epilogue 03【連作短編「epilogues」より】
この物語はフィクションです。実在するあらゆる個人・団体・学校・組織および事件・事象などとは一切関係ありません。
連作短編「epilogues」をまとめたマガジンは↓こちらです。
わたしのダンナには最近好きなひとがいる。
それは、わたしじゃない。
だからといって、今、恨み言をここに書き連ねたいわけではないよ。
正直、そういうリアリティがまだわかない。
コレはまだ、わたしの想像の域を出ないし、なんの証拠もなくて、だけど悲しいかな、なんとなくそう感じられる、という程度の話なのだ。
ただ、ある日、ある朝、仕事に出て行くアイツの背中を見送ったときに、突然、もう、ほんと、突然に、そう思ってしまった!
これがいわゆるオンナの勘というやつだろうか。
でも、その瞬間も、ダンナに好きなひとができたことに対する嫉妬より先に、自分がそういうことに気付いてしまうオンナだったということに、驚いたくらい。
わたしは、自分をあまりオンナだと思って生きてきたことがなかったから。
いや、別に、だからといって性なんとかショーガイとかいうことでもなく、男になりたいとか思った事はないし、男しか好きになったことはないけれど、自分が女性であるということを意識することがなかったということ。
どうでもよかったっていうこと。
男しか好きになったことはない、と言ったけど、もしかしたら、恋そのものについて、わたしは疎いのかも知れない。
いままでに思いっきり恋をしたことがあったなら――周りにいっぱいいた女子達みたいに――自分がオンナであるということに、もっともっと自覚的であれたのかも。
だけど、残念ながら、わたしにとって、「オンナであるかどうか」は「夢が叶うかどうか」より重要な問題であったことはなかったんだ。
つまり、わたしの夢は、漫画家になること。
それも、できれば大手の雑誌の連載陣に名を連ねること。
いや、最近のWeb経由のデビューをイヤだとか、低く見てるとか、どうこういうわけじゃなくて、ただ、あの、分厚い雑誌の表紙に自分の名前を載せる、それが若い頃に決めたわたしの夢で、そのときの決意を、何故か緩めたくない、というただそれだけのことなんだけれど。
いやいや、自分にそこまでの才能がないのは、実は、わかっています。
わたしは絵が好きで、小さい頃から、紙にほんの少し白い部分があって、手に何か描けるペンの類を持っていたなら、ことごとく絵で塗りつぶしてやった自負はある。
わたしの学生時代の教科書は、だから、ちょっとした現代アートと言ってもいいくらいに、模様とキャラクターで埋め尽くされてる。
そしてわたしは将来有名漫画家になったときに、その教科書を手に持って取材を受け、新聞かなんかの写真で微笑む。
『わたしは漫画を書くために生まれてきた』とか、見出しがついて。
うん、少し、調子に乗った。
わかってる。絵がどんなに上手かろうが、漫画というやつは物語やネタとセットだ。
ネーム。
で、そっちの方は、珠玉の文学的名作たちや役に立ちそうな知識が満載されてたはずの教科書を判読できないほど塗りつぶしてきたせいで、からっきしだ。
かと言って、言ったように、自分に語るべき恋の経験も多くない。なんだあのラブコメの感動的な台詞!
みんなあんなこと言いながら恋してんのかよ、わかんねーよ……。
というわけで、学校を卒業してから、わたしはお絵かきの上手いただのコンビニ店員時代を、店のポップを描かせるのに便利、くらいの立場で数年続けることになったわけだ。
ちょっとその間色々あった男もいなかったことはないけど、基本、ひとりで絵を描いてた。
そして、そんな折、アイツと出会った。
で、結婚した!
