係もだ。割と会うんだ、と貴句は書く。二人に何があるのかないのか、僕にはわからない。でも、貴句は、あの卒業式で僕に言った決意を曲げていない。僕はその時間だけが証明するものを美しいと思う。

 タカハルともメールをする。彼は退院後福祉の世話になりながら、印刷を主に業務にする作業所に何年か通っていた。
 会う時も、随分と調子は良くなって、病気を感じさせることはまったくない。貧乏揺すりもあまりない。薬が減って、収まるようになったそうだ。
 彼は生きている。
 そこにどんな孤独や苦労があるのか、想像もつかない。でも、元気だ。

 師匠の店の前をたまに通ることがある。今でも営業はしているみたいだ。でも、僕は二度とその階段に足を下ろそうとは思わない。
 あと十年たったら、もしかして、そんな気になるのかもしれないけれど。

 セイゾーさんについて、僕はどこから書けばいいのかわからない。あえて君にいわなくてもいいような気がするし。
 でも何とか整理しながら書いてみよう。
 彼は、あの後すぐに、中華料理のチェーン店の厨房で働きはじめた。
 働きながら、僕と曲作りを開始し、早速ストリートライブもした。
 僕は、素直に音楽の仕事やったらどうですか? と忠告したことがある。するとセイゾーさんは笑ってこう言った。
「音楽からは色んなものをもらってる。この上、金までくれとは言えないよ」
 僕はその言葉に妙に説得されてしまって、それ以上そのことについて言うのをやめた。
 曲作りは、難航する割に、あの曲を越えたと言えるものは無かった。マジックは消えたのかな、とセイゾーさんは言った。それは、もしかしたら、あの曲を書いた時のように、切羽詰まった何かが、僕たちから去って行ったからかもしれない。
 僕について言えば、自分の気持ちを歌詞の中に押し込めることができなくなっていた。それを才能の無さと呼ぶんだろう。僕は書くのが辛くなって、セイゾーさんに、恋の詞も書いてみたらどうですか、と言ってみた。セイゾーさんは、いや、やっぱり恋がわからないんだ、と返すだけだった。
 だから、セイゾーさんが君と結婚した時、僕は唖然とした。
 それも、すぐに子供も生まれるとセイゾーさんは言った。未練というのでも、嫉妬というのでもない、何か込み入った感情が僕をくらくらとさせた。本当に君は僕を複雑な気分にする。
 いいんですか? と僕は訊いた。セイゾーさんは、いや、ビデオに出ていた女の子と結婚できるって、滅多に無いチャンスだから、と応えた。君はセイゾーさんに全て打ち明けることができたんだな、と僕は思った。彼の目を何も言えず見詰める僕に、セイゾーさんは、全部わかってるからさ、と笑った。僕は申し訳ないような気持ちでいっぱいになった。
 何度か誘われたけれど、君たちの家庭を訪ねることはしなかった。そんな僕を知ってか知らずか、離婚もすぐだった。君に子供が生まれて、半年後のことだった。うん、楽しかったからいいよ、とセイゾーさんはあっけらかんと言った。
 君が子供を抱えながら、地元の大学の経営学科に入学したことは、だから、セイゾーさんから聞いていた。

 あんな別れをした後、二度と会うことがないというのが多分物語的には美しいんだろう。
 でも、広いようで狭い街だ。
 僕は君と偶然顔をあわせることもあった。勇希が生まれてすぐの頃の、駅だった。
 目が合った位置から、会話するには少し遠いかもしれない距離で、子供ができたよ、男の子だ、と僕は言った。
 君の零れて落ちそうな瞳の漆黒を僕は懐かしく思った。君は、とても穏やかに口元を緩めて、良かったわね、マヌケのサイアーラインが残せて、と言った。
 そして、それきり僕たちは振り向いて、何もなかったかのようにその場を歩き去った。
 僕はその晩、あの時君がヘッドフォンで僕に聞かせた曲を聴いた。全てが終わったんだ、そう思った。君が大学を卒業して、飲食店を開き、タカハルを社員として雇ったと聞いたのは、そのずっとずっと後の話だ。

 そして、僕は三十歳になった。
 僕の家系に伝わるジンクスは破られた。
 ばあちゃんたちが僕を特別扱いすることはなくなった。たまに帰省すると、ひ孫たちを下にも置かない猫かわいがりをする一方で、かつてのゆうきにしていたような扱いを僕にする。僕は苦笑しながら、それを嬉しく感じている。
 琴子は、きっとゆうきがあなたに命をくれたのね、と言う。
 他の人に言われれば気に障るかもしれない言葉も、琴子からなら不思議と平気だ。
 僕は本当に平凡で幸せだ。
 でも、あの時、君がいなかったら?
 僕たちはあまりにも不器用で、何一つうまくできなかった。
 美しくないと思っていた。ずっと、恥ずかしかった。君が現れなければ、僕はもっと穏やかな日々を送ることができた。
 全部君のせいだ。
 僕は今でもあの絵を時々取り出して見る。師匠に教わり、ゆうきがモデルになり、君が破いて完成した絵を。心が痛い。
 でも、君という僕の人生の例外が、今の僕に幸せを感じる力をくれた。それだけは間違いないって、時々思うんだよ。
 君に伝えたい言葉が、どうしても一言にならなくて、僕はこんなにも長く書くことになった。
 そして、これ以外のことを書ける気がしない。僕は、やっぱり、父親のように、作家にはなれない。これも、君が教えてくれたことのひとつかも知れない。
 とりあえず、君がこれを読んでくれることを心から願う。
 これが僕の全部だ。
 
 一つ書き忘れるところだった。
 子供と一緒にアニメを見ることが多い。その時も、なにげなくエンドクレジットを眺めていた。僕は、最初、見覚えのあるその名前を、まさかその人のものだと思わなかった。同姓同名はよくあることだ。
 でも、ネットでその名前を検索してみた。
 驚いたよ。はるなさやか、という名前で先生は声優になっていた。先生が一番出世してどうするんだよ、と僕は可笑しくなった。
 本当に、愉快だ。


 追記 
 これを読んだ君から、一行だけメールがあった。
「まだあなたの知らないことだってあるのよ、マヌケ」
だそうだ。
 知らないこと。
 君はいつまでも僕を不安にさせる。
 まったく、君って女は!


<了>


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