おい、その経過は? と自分でも言いたくなるほど、あっさりと結婚した。
「僕がストーリーを書こうか?」
「え?」
「手伝いたいな。なんなら、君の夢が叶うまで、僕が養ってもいいし」
まあ、悪くないな、と思ったのだ。
特に、後の方の台詞が。
正直働いてる時間を描くことに回せたら、もしかしたら、もっといいモノが描けるんじゃないか、なんて思ったし。
だから、結婚してくれるなら、と言ってみた。ある意味相手の本気を試したのかもしれない。まさか、ほんとにそれを呑むなんて、少しびっくりしないでもなかったけれど。
ああ、なんという打算!
絶対に漫画のネタになりそうもない貧相な結婚を選んでしまった! こう、もっと、血圧の上がりそうなドラマティックなものにすればよかったなどと思わないでもないけれど、現実は漫画じゃない。
こんな程度ですよ。しょせん。
でも、それ以来、色々なことが好転しはじめた。
しばらく描き上げてこなかった原稿がちゃんとアイツの手伝いの甲斐あって最後まで完成したし、働かなくてイイし、ちゃんと賞なんかにも応募できるし、働かなくてイイし、応募した作品が奨励賞なんかもらうし、働かなくてイイし、商業誌に読み切り作品なんか掲載されちゃって、半ば夢は叶ったし、働かなくてイイし、次は連載ってところまで来たし、働かなくてイイし、とにかく働かなくてイイし。
絵を描くのが仕事?
でも、どうも、こう、それを「仕事」とは思えないので。
わたしにとって「仕事」というのは、朝早くでていって、夜遅くヘトヘトになって帰って来る父親のソレで、時間が来るまで立ちっぱなしで何度も預かり金のレジ打ちを間違えて客に怒鳴られ嫌な気分になるアレで、だから、どうしても絵を描くことを、まだ「仕事」という風には思えてない。
だって、いま最高に楽しいもの!
そう言えば、ダンナはわたしがレジを打ち間違えても、操作にもたついても、ただ苦笑して、決して怒ったりしないひとだった。
見た目は冴えないけど、いい奴だな、くらいには思ってたのだよ。実は。
好きだー、とか、レンアイー、とかじゃないけど、好感度は悪く無かった。
うん、それはどうでもいい(いいのか!?)。
まあ、だから、こんなに人生を好転させてくれたアイツは、わたしにとって大事なラッキーチャームで、一緒に住んでみると割と本当にいい奴で(トモダチはいないけど)、だから、せめて自分にあげられるものは、あげようと決めたのだ。
かといって、家事的スキルには欠けているし、大体そういうことは一人暮らしの長いアイツも面倒がらずにするから、わたしにできることと言えば、例えば、セックスであるとか、アイツのトモダチであろうとか、そういうことだけだったのだけど。
「おかえりー、あなた、セックスにする? Sexにする? それともせっ・く・す?」
「ああ、外で済ませてきた」
わたしは、口を尖らせて、アイツの尻を思い切り蹴る。ってーな、とアイツは、苦笑する。
そういう返し。
自然にそういうことを返せるというのは、もしかしたら、わたしの勘はただの勘違い、というやつかもしれないと思う。
アイツはネクタイを解き、コンビニで買ってきた弁当を食卓テーブルにおいて、食べる? と訊く。わたしは、ふざけた調子のふて腐れた顔のまま、椅子に着いた。
「食べる」
「うん」
海鮮あんかけ焼きそばとチキンカツ弁当。それにビッグフランクが二本。いずれにせよ食べ飽きているけど、そこらへんにも別にこだわりはない。うん、グルメ漫画とかも絶対無理。
アイツは、好きな方食べて、と言いながら部屋着に着替えている。わたしは、両方食べたい、と応える。じゃあ、半分こしよう、とアイツは戻って来て、席に着いた。
わたしはとりあえず焼きそばの方のラップを破って蓋を開ける。それをアイツは微笑ましげに眺めている。
「さっきみたいなの、漫画で憶えるの?」
「ん?」
「おかえりー、のあとの」
「あ? ああ、そうだね、多分、どっかで見たんだと思う」
「憶えてないんだ?」
「馬鹿だから」
「お、気が合うね、オレもだ」
わたしたちは、互いに苦笑しながら、少し見つめ合い、そして、それぞれの弁当に視線を落とした。
そして、その三十分後。わたしは、わたしの『家事』をする。
「ふぇね、ふぁんふぉうはね」
「舐めるか喋るかどっちかにしなさい」
「じゃあ、舐める」
「そうですか……」
わたしの作る料理には割と気のない褒め言葉しか口にしなかったアイツの、好物。
別にこっちはやってたって気持ち良くないし、好きなわけでは決してないけれど、まあ、家事も炊事もとりたてて喜ばないアイツが、これを初めてした時にとても嬉しそうだったので、漫画を描かなくて良いときには、わりと積極的にそうすることに決めた。
婚前の交際に時間を掛けなかったわたしたちに、他の絆みたいなものがない以上、それくらいが、結婚の証拠のような気もする。
でも、なんというか我ながら夜の営みに色気がない。
なんだろう、感覚的には、公園で一緒に泥遊びしてるくらいのそれ。
ゲーム的な。
せいぜいいいとこスポーツマッサージくらいの。
まあ、反応を見るのは、楽しいときもある。早くイカせるとちょっと優越感があったりもする。
でも、なんかこう……エロくない。だから、これもエロシーンの参考にならない。
エロマンガとかも無理。
「薄い本」で生計を立てるプランは、考えるだけムダ。
なんだ、わたしの人生は、まったくネタにならないな! と、少し悲しくなるが、それはそれ。
というか、最近、妙に持ちが長くなった。慣れやがったな? 贅沢させすぎたか?
……いえ、もしかして、このひと……!
とか。
うん、ここ、ダンナの浮気を疑って、不安になったり逆上したりするところ。でも、実際、自分にそういう衝動がない。
ちょっとめんどくさくなったくらいのこと。それだけのこと。
ことが済んで、口の中で受けとめたものを呑み込んだわたしは、ベッドの上のアイツの隣に飛び込むように横になって、その身体をぎゅっと抱き締めた。いいの? と訊かれる。いいよ、とわたしは応える。アイツは、ありがとうございました、とわざとらしく、うやうやしい礼を言う。いえ、こちらこそ、貴重なたんぱく源を、などと冗談で返す。笑う。
まあ、それでいい。
アイツは訊いた。
「で、さっきの話」
「ん?」
「だから、担当がどうしたって」
「うん、ダメだったみたい?」
「……あ? 何その疑問形」
「それがさー、電話かけてきて、まず、なんて言ったと思う?」
「なんて?」
「『木戸さん、僕は面白いと思いましたけど、読者ってのはね、バカなんですよ』だって」
「は?」
「いや、だから、何言ってんのかちょっとわかんなかった」
「うん」
「わたしも、馬鹿だから」
「……わかりやすく書けってこと?」
「いや、だから、わかんないけど。そうかもしんない」
「それ以外には?」
「いや、じゃあ、ネームやり直しますか? って訊いたら『お願いします』って」
「……ふうん」
「自分こそがわかりにくい表現してるくせに何言ってんだろうね」
「……うん」
「っていうか、いま思ったんだけど!」
「うん」
「あいつ、読者をバカだと思って雑誌作ってんだよ。客をバカにしながら本作ってんの。自分は賢いからわかるけど、下々の者にはわからないんですよ、って」
「うん」
「わたしもあの雑誌の読者だったっつの!」
「うん」
「……あ」
「うん?」
「だから、馬鹿だったのか……」
自分の結論にがっくりとしたわたしの頭をアイツが、不憫な子だなあ、とふざけた調子で撫でた。わたしは甘えるように身をすり寄せて、おねだりしてみる。
「ねえ」
「ん?」
「ストーリー作って」
アイツは、一度深く息を吸い込んで、ねむたげに応える。
「ないなー」
「えー、うそつきー、ここまで一緒にやってきたじゃん。ユウジさんがいなかったら、ここまでこれなかったよ?」
「そりゃそうかもだけど……だってさ、俺、やっぱり職業ものなんか書けないよ。前も言ったけど、俺の仕事なんて、ドラマにならないし、誰の興味も引かないよ。じゃあ、取材してみるかっていったって、そんなことしたことないし、ひまもないし……だいたいそんなトモ……知り合いいないし」
「ごめん、本当にごめん」
「何、その憐れんだ感じの謝罪! 余計悲しくなるわ!」
「冗談だよ……ほんと、ごめん」
「だから!」
「っ……ごめんなさいっ!」
「もう、謝罪で俺の心をえぐるのはやめて!」
そして、わたしたちは笑う。短く笑い合って、そして、少し真面目ぶった声でアイツは言う。
「ここまで来たのは、そっちの才能だよ。俺の、じゃない」
「……そんなことないし、ほんとユウジさんいなかったら……」
「お前の絵は、わかりやすい」
「ん?」
「わかりやすく、いいよ」
「……ん」
「誰にでも、すぐにわかる、良さだと思う。皆がきっと好きになる良さだよ」
「……」
「だから、馬鹿な俺でもわかる」
「……ありがと。でも」
「……」
その後、少しだけ開きかけたアイツの口が何を言おうとしたのか、わからない。
ただ、スマホが微かに震えて、アイツはそれを持ったまま、うんこしてくる、となにげなく、トイレへと籠もってしまったから。
いったん疑いの念というやつが起きてしまうと、何故だろう、すべてのことが怪しく見え始めるなあ。
「外で済ましている」という結論ありきで、アイツを見ている自分に気付く。
そんなことより、トイレでスマホ使うのってどうなの?
なんとか菌まみれになるんじゃないの?
うんこ菌。
どんなに密かな、背徳感のある、ロマンティックなやりとりがされても、ある意味うんこを介して行われていると思うと、なんだか滑稽で間抜けだ。などと考えて、自分の幼稚さがイヤになる。
まるで小学生!
オトナの男にものを買わせたい広告は、よく「少年の心を忘れない」とか言ってるけど、小学生男子なんて、うんこちんこ言ってるだけのただの馬鹿だぞ? 観察する限りにおいて。
……っておい、いま、わたしの生きる糧が奪われようとしているのかもしれないのに! なんだか切迫感というか、真剣さというか、シリアスさに欠けている。
これはレディースコミックも無理だな。ドロドロの愛憎劇とか、ありえん。
うん、わたしがひとりでやるとすれば、ギャグしか残されてないような気がする。しかし、けれども、聞き及ぶところのギャグ漫画家たちの逸話に比べると、わたしはまとも過ぎる。普通過ぎる。
それにアイツが書いたギャグ系ラブコメへの担当の感想は、「絵と物語がミスマッチ過ぎます」だった。どうやらギャグ向きの絵ではないらしい。「僕ならシリアスでいきますよ。そういう力量の絵です。もったいない」って。
なんだよ、それ。もったいないって。
ギャグを馬鹿にしてんのか?
そもそも、仮にその物語が無かった場合、絵だけで応募したって、賞なんかくれなかっただろうに。
そんで、うちのライターをディスってんのか? とは、共同製作を秘密にしている以上言わなかったけど。
まあ、それほど怒ってもいなかったのもある。
っていうか、なんで秘密にしなきゃならんのかよくわからん。こう言ってた。
「俺が手伝えなくなったときのためだよ。俺がいなくなっても、自然に移行できる」
うん、よくわからん。なんつーか、逃げ腰だな! さては飽きたら捨てるつもりか!? わたしとはアソビだったのね。
……結婚したけど。
でも、わたしは、割とアイツの書いたものが好きだ。思いやりでも、養って貰ってる恩義のお世辞でも、ひいき目でもなく。いや、少しはあるかもしれない。それはわからない。
でも、なんていうか、片思いの男の子が、好きな女の子に振り向いてもらうために、必死で、馬鹿で、斜め上のコトを言ったりしたりする、ドタバタラブコメ。
完成した読み切り何作か、結局どれも主人公はふられちゃうんだけど。
笑えるし、なんか、少し、繊細で、哀しい。少なくともわたしには書けない。
うん、わたしはストーリー全般作れないが。
わたしはだから、ふたりで描いたあの原稿が、奨励賞を貰ったとき、嬉しかった。
なんか、ふたりで一緒に認められたような気がした。
仲間、と思ったんだ。
大手を振って一緒に住んでいい理由ができたような気がした。
まあ、でも、あれからかな、と想う。
何が?
――それにしても、長いうんこだ。
わたしはアイツを待ちきれずに、さっさと寝ることにした。そう決めて、瞼を強く閉じた。でも、眠りには落ちなかった。
わたしのスマホも、震えたから。
普段ひとりでは絶対立ち入らない感じの、馬鹿馬鹿しいくらいオシャレなカフェだ。
折角だから、ドヤってやろうかと想ったけれど、わたしは高価なMacなど持ってなく、Wifiを繋げて外で仕事をしなければならない理由もなく、もしくはコーショーなブンガク作品の文庫なども持ち合わせてなかったので、なんとなく窓の外を眺めていた。
まあ、趣味「人間観察」。
それはそれで我ながら鼻持ちならないような気もするけど、絵を描く上で、見ることは大事なネタ探しでもある。
どんなに資料本を集めても、実際に動くひとたちの服装や仕草を見ること以上の「参考資料」はない。
一生懸命観察して、憶えて、あとで記憶が曖昧になってるところに、自分の解釈と工夫を描き込む。
うん、なんかそれっぽいことしてる。
若干、優越感と満足感。
でも、そんなものにも飽きてしまって、いつのまにかわたしの焦点はぼやけている。
うん、ずーっと時間を忘れるくらいそれに没頭できるなら、天才っぽいけどな。
平凡なんだよ、わたしは。
そして、わたしは母からの電話を思いだす。
「田之倉さんとこのかっちゃん、結婚するらしいよ」
だから、何だ? それが何かいまのわたしに関わりがあるとでも?
「あんたら、つきあってたしょ?」
だから、何故知ってる? アイツとはあの町を離れて、この街で再会してからのつきあいで、地元にはナイショにしていたことなのに。恐るべし、親の勘。
「って、聞いたよ、かっちゃんのお母さんから。ミエちゃん」
くそ、勘じゃなかった。田舎特有の高度に洗練された情報網からだった! ナイショにしようなんて自分からいいやがりくさったのに、自分は母親にペラペラしゃべってやがったのか、あのおしゃべりめ!
「ほんで、あんた、最近雑誌に載ったしょ? それ言ったらね、かっちゃん、なんか用があるって。かっちゃんもまだそっちにいるからねえ、サインでももらいたいんじゃないの? ってミエちゃんしゃべってた。で、電話番号教えたから」
最悪だ。
はんかくさいんじゃないの?
個人情報なんたら法ってもんをシランのか、この歩くセキュリティホールどもめ!
これだから田舎は嫌いなんだよ!
絵を描くことを、あれだけムダ扱いして、馬鹿にして、禁止しようとしたくせに、ちょっと上手くいったら手の平返しやがって!
……あ、思わず口が悪くなった。いっけなーい、ワタクシったら!
つい「育ちの良さ」が出てしまった。
そんなこんなで、経緯はともかく、数日後、わたしはこんなところに出てこなければならなくなったわけだ。
そんな義理もないけれど、サインのひとつもしなかったなどと地元に広まれば、うかつに帰省もできなくなる。
ひとのアラを探しては、悪口をサカナにお茶や酒を飲みたい連中の蠢く魔窟。ひとりひとりは悪いひとじゃないのに、何故、寄り集まるとああなのか。
ま、離れてしまえば、普段は忘れていられることだけれども。
ふ、とぼやけた視界に立つ男がいた。わたしはそれに焦点を合わせる必要もない。
見飽きた。
わたしはそれが誰かなど確認もせず、あごで座れ、と伝えた。男は座って、そして、変わり映えもしない挨拶をした。
「ひさしぶり」
「……何の用?」
「……いや、とりあえず、おめでとう」
「何が?」
「雑誌に載ったんだってな」
「……うん、そっちこそ、結婚、おめでとう」
「うん」
で、それきり話す事がなかった。少なくともわたしには。
でもその無言の時間を、わたしからどうこうするいわれは無かった。
男の注文を訊いたウェイトレスがその注文を運んで来るまでの間も、わたしは喋らなかった。呼び出したのだ。そっちから、何か話せばいい。
それを読み取ったわけでもないだろうけど、男は少し掠れた声で、切り出す。わたしが触れたくもないことを。
「読んだよ」
「そう」
「絵が最高だった」
「そう」
「やっぱ、才能あるよ」
「そう」
「……俺には無いものだ」
「そう」
「あの話は、自分で?」
「……」
「ちょっと意外だった。あんなネームをお前が書けるなんて。そっちは最高とは言えないけど」
「そう」
「でも、もう、俺がいなくても、やってけんだなって」
「そう」
「ちょっと……うん……いや、なんでもない」
「そう」
イライラする。
なにこの「言いたい事があるけど、俺は言わないんだぜ」感。
言わないんなら、そんなもの醸し出すな!
この精神的しょんべんたれ!
「来てくれて嬉しいよ」
「そう」
「もしかしたら、もう会ってもくれないんじゃないかって思ってたから」
「そう……で、用事って?」
「あ、うん……だから、結婚するんだ」
「そう、だから?」
「……あの後、俺、運送会社に就職してさ。配送ドライバー。そこで事務やってたコと」
「そう」
「で、結婚するってなったらさ」
「……」
「なんか急にお前のこと懐かしくなって」
「……」
「俺がもっと早く気付いて。自分の才能の無さに気付いて、クリエイターになれるなんて思い込みを捨てられたら、そして、普通に生きることを選べてたら……もしかしたら、って」
「……」
「『もしかしたら』って」
結局言うのか。
まったくこらえ性のなさに呆れる。
やせ我慢ぐらいしてみせればいいのに。
そもそも大事なことでもないのに強調してまで二度言うな、ボケナス。
わたしは、うんざりしながら、鼻で笑いたいのを我慢した。
この男の感傷癖には、とうの昔に飽き飽きしてる。きっとどんな反応をしても、コイツは、都合良く受け取って、切なさで気持ち良くなってしまうヘンタイなのだから。
そんなものが、可愛く見えたことが無かったなんて言わないけれど。
わたしは言う。言ってしまう。
「結婚してるよ、わたし」
「……うん。そうだってな」
「全てが上手くいってる」
「……うん」
「あんたと別れてから、全部、全部、上手くいってる」
「……うん」
「最高に楽しい」
「うん」
「もう二度と、あの頃には戻らない」
「うん」
「わたしはもう、絶対に、誰かのために、自分の歩く歩幅を遠慮なんかしない」
「うん」
「同じ地元のおさななじみで、親同士も仲いいから、どうせまたいやでもそのうち会うだろうけど」
「……」
「もう、あんたとは絶対にない」
「……」
「わたしは、階段をのぼったんだ」
「……」
「それだけ」
わたしが立ち上がると男は慌ててわたしの腕を掴んだ。
「何?」
「俺が……俺が、教えたんだ」
「……」
「全部、全部だ」
腐ってる。
掴まれた腕に鳥肌が立って、わたしは思わずその手を払った。
男は、わたしのイヤそうな顔を真剣な目つきで見詰めたあと、脇に置いていた鞄から、レポート用紙の束を取り出し、わたしに押しつけた。
「何?」
「ネーム。俺の、最後の、作品だから」
「は?」
「自由に、使ってくれ」
そして、わけもわからず動けなかったわたしを押しのけるように、男は出て行った。わたしは紙束をどうしようか迷ったけれど、「ゴミ」をテーブルに残して行くのも気が引けて、取り敢えず、押しつけられたそのままに店を出ることにした。
で、気付いた。
あの野郎、自分の分、払って行かなかった!
「ひょうさあ、ふはひほほほほとふぁってひたんらへろさあ」
「は? だから、しゃべるかしゃぶるかどっちかにしてくれる?」
「ん、じゃ、話す」
「そうですか……」
いつもの「家事」。それを中断して、わたしはアイツの脚の間から、その顔を見上げて、話す。
「今日、昔のオトコと会ってきたんだけど」
「え?」
「うん。昔のオトコ、カレシ、幼なじみ」
「……へえ」
「結婚するんだって」
「へえ……それで?」
「だから、結婚前に最後に一回やらしてくれって」
「……ほぉ」
わたしは、特に思ったような面白い反応をよこさないその顔にちょっとむかつき、太ももをバッチリ平手で殴った。
「痛いよ、そういう趣味はないってば」
「プレイじゃないから! 単純なむかつきだから! っていうか、そこ、妬くとこだろ?」
「……そうか。どう言えばいい?」
「どうって……それがわかればもっとイイ台詞書けるよね」
「うん」
「うん」
「で? やったの?」
「どっちだと思う?」
わたしは、アイツの顔を見詰める。
できるだけ深刻に。
でも、顔の皮の下でニヤニヤしたものが蠢いてしまう。
それを読み取ったアイツも、ニヤニヤと深刻な顔を作る。
「『やったんだな? 気持ち良かったのか!? どんな風にされたか言ってみろ!』」
「だから、棒読み」
「ああ、ごめん」
「……しなかったけどさ」
「うん……」
「……わたしさ、どうも、魔性の女みたい」
「……え?」
「オトコの人生を狂わせるんだ……」
「……」
ぷ、とアイツが小さく吹き出す。わたしは、またその内ももを打つ。本気で痛いってば、とアイツは顔を顰める。
わたしは半分だけ本気で怒って、半分は諦めながらふざけて、懇願する。
「ねえ」
「何?」
「ユウジさんは、捨てないでね」
「何を? お前を?」
「ううん」
「?」
「自分を」
何か問いたげに、わたしを覗き込む目から、都合良く目を逸らすためにわたしは、「家事」に戻る。わたしの耳に、あのオトコの去り際の声が響く。でも、わたしはそれを聴かない。
またアイツのスマホが震える。
アイツは、まだ、「家事」も済んでないのに、わたしの口から、自分を抜き出し、仕事だ、とか言いながら、身支度を始める。
わたしは、いつものように、「いっぱいの続き」の約束を押しつけながら、その背中を、遅い夜の中に送り出す。
それでいい。多分。
全部を捧げてもらう必要なんて、ない。
わたしは、ふとバッグに入れたあのオトコの「ネーム」を取り出し、眺める。
でも、すぐに、それは眺めているだけでは済まないものであることがわかる。
わたしは、唇を噛み、そして、その最後の一枚までを一気に読み込むと、そのまま何度も繰り返し読み直し、ペンを握りたい自分の衝動に震えることになった。
どうせ、アイツの帰りは遅い。最近どんどん遅くなってる。
つまり、わたしのダンナには、最近好きなひとがいる。
だから、どうした?
<03 了 04へ続く>
藍田ウメルの長編はこちら↓
他の短編集はこちら↓
「スキ」などの反応があるだけでも、とても励みになります。特に気に入って下さったなら、サポートもよろしくお願いします!